5-2 奇妙な尼僧の奇妙な行動
◆
僧侶と尼僧は教会に併設の寮で生活する。男子寮と女子寮に分かれているけれど、寮とは名前だけの、二階建ての建物である。二棟、そっくりの外観をしている。どちらも古い建物で、男子寮は一部屋に三人とか四人が生活するようだけど、女子は一部屋に二人が生活する程度に、余裕がある。
私の同室は、セラだった。
本当の同室は別の尼僧だったのだけど、つい数ヶ月前、逃げ出してしまった。
元からどこかの軍人の家庭のもので、遊び癖を直すために僧侶として教会に入ったのだ、と彼女は私に話していた。両親の強い希望で、ほとんど命令だったとも。
実は恋人がいて結婚する約束があるんだけど、両親はきっと許さないと思うのよ。
ある時にはその女性は、あっけらかんと言ったものだ。
私が「尼僧をしていたんじゃ、結婚は無理ね」と冗談を向けてみると、本当に、と彼女は真剣な顔で頷いていた。そして逃げてしまった。私としては彼女が両親から自由になって、好きな男性と再会し、二人で生きていって欲しいと思っている。
それは何も事情も知らず、関係ない部外者の、身勝手な願望とはわかっているけれど、誰もに幸せになる権利はあるはずだった。
セラを見ていると、そのことをよく思い出す。
彼女は今、風呂上がりで濡れている髪の毛をタオルで拭っていた。
彼女は短い髪の毛をしているから、すぐに乾くだろう。
「その傷跡はどうしたの?」
ふと目についたのは、彼女の手首の少し上にある痕跡だった。
刃物で切ったような痕に見えた。
セラが手を止め、私の方を見る。瞳はやっぱり、どこまでも深い、飲み込まれそうな光り方をしていた。
「その左手首」
私が自分の寝台に腰掛けたまま指さすと、セラがその指さす所を目で追い、小さな声で答えた。
「仕事で怪我をした」
仕事?
刃物を使う仕事というのは、なんだろう。農作業か何かだろうか。
そもそも一週間の間、よく顔を合わせているのに、セラがどこから来たのか、元は何をしていたのか、家族はいるのかなど、何も知らない。
ユリアス司教が連れてきたのだけど、そのことで逆にセラは訳ありだと思って、放っておいたのだ。
でもよく考えれば、ユリアス司教が連れてくる女子というのも珍しい。
「気にしないで」
棒読みそのものの発音でセラがそういったので、これは深入りしちゃいけないな、と私は判断した。生きていれば隠したいこと、知られたくないことは色々とあるだろう。
それは老人だろうと子どもだろうと、同じ。男も女も関係ない。
「じゃ、聖句の練習でもしましょうか」
セラが返事をしてくれたから嬉しくなってしまったようだ、柄にもなく誘ってみたが、セラはただ黙って首を左右に振るだけだった。
明かりを消す時間になり、私は私の寝台で、セラはセラの寝台で横になった。
暗くなるとすぐ眠れるのは私の特技と言える。大抵の物音にも目を覚ますことはない。
だけどトイレは別だった。
ふと目が覚め、起き上がったとき、視線が自然とセラの方を向いた。
どんな可愛い寝顔をしているのかな、という好奇心もあったけど、何か違和感があったのだ。
布団がめくれている。
つまり、寝台はもぬけの殻だ。
参ったな……、どうしたらいいだろう。
消灯時間が決められ、それ以降は極力、寝台の上で過ごすのが暗黙の了解だ。セラがトイレに行っただけならいいのだけど、と私はしばらく待ってみたが、彼女は帰ってこない。
これはいよいよ、覚悟を決めよう。
その前にトイレ。
私が部屋を出ると、廊下はしんと静まり返っていた。人気はない。窓ガラスを通して月明かりが幻想的な光景を作っていた。
トイレに行ったものの、やっぱりセラはいなかった。
部屋へ戻りながら、どこへ行ったのか、見当をつけようとしたけど、何もわからない。
もしかして、逃げた? 脱走?
