第9話 祝いの酒宴を
受付の女性を呼び、着替えを渡す。
「いつもの場所へ持って行ってくれ」
「わかりました。鍵はデニスが持っていますので、いつでもどうぞ」
「助かる。……あ、おい。チップは要らないのか?」
「いつも十分すぎるほど頂いておりますので。では失礼します」
唇を引き結んで、困ったようにローズが手で髪をがしがしと梳く。
「機嫌でも悪いらしいな。まあいい、食事だ」
「う、うん。そうだね、そうしよう」
女性の去り際の鋭い視線はローズではなくシャルルを見ていたようで、どうにも居心地の悪さが胸のなかを渦巻く。何か悪いことをしたのではないか、と。だが彼女が戻ってきて受付に座ったときは、その視線が向けられることはなかった。
ようやく椅子に腰かけて、さあ食事だ。ローズが「いただきます」と口にして、丁寧にゆっくりとお辞儀をする。それが彼女の作法というヤツらしくシャルルも真似してから食器に手を伸ばす。
初めて食べる庶民の食事は普段のものと違って美しい見た目とは少し差があるが、味に関してだけ言えば一流の料理人にも負けていない。思わずハッとした顔で「おいしい」とこぼすほどだ。
たまたま料理を運ぶのに近くを通った宿の主人デニスが自慢げに笑う。
「ハッハッハ、そうだろ!? 宿はちぃとばかしボロっちいが、俺たちのつくるメシの上手さは町でいちばんさ。好きなだけ食え、金は余るほどもらってる!」
彼の言葉になぜか客たちが一斉に歓声をあげる。
「お前らじゃねえ! だいたいツケも払えねえ連中が何を騒いでやがる!」
「まあそう言ってやるな、デニス。さっさとそのメシを届けてこい」
金貨をテーブルの上に置いて、ローズはニヤりとした。
「今日は私の連れ……シャルルが初めての旅行でな。その祝いだ、ここにいる者たち全員にもいちばん美味いメシと酒を振舞ってやってくれるか」
デニスは急に忙しくなると呆れた笑みを浮かべたが、客たちからは大歓声と称賛が飛び交う。ローズだけが知っている箱入り娘の初めての旅。その門出祝いに酒場は格段と騒がしくなる。彼女はシャルルに向けて軽いウィンクをした。
「さ、ここからは自由がまかり通る時間だ。飲んで、食べて、歌ってもいいし踊ってもいい。お前の好きなように過ごしてみろ。数少ない機会なんだから」
「えへへ……ありがとう、ローズ! よーし、いっぱい食べちゃうぞ!」
目の前に並ぶ豪勢な食事へシャルルの気合はたっぷりだ。男たちの乾杯に合わせて、食器のぶつかる音が響き始める。ローズは相変わらず粛々とした食べ方だが、周囲の様子を気にすることはなく穏やかに口へ運んでは酒を嗜んだ。
「おい、あんまりむちゃくちゃしたら追い出すからな! ローズ、あんたも責任を取ってもらうぞ。いくら金をもらってるからって甘やかしたりはしねえ」
忠告を受けても騒ぎは静まらず、悪びれもしないダメな大人たちの宴は続く。ローズも当然のように食事をして「それより酒を持ってきてくれ」と注文をつけた。
「ったく、困ったやつらだなあ! おーい、酒の追加だ!」
厨房へと去っていくデニスに、男たちがさらに食事まで注文する。辟易した声が厨房のなかを駆け回った。しかもローズの飲食の量は一見すれば慎ましいものだが、既に周囲よりはるかに食べている。食べ過ぎているくらいだ。
なのに胃袋は悲鳴のひとつあげていないし、腹が出っ張ることもない。どこへ消えているのか? と誰もが疑問に思うなか、やはり次々と口に運んでいるのだから驚いて誰も理由を尋ねたりはしなかった。
シャルルはといえばそうそうに限界を迎えて、もはや酒の一滴も入らない。それどころか普段よりも無理に詰め込んだせいで吐き気すらこみあげてきそうだった。アルコールも回ってきてふわふわとした感覚に彼女は席を立つ。
「よう、お嬢ちゃん。どこへ行くんだい」と客に尋ねられて「ちょっと夜風を浴びに」と青い顔だ。気丈にも笑って見せたが、心配そうな目を向けられた。
外へ出れば宿のなかを満たす熱気を突き崩そうと冷たい風が飛び込んで来る。慌てて扉を閉めて、シャルルはほうっと息をつく。喧騒とは若干離れ、かといって自身が知っている静寂でもない。
暗いのに町はまだ灯りのもとで起きていて、人々が行き交っていた。
「いい町でしょ、人が少ないわりに賑やかで」
「あ、えっと、君は確か……」
目つきの鋭い女性が、あまり気乗りしないまま手を差し出した。
「フランシスよ、フランシス・ボワロー。あなたは?」
「わ……ボクはシャルル・ヴィンヤード。よろしく、フランシスさん」
握手をかわす。フランシスは、にこやかな顔つきをしながら鋭い口調で尋ねた。
「そ、シャルルね。ひとつ聞きたいんだけど──あなた、ローズの何?」
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