主の1599年事件における弁明記録

山船

記録第195号の2

 軍用の輸送列車から一歩降りて駅のホームに足を付けたとき、空は実に快晴で雪が眩しかったことを覚えている。ヌラブィク駅は今までに見たどんな建物よりも大きく見えて、これが帝都なのか、とすっかり圧倒されてしまった。駅の外には駅よりも大きな建物が両手で数え切れないほどあったというのに、このときにはそんな可能性など想像もできなかった。中隊の隊員138人を先導する立場にあった私がそんなふうに浮かれてあちこち見回していたものだから、隊員も皆気が緩んでしまったようで、それをたしなめようにも私がこうであってはな、と苦笑したものだった。

 駅舎を出て正面の大通りの向こうにはまたとびきり大きな建物があった。皇帝陛下のお住まいになるヌラブィク宮だ。そこに至る大通りの右側には帝国の省庁がずらずらと並んでいて、特にヌラブィク宮に近い一角は我らが陸軍に関連する建物があまりにも多いから「ヌラブィク要塞」なんて呼ばれていた。そこに目的地の兵舎があった。

 私も隊員もいつも冬になれば雪の上を歩いているのだからこんな雪ぐらいと思っていたのだが、どうやら雪質は地元のそれとはだいぶ違ったようで、私も一度危うく転びそうになってしまったし、隊員の中には何人も滑って転んでしまった者がいた。たった1 kmもない道でこんなになってしまっては、一体どんな任務で我々が帝都に招集されたのかは知らないが大変だろうな、と思った。やっと兵舎にたどり着くと、兵舎もまた疑わしいほどに立派に見えて、皇帝陛下に近づいていることが何を意味するのかわかっているだろうね、と言われているように思えた。軍医もいて転んで体を痛めた隊員らも休めることができたし、その日の間はまだ到着したのが我々の中隊だけだったので、私はその日の間中一国一城の主だ、ととても気分が良かった。

 次の日になって大隊長、旅団長閣下と上官らが到着して、私の天下はすぐに終わってしまった。そんなことはどうでも良く、私はもともと天下人ではないし、忠実であることを美徳とする者だった。上官がいれば上官の命令に服従するのが軍人として正しいから、それを美徳とすることに疑う余地は無かった。さておき、そこで私は大隊長と共に旅団長閣下から任務の説明を受けた。一週間後に大規模なデモが申請され、皇帝陛下の恩情により承認されたので、その警備のための人手が必要だ、という話だった。

 なるほど道理だ、と思った。というのも、他の中隊のことは知らないが、少なくとも私の中隊はこれまでずっとそういったデモ警備にあたっていたからだ。帝都ではなく、ここから鉄道で2時間ほどのところにある地方都市に駐屯していたから、ずっとそこでそういったことをしていた。帝都に比べればずっと小規模な都市だから私の中隊だけで足るほどで、私はそこで一兵卒から叩き上げの中隊長になったのだった。ともあれ、私の中隊にデモ対応で右に出る隊はそうそうあるまい、といった自信を持っていた。

 まだ発ってから2日しか経っていない故郷のことを思い出す。ときどきデモはあったし、そういうものの常として暴動のようになってしまうこともあった。しかし、私はそれを何度も鎮めてきた。デモと言ったって、小都市だから多くても……覚えている限りでは参加者が500人を上回ったことは無かったはずだし、人数が多くなったとしても実際のところ、人は死の恐怖に直面すれば文句を振り回すことなど無くなる。私が抜剣の掛け声を出し、100人以上が一斉に銀色に光る軍刀を抜くのを目にすれば、暴徒らの勢いもたちまち弱まり暴動は立ち消えとなる。抜剣命令を出すのはほとんど最後の手段だが、それだけによく効いた。今回もそうだろうと、この時にも思っていた。

 旅団長閣下から地図を渡された。デモ隊の行進するルートと私の中隊が警備しているべき領域が記されていた。デモ隊は駅をぐるりと回ってから大通りを宮殿まで行進し、そこで現地解散ということになっているらしい。私の中隊の警備箇所は駅から見て左側の、真ん中より少し宮殿側にかけて、といったところだった。この警備範囲からするとだいたい大隊一つ半か二つほどを警備にあてるのだろうか。それを訊いても何かあるわけではないので特に訊きはしなかった。それからデモの日まで待機とのことだったので、街をぶらつく……もとい、警備箇所の下見をしにいくことにした。

