巡る風

紫乃森統子

第一陣 (1)



 あの人を、守りたい。

 この土地を。

 あの人の愛する、この豊かな城下を。

 願う事は、それ以外にあるはずもなく。

 けれど、そうと誓う度に感じる、矢で射抜かれたような痛みを、拭い去ってしまう事はできない。

 春もすぐそこにまで足音を立て始めているというのに、日差しは日毎に暖かになってゆくのに。

 まだ、染み入るような寒風に晒されているようで、銃太郎は俄かに目を細めた。

 北条谷ほうじょうだにの奥にあるこの道場からは、微かに城山の頂に聳える本城の石垣さえ見えない。

 深い木々に遮られ、暗緑色の山に阻まれた、この場所からは。

 その障害が、まさに、今己とあの人とを隔てる砦のようにすら感じる。

 叶うはずもない。

 否、叶うならばと思う事こそが過ち。

 賤しくも、一国の姫君へと馳せた想い。

 それは銃太郎にとって、生涯に初めて知る、淡い胸の高鳴りであった。


   ***


 時は慶応四年。

 この正月に、京の都では鳥羽伏見において徳川幕府と、西国は薩摩・長州を中心とした勢力とが、ついに戦端を開いた。

 奥州の南、この二本松藩でさえも、その戦の危機に揺らいでいる。

 藩命によって江戸へ西洋流砲術を学びに出ていた銃太郎も、開戦と前後して国許へと呼び戻されることになったのだった。

 そうして、まだ雪も残るあの日。

 あの人と出逢った。

 しゃんと背筋を伸ばし、温和な笑みで、登城した銃太郎を迎えてくれた。

 華奢な体の芯をぴんと一本張り詰めた、不思議な強さを思わせる女性。

 藩から申し渡された、砲術師範の役目を心して果たせ、と。

 あの人は、そう言って眼差しを強くしていた。

 けれど、ふとすると、綻び始めた早春の桜の蕾のような危うさに目を奪われる。

 今、この時に花開こうとする桜の木々が、その象徴のように思えた。

 時折北からの冬の名残が吹きつけ、その枝を揺らす度に、尚一層に銃太郎の心をも揺さぶった。


   ***


「若先生っ! なーにしてんすか? そんな薄着で、見てるこっちが寒くなるじゃないですか」

 住み慣れた木村家の母屋と、その道場を巡らす冠木門を潜る旧知の姿が目に飛び込んだ。

 青山助之丞すけのじょう

 彼もまた、二本松藩士の一人。

 銃太郎よりは一つ年下になるが、極めて親しい間柄である。

 まだ春の芽吹きも早い頃に似つかわしく、青山は袷羽織姿でひょっこりとやって来たのだった。

「風邪引いても知りませんよー?」

「私がそう簡単に風邪など引くものか。お前こそ、この程度で袷など着ているようでは、まだまだ軟弱だな」

 にまにまとからかうような笑みで言う青山に、銃太郎は負けじと揶揄で以て返す。

 が、この男、そういう類の軟な刺は気にかける素振りすら見せず、辺りを忙しなく見渡し始める。

「あれ? 今日は瑠璃姫来ない日でしたっけ?」

「瑠璃は三日に一度、ここへ顔を出すことになっている。次に来るのは明日だ」

 残念だったな、と付け足せば、青山はまた更に意地の悪い笑顔で振り返った。

「えー? 残念だと思ってんのは、若先生じゃないんですか?」

「ば……っ!! お前、そんな下らないことでからかうんじゃないっ!」

「あらあら、顔が赤いっすよ?」

「いい加減にしろ。ほら、用があって来たんだろう? 早く中へ入ったらどうだ」

 青山の言うように、自分でも少々頬が熱くなっているのが分かる。

 それはきっと青山にも丸分かりで、誤魔化しようもないのだろうが、一先ずこの場をやり過ごす為にと母屋へ促した。

 その背をやや強引に押しながら、青山の声が留まりそうにない揶揄を繰り出す。

「何言ってんすか、俺も一応、瑠璃姫と遊ぶために来たんですよ?」

「お前はそうでも、瑠璃はここへ遊びに来るわけじゃないんだぞ!?」

 遊びに来ているわけではない。

 けれど、単なる視察でもない。

 実際に、この国の姫君である瑠璃は、自ら願って銃太郎の門下に入り、塾へ来るのは勿論、砲術を学ぶためである。

 女子が、それも姫君が。

 身の丈ほどもある銃身を抱えている様は、想像しただけでも思わず目を覆いたくなるものだろう。

 特に姫君の父である藩主や、その側近たちから見れば。

