優しい言葉 02

「あれ、弥生さんどうしたの?」

「どうするも何も、俺が居れば邪魔じゃね?」

「邪魔じゃないでしょ」

 苺音ちゃんの誕生日当日。俺の家でケーキを食べる程度だけれど、軽いお祝いをする予定で組んでいたのだが、同居人である弥生さんが家から出て行こうとするので、思わず声を掛ければこの返答だ。

 彼の返答に拍子抜けしつつぱちりと瞬きをすれば、彼は「こいつマジか」と言いたげに、ジトリと少しだけ目を細めて、小さく溜息を吐いた。

「だって、俺はあの子達とは初対面よ? お祝いの席に俺が居たら気まずいでしょ」

「いや、そんな豪華なパーティとかじゃないから」

 学校の帰りに友達の家でおやつを食べる、程度の気軽さだよ。

 そんな事を言っても、いやいやと彼は首を横に振る。

「俺は苺音ちゃんに嫌われてるから駄目」

「嫌われてるって、会ったこと無いって言ったじゃん」

 俺が彼女達の話を彼にすることはあっても、彼が彼女達に会ったことは無いはずだ。というか彼が自分でそう言った。

 会っていないのに、知り合いでもないのに勝手に嫌われるのは悲しすぎる。いつも、俺が二人の話をすると、笑顔で楽しそうに聞いているのに。そんな悲しいことが、目の前の人当たりの良さそうな彼に限って無いはずだと思うのだ。

「良いんだよ。3人水入らずで楽しんでなよ」

「まあ、君がそう言うなら無理強いはしないけど……」

 ピンポーン。

 玄関先からインターホンの音が聞こえ、返事をしながら玄関の方へ向かう。

 曇りガラス張りの引き戸を開ければ、ちょこんと佇む一人の女の子。本日の主役である苺音ちゃんがそこに居た。

 いらっしゃい、と小さく笑みを浮かべながら歓迎の声を掛ければ、彼女はこくりと首を縦に振った。

「あれ。杏哉くんは?」

「ケーキを取りに行くと言っていました。だから、先に家に居ろと」

「ええ、何だったら俺も一緒に行ったのにな」

 案外行動派なんだなあの人。

 玄関先で動きを止めていた俺の後ろに、いつの間にか弥生さんはやって来て、俺の肩越しに苺音ちゃんを覗き見た。

「ああ、この子が苺音ちゃんね」

 彼がそうポツリと名を呼べば、突然人が現れたからか、苺音ちゃんはビクリと少し大げさな程に肩を揺らした。少しだけ慌てるようで、少しだけ困惑しているようで、少しだけわたわたと手を動かしている。最終的に、少し怯えた様に瞳を揺らして、俺のズボンの裾を小さな手で掴んできた。

「……ほら見ろ」

 弥生さんが再度、俺のことをジトリと睨んできた。こうも事実を目にしてしまえば、上手く庇う事も出来なかった。小さく苦笑いを浮かべながら、彼女は人見知りだからと精一杯のフォローをした。

「それにほら、君がデカいってのも……」

「大して変わらんから」

 どす、と背中に軽く拳を叩きこまれてしまった。小さく謝っていると、彼は溜息を吐きながら俺の隣をすり抜けて、苺音ちゃんを見下ろす。

 彼女は少しだけ怯えつつも彼をじっと見上げていて、弥生さんは小さく笑みを浮かべてしゃがみ込んだ。少しだけ驚いている苺音ちゃんの耳元に手を添えて、こそこそと何かを喋る。

 何を言われたのかなんて、俺には分からない。聴覚がずば抜けていいわけでもないし、読唇術が使えるわけでもないし。ただ、少女の顔が少しだけ目を開いているのを見て、止めようという意思が沸いてきたのは事実だ。

 弥生さんの名を呼んで、肩を掴んで離そうとする瞬間に、彼は立ち上がって彼女から離れた。伸ばした手は彼とぶつかりそうになり、慌てて引っ込める。

「それじゃあ、程々の時間になったら帰るな~」

「ちょっと、弥生さん!」

 手をひらひらと振りながら、彼は少しだけ楽しそうに軽い足取りで家を出て行ってしまった。あの人、俺の案内人なんだよな? 自由が過ぎないか?

