第拾参話 腕なし観音

 此度こたび語りやすは、現世うつしよ浮世うきよのモノガタリ。

 此の世は地獄と云いやすが、其処に救いは在るのかどうか——。




 我し地獄に向はば 地獄自から枯場せよ

 千の手を以って 千の目を以ってして

 我其の者を掬い給ふなりと

 かの心 果たして慈悲か執念か



 べべんっ、とひとつ琵琶の音。


 時は室町、戦乱の世。

 絶えぬ戦と領地争い、昨日の友は明日のあだ

 飢饉災害、人災と。

 とどまるところを知りませぬ。


 それは、まさに。生きながらまるで地獄を彷徨い歩いておるかのような。


 此処に、誰ぞと知らぬ無名のひとり旅の僧ありき。

 其の者、顔を白布で隠しながら、決してめくらではなく。たいそう不思議な者だったと。

 簡素な白装束に首から下げるは金色こんじき掛絡から脚絆きゃはんも手甲もまとっておらず素足に草履ぞうりという軽装であった。


 背にはひとつ、大きな古びた葛籠を背負い、肩にかけた年代物に見える琵琶を弾き、まるで謡い念仏かのように語り歩く。


 飄々とした空気と何やら不気味な雰囲気を併せ持った白き僧。

 然し——、彼の其の逝く末はその名と同じく、誰ぞ知らぬと云ふ。






 さて今は昔のこと。摂津・河内の国(現在の大阪府)のとある古寺に伝わる観音像のお噺にございやす。


 その地には、古きより伝統のある仏師(造仏師・仏像制作に従事する工人のこと)の一家が住んでおったそうな。

 代々腕のいい仏師を輩出したその一家は、平安中期から後期にかけては弟子も多く、それはそれは栄えていたと。

 その腕の彫る如来、観音菩薩、明王、天部と。全ての作品は美しく、慈愛と力強さに満ち溢れ、多くの衆生しゅじょうの心を慰め、また虜にしたといいやす。


 時は流れし平安の世も末。京の都からの覚えめでたきその一族も、やがて移りゆく政権の流れに沿って衰退の一途を辿っていったと。


 もう残りしは一人息子のみ。然しこの息子、腕は良いがとんでもねぇ放蕩ほうとう野郎だったそうでねェ。いつの間にやら師である父親も他界し、母がどれだけ嘆こうと、その父の作を売っては日々遊び呆けておったそうで。


 しかもこの息子、話によればそれはそれは恐ろしい表情の明王、天部衆の像しか彫らなかったそうでございやす。

 父の教え、人を愛し憐れみ、掬い上げる美しき観音様の像の伝統は、此処で絶たれたかに思われたそうでさァ。


 そんな男の元に、ある日美しいひとりの遊女が現れたそうで。


「もし、貴方様は先代の唯一の教えを受けた天才仏師と聞いております。どうかひとつ、美しい笑みの観音様を彫ってはいただけぬでしょうか?」


 その美しさに心を奪われた男は、一夜の約束を交わし、一心不乱にひとつの観音像を彫ったそうでございやす。


 それはそれは見目麗しき千手観音の像にございました。

 ええ、千手観音。千の手それぞれの掌に俗世を見通す眼を持ち、一切衆生いっさいしゅじょう(この世に生きている全てのもの)をももらさずに救済せしめるという菩薩様にございやす。


 千の手と云えど、実際に千手観音像を見たことのある御方はご存知のことでしょう。その御姿の多くは、十一面四十二臂じゅういちめんよんじゅうにひにて再現されておりやして。

 その正面に合掌する二つの手を除いた、四十しじゅうの手それぞれが二十五の世界を救うと云われております。


 腹前でまた二つの手を組み、その上には宝鉢をお持ちになる御姿。

 その左右に分かれし三十八の脇手全てには、それぞれが衆生を救い給う持物じもつをお持ちになる御姿で再現されておるのです。我々が千手観音さまと思ふ仏像は、この御姿がほとんどにございやす。