 歩いて20分足らず。昨日とは打って変わってどんよりとした空模様は、この雪の地面ではむしろありがたいように思えた。何せ雪を見ても眩しくないから、どこが滑りにくいかをよく観察できる。調子に乗ってずかずかと歩いていたら滑りかけたが、なんとか一度も転ばずに済んだ。

 警備箇所にあったのは大銀行だった。地元にも支店があったはずだ。その本店と書いてあった。大通りに面した立派な建物だった。なんとなくいつも使っている銀行と同じグループがここにもあることが、それからもう見慣れた大通りの景色が、全く未知の世界じゃないんだ、と私を元気づけてくれているように感じた。その建物の正面の大通りの歩道に私の隊員を並べる姿を想像した。

 手元の地図に描いてあった警備区間と大銀行のやたらと大きな建物の幅が一致していることに気がついたとき、つい鼻から笑いが漏れてしまった。大通り全体を警備しようというのではなくて、重要な建物を守れ、ということに違いなかった。わざわざ下見に来たのがばからしく思えてしまい、皇帝陛下に忠誠を誓った身といえどもこんなに露骨ではな、と思った。

 気も抜けてしまったので、表通りを見るのをそこそこに切り上げて、裏通りの方に入ってみた。すると途端に知らない景色になった。当たり前のことだが面白く思った。

 裏通りに入ると、多くの視線が私に向くことに気がついた。私は軍服を着ていたし、軍服は見事に真っ赤な派手な色をしている。なるほど、このように露骨に軍人だとアピールする服は裏通りでは目立つのだろう。軍人といえば、出身はともかく比較的に高給取りで、宮廷がすべてを用意してくれるから表通りをザッザと行進していくものだ。皇帝陛下に忠誠を誓ったこの身が羨ましかろう、と誇らしく思った。

 少し行くと、そう大きくはないが清潔感のあるパン屋があった。隊員の中の仲のいい奴らに土産でも買っていくか、と思ってその店に入った。

「いらっしゃいませ、あっ、軍の方ですか。いつもご贔屓にしてくださってありがとうございます! ああ申し遅れました、わたくし見ての通りしがないパン屋の主人をやっておりますヴロワと申します、今後ともお見知り置きを。それで当店自慢のこちらのパンはいかがでしょうか? 生地とレーズンの相性が絶品と評判で」

と、入店した途端にまくしたてられ、

「わかった、わかった、それを1ダースもらおう」

「お買い上げありがとうございます!」

と勢いで言ってしまってからそれがこの店で一番高いパンであることに気づいた。不味ければ承知しないぞ、と無言で圧力をかけてみたりしたが、意にも介さないようだった。入店したときに彼女の瞳が光ったように感じたのはもしや気のせいでは無かったのかもしれない。

「いやー軍の方にはいつもお世話になってて本当にありがたい限りですよ。軍に卸せば高く買ってもらえますし」

「……現金なやつめ」

「商売人は現金じゃなきゃやってられませんからね! はい、3つおまけで入ってます」

3つも? という顔をすると、

「いえいえ、いいんですよ儲かってますから。ただ……代わりにお客さんには軍の兵站部の方にこの店の宣伝をお願いしたくて」

「まあ……十分に旨ければ考えてやらんではない」

「それなら安心だ。そうそう、お客さんのお名前は?」

「第93旅団隷下、『森』大隊第一中隊の中隊長、ブリヤコフ」

「中隊長さん! 道理で太っ腹なわけだ、今後ともぜひ当店をご贔屓に」

とまで会話が続き、やっとのことで店を出ることができた。なにやらがたがたと音が鳴ったので振り返ってみてみると、彼女が閉店の看板を出してきていて、なるほどおまけまで付けてくれていたのはこういうことだったのか、とむしろ感心した。

 しかし、嵐のような人だった。つい勢いに飲まれてしまったが、楽しかった。宿舎までの道は、一旦表通りに出てから宮殿の方に上って……そう遠くはないはずだ。地図を見なくてもわかるようになってきただろう。パンのたくさん入った紙袋をぶちまけないように雪を踏んで帰った。たかが街を歩いてパン屋に寄って行っただけでこんなに楽しい気持ちになるとは思わなかった。帝都をもっと見慣れていきたいと思って、明日もどこかにぶらつこうか、とか考えていた。