 今度は俺が彼の背中をじとりと眺めてから、ああそうだと苺音ちゃんの方に目を向ける。

 彼女は、いつのまにか、いつも通りのすまし顔に戻っていた。

「……何か言われた?」

「いえ、大丈夫です」

 真っ直ぐと真剣な表情で言われてしまえば、深く問い詰めるのも難しい。そもそも、そんな権利など、俺には無いのだ。俺は彼女の親でもないんだから。

 少しだけ苦笑いを浮かべてから、彼女を家の中に通して、ローテーブルの置いてあるリビングへ彼女を案内する。

「先にお茶でも用意しておこうか」

 俺が用意しようとキッチンの方へ足を進めれば、彼女は俺の後をついてくる。彼女の足音は軽い物で、大人の後をついてくる姿は、なんだかカルガモの親子を思い出させた。

「苺音ちゃんはほうじ茶で良い?」

 ティーポットとマグカップと、至って普通なほうじ茶のお茶っぱ。この器は、どう考えても日本茶には似つかわしくないと思う。いい加減紅茶を買うべきかもしれない。

 それでも、苺音ちゃんは文句の一つも言わない。彼女が良い子なのか、単純に自分の意見を口に出せないのか。両方かもな、という考えが過って、種類の無さに改めて悔いた。

「苺音ちゃんは、誕生日に何かプレゼントを貰うのかな?」

「はい。パパに、本を買ってもらうつもりです」

「本ですか」

 彼女の返答に、やっぱりな、という考えを持ったのが正直な気持ちだ。

 彼女の口から、新作のゲームを買ってもらう、キラキラと輝く魔法少女などのおもちゃを買ってもらう、という言葉が飛び出すのは、想像が出来なかった。

 本が欲しい、というねだりを、杏哉くんは多少なりとも悩んでいるのかもしれない。あの子は本を読まないみたいだし、彼女のねだるものの価値がよく分からないのかもしれない。何だかんだ言って、買ってあげるのだろうが。

 俺が彼女くらいの歳の時、何を親にねだっていたんだろうなあ。

「おじさんは何が好きですか?」

「ん? 何がって?」

「本です」

「本かあ……」

 んー……と小さく悩む声を零す。好きな本といっても、ジャンルごとに話は変わるだろう。それに現在進行形で記憶の無い俺だ。記憶のあった頃はどういう本が好きだったのか、全く分からない。彼女と同年代の頃に好きだった本も思い出せない。

 現在進行形で、好きな物でも良いのだろうか。だが、彼女の年齢に合うような本は、読んでいない気がする。

 んー、うーん、なんて悩みの声を零しながら、ケトルに水を入れていく。

「最近は、手軽だから漫画を読んでるかな」

 我が家には、本屋もびっくりな程に沢山の本が並んでいる。知識の海に飛び込んで、どれから手を出せばいいのか、俺にはよく分からなかったから、取りあえず手に取ったのは漫画本だった。

 表紙がシンプルな文庫本も、何冊かは読み終えている。なんせ、期間はあるとはいえ、時間だけはたっぷりあるので。

「苺音ちゃんは漫画は読まない?」

「あんまり、そういうのは」

「絵より文字のほうが好きなのかな」

 彼は少し時間をおいてから「うん」と小さく言った。四割くらいは本心だろう。

 ケトルの中から、コトコトと音がし始めた。水がお湯に変わろうと準備しているのかもしれない。

「苺音ちゃんは沢山本を読んでるもんなあ」

 今度、俺の方こそおすすめを教えてもらおうか。

 ふと考えていれば、小さな手が服の裾を掴んだ。どうかしたのかと、少女と顔を見合わせようとするが、彼女は顔を伏せていて表情が読めない。そのまま、密やかに告げられる。

「あの。できれば怒らないで聞いてほしいんです」

 重要なことを言いたいらしい。何かに怯えているようにも見える少女を見下ろした。

 真剣に、何かを伝えようとして来る彼女のつむじに目を向けてから、しゃがみ込んで、彼女と視線の高さを合わせる。

 彼女はそれでも、俺と目は合わなかったし、ずっと俺の服の裾から手を離さなかった。

「ずっと言えなかったの」

「うん」

 少女の頬にまつ毛の影が落ちていた。子どもとは思えない陰鬱と冷静の面持ち。

「本当はね。何書いてあるのかちょっとわかんないの。いつも持ってる本……」

 苺音ちゃんは心苦しそうにそう告げた。下を向き、俺の服を掴んでいる手は反対の手で、自身のスカートをぎゅうと握りしめていた。言葉遣いも、いつもの大人びたような口調ではなく、年相応の、幼い少女がぽつりぽつりと囁く。不安の渦中でひとり佇んでいるように見えた。

