門前町由無事

アレノアザミ

第1話

 その場所に行くと、私はいつも得体のしれない不安と恐怖に駆られます。何かがあるわけではありません。いえ、何もないのです。そこには何もない。何もないことが私を不安にさせるのです。

 街の目抜き通りを南端まで歩ききって小さい鳥居をくぐり、一歩でも踏み出せば、そこはもう街の外。人家のひとつもなく、見栄えの悪い草や低木がぽつぽつと生えているだけの荒れ地が、見渡す限りどこまでも続いています。私はこの場所が怖い。この街はずれに近づくたびに、自分が誰なのか、自分の名前がなんだったか、解らなくなる気がするのです。私だけではありません。街の住人はみな同じような不安に襲われるようで、誰も街はずれに近づこうとはしません。それでも私はたびたびこうして、この場所を訪れます。それが私の役目だから。

 鳥居をくぐり、一歩踏み出す。一歩目はまだ大丈夫。けれど、今日は二歩目を踏み出さなければならないようです。そうしないと、その人に私の手が届かない。震える足を引きずるようにして、どうにか二歩目を踏み出します。そして、目の前に倒れているその人の肩にそっと触れ、私は声をかけました。

「もし、もし。大丈夫ですか、お客さん」

 声をかけながらしずかに肩を揺すると、その人は「ううん……」と低く唸り、顔を上げました。鋭い目が私を捉え、いくばくかの沈黙を挟んでから、その人は口を開きました。

「ここは、どこだ? 俺はどうして……」

「ここは街です」

「街の名前を訊いている」

「名前はありません。街は街です」

「なぜ名前がない。わけが解らん」

 その人はひどく衰弱しているようでしたが、言葉はしっかりしているので、少し安心しました。名前……そう、名前です。安心して気が抜けて、大事なことを忘れるところでした。

「自分の名前を憶えていますか? 憶えていたら教えてください」

「……銀」

「しろがねさん、ですか」

 私は帯から帳面と筆を取り出し、忘れないうちにその人の名前を書き込みます。新たに街へやって来たお客さんの名前を記録するのはとても大事なのです。大事なことはまだあります。

「お客さんは、ここへ来る前に何をしていましたか?」

「俺は……戦っていた。月世界の連中と。そして、そして……俺たちは勝ったはずだ」

 銀と名乗るその人の言葉に耳を傾け、子細漏らさず書き記す。そんな私を、彼はさっきよりずっと弱々しい眼光で眺めながら言いました。

「それより訊きたい」

「なんですか?」

「ここはあの世か」

「そのようなものです」

「俺は死んだのか」

「……そうです」

 私は嘘をつきました。

「そうか」

 それきり、彼は喋りませんでした。極度の疲労と衰弱により意識を失ったのでしょう。それでも彼は、地に伏しながら、けっして手放したくないものでもあるかのように、右の手のひらを固く握りしめていました。鈍く光る銀色の、甲殻のような義手の右手を。そこには何も握られていないのに。

 彼は彼の世界で戦い、勝利し、しかし傷つき、ここへやって来ました。それは尋ねるまでもなく解っていました。彼だけではなく、ここへこうしてやって来る人はみな同じだからです。

 それぞれの世界で、戦い、傷ついた彼らを一週間、お客さんとしてもてなす。

 ここはそういう街で、それが私の仕事です。


 次の日。街の南西、大小さまざまな狐の石像があちこちに建つ小さな通りの奥の奥の長屋に、銀さんを見舞いに来ました。土間に草履を揃え、短い廊下を突き当たりまで行って障子を開けると、銀さんはもう目を覚ましていました。文机に肘をつき、ぼんやりとしています。まだどこか具合がよくないのでしょうか。

「おはようございます、お客さん。お加減はどうですか?」

「ああ、昨日のあんたか。まだ少し眠い」

 銀さんはこちらに顔を向け、言葉少なに答えました。そして、衣擦れの音ひとつなく立ち上がりました。

 昼前の淡い光が差し込んで、薄暗い六畳間に銀さんの大きなからだが浮かび上がります。ぼさぼさの黒髪。むっつりと閉じられた口。年の頃は青年。しかし、その顔立ちは少年のようにも、年を重ねた老兵のようにも見えました。首まで覆うぴったりとした黒い長袖が鍛え上げられた上半身を強調し、逆に下半身はだぼっとした薄茶色のズボンに隠されています。そのなかでただひとつの異様、右腕の肘から先、機械のような義手がぎらりと光を照り返し、私は少しだけ顔を背けました。すぐに顔を上げ、少し早口で言うべきことを言います。

