駄作ハル

 扉を開けると心地良い風が僕の頬を撫でた。流れる雲はその形を変えながら、行く宛てもない旅路を続ける。

 ここは僕のお気に入りだ。誰にも邪魔されない、僕だけの世界。

 こうして僕は今日もいつものようにお弁当を広げる。そのつもりだった。

 昨日の雨が空を映す塗装の剥げた床。誰を守るのかその役目を忘れた錆びたフェンス。

 この学校にたった二年しかいない僕にもノスタルジーを感じさせる景色に浮かぶ、まったく不釣り合いな少女がいた。


「君、何しているの?」


 普段は家でさえ口を開くこと無い僕が、考えるよりも先に言葉を発していた。


「何をしているかって、見ればわからない?」


 彼女は僕の声に少し驚いたように振り返り、それでもその心中を悟らせまいと強気に返事をする。


「君、危ないから、戻りなよ」


 僕は彼女の問いを無視して、自分の要求だけを端的に伝える。そんな僕の様子を見て彼女は呆れたような表情を見せた。


「どうしてあなたに私を止める権利があるの?」


 権利だとか義務だとかって言葉は嫌いだ。学校では「友達と仲良くする」という義務を果たさなければ、「平和な毎日」を手にする権利は無い。


「僕は毎日ここでご飯を食べるんだ。君がそんなことして、封鎖されたら困るんだ」


 彼女の長い髪が初秋の冷たい風になびく。


「私には関係ないでしょ?それに、元々屋上は立ち入り禁止のはずだけど」


 彼女は鋭い目付きで金網の隙間から僕のことを睨みつける。どうやら僕に反論する権利というものはないらしい。

 生まれてこの方、人の命をどうこうしようなどと考えたことは無かった。だが、この時の僕は小さなこの世界を守ろうと必死だった。


「それなら、君の理屈も僕には関係ない。君がどうなろうと僕はどうでもいいけど、それは僕に関係ないところでしてくれないか。あらぬ疑いをかけられたくないし」


 命を散らした木々の欠片が風に舞う軽妙な音に混ざって、溜息が聞こえた。しつこい僕に彼女もようやく諦めがついたようだ。

 彼女はスカートだというのに、その長い脚で軽々とフェンスを乗り越える。向こう側に行った時もそうしたのだろうか。


「さっきから、君、君って、クラスメイトの名前ぐらい覚えたらどうなの?」


 なぜ僕が彼女に説教されなければいけないのか。

 だが、小さなその壁の向こう側にいた時は誰だか分からなかったのも事実だ。今度は正真正銘、反論の余地がなかった。


「君は九条……さん?」


「下の名前は?」


 きっちりと並行を保った校章。シワひとつないブラウス。白く透き通るような肌にコントラストを与える艶やかな黒髪。

 そのどれもが僕とその世界からあまりに乖離していて、彼女の名前を思い出させるヒントにはなり得なかった。


「………………」


「……はぁ。ア・ゲ・ハ。私は九条揚羽。忘れないような名前だと思うけど」


 そう言われればそんな感じがする。だが僕にとって彼女の存在はその程度だったし、これからもその名前を呼ぶことは無いだろう。


「……じゃあ僕の名前は?」


 それはささやかな逆襲だった。四十人の内、何人が正解できるのだろうか。自分でもそう嘲笑する。

 あの無関心な担任も、きっと僕の下の名前は即答できないはずだ。彼らは得てして自分の持つ部活の生徒を好み、僕のような人間を疎むものだ。


「──」


「え?」


「だから、あなたの名前は── ──でしょ?それぐらい誰でも分かるよ」


 彼女のその言葉に、僕の胸は少し高鳴った。普段誰も呼ばないその名前に、僕の魂が返事をしているかのようだった。

 そしてそれは僕にとっての存在証明なり得た。孤独の世界に生きる僕を外界から観測する人間がいるとは考えてもいなかったからだ。

 人々が祈りを捧げる星々も、誰かに見つけられるまでは何億光年先に存在するだけの石ころに過ぎない。


「何驚いた顔をしているのよ。あなたがおかしいんだからね?」


「いや、それは特技の部類に入ると思うよ。君は誇りに思った方がいい」


 お互いの名前を確認しても、その名前を呼ぶことは無い。それは、別の世界に生きる僕にとっても、この世界を捨てようとする彼女にとっても必要のないものだからだ。




 その時、チャイムの音が僕らの間を引き裂いた。


「予鈴が鳴っちゃったじゃないか。君のせいで昼を食べ損ねたよ」


「私は死に損ねたけどね」


 笑えない冗談は好きじゃない。笑える冗談も好きじゃないが。

 誰かの笑い声は、僕の心の中で悲鳴に変わる。


「次は数学だったね。遅れると面倒だから早く戻ろう?」


 てっきり彼女はそのまま思いを遂げようとするものだと思っていた。

 彼女は立ち尽くす僕の横を颯爽と抜かして行った。残されたシトラスの香りが僕の行く先を決める。


「どうしたの?あと三分ぐらいだよ」


 彼女は白く細い手首につけた腕時計を見ながらそう言った。

 誰かと一緒に教室へ行くという経験の無い僕は、その一歩を踏み出せなかった。できれば一人で先に行っていて欲しかった。


「……あなたが出ないなら私もサボろうかな」


 彼女の提案は意外だった。僕を行動規範にする人間など、後にも先にも彼女ただ一人だろう。


「ねぇ、あなたのことを聞かせて」


「話すことなんて無いよ」


 僕はいつも通り、少し見晴らしのいい所まで移動してのそのそと弁当を広げる。弁当箱の蓋を開けた瞬間に始業のチャイムが響いた。

 彼女はなんの躊躇いも無く僕の横に座る。


