第二部 女傭兵の誕生

2-1 在りし日の光景

     ◆


 どうっと体が地面に落ち、次に私は跳ね起きていた。

 訓練用の棒を構え直す。

 左肩に痛みの中心があり、指先まで痺れている。

 でもまだ戦える。

 前に立つ老人の目つきには強烈な気が宿り、目をそらしたくなる。

 目をそらせば負けだ。

 負けとは死だった。

 声を発して飛び込む。棒が空を切り、体が泳ぐところで足を払われた。

 倒れこむのも訓練のうち。少しでも早く起き上がれば、次に備えられる。

 地面を転がる私をかすめて棒が地面を叩き、先端が翻ると起き上がろうとした私の胸の中心に狙いすまして衝突した。

 息が止まる。

 受身も取れず背中から地面に落ち、胸の中から息がいっぺんに吐き出される。

 くらくらした。

 目の前には青空があるのに、白い雲がグニャグニャと歪んで見えていた。

 涙が溢れている。

「この程度か」

 しわがれた老人の声。

 まだです、と応じる私の声は、頼りなく掠れていた。

 起き上がり、棒を構え直す。

 老人は待ち構えていた。

 二人が衝突し、やっぱり私が弾き飛ばされる。老人の足腰は強靭で、微動だにしない。常に体は安定し、どんな姿勢になっても、どんな力が加わっても、腰がピタリと同じ位置を動かないのだ。

 どれくらい続けたか、老人がすっと身を引いた。

「これまでだ、セラ。休め」

 なんでもない言葉、ただの言葉のはずだ。

 なのにどうしてだろう、ふいに手に持っている棒が木ではなく鉛でできているような重さに変わった。全身がまるで地面に吸い寄せられているような錯覚。

 息を吐いた途端、体のそこここに鋭い痛みが走り、自然、棒を取り落とし、膝をついていた。

 空気を求めるように喘ぎながら、座ることもできず、仰向けに野原に倒れこんだ。

 胸を激しく上下させて、とにかく、息を吸う。それさえもぎこちなくしかできない。

 長い間、空を見ていると、視界に一つの顔が入ってきた。

 まだ幼さが残る少女の顔だ。

「また倒れるまでやっているの? セラ」

 幼馴染のサリーンが呆れたように言いながら、こちらにタオルを放り投げてきた。手で受け止めるのに失敗して、布が私の顔に落ちる。上体を起こしながら、タオルで顔の汗をぬぐった。

「やりすぎは良くないんじゃない? はい、これ、水」

 水筒が差し出されて、礼を言って受け取った後は、我慢できずに最後の一滴までいっぺんに飲んでいた。

 やっと一息つけた。

「これくらいやらないと、何が起こるかわからないし」

 私が言葉と一緒に空の水筒を渡すと、サリーンがちょっと顔をしかめた。

「何が起こるかって、この集落が襲撃を受けるってこと?」

「それもあるかも、って思わない?」

 どうかなぁ、とサリーンは半信半疑の様子だ。

 クエリスタ王国が内紛からの内乱により事実上分裂したのは、ほんの数年前のことだ。

 私たちの部族は、クエリスタ王国による天下統一の度重なる戦闘の中で、滅ぼされた国の流れを引いているというが、それはもう影も形もない、伝承だと私は思っている。王族などは当然のように処刑されたようだから、王家の血筋は途絶えているけれど部族の老人たちは、当時の国を今も頭の片隅に置いて私たちに語り継いでいた。

 その今はない国の存亡の戦で大勢の男たちが戦場に立ち、結果、大半が散っていったのがおおよそ三十年前。三十年の時は長いとは言えないが、短いとも言えない。部族はとりあえずの戦力となる男手を回復しつつあった。

