4-4 ため息
◆
公爵の屋敷に入ると、背広の男が待ち構えていた。
私は荷物の中から書状を二通、差し出した。男は素早く封が切られていないかを確認し、幾つかの質問を私に向けた。
私が巡り歩いたタバン伯爵領の様子のことが主題で、軍の配置や伯爵を支える文官武官の力関係などにも質問は及んだ。
タバン伯爵領では数え切れないほど歌を歌ったが、その中でも公の会食などに呼ばれて繰り返し歌を歌い、その場で食事や酒での歓待を受けていた。酒席での有力者のやり取りは貴重な情報源である。
二通の書状は、タバン伯爵領の武官からの密書で、いざとなればタバン伯爵を裏切るというようなことが書かれていると、私は想像していた。もちろん、中を見ていないので、実際にはわからない。
謀反が時間の問題なのか、どういう取引があるのか、ということを私が知ってしまうと、それは逆に危険だった。口封じの対象になりかねない。
こうしてキシリアン公爵の密命で歌手として諸国をめぐる密偵をしているだけでも、最後の最後には当のキシリアン公爵家の手によって消される可能性があった。
どこかで逃げ出さなくてはいけない。
その機を見るのは、極めて困難だった。
話が終わったところで、私は背広の男に必要な経費として銭を求めた。護衛に逃げられた話も三人の奇妙な傭兵に護衛してもらった話もすでにしている。
金額はかなりな額だったが、男は平然と頷き、私に待つように言って部屋を出て行った。
待った時間はそれほどでもない。すぐに戻ってきた男は私に小さな袋を押し付けた。断ってから中を確認すると、数枚の金貨が入っている。
これだけあれば自由になれる。
ふいにそんな思いが心に浮かび、消えなくなった。
平静を装い、私は袋の口を縛り、そっと懐へ納めた。
次の指図があるまでベェールの街で待機するようにという命令を受け、礼を言って屋敷を辞した。
屋敷からベェールの街までの道は、両側を畑が埋め尽くしている。夏の盛りで、さまざまな野菜が収穫されている。農夫たちが日に焼かれながら、働いているのを遠くに見かけた。
頭の中では、繰り返し、一つの言葉が鳴り響いていた。
逃げろ。
逃げろ。
逃げてしまえ。
どこでもいい、逃げてしまえ。
振り払おうとしても、どうしてもその一念が消えなかった。
ため息を吐いても、何も吐き出せない。
心の内を一掃するなんて、人間には備わっていない機能なのだ。
どれくらいを歩いたか、不意に目の前に誰かが立ち塞がったので、私は足を止めて顔を上げた。それまで地面だけを見て歩いていたのだ。
目の前に立っている人物の顔を見て、私は血の気が引く思いだった。
そこにいるのは見知った顔、ここ数日、世話になった少年だったのだ。
◆
セラはベェールの街をサリーンと並んで歩いていた。
予定ではこれから庁舎へ行き、そこで歌姫のマリナから報酬としての銭を受け取ることになっていた。
「ランサはうまくやったかな」
サリーンの言葉に、セラは応じなかった。
どちらに転んでも自分には損がない、というのがセラの思うことの第一。
第二は、マリナにはマリナの人生があり、マリナ自身が決断しなければ変わらないことがある、ということだ。
セラもサリーンも、ランサも、手助けはできるし、背中を押すこともできる。その上で足を踏み出すのはどこまで行ってもマリナ自身だった。
ふとセラは自分の過去について思いを巡らせているのに気づいた。
剣を手にすると決めた時、何かが作用しただろうか。
自分ではわからないけれど、元をたどれば、父を失ったことがあったかもしれないし、もっと前に、部族の没落の瞬間に始まっていたのかもしれない。
何かしらが作用したとしても、それが何かはわからないことが世界には無数にある。
では、決断とは何なのだろう。
純粋な自分の意思、自分の欲求なのか。
それとも他者や周囲、環境から受ける影響のひとつに過ぎないのか。
運命、あるいは、宿命と呼ばれるものがあるとすれば、今、自分が考えているものに近いかもしれない。
あの鹿を狩り、山の木を売ってでも生きなければいけない男性も、別のところで生まれれば、別の未来があった。しかし彼はあの地に生を受け、あの地で生きると決めた。
どこまでが手の届かない要素で、どこまでが人の手による選択なのか。
庁舎の建物が見えてきた。石造りの立派なものだ。
「もう来ているみたいね」
囁くようなサリーンの言葉に、私はただ頷いた。
庁舎の前には、ランサが立っている。
しかし、一人だ。
そういうことか。
結論は出たのだ。
私たちを出迎えたランサは、普段よりどこかすっきりとした顔をしている。
問題がひとつ解決して、安心したのだろう。
それでも彼は律儀に説明した。
「マリナはここにはいないし、マリナはここに来ることはない」
「うまく逃げられそう?」
問いかけたのは例によってサリーンで、ランサは即座に強く頷いた。
「それはもちろん。俺たちが受け取るはずだった銭を、全部持って逃げるんだからな」
「どこかにあてはあるようだったの?」
「歌姫として生きるそうだよ。これからは密偵などやめて、歌で生きてみたいそうだ。俺には無理だと思えたが、口出しする問題でもないし」
いずれにせよ、この件はこれで落着だ。セラはもう、マリナのことは忘れることにした。
「私たちも仕事へ戻ろう」
セラの言葉にサリーンが返事をして、離れていく。ランサも頷き返して、背を向けた。
ベェールの街に駐屯するキシリアン公爵軍の様子を調べるのが仕事だった。
元々からしてタバン伯爵領のフィリアにいたのは、タバン伯爵家のから依頼で、キシリアン公爵領への侵攻の糸口を探して欲しい、という仕事を受けたからだった。
休暇ではないのだ。
この依頼をガ・ウェイン傭兵社は形の上では拒否し、しかし秘密裏に動き始めた。ここでタバン伯爵家に便宜を図ると、キシリアン公爵家との間で困難が発生するが、公にしなければどう動いてもいい、という理屈である。
ある種の秘密任務だったが、セラたちは自然とこうしてベェールまでの道筋を確認できたし、マリナの存在を隠れ蓑にして、怪しまれずに街で動ける。露骨な行動を取らなければ、セラたち三人は銭を回収するためにマリナを探しているようにしか見えないはずだ。
この立場が、場合によってはベェールの警ら隊などと接触するきっかけにもなる。
うまくいけばマリナから受け取るはずだった銭よりも貴重な情報が手に入るのだから、マリナも得をしたが、セラたちとしても十分な利があるのだった。
街を歩きながら、セラが考えたのは、マリナが歌っていた歌の歌詞だった。
断片的にしか思い出せないが、決して悪い歌ではなかった。
歌に興味を持つ自分を発見したことに驚き、しかしそれは心の内に秘めたまま、セラは思考をもう一度、今度はしっかりと切り替えた。
仕事だ。
(第四部 了)
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