第138話(前編) レヴェリア三頭会談、或いは英雄の死。またの名をパノプティコンの歯車


 想像したことがあるだろうか?


 人の身を遥かに超す鈍色の巨人が群れを為して、街の空を裂いて飛来する光景を。

 遠目で見れば跳ねる蜘蛛や飛蝗のような動きで、灰色のビルを足蹴に接近する様を。

 その殺到を。


 ああ――――群れなのだ。群れなのだ。


 大剣を振るう神話の巨人ではない。

 悠長に地を這う岩人形ではない。

 雷火の如き砲炎を上げる重火器を手に、一つの群体のように流れ蠢く彼らは神話よりなお恐ろしい。

 見下ろす窓の下、己たちが立つ床の鉄筋コンクリートを頼りなく思うのは初めてだった。

 その時――初めてこのビジネスビルに務めていて、自分が地面に居ないのだと、空中に足場を立ててそこにいるのだと、つまりは落ちれば――崩されれば命はないのだと知った。


 運良く、窓から見下ろす自分のちっぽけな姿が見付からなくても。

 この建物を邪魔だと思われてしまえば、きっと蟻に群がられた木の葉よりも容易く千切り落とされる。

 その時が、最後だ。



 アーセナル・コマンド。

 強襲猟兵。


 それは、論ずるまでもない根源的な恐怖感――巨大さへの恐怖を煽る存在だ。

 作成者が意図していたのか、否か。

 しかし、戦闘機よりも緩やかに――――しかし戦車よりも立体的かつ大胆に。


 視界を飛び回り、その暴と威を伝えてくる存在は他に居ない。

 結局のところ予想以上に占領が進んでしまったのも、全て、それが神話伝承的な根源恐怖を齎す存在であるからに違いない。

 群れを為して現れる無機質な巨人の集団を前に、人は、敗北を悟ってしまうのだ。


 曇天の下、ガタガタと奥歯が鳴り、窓枠を握り締める指が離れようとしない。

 もし見付かってしまったらその瞬間――という思いと、もし目を離してしまったらその間に――という思い。

 二律背反の衝動に板挟みになり、結局、瞬きが増えたことにも気付かず立ち尽くすしかない。


 草食動物より憐れだと、人は笑うだろうか。


 逃げも隠れもできない羊。

 巣穴を破壊されるモグラよりも無様に落下して死ぬしかないちっぽけな生き物。

 もしその銃口がこちらを向いたら――或いは単に建物が視覚的な障害になると思われたら、もしくはただ大きくて気に喰わないという理由で撃たれたら。


 その瞬間に、全てが終わる。


 ビルの屋上を蹴り、粉塵を散らしながら眼下の巨人が跳ぶ。いくつもいくつも、跳ぶ。

 それは徐々に己の立つ建物へと近付いていて。

 ああ――――なんで、なんで逃げなかったのだろう。


 どうせ逃げ場はないとか。

 車で逃げたら却って踏み潰されるだけだとか。

 大人しくしていれば悪いようにはされないだとか。


 どうしてそんなことを、思ってしまったのだろう。


「は、は……神様……」


 呟くも、遅い。

 まさにその説話じみた光景が、眼下に広がっているのだ。灰色のコンクリートジャングルを足場に、神の似姿が絶望を広げんと迫っているのだ。


 まさしく伝承。

 まさしく神話。


 ああ、故に――


『――――私が! 来た!』


 


 曇り空の彼方から飛来した巨人――赤きフードじみた装甲板に覆われた頭部の機体が、ショットガンの一撃に継いだ蹴りで一機を黙らせる。

 踊る光刃。

 放たれたミサイルの追跡を、爆炎ごと斬り捨てる一閃。


 ああ、それこそは、英雄であったのだろう。


 多く――多くの人が。

 メイジー・ブランシェットをこそ勝利の象徴と見做しているのは、ひとえにそこに由来する。


 果ての空から飛び来る旭日。

 目に見えて形となった明日。

 恐怖の先の生に至る到達者。


 だから――メイジー・ブランシェットは、保護高地都市ハイランドの英雄なのだ。


『……ああ。来て貰ったところ悪いですけど、歓迎はできませんから』


 そんな淡々と沈降していく言葉と共に進められる戦闘。

 撃墜した敵機の落下方向すらも制御するその御業に、都市を覆う黒雲は、打ち払われる。

 どこかの都市の話ではない。


 どこでも多くの都市での、そんな話だ。



 ◇ ◆ ◇



 【星の銀貨シュテルンターラー】戦争――――。


 天から降り注いだ三百四十三発の【星の銀貨シュテルンターラー】によって主要軍事基地や大工業地帯を焼き払われた保護高地都市ハイランドは、それでも地下軍事都市アナトリコンを中心に旧時代地下鉄道網などを利用し、海上遊弋都市フロートマスドライバー破壊作戦【アクタイオンの猟犬ハウンズ・オブ・エークティオン】作戦を決行。