「あなたは私のこと聞かないの?」


「それは、聞いて欲しいからそう言っているのか?」


「…………」


 彼女はそれ以降口を閉ざした。慣れない会話を続ける負担が減った僕は幾らか余裕が持てた。授業をサボったという罪悪感を埋める程度には。


「……僕が立ち去れば、君はまた死のうとするのか?」


 他人が耳にすれば騒ぎになるだろうその言葉は、僕らにとってなんの意味も持たない会話の切り口でしかなかった。


「どうしようかな」


 冷たい卵焼きを頬張る僕を彼女はじっと見つめている。そう見られては食べずらくて困る。

 毒々しい色味の冷凍食品が不快なまでに食欲をそそる匂いを醸していた。


「……明日も、ここに来るのか?」


「うん」


 彼女に明日はあるようだ。そのたった二文字の返事は、少なくとも僕が安心して今夜眠りにつくだけの保証をしてくれた。


「ねぇ、今日うち来ない?」


「行かない」


「どうして?」


「どうしても」


「……そう」


 無益な会話だ。


「私、自分でも顔は可愛い方だと思うんだけど」


「そうなのかもな」


「じゃあなんで?」


「知らない」


「…………」


 彼女はまた黙り込んだ。

 自分でもあまりに素っ気ない返事に少し心が痛んだが、残念なことに彼女に対する正解の返事は持ち合わせていなかった。


「あなたが女だったら、きっと親友になれたと思う」


「意味が分からないな」


「それか私が男だったら良かったのに」


「好きなように生きればいいだろ」


「面倒臭いのよ、女って」


 それが彼女を死に追いやった理由なのか定かではない。しかし僕にそれを話したかったというのだけは伝わった。

 僕は喉に引っかかるような固いご飯を水筒の水で流し込む。冷たい金属に触れた指先が痛んだ。


「また話せる?」


「僕はいつもここにいる」


「違う、連絡先教えてよ」


「嫌だ」


「どうして?」


「誰かへのメッセージを考えるのも、返信が来るのを待つのも面倒だからだ」


 言葉を一方的に送りつける最悪のツールだと僕は常日頃思っている。

 言葉は、時に、人を殺す。


「じゃあ明日もここに来る」


「好きにすればいい」


「明後日も、来週も、来年も」


「……君の勝手だ」


「あなたはここにいてくれる?」


「ここ以外に行くところも無いからな」


 それから僕らはただ空を眺めた。風が落ち着くと、横から彼女の温かさを感じた。


「あの雲、羊みたいじゃない?」


「そんなことを言えば、白くて綿みたいなのは全部羊に見えるだろ」


「こんな時間でも月が出てるんだ」


「太陽の明るさのせいで見えてないだけで、昼から月は出てる」


「こう見ると、この街もちっぽけに感じるね」


「世の中そんなもんだ」


 二人で、広大なキャンバスに世界を描いた。




 結局僕らは残りの授業も、この非生産的な、しかし人生で一番有意義とも言える時間を過ごした。

 いつの間にか、彼女は肩が触れ合う距離までじりじりと詰め寄っていた。それでも、僕は離れようとも、それ以上近づこうともしなかった。

 弱く脆い互いの存在を、確かめるように、補うように僕らは寄り添った。

 この奇妙な関係を言い表す言葉は思い浮かばなかった。しかし、そもそも僕らに言葉など必要なかった。


 終業のチャイムが鳴ったその瞬間、下からは騒がしい声が聞こえてきた。やがて彼らはグラウンドを、辺りの道を埋め尽くす。

 上から眺めていると、必死に生きる彼らも平面上を動く点にしか思えない。


「まだ帰らないのか?」


「私に帰って欲しいの?」


「……そうは言ってない」


「ねぇ、家はどっち?」


「僕は駅の方」


「そうなんだ。私も同じ方向なの」


「君の家には行かない」


「何も言ってないじゃない。……もしかして、本当は来たかったの我慢してる?」


「してない」


「怒らないでよ」


「怒ってない」


「……途中まで一緒に帰ろう?」


「勝手に着いてくればいい」


「本当は着いてきて欲しいくせに」


「…………」


「ごめんって」


「許す」


「やっぱり怒ってたんじゃない」


 僕の返事に彼女はくすくすと初めて笑った。こんな会話に目を細めて笑顔を見せる彼女に、僕は戸惑った。


「部活はいいのか?……君が何をしているか知らないけど」


「今日はいいかな」


「そう」


「あーあ、明日行ったら怒られちゃうな。「危うく死ぬところだったんです!」って言ったら許してくれるかな?」


 彼女は楽しそうに笑う。


「まるで僕が殺そうとしたみたいに言うのは勘弁してくれ」


「冗談よ!」


 そう言うと彼女は勢いよく立ち上がった。

 彼女のスカートが風に揺られて僕の顔に当たるもんだから、僕だけ座っている訳にもいかなかった。


「帰ろう!」


 彼女は僕の袖を引っ張り、扉を開けた。

 誰かに触れられるのは好きじゃなかったが、なぜか今は不快に思わなかった。




 僕らは玄関を飛び出た。

 土で汚れた花壇に季節外れのマリーゴールドが咲いている。そこには一匹の蝶が匂いに誘われ迷い込んでいた。

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駄作ハル @dasakuharu

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