「眠いところ悪いのですが、今日はお客さんに街を案内することになってまして」

「お客? お客ってのは俺のことか」

「そうですけど」

「あの世に来た死人が客ってのもおかしな話みたいだが」

「……それも道すがらにご説明します」

「そうか。じゃあ頼む」

 長屋を出て、来た道を逆へ歩きます。銀さんが何も喋らないので、私はなんだか落ち着きません。ちゃんと付いてきているのか、目抜き通りへ出るまで私は何度も振り返らなくてはなりませんでした。通りへ出て、にわかに騒がしくなってきたところで後ろを振り返ると、銀さんは空を見ていました。

「黄色いな」

 やっと喋ってくれたことにホッとしつつ、つられて私も空を見上げます。いつもと変わらない、うっすらと雲の棚引く黄色い空。

「あの世の空は黄色いのか」

 他の空を知らないので、私はなんとも答えようがありません。独り言だったのか、銀さんは私が返事をしなくても気を悪くした様子はなく、しばらく空を睨んでから、私の隣に追いつきました。並んで立つと、私は銀さんより頭ふたつ分ほど背が低いことがわかりました。私は無闇に大きな身振り手振りで銀さんを案内します。

「これが街いちばんの大通り、大門通りです。北の端に見える山みたいに大きいのが大鳥居、南端のあそこが小鳥居。小鳥居に近づくほど道幅が狭くなっているのが解りますか? 鳥居と鳥居に挟まれたこの通りを軸にして、丸い形に街が広がっています。順々に……ええと、反時計回りに案内していきますね」

 歩きだした私に、銀さんは特に文句も言わず付いてきてくれます。まずは蜜屋横町のお団子屋。これは外せません。

「ここのしょうゆ団子はすごくおいしいんです。ほら銀さん、おひとつどうぞ」

「あ、ああ。むぐ……」

「どうです?」

「ああ、美味い」

「でしょう?」

 次は甚五郎さんの屋台の鰻の蒲焼き。

「どうです銀さん、おいしいでしょう?」

「たしかに」

「秘伝のタレなんですよ」

 リンリンおばさんの肉まん屋にも寄っておきましょう。

「おいしいですねえ」

「ああ……」

 竹藪のうどんでそろそろお腹を落ち着かせましょうか。

「この喉ごし。解りますか銀さん」

「…………」

 口直しにカフェ・トンプーのグァバゼリーを。

「ああ、この爽やかな……」

「あのな」

「なんですか、銀さん」

「食い物ばかりじゃねえか」

 私は冷たいゼリーをつるりと飲み込んで、首を傾げます。そのとき、向こうの席に陣取っていた人たちが声をかけてきました。

「まったく、いつ見てもなつめちゃんの食いっぷりには胸がすくぜ」

 そう言って、人懐こい笑みを向けてくる青年は聖剣に選ばれし剣士、ユリアンさん。

「腹がすく、の間違いでは」

 眼鏡のつるを押さえながら皮肉っぽく言ったのは禁獄の魔道士、フリッツさん。

「それであんな細っこいんだから、詐欺よね詐欺」

 自分だって贅肉のひとつもない肉体美を誇るのは灼炎の武闘家、イレーナさん。

 いずれ劣らぬ、それぞれの世界の勇者たち。もちろん、私はこの街に来る以前の彼らを知らないのですが。

「彼らもお客なのか」

 銀色の親指で背後を指しながら、銀さんが言いました。

「元お客さんです」

「もと?」

 怪訝な顔をする銀さんを見て、私は新たにこの街へ来たお客さんにするべき説明を何もしていないことに、いま頃になってようやく気がつきました。こころもち背筋を伸ばし、隣に座る銀さんに改めて向き直って、私は言います。

