第弐拾漆話 無間地獄

 此度こたび語りやすは、現世うつしよ浮世うきよのモノガタリ。

 此の世は地獄と云いやすが、其処に救いは在るのかどうか——。



 末法は甚だ近きにあり法華一乗の機、ともどこぞには記されておりやすが。

 ええ、そうでさァ、御仏の教え……どれほど迄に此の世に残っておりやしょうか。救いに正しいも、誤りも、実のところございやせんのではないでしょうか。


 いわく末法法滅の時なりと、云われし平安の世も末のこと。

 其処に親兄弟のことわりも、無きに等しく。

 平氏を退けし源氏の内にも火種ありけりと。

 刻は混乱の中、ええ、奥州藤原氏の滅亡の頃でありましょうか。鞍馬山くらまのやまでは天狗が涙し、朝廷政治の流れも混乱を極めし頃にございやす。


 其の時代の流れにひっそりと隠れるかのやうに、平安の世を騒がせた大妖怪どもの時代も——此処にひとつの終わりを迎えやうとしておりやした。




***



 ざしゅ——っ。


 真っ直ぐに小童が振り下ろした其の顕明連、寸断されたのは葛籠——否、葛籠を貫いておった酒呑童子の頭髪にございやした。


「くう……や?」

「呪いになられては、そなたは再び疾う走れぬではないか」


 其のどす黒い、昏い悲鳴と毒を纏った葛籠を、小童は大切そうに抱えては己の背後へと静かに降ろしたのでございやす。


「なっ……我が子が、血の呪いに刃向かいうちったと云ふのか!」

「其の縁ならば、姉上が切ってくれました」


 ゆらりと立ち上がり、今度は面を上げしかと其の瞳で酒呑童子を見据えると小童はそう云ってのけたんでさァ。


「お前は……私の父ではない。私の父とは、此の首葛籠、たったひとりだ」

「かかかっ、何を申すか。此のどす黒いまでの血の匂い……紛れもなく、その身体に流れておるのは此の俺、酒呑童子の血よ。如何と云おうが其の真実は揺るがぬ」


 酒呑童子の術でしょうか。びしり、と小童の頰には亀裂が入りやす。


「先刻も、心の臓を貫いたかと思えば貫けず。不思議な術を身につけた我が子とあらば、ますますおもしろや。其の身体俺が乗っ取り好きに遣わせて貰おう」

「術ではありませぬ。これをご覧くだされ、此の守り袋が貴方の攻撃を防いでみせたのです」


 小童が胸のうちから取り出したもの、それはあの茨木童子の角を入れた守り袋でございやした。そう、小童は失くさぬやうにと、大切に首から下げてとっておいたのでございやす。


「黙れ黙れ、であればなおのこと。お前の二番煎じは俺には通じん! 血に縛られしお前は、如何思っていようが父を討つことはできぬ!」


 其の術が、刃の如き毛髪が、小童に一斉に襲いかかりやした。


「ですから、話の通じぬ御方ですね。未だ己れが父だと豪語するとはなんと嘆かわしきことか」


 術も、貫いたかに見えた毛髪も、其処だけが喰われてしまったかのやうに、小童の目の前の空間諸共、すっぱりと無くなっておりやした。


「酒呑童子よ、例え此の身が貴方の血を引こうとも……今一度云ふ。わたしの父は、地獄の河原で出逢い、現世をわたしと共に教え歩んだ、此の首葛籠ただひとりじゃ」


 顕明連は三千世界を見透す剣、朝日に透かし一振りすれば全ての世界すら見渡せると言い伝えられておりやする。

 然し今其の剣が浴びるは朝日ではなく、月光すら届かぬ宝殿の澱み、常闇の昏きよ。振ればその先にあるのは、地獄の底か、はたまた無生無滅のまことの闇夜か。

 今繋がりし其の虚空に全て呑み込まれておったのです。


「空也、やめろって! 其奴は……!!」


 葛籠が何事か叫ぶ声が遠く聴こえてきやした。

 然し小童は詠うやうに何事か囁きながら、目の前の鬼の首にひとつ、剣を突き立てたのでございやす。



 ひとつ積んでは学び見守る父のため

 ふたつ積んでは慈しみ育てた母のため

 みっつ積んでは故郷の 姉弟我が身よりと案ずる者のため


 裂かれたものの怨念は

 奈落の底に鳴響く 修羅のつづみと聞ゆるなり



 一閃、また一閃と。其の小柄な身体に見合わぬやうな速さと力強さで剣が振るわれ、酒呑童子の首が斬り裂かれてゆきやす。首は唸り声をあげ、小童に嚙みつこうとしやしたが、それを守り袋の光や葛籠の毒が時折阻むのです。

