第2話 異世界歴・天正八年 春 ー越後ー
■■■ 異世界歴・天正八年 春 ー越後ー ■■■
煙るような濃霧が立ち込めた原野に、八本脚の異形が多数 蠢いている。それに加え、天を突くような巨大な影がひとつ、時空の隙間からゆらりと這い出した。
「おや、今日はだいだらぼっちもお出ましかい。盛況だねぇ」
闊達な笑い声があたりに響き、無数の赤目が霧の帳越しに、声の方へと集中する。
衆目を集めた事に気をよくしたのか、女は腰の刀をすらりと抜いた。
「戦はそう簡単に仕掛けられないからね。お前たちに遊んで貰うよ」
『毘沙門天の化身』『軍神』と異名をとる上森剣神は、艶やかに微笑んだ。
細身の身体には無骨な鎧を装着けず、純白の僧衣を纏っている。豊かな黒髪を桂包(かつらづつみ)で纏めただけの軽装は、これから大型怨霊と渡り合うようにはとても見えなかった。
耳障りな奇声を上げて振り下ろされた前脚を、僧衣の女は軽やかに避ける。次の瞬間には、その土蜘蛛は跡形もなく消えていた。
弱点である額の赤目を狙った素振りも無い。
踊るように軽やかに、ただ歩いているだけで怨霊たちが消えていくように、傍目には見えた。
女に向けて手を伸ばしただいだらぼっちが、指の先から静かに霧消していく。
やがて怨霊退治に飽いたらしい剣神が、独り言のように呟いた。
「弱いもの苛めはつまらないね。お前たち、相手していいよ。相克の相手だ、多少は楽しめるだろう?」
嫋やかな左手が振られると、空から舞い降りた四柱の神龍が、一斉に土蜘蛛に襲い掛かった。
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「剣神様ー! 怨霊を退治して下さってありがとうございます!」
「剣神さま、かっこいい!」
盛り上がる領民たちに手を上げ、剣神はにこやかに微笑んだ。
「やあ。皆が無事で良かったよ。これでこの地はもう安全だ、安心して仕事に励んでくれたまえ」
女性たちに、ぱちんと片目を瞑るサービスまでかまして愛想を振りまく領主を、付き添いの家臣たちはしょっぱい顔を押し隠して眺めた。
英雄気取りで領民にイイ顔をしているが、己の戦闘欲発散の為に『歪』を放置していたのは、家臣なら誰でも知っている。
『歪』とは、ひとならざる怨霊が住まう世界との境目だ。ここから怨霊が湧いて出る。
しかしそれを暴露する訳にはいかない。
この戦闘狂の領主を諫められなかった時点で、自分たちも同罪なのだから。
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「お疲れ様です、剣神様。お風呂にしますか? それともお食事を先になさいますか?」
側仕えの侍女が、にこにこしながら洗い立ての小袖を着せかけると、妖しく流し目をくれた剣神がつん、と侍女の頬をつつく。
「そこはほら、『それとも ア・タ・シ?』が抜けているよ?」
「いやですよォ剣神様! それは男子に向けて言う台詞ですわ!」
どっと沸き立った侍女衆の中で、剣神の右腕とも言える侍女が、どすんと女当主に肘鉄を喰らわす。
「それは貴女の苗字が『酒田』だからでしょ。皆、剣神様はお酒を所望よ?」
はあい、と準備に散っていく侍女衆を見送り、残った侍女が呆れ顔で振り返る。
「剣神様? あまりはしゃいでは『生涯不犯』を標榜する男子っぽくありませんわよ」
「まあまあいいじゃないか。少しはこうしていた方が『男子』らしいだろう? 伊勢」
伊勢と呼ばれた懐刀の侍女は、大きな溜め息をついて首を傾げた。
「お忘れのようですけれど。今日は兵法を教えるとかで、影勝様と小姓の子を呼んでいますよ? 酔って訳が解らなくなる前に、ちゃんとお勤めを果たして下さいませね」
「ああ、そういえば……。怨霊退治の武勇伝を自慢しようと思って呼んだんだっけ」
それ、兵法じゃない。内心でツッコみながら、伊勢は子供たちの食事を準備すべく部屋を後にした。
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ふっくらとふくよかな中年の侍女が、膝を崩してしどけなく座っている。
酒が入った杯がしゅっと床を滑ってきて、侍女の前ですっと制止した。
「あちらのお客様からです」
そっと耳打ちしてきた侍女の指す方に目を向けると、ぱちんと片目を瞑った剣神が気取って髪を掻き上げる。
「あらあら……ではこちらからも」
ふくよか侍女がぱちんと指を鳴らすと、なみなみと酒が満たされた、かさこ地蔵が被っていそうな大きさの杯が、剣神めがけて滑って行った。
ぷはあ、と酒を呑み干し、剣神は地蔵のように固まった子供の頭をわしわしと撫で回した。
「これが『海老で鯛を釣る』という兵法だ。解ったかい?」
「そんな兵法はありません」
戸惑いつつもこくりと頷いた影勝とは対照的に、齢六歳になったばかりの兼継が、びしりと反論する。
「おや兼継。お前は男子なのだから、こういう手練手管を知っておくことも大事だよ?」
「えげつない手練手管を見せつけられては、子供の情操教育に良くありません」
「言うねえ! 女子が皆、見た目通りの可愛らしさと思っていたら大間違いだよ!? 男の前では『可愛い天然』を装う『養殖』などいくらでも居るから、心しておきな」
あははと大笑いする剣神に、小さな子供がむすりと言い返す。
「そういう女性の裏事情をこそ、隠して欲しいと言っているのです」
こんな女当主を見慣れてしまえば、確かに情操教育にはよろしくない。
きっとこの子たち、嫁取りが遅いわ。
げらげらと笑いながら子供たちの頭を撫で捲る剣神を眺め、伊勢はそっと溜め息をついた。
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