「この街へ来るお客さんはみな世界を救った英雄です。あそこにいるユリアンさん、フリッツさん、イレーナさんも、それぞれの世界を救ってここへやって来ました」

「それぞれの世界……みんな、別の世界から来たってことか」

「そうです。これまで同じ世界から二人以上の英雄がこの街を訪れたことはありません」

「たしかに、見覚えのある奴はいないな」

 銀さんは生身の左手で顎を掻いて呟きました。やはり尖った義手では痛いのでしょうか。

「銀さん。あなたには二つの選択肢があります。このまま街の住人となり、ここで暮らすか。それとも、あの大鳥居から街の外へ出るか。期限は一週間です」

「……外へ出るとどうなるんだ?」

「…………」

 当然の質問の前に、私は沈黙します。いつか、同じことを別の誰かに訊かれたような気がして。それでも、口を閉じていたのはわずかな間でした。

「街の外へ出れば、銀さんはこの街のことを忘れ、この街へ来る以前のことも忘れ、別の誰かとなって、ふたたび別の世界を救うことになるでしょう」

「なるほどな。そういう仕組みか」

 そう呟いて、銀さんはしばし黙り込み、それについて考えているようでした。手つかずの透明なグァバゼリーに視線を置きながら、どこかずっと遠くを見ているような目をしていました。こんな目をしている人をやはり、私はいつか見たような気がします。同じことを説明し、同じ目をして考え込む人を、同じように隣で見つめたことがある。そんな気がするのです。だとしたら、これからの会話もいつかの繰り返しなのでしょうか?

「期限は一週間だと言ったな。つまり――」

「今日がその一日目です」

 気がつくと、私の口はそんな言葉を漏らしていました。

「七日後までこの街に留まれば、銀さんはお客さんではなくなり、この街の住人ということになります」

「…………」

「考えることはないさ、新入り」

 また黙ってしまった銀さんに、後ろから声がかかりました。ユリアンさんです。傷だらけの鞘に納まった聖剣をぶらぶらさせながら、いつもの人懐こい笑みを浮かべ、何の気負いもなく。

「世界を救うのなんて、一度だけで充分だろ?」


 カフェを出ると、いつの間にか夜になっていました。薄闇の下りた細い路地は食事処の赤提灯に彩られ、大門通りまで人の気配が途切れることはありません。私が特別に食い意地が張っているのではなく、もともとこの街はどの道を歩いても食事処ばかりなのです。だから、夜の一人歩きも怖くありません。今日は銀さんと一緒なので、もっと安心です。

 等間隔に立った街灯で路地よりいっそう明るい大門通りを横切って、長屋の道へ入ろうかというところで、当然お部屋まで付いていくつもりだった私を銀さんは手で制しました。

「ここまででいい。この辺りは街灯もないようだし、どうにも剣呑としてるからな」

「はあ」

 そう言われても、この辺りを夜にひとりで行き来するのは一度や二度ではないのですが。

「今日はいろいろと助かった。ええと……なつめ、だったか」

 はて。そういえば、私は銀さんに名を名乗ったのでしたっけ。

「……たしか、あの男がそう呼んでいた」

「ああ、ユリアンさんのことですね。はい、なつめです。みんなそう呼びます」

「なつめ……」

「はい?」

「いや。とにかく世話になった。気をつけて帰ってくれ」

「はい、おやすみなさい銀さん。あ、明日も一緒にお出かけしましょうね」

 歩きだした銀さんの背中に手を振り、その後ろ姿が闇に紛れて消えるのを見届けました。たしかにこの先は、他の場所と比べて暗いようです。剣呑としているかどうかまでは私には解りません。

 私は踵を返し、大通りを歩き始めます。大勢の人が行き交って騒がしく、なにより光で溢れているのに、帰り道がいつもより少し心細いのはなぜなのでしょうか。

 寮に帰ると、玄関を入ってすぐ脇の管理人室から明かりが漏れていました。ドアを開け、いつも通り、帰宅の挨拶をします。

「ただいま戻りました」

 大家さんは顔も上げず、帳簿とにらめっこしています。赤い髪をひっつめて、眼鏡をカチューシャのように前髪の生え際にかけ、時おり赤鉛筆でなにやら書き込んでいます。入口に立ち、しばらく様子を見ていると、ようやく気がついたのか、大家さんは卵のようにつるりと白い細面をこちらに向けました。