 衛星軌道都市サテライトへの補給路であり、海上遊弋都市フロートのまさに本国そのものへの攻撃となるこの作戦は、新型強襲機動兵器アーセナル・コマンドによって多大なる戦果を挙げることになる。

 しかしながらジャスパー・スポイラーという兵士の寝返り、そして任務において破棄や破壊された機動兵器の鹵獲によって戦況は再び移り変わりを見せていた。


 衛星軌道都市サテライトから中立都市群・空中浮游都市ステーションへ行われた【星の銀貨シュテルンターラー】誤爆への人命救助に向かった猟犬たちは、対アーセナル・コマンド能力も盛り込んだ第一・五世代型の登場により壊滅。

 更に続いた第二世代型アーセナル・コマンド――推進剤と力場を利用した近接急速戦闘機動:バトルブーストによって、保護高地都市ハイランド本土の数少ない防衛兵器やアーセナル・コマンドは敗北を喫する。

 そしてその国土の実に四割が、彼らに占領されるという自体に陥っていた。


 これに対して保護高地都市ハイランドは、地下軍事通路を用いた縦横に逃げ場のない空間での防衛を主にし、地上部分の陥落を余所に、その反抗の中枢である地下軍事通路への侵攻はかろうじて食い止める形をとっていた。


 そして、開戦から五ヶ月が経過し――――近接急速戦闘機動能力と力場発生弾核を持つプラズマ兵器を有する第二世代型【狼狩人ウルフハンター】の開発とその登場により、保護高地都市ハイランドは再び大規模な反抗作戦の開始を決意する。


 いわば、衛星軌道都市サテライトとの戦争の中期――。


 中期においては、大規模な作戦は七度あった。

 開戦当初の侵攻からと、そして第二世代型の実装から一ヶ月の間に奪われた被占領地の解放作戦――――。

 その度に、多く、民間からの志願兵が集まった。

 それは、メイジー・ブランシェットという少女の躍進と、正規軍人ですらない彼女さえも一流の戦闘者として運用できる脊椎接続アーセナルリンク手術の宣伝によるものだった。


 そしてその時期に――――。

 民間からの志願兵マーガレット・ワイズマンの呼びかけによって結成されたのが、黒衣の七人ブラックパレードという集団だ。



 アシュレイ・アイアンストーブが正式に黒衣の七人ブラックパレードに合流したのは三度目の大規模作戦。

 リーゼ・バーウッドがマーガレットに連れて来られたのは四度目の大規模作戦。

 自分とマーガレットが顔を合わせたのは、それ以前の一回と、あとは一度目と二度目の大規模作戦の最中だった。


 その――最後の七度目である【鉄の鉄鎚作戦アイアンハンマー】の一つ前。

 六度目の作戦の頃だ。

 そこは――――過ごしやすい土地だったと記憶している。樹木が不要に生い茂りもしていなければ、湿気が強過ぎることもない。極度に寒暖の差が激しくも無ければ、気象の急変もない。環境調整された衛星軌道都市サテライトは、特に、そのような土地を駐留地として選ぶ傾向にあった。