 あたりはもう、酒呑童子のものか小童のものか、どちらのものかもわからぬほどに血飛沫が撒き散らされた有り様にございやした。


「く、くそう、必ずや此の恨み……生まれ変わっても果たそうぞ」


 そう息も絶え絶えに云ふ酒呑童子の眼前に立ち、小童は血まみれのまま呟いたのでございます。


「何を仰いますか。鬼に横道なきものを——共に地獄の果てへと落ちるのが定めにございます」


 ぞんっ、と其の首が真っ二つに落ち、やがては顕明連の生み出す常闇に、全てが呑まれてゆくのでした。


「空也、空也、此のばかやろうが!」


 遠く、自らも闇の中に首の残骸と共に呑まれ始めた小童の耳に、葛籠の声が聞こえてきやす。


「躑躅、わたしは知っておったのだ。でも良いのじゃ」

「よくねぇってンだろぉが」


 もう視えぬ其の姿に、小童は微笑み返しやす。


「先刻は……わたしとおさらばするなどと云っておったではないか」

「嗚呼、そうさ。おめぇなんざ、とっとと輪廻の輪に戻ってりゃいいんだ、今度は人の仔として、だから……だから」


 だから毒を溜め込んでおったと申すのか、ふふふ、躑躅らしいのう——。


 小童の言葉は、もう声にすらなっておりやせんでした。


 躑躅、嗚呼、もう逢えぬのか。

 せめて……。せめて一度、疾るそなたと共に……野山のつつじを眺めてみたかった。


 闇がぼとんと澱みを吸って堕ちたかのやうに、全てが消えた宝殿。

 酒呑童子の首も、白い小童の姿も——其処には何ひとつとして残ってはおりやせんでした。




***




 其の場所、無間地獄むけんじごくと云ふ場所なりけり。


 七大㮈落迦ならかの苦、つねに留まることなく。

 其のあらざるをもっての故に、無間と名づく地獄なり。


 小童はひとり、音なき光なき闇の中をひたすらに堕ち続けておりやした。

 ええ、ご存知でしょうか。無間業むけんごう、つまりはもっとも重きとされる罪、父母殺し、阿羅漢(聖者)殺し、僧の和合を破り仏身を傷つけるなどを犯したものが落ちる最下層の地獄にございやす。


 二千年の刻の中を、たったひとり。嘆きながら堕ちてゆかねばなりませぬ。其の先には休息すらなき責め苦が永久に近く、待ち受けておるのです。


 小童には……わかっておったのです。酒呑童子を己が討てば、曲がりなりにも父殺しにござります。

 葛籠の鬼も……また、わかっておりやした。父が死なば小童が輪廻に戻れるものの、自ら手を下してしまわば地獄逝きにございやす。であらば、と。小童自身が手を下さぬやう、身体のない自身が蠱毒となる道を選んでおったのでさァ。


(良いのじゃ、十分に愉しかった。わたしは、一度めの生では経験しうえなかったことを、たんと学ばせてもらい歩かせてもらったのじゃ)


 願わくは、もうあのやうな鬼が世に現れぬことを。首葛籠——躑躅が、元の姿に戻れますようにと。


 堕ちて、堕ちて、堕ちてゆく——。


 其の刻にございやした。


「ど阿呆ぅが!」


 聴き慣れた、からりとした声が暗闇に一筋、響いてきたのでございやす。

 其処にはひとつの蜘蛛の糸が。


「空也! こンのクソ餓鬼が、俺っちを出し抜こうったってそうはいかねぇぞ」

「躑躅……? 何故じゃ、此処は地獄ぞ、如何してそなたが」


 こンのォ、大莫迦やろうがァ!!

 がんなり声が、何故か小童にははっきり聴こえてくるのです。

 これはまことか、夢なのか……。惑うままにおれば、再び声が降って参りやす。


「俺っちは地獄の鬼だぞ莫迦が! ほら、上がってこいや、糸掴めっての」

「ならぬ、わたしを掬ってはまたそなたが」

「ああん!? 文句云うってェのかぃっ!?」


 ぐわんぐわんと、常闇に響く大きな声に、思わず小童は目を瞑りやす。

 ——おい空也ァ。

 何処か優しい声が降りてきやした。


 夢だと思ってよゥ、ほらおめぇ次は何がしてェ?