 努めて柔らかな声をかける。

「そうなんだ」

「嘘、いったのに。怒んないの」

「なにか理由があるんじゃないかな?」

 子供が素直になれないなんて、そんなの誰もが知っている。子供は時に素直に真っ直ぐで、時にうそつきだ。そうした生き様が、許されている存在だ。俺が怒る理由など、見つからなかった。

 だが、そのときはじめて、彼女の泣きそうな顔を見た。大きく安堵の息を吐き、安心のせいか頬が薄紅に火照っていた。見開きの大きい目に涙がいっぱい溜まっている。

「本を開いているとね、本が助けてくれる。一人でもさみしくないの」

 声が震えている。

「おじさんは学校好き?」

 彼と同じ歳の「おじさん」に聞かれている。だが、生憎、俺には記憶が無い。

 俺は彼女と同い年の頃、学校はどうだっただろうか。好きだったんだろうか。楽しく毎日を過ごしていたんだろうか。

「……どうだったかな」

「私、学校きらいなの」

 嫌いというより憎いという感情が見えた。

「前へならえをしたときに、私だけがはみ出てるような気がする」

「苺音ちゃんが?」

「うん。私だけが」

 この世に生まれて10年も経っていない、たった一桁代の子の言うことだが、どうにも笑い飛ばせない。むしろ人生初心者ゆえに、些細な事でも感じ取り、異様なもの扱いが鋭く刺さったのかもしれない。彼女の繊細な心は、乱雑に放り出されてしまった。彼女の切々とした声を聞いていると、そんな風にさえ思えるのだった。

「私、おかあさんが居ないの」

「……うん」

 どこか、察していた。

 彼女の言葉を聞いて、俺は真っ直ぐと返事をする。

 毎日のように、彼女は父親である杏哉くんと一緒に来る。彼女は、一度も母親と来ることは無かった。

 一度も、その存在についての話を聞いたことが無かった。彼女くらいの歳の子が、一度も母親の話題を出さないのは、話したくない事だからなんじゃないかと、どこかで悟っていたのだ。

「普通はおかあさんおとうさん両方居るのに、苺音ちゃんは居ないんだって」

「うん」

「普通じゃないって。かわいそうって。皆が言うの」

 服を掴む手に、力がこもった。

 結婚は、他人同士で行うものだ。夫婦がたとえ離婚したとしても、二人に血は繋がっておらず、ただの他人に戻るだけ。

 だが、夫婦の間に生まれた子供は違う。嫌でも、どうしても、あらがえない血の繋がりが存在してしまう。その繋がりは、一生消えない。

 だから当たり前だと思ってしまうのだ。大切にされ、そばに居るのだと、他人になることは無いのだと。信じてしまうのだ。

 子どもというものはどうしてだか、己の認識の範囲外にあるものを悪とし排除したがる傾向がある。

 彼女の周りでは、両親が居るのが当たり前の世界であり、彼女の父親のみという世界は、同じ世界ではないのだろう。

「私は、かわいそうじゃないもん。パパがいて、おばあちゃんおじいちゃんがいて、みんな大好きで、一緒だよ。かわいそうじゃない」

「うん」

「だけど、私だけ前へならいで真っ直ぐに腕を伸ばせてないの」

「うん」

「おかあさんにも、普通じゃないって言われた」

「おかあさんが?」

「パパに言ってたのを聞いたの。扱いにくいとか、生きにくい子って言ってるのを聞いたの」

 苺音ちゃんはそう言って、とうとう泣きだしてしまった。声をあげてもいいのに息さえ殺すように涙を流す。いいもいやだも好きも嫌いも、きっとその言葉を聞くまでは簡単に言えていたはずだったのだ。

 ハンカチを出して涙を拭っていく。大粒の涙はひとつひとつが重い。少女はされるがまま、殺しきれない嗚咽の中で時折「おじさん」と呼んでくる。そのたびに無力な大人は「うん」「はい」と返事をした。

「毎日怖くて、もらった本を持っていったんだよ。大きくなったら読んでねって、もらった本。その本を開くとね、私を守ってくれるの。読めなくても、開いてるだけで、周りの人から守ってくれるの」