 銃太郎も、初めこそは乗り気でなかった入門だが、今となっては四の五のと言ってはいられない。

 門下生として迎え入れた以上、師としての務めは果たさねばならない。

「瑠璃姫が来ないんだったら、俺帰ろっかなぁ」

「はあ!? お前、いつも瑠璃が目当てでここに来てるのか!? 馬鹿も休み休み言え!」

 まだ十七という若さのその姫君は、家中からも慕われている。

 こうして、一介の臣に過ぎない青山などでも、随分と親しくしている様子だ。

 勿論、塾に在籍する他の門弟たちとも気安い間柄になりつつある。

 そして、無論。

 銃太郎自身にも、飾らぬ態度で接し、時に他愛もなく談笑してゆくことさえある。

 そういう瑠璃が皆に慕われるのは、極自然なことだ。

 と、そう納得はしている。

「あ、若先生、もしかして」

「な、何だ?」

「俺と瑠璃姫が仲良いの、やっかんでないですか?」

 にまり、と得意顔の青山に、銃太郎は若干眉を顰めた。

「べ、別に、そんなことはない」

「ふうん」

 敷居の手前で立ち止まり、じっと窺う青山は、何か物言いたげである。

「そんなら、別にいいんですけどね~」

 そう言いながら、非常に奥歯に物が挟まったような口調だ。

「青山、一つ、訊いてもいいか」

「何でしょう?」

 もしかしたら。

 青山は、自分と同じに瑠璃を慕っているのではないか。

 当然、それは単なる親しみとは違った、思慕を指して。

 銃太郎が江戸から帰る、それよりも前から、青山は瑠璃と親しくしていた様子が見える。

 そうすると、もし青山が瑠璃を好いていたとして、何の不思議もない。

 が。

 問いを喉許までで詰まらせて、結局尋ねることが出来なかった。

「……何でもない」

「いやぁ、そういうのって、余計気になりますね」

「気にしなくていい!」

 そうして再び、青山の背中を屋内へと押し入れた。

 それと同時に。

「銃太郎殿っ! 今日はまた寒いなぁ!」

 背後に、その人の声が銃太郎の名を呼んだ。

 春先の冷たく澄んだ空気に響く、鈴の鳴るような声。

 今日は、来る予定の日ではないはずなのに。

 咄嗟に振り返れば、やはり門を潜ってきたのは瑠璃だった。

「瑠璃、今日は来ないはずでは……」

「ああ、いいのいいの、どうせ城にいても、詰まらないし! ……って、助之丞も来てたんだ!」

 にっこりと爽やかな微笑みで軽く笑うと、瑠璃は青山の姿に目を留め、同様に気心知れた挨拶を交わす。

 そうして小走りにこちらへ駆け寄ると、瑠璃は率先して母屋の敷居を跨いだ。

「あれぇ? なーんだ、若先生。瑠璃姫来たじゃないですか? そうやって嘘付くのは良くないと思いますけど?」

「ば、馬鹿! これは私が嘘をついたわけじゃないだろう!?」

 瑠璃の気まぐれだ。

「そうそう、私も漸く鳴海なるみの網を掻い潜って来たんだから!」

「相変わらずイイ性格だよなぁ。鳴海様も大変だこりゃ」

 呆れながらも軽快に笑声を上げ、瑠璃の腕を小突く青山。

 二人が何気なくやっていることだとは知っていても、こういう光景を目の当たりにする度に、胸に鉛のように重いものが溜まる。

 本来、こんな遣り取りは無礼にあたる。

 それでも、瑠璃は何も言わないし、寧ろそれを歓迎している風もある。

 青山も青山で、相手が姫君だと意識しているのかいないのか、自然な振る舞いだ。

 それだけ、仲が良いのだろう。

 青山のような真似は、とても出来ないと思った。

 少なくとも、瑠璃にとって銃太郎は砲術の師であり、単に臣下であり、その上に会って日も浅い。

 だからなのか。

 その身に触れることさえ、躊躇われて仕方がないのだ。

 ただ目の前に姿を見ることすら、過分だと思うのに。

 それとも、そんな風に考えてしまう己が、生真面目に過ぎるだけなのだろうか。

「銃太郎殿、今日も塾はあるんでしょう? だったら私も参加させて欲しい」

 青山の袂をその手で引っ張りながら、不意にこちらを向いた瑠璃。

「だ、だが……大谷殿がすぐに迎えに来るんじゃないのか?」

「大丈夫じゃ。来たら追い払ってくれる!」

 瑠璃の側近、大谷おおや鳴海といえば、銃太郎にとっては天敵のようなものだった。


 

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