 鬼退治じゃなくってよ、ほら。あれだ、野山に花でも見に行きてェんだっけか。


 小童の真っ紅の瞳に、みるみるうちに泪が溢れてゆきやす。


 あと、なんだ、俺っちまだ西国しか巡ってねぇよ。遠野って場所には碧みたいなあやかしも沢山いるらしいぜ? ほら、旅は道連れって云ふだろぃ?


「わたしは——わたしはもっと躑躅と共におりたい」


 やがて泣き始めた小童の声に呼応してか


 よく云ったァ!!

 うんうん、そうだと思ったよ!


 がんなり声と、まろやかな声が降ってきたそうな。


 蜘蛛の糸、それは小さな白き鬼の仔を絡めとり。上へ上へと——。




***




「まったく、貴方と云ふ鬼は……自分が何を仰っているのかわかっているのですか?」


 刻は少しだけ遡りやして、無間地獄へと葛籠の鬼が向かう少し前……此れは黄泉路の一幕にございやす。


 全ての亡者の列を突破して、赤紫色の鬼が閻魔大王の間へと殴り込んできておったそうな。獄卒どもはてんやわんや、ひとまず扉を閉めては亡者の列を止め、人払いをしたそうな。

 がんとして話を聞き入れぬ鬼に、呆れ果てたやうに、其の場に呼ばれた地蔵菩薩は言葉を選びつつも諭しておったのでございやす。


現世うつつよにて、隙あらばあの子供を喰えばお役御免とも申したのに、喰わぬどころか喚び戻せとな? 自分の身体が戻ったのだからそれで良いであろうが」


 閻魔大王もそう申しますが、赤紫の鬼はばんっと其の装飾鮮やかな机を拳でへこむほどに殴りつけるのです。


「ンだからよゥ、あいつが討ったのはただの鬼だ、父親じゃねぇ。其の縁も全部切れちまってンだ。おめぇらにもわかってンじゃねーのかぃ、是れで地獄行きなんざ理不尽極まりねぇ」


 はぁ……と、地蔵菩薩はため息をつきます。


「躑躅や、わかっておりますか。是れも含めて、貴方とあの子供の罰なのですよ」

「ンあァ? 何云って」

「何って、貴方、地獄の鬼にも関わらず、あの子供を助けたでしょう?」


 はァ? と変わらず鋭い眼のまま睨む鬼に、やれやれと地蔵菩薩は頭を振りやす。


「鬼は、人を裁き……罰を与えねばなりませぬ。救いも教えも仏の役目。貴方は憐憫の情を持つどころか……あの子供を己の仔のやうに愛してしまったのです。是れでは地獄での務めが全うできるはずもないでしょう」

「ちょっと待て、なんだァ、愛ってそりゃぁ」


 地蔵菩薩、ひいては閻魔大王すら、頭を抱えてため息をつきやした。


「貴方……なんとまぁ。そうですねぇ」


 地蔵菩薩が閻魔大王を振り返れば、帳簿を眺め首を振っておりやす。


「いかんいかん、人数が合わなくなる。ひとり亡者と地獄逝きを増やすか、それ相応の魂をこちら側に……だな」


 じゃあ俺っちが代わりに——、そう云おうとした鬼の肩を誰かがとんとんと後ろから叩きやした。


「であれば、某の魂なんぞいかがでございましょうか?」

「せ、晴明、てんめっ!?」


 是れには地蔵菩薩も閻魔大王も仰天ときた。

 そらァそうでしょう、地獄の小鬼すら通れぬほどに、全ての扉は封じられておったのですから。


「まあまあ、細かいことは、よきにはからえってね」


 にこりと其の絵筆で引いたやうな笑みのまま、晴明は跪きやす。


「是れ此れこのやうに。安倍晴明、ヒトの身の天命はとうに過ぎてはおりましたが、心残りゆえに母の白珠と共に世に遺っておりました。今、然し、某の白珠は玉藻前の白珠を滅せんがために共に砕け、御魂は黄泉路へ参った次第にございます。玉藻前、酒呑童子の切れ端とやらはまだ世に残っておりまして。白子の鬼仔、彼はまだのちの世に必ずや必要となりましょう——して」


 代わりに某が成仏するのは如何です?