 さて、男が命を込めて欲も念も全てを曝け出し、己が力を以ってして仕上げたこの仏像。

 再びにこの遊女が現れし刻にも、感嘆の声をもらしたといいやす。


「ああ、とても。とても立派な御姿……感謝申し上げます」

「で、では……」

「ええ、お約束の通り」


 男が、遊女に手を伸ばした其の時にございやす。


 ——ざしゅっ。


 手は届かず、佇む観音像に血飛沫がとぶ。


「お約束のとおり。夢見心地な逢瀬、それは、あの世でゆっくりと。おひとりで愉しんでくださいましな……?」


 なんとまぁ、男は遊女の後ろから現れた別の男に、一刀のもと斬り捨てられてしまいやした。


 ええ、ええ。もとより遊女は自分で日金も稼げぬ仏師の男なぞ、なんの歯牙にもかけてやしなかったのです。


「栄えし一門の末代が、死の間際に残した唯一の観音像。これは高く売れるぞ……!!」

「では、だんな様……っ」

「ああ、その身、我が家で貰い受けようぞ」


 嗚呼、なんということでございましょうか。

 遊女は我が身可愛さに、裕福な家へ嫁ぐ条件にと仏師の男を誑かしておったのでさァ。


 男の血の色濃く染み付いた観音像。

 美しくも妖艶でなんとも云えぬ悍ましさを影にもつその観音像は、今もこの寺に妖しく立っておるのです——。




***




「でも、坊さんや。この寺の観音像は千手じゃねぇ、昔は腕があったという噺も伝え聞くが、なんの菩薩様かもわからぬいわきの像じゃて」

「そうそう、むしろ今じゃあ腕なし観音なんて呼ばれとるで」


 ——夕刻。


 旅の坊主の語りを聞いていた村人や子供らが口々にそう云ふのを、坊主は薄い唇を歪ませふふふと嗤う。古寺の床がキィキィと軋み、その音で壁際の蜘蛛の巣が揺れ動く。


「まぁまぁ、この御噺、実は続きがありんして。然しもう日も暮れ始めやした……また何処ぞで逢うた時にでもお話ししやしょうか?」

「ええーっ、坊さま、それはずるい!」

「そうだそうだ、次いつまた此処に来るかも、わからんだろうに」

「話して、話して」


 にこり、とその伺えぬ表情の中、薄い唇が微笑むように弧を描く。


「ふふふっ、仕方のうございやすなァ。ではゆるりと続きに参りやしょうか?」


 ——こん、こん。


 坊主が語りを始めようとしたその時、人知れぬその寺にひとつの足音が。


「もし、何ぞ今は説法のお時間でございましょうか?」


 そこに佇むは艶やかな着物をそっと隠したひとりの女。


「いえ、なぁに。ちょうど此処らを通りかかった旅のモンでぇ、昔噺をね」

「そうなのですね……。あの、」

「……貴女さまはこんなところにおひとりで?」

「ええ、ちょっと奥の像にお参りを……と」

「どうぞどうぞ、お気になさらず。ワシらこの間にて、ちょいと弾き語りをしやしたらおいとましますんでェ」

「……」



 べべんっ、とひとつ琵琶の音。


「……さぁ、此れで何度目の輪廻でぃ?」


 暗闇より地の底から響くやうな声が、聴こえたとか、聴こえなかったとか。




***




『死なずの百大夫ひゃくだゆう』なる御噺、ご存知でございやしょうか?