 次の日は大雪だった。夜明け前からガタガタと揺れる窓ガラスに起こされてしまった。そして朝になれば、全く予想通りにつまらないことに、私と私の中隊は雪かきに動員されてしまった。故郷だって雪国で、雪が降れば誰が一番雪かきできたかを競う勢いで毎度雪かきに動員されていたのだから、暗い中に窓の外を見て吹雪いているのを知ったとき、もう少なくとも今日は街をぶらつくなんてできまいと確信できてしまった。楽しみにしていたことができなくなってしまったということほど気の滅入ることもなかった。

 帝都の大通りともなればやはり地元の大通りと比べても勝手が違いすぎる。とにかく太い。横断して歩けば100歩ぐらいはあるだろう、きっと。そんな太い道が駅から宮殿までずっとあり、これを300人ちょっとで全部除雪しろというのだった。面倒だったらありゃしない。次の日になれば中隊が2つ追加で来るから今日一日は我慢しろというお達しこそあれども、それはあくまで明日であって今日の自分の気を良くする材料にはならなかった。

 夕方になって日も沈み、今日はここまで、となったところで何やら慌ただしく官僚どもが動いていたから何かあったのか上官に尋ねてみたら、雪で列車が脱線した、と。最悪だった。ということは、と言っただけで増援は来ないことを知らされてしまった。むかっ腹を立てていた私とは対照的に上官は諦めを滲ませていて、いつもなら毎年雪かきをやっているはずの近衛師団もどこだかに動員されてここにはいないから、ひたすら雪かきになるけど受け入れてくれ、と諭された。雪に畜生と吐いた熱量でちょっとは退かす必要のある雪が溶けて減ってくれたものと思う。

 それからの一週間は本当にずっと雪かきだけしていた。デモの2日前にもまた多く雪が降り、やった仕事がほとんど無かったようにされてしまったときには発狂するかと思った。ところが何であれ習熟はするもので、雪かきをした最初の日と比べると明らかにスピードは速くなっていて、デモのある日の前の晩にはすっかり地面が見えるほどになっていた。滑り止めの砂利の混ざった路肩の雪は茶色く汚れていて、しかも固められていて、柔らかな新雪とは全く違う何かみたいに思えた。

 そしてあのデモの日になった。

 朝のうちにずらっと並んで立ちっぱなしにさせておくのが仕事だった。そう伝えられていて、だから私の中隊はきちんと目的の場所に並べたのに、どこか私の知り得ないところで行き違いか何かがあったらしく、一週間かけて除雪した道を本営の方まで早足で歩いていった。

 そこで人の多さに、それからその大量の人々が整然としていることが気になった。気になった、という言葉は不適切かもしれない。……目についた、違和感を覚えた、不自然さを感じた。そのあたりだろう。ともあれ、軍の側は規律正しいのだろうというだけで終わるが、通りすがりに行進の準備を始めている民衆も見かけて、こんなに大勢が集まっていれば、それだけで何もなくとも騒ぎが起こってしまうものだと思っていたのにそうではなかった、ということが印象深かった。

 呼び出されたのに特に何も連絡事項はなく、つつがなく進行しているから持ち場に戻れ、とだけ言われて追い返された。建物を出る直前にまた呼び戻されて、中隊ごとに伝令員が送られているからその合図にも従え、と何か紙を一枚持たされた。この色の旗が上がったらこの意味の信号だ、という一覧だった。慌ただしく動く人の波に蹴り出されて、私はすぐに本営を後にした。

 午後1時20分。予告されたデモ開始時刻になった。私の中隊のところまで来る予想時刻は午後3時50分。いくら軍人は市民の模範たれと言われても、もう昼を回ってすこし疲労が出てきているし、私も隊員らも背筋を伸ばし続けるのは無理があった。時折チェックポイント通過を示す色と問題なしの意の白旗2枚セットが揚げられて、そのたびに、おー、とかの声が出ていた。シュプレヒコールの音がだんだんと大きくなってきてもまだデモ隊の姿は見えず、異常なしの旗だけが上がっていた。また上がった。何もすることなくこのまま終われそうだと思った。

