第15話 ささやかな呪い

 カップの底に残るどろりと蕩けたクッキーを見つめながら、彼女は続けた。


「なあ、クリストハルト。聞けばお前は誰にでも良い顔をしているそうじゃあないか。……しかし、とある国では〝悪事千里を走る〟といってな。お前のやっていることは絨毯をめくったら埃が出てきた程度では済まないんだ。わかるだろう?」


 汚れることも厭わずにどろどろのクッキーを指ですくって、彼女はテーブルの上にべちゃりと叩いた。紫色に染まりうっすらと光り輝いたそれはボンッ、と破裂するような音を立てると同時に煙に包まれ一枚の羊皮紙となって現れる。


「……こ、これはなんです? 契約書、ですか?」

「賢いじゃないか! その通り、お前がこれ以上悪事を働かないためだ」


 単純に署名だけをしたら、それで有効になる。これから先もし彼が契約を反故にしたならば〝生きているのが嫌になるほどの苦痛を味わうだろう〟と彼女は脅す。


「難しいことはない。署名ひとつでお前はこれから真面目に生きていればいいだけだ。今まで通り偽善者を演じたっていい。ただ他者を傷つけなければ済む話さ。貴族らしくパーティにでも興じて税で私腹を肥やしても誰も文句は言うまい」


 ローズは意外にも悪事を咎める程度に済ませて、彼が今後いっさいの悪事に手を染めることが無ければ見逃すというのだ。シャルルが横目に「本気?」と詰め寄りたいくらいの気持ちを瞳に映す。


 だが彼女は何やら企みがあるのかニヤついた視線を返した。


「さあ、ペンを受け取って。ああ、それからこれも」

「……ナイフ? いったい何に使うんです」

「最期に指印をしてもらうんだよ。軽く指を切ってな」


 契約書の効力を正しいものにするには指印が必要である。それが魔女の絶対不変のルールであり、これを断るという選択肢はクリストハルトにはない。彼は小さなため息を漏らし、これまでを振り返って内心に悔しさを吐き出しながら署名して、ナイフを受け取ったあとで人差し指の腹をすうっと切った。


 血に濡れた指を署名に重ねるようにグッと押し付ける。びりびりと熱の帯びた痛みが走って表情がわずかに歪む。こんな思いは二度とごめんだ、と落胆した。


「ご苦労様、クリストハルト。プリルヴィッツの名がこれからも栄えることを祈っているよ。……では、私たちの用は済んだ。飲み物と菓子をありがとう」


 契約書を丁寧に折りたたみ、指で挟んでひらひらと見せつけてからローズはシャルルを連れて席を立つ。作り笑いをして怒りをかみ殺すクリストハルトに振り返ってニヤつき、屋敷の外へ歩いていく。見事な前庭も彼の所業を重ねてみれば、彼女にとってはずいぶんと薄汚れて見えた。


「ねえ、ローズ。このまま本当に見逃す気なの?」


 相手が積み重ねてきた悪事の数々を考えれば見逃すなど到底信じられない話だ。いくらローズが魔女であっても、シャルルは納得がいかないことにしっかりと不満の声を上げた。しかしそんな気持ちも彼女の手のひらの上だ。


「は、さてな。私はまったくアイツに興味がないからどっちでもいい」

「あのね……。ボクにだって許せないことくらい────」


 言葉を遮るかのように、シャルルの眼前に丁寧に折りたたまれた羊皮紙が差し出される。クリストハルトに書かせた契約書だ。


 ローズは目を細めていやらしく微笑む。


「つまりこんな契約書も私は必要ない。これはお前にくれてやるから、どう使うかは好きにしろ。直筆に加えて奴の指印もある。それも魔女が扱う契約書と来た。嘘や偽りのない悪事の証明に使うには実に都合の良い代物だろうな」


 押し付けられた羊皮紙を手にシャルルはきょとんとした。


「……あ、あれ? もしかしてローズ、最初からこうするために?」

「ネズミは面倒なことに、ほんの小さな隙間さえあれば簡単に抜けていく」


 彼女はただ歩き、後ろを追うシャルルに振り返りもせずに言った。


「ああいう手合いは詭弁を並べ立てて逃げ出すことに関していえば天才的。あの場で騒いだところで誤魔化されれば終わる。昨夜に馬鹿をひとり逃がした甲斐はあったな。それからヤツの血を使った指印だがな……あれがいちばんの罠なんだ」


 今まで押し殺していたのだろう笑い声が彼女の口から仄かに溢れる。罠とはいったいなにかをシャルルが尋ねると彼女は嬉々として答えた。


「ぷっ……くく、まったく面白い。あの契約はいわば簡単な呪いでね。事実、悪事さえ働かなければ彼は自由だが……そう、もし契約書を広げてお前が追及でもしようものなら、彼は真実しか口に出来なくなってしまう。たとえ眠っていようとな」


 最初から彼を逃がす気などさらさらない。フランシスだけでなく過去をさかのぼれば犠牲者は決して少なくない。そのなかには、きっとローズの失った友人も含まれているのだろう。それについて語りはしなかったが、シャルルの気持ちに応える形で彼女はひとつの報復を成したと言えるのかもしれない。


「さ、仕事はここまでだ。あとはゆっくり観光をして帰ろうか」


 シャルルは差し出された手を優しく握り、ふたり並んで歩いた。

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