 解放作戦も終わり――……。

 簡易的な天幕で陽光を遮ったある種のキャンプ場にも見えるような日陰の下、木箱をひっくり返した即席テーブルには空の缶詰が無数に積み重なっていた。

 味気なく――しかしこれまでよりも遥かに上等な食事。

 虫が湧いていることも無ければ、中身が変色していることもない。


「さーて、こりゃいよいよ大規模反抗作戦ってのも現実的な話だろうなぁ」


 空になった弾薬箱を椅子代わりに足を組んだヘイゼルが、粗悪なコーヒーを片手に肩を崩す。

 この戦いにおいても彼は見事に役目を果たした。つまりは変幻自在の伏撃手にして一撃で引導を渡す狙撃手。まず一撃で敵の司令中枢を破壊し、指揮を掻き乱した。

 神業という言葉は、まさにこの男にこそ相応しい。

 己だけでなく――全兵士がそう認めるところだろう。人類史上最高の狙撃手だと。

 そして己がこの世で最も信頼する狙撃手であり、最も誇らしい戦友だ。


「……チッ、これ自体が大規模な反抗作戦の一環だろうが。指令書読んでんのか?」


 変わらず不機嫌そうなロビンは、腕を組んで少し離れた木の傍に陣取っている――――彼の定位置。

 降り注ぐ敵の遠隔間接火力支援の砲弾すらも撃ち落とす戦場の守護者。彼の支援を受ける部隊は、弾丸の傘に守られる。鉄壁の城塞の真下に居るように。

 こういうときも、手榴弾から手を離そうとはしない。敵特殊部隊による直接襲撃や、高高度からの無人機誘導弾による爆撃を警戒している――それすらも防ぎ切ると。


「……もっと大規模な、ってことだぜ弾バカ。文脈も拾えねえのか?」

「テメエに音以外拾える物があったってのには驚きだな、殺戮ヴァイオリニスト?」

「……あ?」

「……ンだ?」


 天幕の下、そよ風の流れる平和な空気の中でお互いを睨み付け合う二人の中間に――


「何をしてますの! 一戦終わったばかりだというのに! そんなに元気が有り余ってるなら哨戒任務にでも志願しますか!」


 銀髪を靡かせて戻ったマーガレットが割って入る。

 麾下の――私財によって集めた/そして彼女に追従してきた屋敷の従者たちを組織して一個機動中隊を編成していた彼女は、そのまま自分たちの窓口やプロモーターのような役目を果たしていた。

 知人に憲兵がいると胸を張っていた彼女は、その若さに見合わない巧みさで指揮所に足を運んでは弾薬や整備部品を勝ち取ってきていた。おかしな話といえば話だが、この頃が――特にロジスティクス機能が不可思議な集積性を見せており、斉一とした軍事組織というよりは傭兵の集まりのようになっていたためだ。