「おや、なつめ。帰ってたのかい」

「はい、ただいま」

 私は改めて挨拶をしました。

 大家さんはこの寮の大家さんというわけではありません。いえ、もちろん寮の大家さんでもあるのですが、銀さんのようなお客さん、ユリアンさんたちのような元お客さんにとっての大家さんでもあり、私のような案内人にとっては仕事の上司のような人でもあり、その他にも街のいろいろなことを取り仕切っている、いわばこの街の主のような人です。

「それで、どうだい、今回のお客は。街に居着いてくれそうかい?」

「それは、まだなんとも」

「ぼんやりしてるね。しっかりしておくれ」

 おばあさんのような喋り方ですが、大家さんの見た目はとても若い。多めに見積もっても、私より五、六歳年上というぐらいではないでしょうか。

「でも、銀さんは街の外へ出たがっているように見えました」

「またかい? まったく、あんたの引きの悪さも大概だね」

 大家さんはやれやれとばかりに頭を振って言います。

「つけた客ぜんぶ、とり逃がしちまう。前回から少し間があいたから、あんたは憶えてないかもしれないがね」

 大家さんの言うとおり、私は前のお客さんのことをよく憶えていません。この街には昼と夜があって、昼と夜を繰り返すのが年月だということを、頭では理解していても感覚として解らない。少し前と、ずっと前。その違いが、私にはよく解らない。

「この街に来る客の九分九厘までは、この街に留まる。あたりまえだね。普通は世界を一度だって救えばが疲れちまう。普通はね。そこでそいつの仕事は終わったんだ。それで充分だろうに。なんだってあんたにつける客はどいつもこいつも……」

 私は昼間のユリアンさんの言葉を思い出していました。世界なんて、一度救えば充分だ。そのとおりだと思います。充分すぎるほど、立派なことだと思います。

 私が落ち込んでいると思ったのか、大家さんはいくぶんやさしい口調で言います。

「食い物で釣るったって限界があるよ」

 その言葉の意味も、言葉にされなかった言葉の意味も、私には解りました。だというのに、私は何を躊躇っているのでしょうか。

「おやすみなさい」

 大家さんの念押しには答えず、暇を告げます。みしみしと言う急な階段を上がり、きしきしと言う板張りの廊下を歩いて部屋に戻りました。帯を解いたとたん、足から今日の疲れが這い上がってきて、敷きっぱなしだった布団にへたり込んでしまいました。

 銀さんはもう眠っているでしょうか。

 銀さんの目は何を見ていたのでしょうか。

 銀さんと同じものが私にも見えるでしょうか。


 二日目は、街の東にある池で釣りをしました。私は一匹も釣れませんでしたが、銀さんは大物を何匹も釣って、みんな他の住人たちにあげてしまいました。

 三日目は、北商店街のお祭りへ行きました。射的は苦手だという銀さんの見ている前で景品をいくつも撃ち落とし、荷物をぜんぶ銀さんに持ってもらいました。なんとなく良い気分でした。

 四日目は、大門前広場で開催された武術大会を見に行きました。救世の英雄同士の戦いですから、それはもうすさまじい迫力です。飛び入りで参加してみないかと言ってみましたが、銀さんは難しい顔で押し黙り、じっと舞台を、そしてその向こうに聳える大鳥居を見ていました。

 五日目の夜。今日も朝から銀さんを連れ回して、おいしいものをたくさん食べさせました。夕方には竹林の中の料亭で、お酒まで飲んでしまいました。なまぬるい風が竹を揺らすからからという音を聴きながら、米のお酒でしずかに口を湿らせる銀さんの横で、杏酒を三杯も。

 すっかり日の暮れた帰り道。もう一軒行きましょう、なんて言いながら、気が大きくなった私は銀さんの手をとります。そして、思いきり握りしめてしまいました。尖った銀色の指先が手のひらに食い込んで。