「報告いたします! 南西区画1-14周辺にて火災が発生、火元はデモ隊から投げられた火炎瓶と推定されています!」

 背後がどよめいた。和やかだった空気が霧散して、私は舌打ちをした。誰がそんな場に水をぶっかけるようなことを言ったのか、確かめようとする必要はなかった。その発言の主は私の正面にいて、腕章には連帯付であることを示す模様が描かれていた。伝令員だろう、そこで旗を上げ下げしているのとは別の。あからさまに不機嫌さを見せることもできたが、そうしても何の意味も無いことを知っているからしなかった。

「報告ご苦労。我々は何をすれば?」

「別命あるまで待機であります。鎮火作業には第3中隊が消防局と協力してあたっております。ただ……もしも民衆が暴徒化した場合には、中隊長の権限により鎮圧にあたることが許可されております。その必要が無いことを願っておりますが、しかして……」

「手短に」

訂正。不機嫌さを見せることに意味がある場合もある。

「……ここより宮殿方面におります独立中隊は、皇帝陛下の甥であらせられますチョルノヴォ殿下が指揮しておられます。もし殿下に何かあれば、それは……」

別の理由で眉間に皺が寄った。それを隠すように私は右手で額と目を覆って少し俯いた。こころなしか頭痛もしてきたような気がする。

「……わかった。他に何も無ければ下がれ」

彼は軽く一例して走り去っていった。

 私が何をしなければいけないのかは、それこそ頭痛がするほどにわかっていたはずだった。言葉に起こしたくなかった。他に道が無いか、見落としがあるだろう、絶対に、と思わずにはいられなく、条件を確かめようとした。

 もし、もしデモ隊が徹頭徹尾平和的に動いてくれるのなら、素通ししても大丈夫だ。平和的なデモなのだから、殿下がやんちゃしない限り。……平和的なら。火元がデモ隊だろうとそうでなかろうと、火は人を興奮させる。ここまで平和的に来てくれる可能性すら、かなり怪しいように思えた。

 それなら、我々の中隊で通りを塞いでしまうのはどうか。……悪手。そもそも相手が火炎瓶とかの投擲武器で武装している可能性がある上に、こちらが強制的にデモを止めさせた、とデモ隊をむしろ煽る結果になるだろう。だったら……ええと、殿下に危害が無ければ良いのだから……デモ隊を全員身体検査するか。そんな人的資源は無い。暴徒化しないように祈るか。祈りでどうにかなるわけがない。

「…………隊員各位に告ぐ。抜剣の用意をせよ」

シュプレヒコールはどんどん大きくなっている。完璧な解決策がもしかしたらあるのかもしれないけれど、私には思いつかなかった。こうする他にできることはなかった。

 また雪がちらついてきて、頬に欠片が当たって冷たかった。シュプレヒコールの下に雑然とした足音が聞こえる。デモ隊の顔が人のそれだとわかる距離になっている。目をこらすと、おそらく皇帝陛下になにか直訴したいという意志のものであろう看板と、それに混じって変な看板が掲げられているのが見える。朝に見たときよりも随分と乱れていた。民衆の規律とはこんなものか。見る間に近づいてきて、戦場であれば突撃が届くぐらいになってきていた。それもばらばらに砕けた行進のまま。

 それなら、脅すだけで三々五々になるだろう。

 私はデモ隊の方を向いたまま、可能な限り大きな声を出そうと努力した。

「総員、抜剣せよ!」

背後から剣を抜く音が次々と聞こえてくる。普段よりも遅い。おそらく隊伍の後ろの方までは聞こえなかったのだろう、前の人が抜剣するのを見て抜剣していくという具合か。そして正面のデモ隊の顔や顔は予想と違わずにうろたえていた。とどめの一撃を与えよう、と私も抜剣した。

 数人がデモ隊の列から駆け出して抜けていき、しめた、と思ったのも束の間、何かが飛んできて、私の前の地面に落ちて炸裂した。地面が燃えて、近くの雪を溶かした。火炎瓶だ。……火炎瓶だ!