さすがに同室の尼僧が連続して脱走すると、私としては体面が悪い。評価も悪くなりそうだ。
その音が聞こえたとき、反射的に振り返っていた。
軋む音、扉が軋む音だ。
この建物は古すぎて、どこの扉も必ずと言っていいほど音を立てる。
中でも、一番大きな音を立てるのが玄関だった。
恐怖が半分、セラがいるのではないか、という好奇心、もしくは責任感が半分で、私は廊下を静かに進んだ。足音を立てるといけないような気がしたのだ。
自分の存在を知られると良くないことが起こるのではないか、と思ったのは何故だろう。
そろりそろりと歩を進める。
廊下を折れた先が玄関で、って、そうか、もし誰かが入ってきたら、私とぶつかるのではないか。
もしセラじゃなかったら?
侵入者だったら?
私は隠れるところもない。
こうなると寝間着の動きづらさが変に意識された。
どうしよう。部屋に戻ったほうがいいかな。
私は混乱から足を止めていて、進むも退くもできない状態に陥っていた。
そしてぬっと、玄関のある方から影が進み出てきた。
「ひっ!」
声が漏れて、それで相手も足を止めた。
止めたが、わずかに腰を下げるようなそぶりをして、すぐにまっすぐに姿勢を整えたのは、見間違いではないだろう。
しかし相手を見て、私は脱力しそうだった。
「せ、セラさん、驚かさないでよ」
立っているのは寝間着ではなく、私服姿のセラだった。まるで喪服みたいな黒地の服で、今はそれがほとんど彼女を闇と同化させていた。
二人が向かい合ったのも少しの時間で、セラがこちらへやってきた。手に何か持っているけど、よく見えない。何か音がするな、と思ったら、彼女が口を動かしている。
私の前まで来ると「いる?」という囁き声と一緒に何かが差し出された。
匂いでまずそれが何か、理解できた。
干し肉だ。保存のために香辛料とか塩とかを使い、煙で燻したりもして、肉を長期保存するのは一般的なやり方である。この教会でもそうして大量の肉を保存しているし、日常的に食事で出てくる。
つまり、セラは夜にこっそり寮を抜け出して、干し肉を盗み出してきたのか。
「あなた、何を考えているんですか」
声をひそめながら、それでも私はできるだけ強い口調で言った。
拗ねたような顔でセラが無言で私の横を通り抜ける。まるで干し肉を拒絶されたことで機嫌を損ねたようだった。
なんなんだ、いったい。
こちらに背中を向けているセラは、全く足音を立てないし、気配も希薄だ。
猫、黒い服を着ているから、黒猫といった印象である。
しかし猫なんて可愛いものでもない気もした。
私はため息を吐いて、セラの背中を追いかけた。廊下に私の足音だけがするので、まるでセラが私の影で、私は自分の影を追っていっているようでもある。
部屋に戻ると、セラは自分のための机の引き出しに干し肉を放り込み、さっさと寝台に横になったけど、私は是非とも、今、この場で説教したかった。
この女の子は実は、ものすごく性根が曲がっているのでは?
ここで私がこんこんと説き伏せてやれば、少しまともな尼僧になるかもしれない。少なくとも二度と、食料品をくすねるために夜に抜け出すなどということをしないように、教育するべきだろう。
「セラさん、お話があります」
暗がりの中で彼女は、あろうことかこちらに背中を向けた。
「起きなさい」
「また今度」
そんな声が背中から発せられ、すぐに寝息に変わってしまった。
怒り心頭というところだが、私はどうにか自分の感情を制御した。
ここは教会で、私は尼僧で、つまり神に仕える身で、決して声を荒げたり、怒りに駆られてはいけなくて……。
私は大げさなため息ひとつに、全てを込めて吐き出した。
自分の寝台に入り、私も眠った。
やっぱりすぐに眠りが私を包み込んでいた。
(続く)
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