 

 ええ、上流の江口に対岸の蟹島、神崎津かんざきのつ。ここいらで栄えし楽地、多くの遊女宿が並んだ場所にございやす。


 そこにひとつ、奇妙な噂が——。


 その遊女は名を変え、いつの世にも現れたと云いやす。

 ひときわ美しく、信心深き様子ながらも、一心に愛を求め、その度に男に捨てられては狂い、死んでしまい。然し乍らも忽然と、いつの間にやらその面影を持つ遊女がどこぞの宿に現れておると。

 その迎える末路がいつも同じ有り様、ゆえに死なずの百大夫と呼ばれておるそうな。


 まさかぁ、ほんに不死の身なんぞ、在りやしやせんよぅ。

 人は死に往くもの、移ろいゆく者にございやす。

 なればこそ、ええ、おのが行いには充分に用心しやしゃんせ。


 本来、人には、其の身一度の生しか与えられておりやせんから——。



 さて、此の地におわす、千手観音像。

 その美しきことは評判を呼び、多くの人々が訪れたそうな。


 しかし拝めど崇めど、なんの加護も得られやしやせんで。

 それもそのはず、美しけれどもその観音像、何ひとつの慈悲の無き場所よりでしもの。

 ある時、此の地に訪れたさる高名な僧に、「造形も全てが千手観音様そのもの、しかしこれは千手観音ではない」と云われたそうな。


 男は怒り狂い、よくも恥をかかせたなと、あの遊女を斬り殺してしまったそうでさァ。


 さて、此処に。奇妙な縁、因縁、愛憎渦巻く人の念が絡み合い——。


 気づけば女は、どこぞの川岸に立ち尽くしておりやした。

 斬られた感触、憎悪の目、全て今しがたのことのやうに覚えておりやす。


 思うやうにその身体は動かず、幾月を超え、あれよあれよのうちに遊女宿へ。


 ええ、そう。お気づきでしょうか?


 繰り返してしまう……、のでございやすよう。

 幾夜幾夜と過ぎ行くうちに、また好いた男と出逢うては、或る時は愛されず、また或る時は利用され。無念のうちに生涯を終え……しかし気づけばまたその川岸に立ち尽くしておるのです。


 女は怖ろしくなり、はたと思いつきとある寺へと向かいやした。

 既に時は過ぎ去りしかな、はや何十年ののち。

 心のない千手観音像と云われたその像が置かれた寺は、すっかり寂れておりやした。女は一心に祈ります。御仏への許しを。


 その晩、女の夢枕にまさにあの千手観音像が現れたそうな。


「愛を得よ、然らばそなたの罪は赦されよう」


 女は今でも何度も何度も繰り返し、生きては。

 その眩いばかりの美しさを持ちながらも愛されず、祈り。

 次こそは、次の生こそは愛されようと。此の浮世を彷徨い歩いておるそうな。




***




「んー? でも坊さま。つまりその死なねぇ百大夫が、千手観音像を彫らせた遊女ってのはわかったよぅ」

「でもなしてだぁ? 愛されんでずぅっと生き続けて化け物にされたんかぁ?」

「そらぁ、無念のうちに死んだ仏師の男の祟りだで」

「それと千手観音像と、この寺の腕のない観音像と……なんの関係があるんや」

「まぁまぁ、落ちつきなすってぇ」


 べべん、と琵琶の音が鳴り響き。

 かたりと何やら物音が。


「ふふふっ……。そうさなァ、その千手観音像には、今も仏師の魂が血となり焼き付けられておるそうでございやすよ?」




***




 騙された仏師の男は、それはそれは酷く女を憎んだそうでございやす。


 最初は——、ええそう最初の頃は、でございやした。


 享楽にふけり、学ばず、世をめつける像しか手をつけなかった仏師。観音様は、の世の門の前で彼にこう告げたと云いやす。


「あの女が真の愛を、思い遣る心を知るよう、お前が助けなさい。真にそれが通いし時、お前の罪は赦されましょう」


 男にはどうしていいか、終ぞわかりやしやせん。

 しかし、こんなに美しい女がさめざめと愛を得られず泣く姿を見ているうち、次こそは彼女が真に愛されるようにと、ひとまずその観音像の腕と引き換えに——女を生き返らせたそうな。