 突然想定外になったので対応が遅れた。顔を上げたときには私の頭上を飛び越すようにいくつかの物体が飛んできていた。反射的に振り向いて、その円弧が隊を大きく飛び越すように描かれていたことがわかって向き直った。デモ隊はずんずんとこちらに行進してきていた。それに驚いて、もう抜剣しているのにただ直立しているだけのような錯覚に陥った。

 今までの鎮圧活動で、実際に斬りかかるところまで行ったことはなかった。大抵の場合中隊とそう数の違うデモ隊ではなかったからだ。そして、確かに、中隊の10倍ぐらいの数はいた。

「諸君! 武器を降ろし、静かに整列せよ!」

距離が変わらず縮まり続ける。私は動いていないから、相手が歩き続けている。

「これは警告である!」

必死に声を張り上げる。しかし止まらない。止まってくれない。それどころか、

「皇帝の手先!」

と野次が飛んでくる始末だった。飛んでくるのが野次だけだったらどんなに良かったことか、何か小さいものと棒状のものが同時に飛んできた。この軌道では私の少し後ろに落ちる。おそらく火炎瓶か何かと、木材か何かだろう。その読みが当たろうとあたるまいと、隊員が危ない!

「総員、突撃!」

反射的に振り向いて、さっきよりも大きな声量で号令をかけると同時に、何かが落ちてガラスの割れる音がした。隊員の悲鳴が上がった。他の隊員は号令に応えて駆け出した。雪で消火を試みる者もあったが、焼け石に水、もとい……私はデモ隊に向き直り、突撃の列に加わって何も考えないことにしたかった。だからそうした。

 正面に走った。走ると、人がいた。看板を持っていた。右往左往していた。隙だらけだった。剣の腹で右肩を思い切り叩いた。看板を取り落したので、右手を剣から話して地面に倒した。

 次だ。棒を持っていた。両手で持って振りかぶっていた。私の姿勢が悪い。私の頭を血だらけにしない必要があった。斬り上げた。肉をわずかに斬り、骨に当たった感触がした。振りかぶった姿勢からそのままに彼は後ろに倒れた。踏み越えて石突で腹を突いた。吐いたような音がした。

 次だ。目の前に何かが向かってきていたから反射的に剣を突き出した。よっぽどのことが無ければ、戦闘用に作られた直刀よりもリーチが長くなるものは無かったからだった。それが相手を貫いたようだった。地面の雪が滴った血で溶けていた。抜いて軽く血振りをし、次に行こうとして、貫いた人の相貌を初めて認めた。血の気が引いた。見覚えがあった。パン屋の主人だった。無理やり目線をそらしても、剣は構えられなかった。あいにく構えられずとも振り回すだけで殺傷力は十分にあった。

 それから合わせて10人ほどを倒したところで、倒すべきが見当たらないようになった。とっくに異常は本営の知るところだろう。なのに炎は消えないし、医療班も見当たらない。昼よりも混乱がひどくなっているだけなのか、それとも殿下のお守りにかかりっきりなのか。どちらでもいい。足元では血が凍りつつあった。血の薄氷を踏み割って、中隊に点呼をかけた。点呼に応じない者は思ったよりも少なかった。

 私はこうする以外に方法を知らなかった。

 数日経って、皇帝に批判的な新聞――もちろん発禁処分が出ているがおそらく地下で刷られており、軍もそれを掴んでいるのだろう、一部だけ士官室に放置されていた――に載っていた死者リストを見ることができた。

 目線を何往復かさせても、目的の名前は目に入ってこなかった。なので、すっかり命は助かったのだろう、と思い込んでいた。不意に「ヴロワ・シルヴィジ・シルヴァノフ、33歳、パン職人」とだけ書かれた列が目に入った。啜ろうとしたコーヒーをわずかにこぼして、その理由は私の手が震えていたからだと気づいた。紙面に黒い染みができた。

 彼女は良い人だった。きっと死ぬ必要は無かった。今でも、そう思っている。しかし、私は中隊長としてしなければならないことがあった。皇帝陛下に仕えることを歓びとする身としては、陛下に反対するデモに参加したことこそ恨まれるべきことであったはずだろう、と思うしかなかった。


処分記録:絞首刑執行済 臨時民主政府司法委員部

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

主の1599年事件における弁明記録 山船 @ikabomb

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