5/23 悪人を描くには

今日は隙間を縫ってフォロワー氏が紹介していた『ミッドナイト・ラン』を観たのだが、良い娯楽映画だった。

登場人物は皆一癖ある。主人公がロバート・デ・ニーロな時点で出たね、という感じなのだが、騙したり騙されたり、コーダの構成が面白い。

ラストシーンはちょっといい話……かもしれない、という形で終わるのだが、そこでふと悪人の描き方というものが頭に浮かび上がってきた。


芝居における悪役、あるいは悪党という言い方は藤沢周平先生が『天保悪党伝』で描いたようにある軸に対して逆という意味が適切だと考えるが、「悪人」となれば少し違う見方になろうかと思う。理念や理想、主義主張を持つ時点で基本的に悪役であっても悪人ではない、とでも言えばいいだろうか。進む方向が違うだけにも思えて、その実愚かな善意から来ているパターンが多い。こういったケースは単に主軸から対照的に位置づけるだけなので、決して難しくはない。



されど悪人の悪性は人を貶めたり状況を悪化させることが手段ではなく目的であり、一時の気の迷いでさえなく、残虐や残酷さそれそのものを好む。簡単な言葉では「性格が悪い」「趣味が悪い」のだけれど、体感すれば短いフレーズではまとめきれない黒い闇を感じる人間である。その深さというものはキャラクタナイズされた創作物から摂取できる性質のものではない。

僕はこのタイプの人間を描くのが長らく苦手で、というのも行動理念や精神性がまったく理解できないからなのだけれど、実際に斯様な人間と接触する機会があってサンプリングができた。1年と数ヶ月前のことである。

当時はやるせなさと苛立ちを強く覚えたものだが、時間の経過でそれを咀嚼し、あるキャラクターとして書き起こせる肌感を得たらしい、ということを悪役しかいない『ミッドナイト・ラン』の視聴後に思ったわけである。ちょうど今練っているもので悪役以上のものを描きたかったので、よい天啓であった。


登場人物のリアリティある引き出しは多様な出会いの中にある。

幸いにして僕の付き合いがある人たちは聡明であったから、不幸にして愚かさを描くのは難しかったのだけれど、おぞましい体験を整理して人間の引き出しが増えたように思う。


かようにどんな経験も創作に活かせるということがクリエイターの良い点だ。ただそのためには常に視線と記録を忘れてはいけない。自分もできているか、と改めて問われれば答えに窮するところもあるけれど、自省しつつ明日と戦っていきましょう。

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