「いつ……」

 思わず呟いた瞬間、銀さんはその手を離しました。酔いが一気に醒める気がしました。

「す、すまん。大丈夫か……?」

 狼狽えた声。銀さんのこんな顔は初めて見ました。悲しい目。銀さんは悪くないのに。手のひらなんかより、私は胸が痛みました。

「大丈夫です。なんてことありません」

「今日はもう帰ろう。送っていくから」

 そんなことを言う銀さんに、急に腹が立ってきました。今日は? じゃあ、明日は? よりにもよって、あなたがそれを言うのか。

「今日は帰りたくありません」

 そう言って、私は大通りを挟んだ向こう、街の北西を見遣りました。銀さんもつられて同じ方角に目を遣ります。街灯の淡黄色の光とも、飲食店街の赤提灯とも違う、色とりどりの光に満ちて、夜なのに時おり太鼓の音が聞こえてくる、その一角。

 それだけで察したのでしょう。己を見上げる私に目を戻した銀さんは、困ったような顔をしていました。私は言います。

「もともと、私たちはそのためにいるんです。銀さんさえよければ、その、私と……」

「やめろ」銀さんは鋭く言いました。「あんたには似合わない」

「私じゃ駄目なんですか」

「そうじゃない。街の仕組みは知らない。他の奴のことも。ただ、あんたにはそういうことをしてほしくないんだ」

「じゃあ、どうして私を見ないんですか!」

 こんなに大きな声を出したのは初めてでした。それも、こんな往来で。たぶん、お酒のせいです。

「銀さんは、あなたはこの数日、ずっと遠くを見ていました。私とお喋りをしているときも、あなたの意識はずっとあの大鳥居に向いていました。なぜそんなに外に出たいんですか。外に出れば、また苦難の日々が待っています。そんな必要、ないじゃないですか」

 息が苦しくなって、私は大きく呼吸します。銀さんはそれを黙って見ていました。

「銀さん。私は嘘をつきました。あなたは死んだんじゃありません。役目を終えただけです。あなたの世界は、世界を救ったあなたを、もう必要のないものとして切り捨てたんです。この街に来る人はみんなそうです。それが解っているから、誰も二度と外へ出ようとしません。あなたも、本当は解っているはずでしょう?」

「…………」

「私は……私は、銀さんとまた会いたい。明日も明後日も、その先もずっと」

「違う誰かになって、また会えるさ。姿形は変わっても、たましいは不変だ」

「そうとも限りません。あなたのたましいは疲れ果てています。私には解るんです。普通なら一度で限界を迎える。それをあなたは、もしかしたら何度も繰り返している。あなたのたましいは傷つきすぎている。つぎの世界では、もう英雄になれないかもしれない。そうしたらもう、この街には……つぎは、ないかもしれないんです」

 ひと息にこんなに喋るのも、初めてのことだと思います。慣れないことをするものではありません。私は肩を上下させ、荒く息を吐きながら、銀さんを睨みます。銀さんは、瞬きもせずに私を見つめ返していました。実際こうして見つめられると、気恥ずかしいものです。酔いはとっくに醒めていました。

「なつめ」

 久しぶりに、名前を呼ばれた気がしました。それを確かめる間もなく、銀さんはこんなことを言ったのです。

「それなら、あんたも街を出てみないか?」

「……え?」


 部屋へ戻り、煎餅布団に腰を下ろします。銀さんになんと言って別れたか、もう憶えていません。握りしめていた左手を開くと、手のひらに淡く血が滲んでいました。鼓動に合わせてじくじくと痛みます。

「無理ですよ、銀さん」

 そう。土台、無理な話なのです。街の外へ出て世界を渡るのは、世界に選ばれた英雄にのみ可能なこと。私は違う。私は街の外から来たのではないのです。この街しか知らないのです。英雄たりえる強度のたましいではないのです。たぶん、街の外へ出た瞬間、私のたましいは砕け散ってしまう。

 それでも、と私は思います。

 それでも、この街で待っていても、二度と銀さんに会えないのだとしたら。別の世界で、銀さんのたましいと巡り逢えるのだとしたら。万にひとつもない可能性を、私は考え続けました。


 六日目の朝。

 一昨日の武術大会では大賑わいだった大門前広場に、いまは誰もいません。私の背後には私の背丈の十倍はありそうな大鳥居が聳え、はるか向こうに銀さんと出会った小鳥居が霞んでいます。二つの門をつなぐ目抜き通りにはいくらか人の動きがありますが、門に近づくにつれて疎らに、門前には皆無になります。いま、この広場にいるのは、私以外では石畳を懸命につついて回っている何羽かの鳥だけ。こんな時間にこんな場所。用がなければ誰も近づかないし、誰も用はないのです。