 其の言葉に、帳簿を管理する閻魔大王は唖然とし、目を見開いておりました。


「い、いや、確かに魂の数も辻褄も合うが、いや然し……あの白子の処遇が」

「ええっ、それじゃぁ某、現世に戻りて怨霊となっても良いのです? 結構たくさんこちらに送り込めまするが……」

「待て、待て! それは困る!」


 焦る閻魔大王と云ふ、珍しいものを見た。赤紫の鬼は声を潜め「おめぇ、やっぱとんでもねぇ奴だなァ」と晴明に囁きやす。


「足りませぬ」


 今度はそう一言、地蔵菩薩が仰いやした。


「我らは条理を外れてはなりませぬ。理不尽と云えど、何千年と続いた条理、簡単には覆すわけには参りませぬ。幾ら——躑躅、貴方に憐憫の情が湧こうともです」

「ほぉう、であれば地蔵菩薩さま、此の世にふたつとない宝を、あなたさまに差し上げれば……如何でしょうか?」


 自信満々なその晴明の様子に些か訝しむ表情を浮かべながらも、「見せてみなさい」と呟いた地蔵菩薩の返答に、晴明は更ににんまりと。

 其の笑顔をのちに鬼はこう語りやす、「とんでもねぇえげつなさだった」と——。


「では是れを、地蔵菩薩さま」

「こ、是れは……!」


 晴明が差し出したのは、一冊の本のようにも見えやした。はっと身を乗り出した地蔵菩薩に、「では交渉成立ですね」と笑い返しやす。


「否、まだそうは……」


 渋った声に「では是れはなかったことにと」と再び晴明が手にしていた懐に収めやうとすると、「ま、待て」と声が追うように響きやした。


「ふふふん。如何に地蔵菩薩様とあろう御方でも、こちらの結末は気になると見ました。では、お約束ですよ。あとは如何なりとも。此奴らが共に歩めれば某なんの未練もありませぬ」


 はぁと頭を抱えた地蔵菩薩は、ひとつ、蜘蛛の糸を。

 毎度あり、と晴明は其の手にひとつの本を手渡したのでございやす。


「あとは子供次第です。然しあの者は既にヒトでも鬼でもない異形……故に躑躅、貴方に新たな罰を与えましょう。五億と七千万年、弥勒菩薩の下向までの年数です。其の数の悪人、迷える魂を裁きなさい。其の罰の間、あの子供の地獄の罰はお前の共として現世で肩代わりと致しましょう」


 文句はありませぬか……? 其の問いに鬼が頷くや否や、再び其の身体は光に包まれ、葛籠の形へと相成りました。


「へへん、たまにはおめぇ、善いことすんだなァ」

「……不敬もそこまでに、一刻も早く此処から去りなさい」

「へぃへぃっと。おぅい、ちっと俺っちを連れてってくれや晴明よゥ」

「あいわかったよっ」


 扉が閉まり、晴明は葛籠を抱えて無間地獄の間へと向かいやす。

 その後ろ姿は、此方を振り返る事なぞありやせんでした。



 地獄の鬼の、真の罪。

 ひとつ、出逢った子供を心から愛してしまったこと。

 地獄の鬼の、真の罰。

 ひとつ、仔が成仏せし刻。其れは恒久の別れなり。



 再び扉が開く頃には、今度は待ち侘びておった亡者が雪崩れ込み、列をなしては獄卒がそれを怒鳴りつけてゆくのです。


 はぁ、と恐ろしい表情を再び作ろうと閻魔大王が後ろを向けば、地蔵菩薩もまた。再び賽の河原へと向かってゆくところでございやした。


「……いつの世も、親と云ふのは仔に甘いものだな」


 閻魔大王の声には振り返らず、そのまま地蔵菩薩は姿を消したそうな。





「ンでぇ? 晴明よゥ」

「んー、なんだい?」

「地蔵菩薩に渡した本だァ、おめぇ一体どんなとんでもねェ呪物を渡しやがったんでぃ? あの顔、あの焦りやう、そらァ相当なモンだったンだろぃ?」


 葛籠に戻ったことすらなんとやら、にやにや嗤う手元の鬼に、晴明は「んんんーっ」と笑いながら返しやす。


「内緒だよ、友よ」

「おぅ、鬼に横道はねーからな」



 宇治の宝殿に保管されておったと云ふ、源氏物語の失はれし「雲隠」の帖が、いつの頃か姿を消し——その後歴史の表舞台に二度と現れることはなかったそうで。


 其の物語の真相は、地蔵菩薩のみぞ知っておると云ふ伝説が、あるのだとか、ないのだとか——。

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