 ただ、クエリスタ王国の内乱により、男性の半数は戦場へ駆り出され、戻ってきたのはほんの少しである。

 今、どこの国でも、武装勢力でも、戦力が一人でも欲しいというのが実情だろう。

 四分五裂の国家の残骸は、一朝一夕に再統一されることはないだろうし、当分は武力によって守り、武力によって奪う、そういう時代になるはずだ。

 これは私のような子供でもわかる。

 女の私にできることがどれだけあるかはわからないけど。

 でも、棒は振れる。弓も引ける。馬にも乗れる。

 それはつまり、戦えるということだ。

「サリーンだって稽古をつけてもらった方がいいんじゃない?」

「父さんが許せばね」

 どこか突き放すような発音だったので、私は深追いをやめた。

 私の父は、戦場へ行ったきり、帰ってこなかった男の一人だ。死んだという話を戻ってきたものがしたけれど、証拠はない。もしかしたらどこかで生きていて、奴隷でもしているかもしれない、と思うことはあった。

 何を思ってもいい。それは個人の勝手だ。

 母は既に父のことは諦め、それどころか、何もかもを放り出しつつある。農作業をし、裁縫をし、毎日の料理をして、洗濯もする。だけどどこか気力がなく、言葉数も少なく、黙々と体を動かす様は、私にはどこか人形のように見えることがあった。

 だから私には、サリーンのような障害はない。

 自由に生きてもいい、とここのところは自分に言い聞かせていた。

 呼吸も整ったし、力も戻った。

 私が勢い良く立ち上がると、サリーンもやれやれといったように遅れて立ち上がる。

 サリーンは剣の稽古はしないけど、馬術の稽古は許可されている。あまり安全な職業ではないけれど、馬を使った通信網がとりあえずは維持されているために、優秀な馬の乗り手は、伝令のような形で立派な職業といえる。これもまた戦力と同様、求められるところが多い存在だった。

 その日は日が暮れかかるまで、部族の少年少女と馬を乗り回した。

 私たちの源流である国は、遊牧民族の流れを汲み、各地を放浪し、牧畜などで生計を立てていたという。もっとも、見えないところ、知られないところでだいぶ悪いこともしたようだが。

 結局はクエリスタ王国に滅ぼされ、遊牧などということは許されず、形だけの位と狭い領地を与えられた。それも敵対した国の生き残りであるため、辺境の中の辺境で、大した産物もない土地に封じ込まれた形だった。

 馬は少しずつ数を増やし、商品として出荷されることもある。馬からの収入はこの部族の主収入でもある。仔馬を売ることもあれば、すぐに農作業などに使える馬を売ることもある。

 私は馬術では、同世代の子どもたちの誰にも負けない。体が小さいせいもあるだろうけど、疾駆させれば誰も追いつけず、両太腿で馬体を締め付けることで自由自在に馬を操れる。

 もっとも、サリーンもなかなかうまい。他では少年であるランサもうまいといえる。私は実はランサを意識していて、それは恋慕などではなく、彼は弓が得意なのだという部分である。

 馬に乗ったまま射る騎射では、どうやっても私は彼に太刀打ちできなかった。

 地面に立っていれば互角なんだけれど。

 ランサはいわば、好敵手なのだ。

 日が落ちる前に集落に戻り、夕食を作る匂いが集落には漂っていた。

 サリーンと別れて家に入ると、麦の粥が煮える濃い匂いがした。少しだけ肉の匂いも混ざっているようだ。

 母は私が家に入ると視線こそ向けるが「お帰りなさい」とも言わず、かすかに笑みを見せただけだった。

「ただいま」

 私はとりあえず、そう言葉にしてみたけれど、母は頷くだけで、やっぱり言葉を発さなかった。

 こんなことじゃいけない。

 正体不明の何かが私の中でそう唱えている。

 こんなことじゃいけない。

 私は鍋がかけられている炉のそばへ行き、母の横に立った。

 そして返事がないのを知りながら、今日あったことを話し始めた。

 十三歳の私は、こういう平凡な、だけど貴重な日常の中にいた。




(続く)

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