親知らずを抜いた話

 浴槽に浸かりながら、いなくなってしまった親知らずのことを思った。

いつから彼と一緒に過ごしていたかはわからないけれど、彼の親が知らぬことを当然僕が知るはずもない。

「比較的よくやれていたはずだったよ」と彼は言った。「一番力のかかるところにいたんだぜ?」

 確かにその通りだった。ベンチプレスをする時も、硬球を投げ込む時も必ずどこかで食いしばっている、だからこそ割れて砕けてしまったのだけれど。

 抜かれて銀盤の上に転がった彼はくすみ、歯の本来的な形質を失っていた。小さく丸くなってしまった石鹸だとか、消しゴムだとか、そういった類の年季をまとっていた。

「もう少し早く気付けばよかったんだ」と僕は言った。「まさかそこまで疲れているなんて知らなかった」

「いつだってこっちの事情なんて知らないのだろ」と彼はやつれた訳知り顔で言う。「作家の事情を編集者が微塵も理解していないように」

 確かに、と僕は思った。なにせ君を噛み砕いたのは1作目の改稿途中だったからだ。初稿よりも圧倒的にストレスのかかる作業。都度4回、しかも大幅に直したのだから、歯ぎしりぐらいは癖のものになるだろう。

「ほらな」と彼は言った。「あんたは自分ありきなんだよ。歯のことなんかちっとも考えちゃいない。ここいらが潮時だったのさ」

「これからは気をつけるようにするよ」

「俺にとっては遅いけどな」

 と彼が苦笑交じりに言ったところで、歯科衛生士が無造作に彼をピンセットで持ち上げてしまった。彼は抵抗せず、ただ去り際に、

「俺のことはもういいさ。終わった話だ。ただ」

「ただ?」

「残り31ある仲間たちのことは気にかけてくれよ。煙草はやめるんだな」

 実にごもっともだった。それは完璧に正しい。彼らにとっても、僕の健康と金銭的な損失にとっても、壁紙の色合いにとっても。

 その日、僕はラッキー・ストライクを2箱買って帰った。

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