 次こそは、また次こそはと。己が助かる為にと何度も何度も己を犠牲にし差し出し、差し出し——。


 ええ、それがこの古寺の腕なし観音。


 己の腕を、救いの手をひとつ失う度、男は女に再び命を与えたのでさァ。


 ゆえに、元は四十二の観音像の腕。

 ……残るは合掌する腕ただ一対のみにございやす。


 その後男が、女が、どうなったのか。

 それは御仏のみぞ知るところにござんしょう——。




***



「きっと、最後は女がその観音像の愛に気づいたんだなぁ。だって、この寺の観音さまは残っとるお腕で合掌してなさるから」

「腕なし言うても、両の手はまだひとつずつ、あるもんなぁ」

「坊さま、またね」

「御噺、有難う」

「いえ、いえ。みなも人を想ふ心を取り違えぬよう」


 去る人々を、「ほんに、達者でなァ」と見送り。

 すっかり日も暮れた古寺に、残るは坊主がただひとり……。


 ふぅ、と静けさの戻る暗闇に、吐息はふたつ。



「……さぁて、姐さん。今の噺をどう思いやすか?」


 奥の間に声をかければ、がたりという音がひとつ。


 扉を開ければ、がたがたと震えながらも腕のない観音像に一心に祈る、その姿は艶やかな着物を着た……まるで遊女のようで。


「い、今のお話は……どうして」

「さぁ……? そないなことより、もう祈りは終わってしまいましたかなァ?」

「あ、あ、あ、あっ。ああああああ……」


 ぼろぼろと、崩れ落ちるは合掌をしたその両の——最後の手。


「嗚呼、間に合いやせんでしたかァ……。四十の輪廻で気づけばよかったものを」



 男は気づかねばなりませんでした、

 女も、気づかねばなりませんでした。


 ——そこに愛に飢え乞う姿はあっても、何度生き返らせども。誰ぞその本心は愛してやおらんことに、ね。



「愛とは、男女間の情愛のみにあらず。結局のところ、姐さんも、あんさんも、自己の満足、自らの救いの為にしか祈れなんだなァ」


 すうと見上げしは、その観音像。

 まさにその顔は、美しき、然し慈悲なきまるでその眼前の女そのものの顔で。



 うっ、うっ、うっっっ。

 うわァああああああああああああ嗚呼嗚呼嗚呼——!!!

 あの人も彼の人も、此度も、私は捨てられて。それも全部! お前のせい!!!


 女は観音像に向け燭台を投げ、寺に火を放ち、その手に持った小刀で坊主をも道連れにしようと手を伸ばし——。



 ざぶりっ。


「おぅっとどっこい! 最後の最期まで、人のせい。そらァだあれも愛してはくれねーわけだなァ」


 どたりと倒れ伏した女。

 その足元にはどす黒い血の染みがどくどくと流れゆき。


「あ、あ、あっ足が! 足がっっっ痛いいいいい!!!」

「痛がっても、もう此度はその脚も命も戻りやしねぇよゥ」


 足首より下を失くし、立つことすらできぬ女と。

 そっとその横に鎮座した葛籠を、坊主はよいしょっと持ち上げゆく。


「地獄の業火より、幾分もマシでございやす。暫し、その身を己が情愛よりも熱きもので灼かれなせぇ……」

地獄あっちに行ったら、もぉっと厳しい責め苦が待っていやがるからよぅ、せいぜい此処で、反省でもしとくんだなァ」




 腕なし観音、どこかの山の古い寺。

 そこにある観音像は、美しくも、どこか人間のような艶かしさがあったという。


 数十年おきに、その手が一本、また一本と無くなりゆくさまは。

 ここが野党の根城だとの噂も呼び、誰も寄り付かなくなったそうな。


 いつのまにか、その山の場所も、古寺も。

 元は美しかったという腕のない観音像のことも。


 時と共に、人々は忘れ去っていったという——。

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