 難しい題材を元にした、文字が沢山敷き詰められた分厚いハードカバーの本。いつだって大切に、身を守る様にして抱えていた本は、まさしく彼女の防具だったのだろう。

 防具を手放して、無防備になって、鼻水を垂らしてひっそり泣いている少女が、立ちすくんでいる。

「そうしたら、学校、行きたくなくなっちゃった」

「うん」

「おじさん。私は間違ってるの」

「間違っていないよ」

 彼女の問いかけに、俺は即座に否定した。間をあけてはいけないと思ったのだ。時間をかけて返事をすれば、それだけ彼女を傷つけるのだと、すぐに察したから。

 シュウシュウ、とケトルが鳴き始める。白い湯気がもくもくと上がってきた。

「俺が読んだ本にね、書いてあったんだ。自分が楽に生きられる場所を求めたからと言って、後ろめたく思う必要はないって」

「どういうこと?」

「そうだなあ。魚が砂浜に置かれて、魚が『苦しい、息が出来ない、辛いから海に住みたい!』って言って、苺音ちゃんは魚が悪いと思う?」

「ううん。魚は海に住んでいいと思う」

「そうだよね。そういうことだよ。苺音ちゃんもね、望む場所を選んでもね、悪くないんだよ」

 ぱちくり、と苺音ちゃんが瞬きをした。その表情を見て、くすりと小さく笑みがこぼれた。

 他人である俺が言っていいことなどそうない。ただ、この少女が、いつか自分のペースで呼吸できたらいい。

「おかあさんの言葉を聞いて、悲しかった?」

「……うん。でも、おかあさんが言うんだからそうなんだって。仕方ないって。認めざるを、えなかった」

 最後に無理矢理に取って付けたような難しい言葉。必要ないのに、どこかでその言葉を見つけて、そうして自分で悲しい気持ちを抑え込んだのだろう。こんなに幼い少女には、重くてしんどい荷物を、抱え込ませてしまったのだろう。

「お父さん、杏哉くんはそう言ってた?」

 俺がそう問いかければ、彼女はふるふると首を横に振った。

「苺音ちゃん。事実というものは存在しない、存在するのは解釈だけだよ」

「解釈?」

「ニーチェっていう人の言葉」

 ほう、と彼女は小さく声を零した。

「解釈って分かる?」

「ううん……よくわからない」

「解釈は、事の意味を、受け手の側から理解することを言うよ」

「ほう」

「苺音ちゃんの家庭に関すること、苺音ちゃんに関すること、色々な事を言う人がこれからもいるかもしれない。でも、それはその人達の解釈であり、正しい答えでは無い。苺音ちゃんがどう思うかは、苺音ちゃんが決めればいい」

 貴方はこうだよね、という解釈を向けられる。けれど、私はそうは思わないという解釈を持っている。いくつかの解釈が現れた時、どの解釈を選ぶかはその人の自由だ。

 ぽかん、とした表情のまま彼女は俺の顔を見る。

「お母さんはそう言ったけれど、お父さんは言わなかった。お父さんの方が嬉しかった。だったら、お父さんの解釈を選べばいい」

「選んでいいの?」

「勿論。だけど、俺は少し、厳しいことを言うかもしれないけれど……この世は、努力が全て報われるわけではない」

 努力すれば夢は叶う、というのは、現実的ではない。

 そうしたら、きっと、この世界にケーキ屋さんは今の数百倍も居て、ノーベル化学賞を得られた人が山ほど居て、皆が幸せになっているのかもしれない。

 だけど、現実はそうじゃない。

 きっと、彼女がいくら努力しても、自分の解釈を述べても理解してくれない人はいるだろう。苦しい思いはするだろう。

「かと言って、努力が全て無駄って訳じゃない。努力をしないと得られない物も、存在するんだよ」

 彼女の年齢からすれば、難しい話となっただろう。だけど、彼女には、俺の気持ちや考え、解釈を素直に伝えないといけないと、そう思わせた。

「だから、色々なものを、選べるようになれるといいね」

 両頬をそれぞれ手で覆って、むにむにと揉む。うむ、とか小さく声を零しながらも、彼女の表情から曇り模様はどんどんと消えていくようだった。

「苺音ちゃん。友情は義務じゃないよ。もっと軽い気持ちで、急がないで良いんだよ」

 お母さんの居ない家、お父さんの居ない家。そう言った家庭事情は、今ではそんなに珍しいことでもないだろう。それでも、一般よりは多いとは言えない。そんな中、異端だと解釈をする人だって存在するだろう。けれど、そんなのを全く気にしないような子だって、彼女の前に現れるかもしれない。彼女自身を、好んでくれる人だって現れるはずだ。

 それはどこで出会えるかは分からない。どこかに行けば誰かいる。そんな世界なのだ。

 彼女が必死になってひとつ順応できたとしても、また新たな項目が現れてしまうだろう。そんな徒労に苛まれる前に、何も聞こえない場所まで、息のできる場所まで行けたらいい。

 切実に、そう願いうのだ。

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