「いつも助かる。何か問題はなかったか?」

「まさに目の前のことが問題ですわ!? ヘンゼル、貴方も黙って見てないで何故止めないんですの!?」


 彼女の言葉に、ワイドスタンス・デッドリフト――引き上げていたバーベルが僅かな土煙を立てて下りる。

 じゃり、という沈み込んで擦れる音。

 筋肥大ではなく神経系への刺激の日課を止め――……


「……二人はじゃれ合ってただけだ。とても仲良しだ。昔からそうだ」

「え……そ、そうなのですか……?」

「そうだ。俺は詳しいんだ」


 手を握り開きながら頷けば、


「違えよ相棒!?」

「違えだろバカ犬!」


 声を揃えた二人がこちらを睨み付ける。

 それを眺めてもう一度頷き、銀髪の彼女に視線をやる。


「……だろう?」

「な、なるほど……いえ、なるほど?」

「だろう。明らかだ」

「な、なる……ほど……? それほどまでに自信を持って言われたら確かに……確かに……?」

「明らかだ」

「明らか……明らかですの……? 明らか……」


 首肯すると、釈然としなさそうに首を捻りながらも彼女は納得した。いや、多分納得してくれていた。きっと。


「いや納得すんなよ!? お嬢、お前さんグリムの奴に甘過ぎだろ!?」

「……ほんっとに相変わらずガキを惑わせるのだけは上手だな、テメエは。何度目だ? こないだの志願兵にもやったろ。目ェ輝かせてたぞ」

「そんな事実は存在しない。深刻なデマゴーグだ」

「惑わせるってなんですの!? まるでわたくしがヘンゼルみたいなぽわぽわ成人男性なんかに騙されてるみたいで……人聞きが悪くありませんこと!?」

「いや騙されてるんだってお嬢……」

「諦めろ。こんなツラして、ガキを誑かせる年季が違ェよこいつは」

「そんな事実はない。訂正を求める」


 そのまま、風吹き抜ける木陰の天幕の下でワイワイと喧騒が始まる。

 二十代半ばの成人男性と、ハイスクールにも届かないようなティーンエイジャーが輪を囲んでこうも言い合う場はここ以外に他にないだろう。


「……ふふっ」


 それを見た機械手足付き車椅子の上のリーゼは黒髪を揺らして楽しそうに笑って、


「……うん? 皆、どうしたんだい?」


 敵味方を問わずの負傷者の治療手伝いから帰ったアシュレイが微笑みと共に問いかける。


 まだ、メイジーを除いた全員でのこうした共同任務自体も両手の指よりも少ない程度の機会だが――……。


 それでもそれがいつしか、日常になっていた。

 日常に思えていた。

 自分にとっても。……きっと皆にとっても。


「まったく……どなたも失礼すぎますわ。ここに紳士はいらっしゃいませんの?」

「だとよ。なあ、おい、バカ犬。お得意のヤツやれよ」

「……茶化されるようなことではないんだが。芸ではないんだが」


 まあいい、と首を振る。

 そして片膝を突き――マーガレットの手を取り、その甲に額を当てる。


「どうか、心をお鎮めを、レディ。……貴人にそうも声を荒らげさせた我が不徳に恥入るしかありません。お許しいただきたい……麗しのマーガレット・ワイズマンよ」

「っ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!? だ! か! ら! なんで急に紳士ヅラするんですの!?」

「……やれって言われたんだ。ロビンに」

「頼まれたら何でもするのですか貴方は!? 倫理観はどうなってますの倫理観は!?」


 そんなこと言われても……。


「……君もそう求めていたのでは? この通り、必要とあらば紳士的に振る舞うことも可能だ。これでも人として最低限の作法は身に着けたつもりでいる」

「禁止! 禁止です! 心臓に悪いのです、貴方は!」

「……」


 バシッと手を振り払われた。

 ……そこまで酷いこと言わなくてもいいと思うんだけどな。そんなにかな。そんなに駄目かな。

 もっと振る舞いを身に着けなければ駄目か。そうか。

 そうかな。難しいな。勉強したんだけどな。


「わぁ……ハンスお兄様、騎士様みたい……!」

「光栄です、レディ・エリザベート」

「わぁ……! リーゼにも……!?」

「ああ、君が求めるならばいつでもそうあろう。君のような麗しいレディを前には、捧げねばならない相応の振る舞いもあるのだから。……レディ・リーゼ。貴女の前で、どうか俺に、一人の人間としての義務たる礼節を果たさせて欲しい。……ただ一言と、こんな俺にもお許しいただけるだろうか?」

「ハ、ハンスお兄様……えっと、え、えっと……」


 リーゼはその金色の目を輝かせて、おずおずと手を差し出してきた――……感心はしてくれたか。

 ヨシ。

 やっぱりそこまで悪くはないのではないだろうか。ちゃんとできてるのではないだろうか。かなり頑張って勉強した甲斐もあったのではないだろうか。


「ヘンゼル!!!! 教育に悪いですわ!!!! 教育に悪い!!! 悪すぎる!!! いくらなんでも悪すぎますわ!!!! 頭に脳味噌詰まってませんの!? 禁止! 禁止! 御禁制です御禁制!」


 リーゼを庇うように胸に抱きながら思いっきり人差し指を突きつけられた。

 ……悪いのかな。駄目なのかな。むつかしい。


「はい、黒衣の七人ブラックパレード会議ー。相棒の今のは有罪と思うヤツ挙手ー」

「罪だろこんなん。なんで逮捕されてねえんだ? そのうちやらかすぞこのバカ犬。今のうちにブタ箱入れとけ」

「罪ですわ! 乙女心の情操教育への罪です! リーゼさんがおかしな育ち方をしたらどうするというのです! 有罪! 有罪! たぶらか死刑です!」

「……ハハハ。皆が有罪なら有罪かな。ごめんね」

「無罪を主張する。あまりに一方的であり偏見が混じり、事実に反している」


 議会を抱き込んだ魔女裁判だ。もしくはアカがやる人民裁判だ。とても公平な司法判決とは言えない。


「リ、リーゼは……嬉しかったよ……?」

「彼女もこう言っている。つまり被害者はいない。ならば問題ない。極めて明白な論理ではないか」

「社会的に問題があるんだよ相棒」

「ない」

「ある」

「ない」

「あるだろ」

「ない……」


 ないもん。違うもん。おかしなことしてないもん。礼儀と義務だもん。教授にそう教わったもん。教授がそんな嘘を吐くなんて…………いやどうだろうな。あれで結構茶目っ気あったからなあの人。どうだろう。


「いや待ってくれ。メイジーに聞いてない。彼女にも呼びかけてくれ。公平に全員招集すべきだ。審議の差し戻しを求めたい。彼女にも聞くべきだ。なんなら再現ビデオを送ってリモート会議でもいい。いや、送るべきだろう」

「………………ヘンゼル、本気で言ってますの?」

「………………やめとけ相棒。マジに。そのビデオレターはホントに。やめとけって」


 何が?