「やっぱり、来ちゃいましたか」

 目の前に立った人影に、私は顔を上げます。悪戯を見つかった子どもみたいな、湿っぽくない表情ができたと思います。声はいくらか震えていたかもしれませんが。

「明日まで街にいてくれたら、銀さんは街から出られなくなったのに」

「七日間に最初の一日を含めないのは不自然だったからな」

 銀さんは苦笑したみたいでした。

「騙したんだから、怒ってくださいよ」

「本当に騙すつもりなら、今日の予定も入れておくべきだったと思うぞ」

「昨夜のあれは、そのつもりだったんですけど」

 顔が赤くなるのを自覚します。よくよく思えば、昨日の夜は恥ずかしいことばかりでした。こんなことなら、素直にもっと銀さんにおいしいものでも食べてもらえばよかった。まだ案内していない名店がいくつもあるんです。八角亭のエッグタルト、金華楼の五目あんかけそば……そう! 喫茶竜宮のトマトラーメン。うっかりしていました。あれさえ食べてくれれば、銀さんも心変わりしたかもしれないのに。昨日が、最後だったのに。私は足下ばかり見ています。こんな顔を銀さんに見せたくありません。

 立ちつくす私の横を、銀さんが通り過ぎます。これでお別れなのに、私は別れのひと言も言えないのでしょうか。

「ほら、何してるんだ。行くぞ」

「え?」

 振り返ると、銀さんが手を差し伸べていました。左の、生身の手を。右足は、もう街の外へ、何もない荒れ地へ踏み出していました。

「無理ですよ……私のたましいは、弱っちいから」

「そんなことない。あんたの……なつめのたましいは強い。俺を騙そうとするぐらいにな」

 それは強いんじゃなくて、したたかって言うんですよ、銀さん。それを口にする暇もなく、銀さんは私の手を掴んでしまいました。でも、これだけは言わなければ。

「こっちがいいです」

 私は銀さんの左手を振りほどき、鈍く光る右手を持ちました。危ない、と言いかける銀さんを目で制し、今度は慎重に、あちこちに傷が入った銀色の手に私の手を重ねました。この右手は、銀さんのたましいそのものだから。

 私の手がしっかりと己の手を握ったのを確認して、ひとつ頷き、銀さんはもう一歩、外に踏み出しました。それに引かれて、私の足も街の外へ。


 一歩。一歩目はまだ大丈夫。

 銀さんの足が迷わず三歩目を踏み出す。私は大変な労力を支払って重い足を上げます。

 

 二歩。鉛みたいに重い足を引きずるようにして、どうにか二歩目を踏み出します。その途端、銀さんの姿が霞がかったように朧げになりました。

 

 何度目だろう。私は思いました。ふいに、私は思い出しました。

 

 こうして、誰かに手を引かれ、街の外へと誘われたのは、これでいったい何度目のことだろう。あのときも、私は二歩目を踏み出した。けれど三歩目が踏み出せず、引き返した。そんなことを、私は何度繰り返してきたのだろう。

 霞の向こうから、誰かが強く私の手を引く。私の手を引くこの人は誰なのでしょうか。私は……私は誰なのでしょうか。名前が思い出せない。草が絡みついたように、私の足は地面に縛られて動かない。からだの感覚が失われて、どこに立っているのか、本当に自分が立っているのかも解らない。ひとたび足を上げたら、本当に重力がなくなって、地面から放り出されてしまうかもしれない。私は怖くて、とても心細くて、誰かのその手を握りしめました。冷たくて、痛い。冷たさと痛みが、私を、私のからだを、私のたましいを、ここへ呼び戻しました。この、何もない荒れ地へ。そして私は、三歩目を踏み出さなければなりません。そうしないと、その人の手を離してしまう。私はその手を握りしめます。もう名前も思い出せない、けれど大切なその人の手を、指の腹や手のひらが傷ついて血が噴き出すのもかまわず、強く強く握りしめます。見えない鎖を引きはがして、私は足を上げます。


 そして。

 三歩目を、私は。

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門前町由無事 アレノアザミ @shikishimaQ

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