 ……いやまあ、彼女への通信が難しいということには頷くが。

 そうだ。

 メイジー・ブランシェットとその乗艦【黄金鵞鳥ゴールデンギース】号は、自分たちと行動を共にはしていない。


(……ここに、君も居てくれたなら良かったのに)


 静かに手のひらを握る。

 彼女たちは、今や、明確な囮同然として動かされていた。即ち――被占領地域の解放。

 唯一無二と言っていい《仮想装甲ゴーテル》を貫く遠距離プラズマ兵器と、他の第二世代型とは一線を画す性能のアーセナル・コマンド。

 地上の解放は、国民に対しての政府からの見捨ててはいないというメッセージであり、同時に実利的には地下都市への敵侵攻を集中させず目を逸らさせる役割がある。


(……メイジー。君を守ることが、できなかった)


 互いに恋愛感情にこそ発展しないにしろ、およそ十年近く彼女とは手紙の交流があった。

 社会的にも、婚約者の身分でもある。

 そんな彼女を戦場に駆り出させてしまっていることに――どうにもならないほど忸怩たる想いが湧いてくる。彼女が、己などより遥かなる高みの強さに居るとしても。


 ……特に。年頃の少女の死体を見る度にそれは募った。


 焼け焦げているならまだマシだ。粉々に吹き飛んで形も残らないものや、生きている間から死を望んでいただろう扱いを受けたような遺体もあった。

 それは、ともすれば、彼女にも起こりうるのだ。

 あの、可愛らしい笑顔と共に作り上げた幾つもの生活雑貨補助メカニックの完成写真を送ってきた少女だろうと――忌まわしき死と暴力は、人格や人生などを慮外にして容赦なく踏みにじる。


(……ここにいることが、これが、本当に、俺のすべきことなのだろうか。仮初の婚約者という立場を推してまで、今すぐにでも君の下に向かうべきではないのだろうか)


 彼女に近付くことによって戦争の未来に影響を与えるという目的が果たせなくなってしまったにしても――当初の目的の達成は不可能となったとしても。

 つまり、この関係の維持の必要性がないとしても。

 甲斐がなく、戦略的には非合理だとしても。

 それでも己は、本当に、ここで彼女へと手を伸ばさなくて良いのだろうか。

 或いは、婚約の前に一度会って話しただけでしかない薄い関係の相手が――こう案じてしまうのは傲慢か。

 多くのメイジーになり得た敵兵や民間人を無情に吹き飛ばしてきた己がそう想うことこそが……。


(……悪い癖だ。常に思考を回す訓練が、こんな、ハムスターの回す滑車よりも滑稽な思索を導くとは。……俺の悪い癖だ)


 思索者シンカーと――――そう呼ばれた日も、遠い。

 立派な騎士という約束の言葉が、手のひらにこびりついている気がした。染み込んで、乾いて、固まっている。

 人殺し。金で――契約で人の命を奪う殺人犯。

 先程の戯れなど百も承知だ。騎士と呼ぶには殺しすぎた。猟犬と、そう呼ばれてからの記憶の方が濃い。人々の血肉を喰らう猟犬だ。


「んで、だ。どう見る……グリム?」

「どう、か。……」


 そう、こちらの思考を裂くように投げかけられたヘイゼルからの問いかけに僅かに黙する。

 これまでの大規模任務はどれも占領地の解放作戦や敵の地上橋頭堡の破壊――――あの【アクタイオンの猟犬ハウンズ・オブ・エークティオン】以後、明確にこちらからの敵への攻撃に等しい作戦は少ない。無論、今回のこれも攻勢には含まれるのだろうが、戦争初期のように敵本国を叩くことはできていない。


海上遊弋都市フロートがどの程度マスドライバーの再建をできているかにかかっているだろう。被占領地域から資材を送られてはいるだろうが、こちらもそれらに対しては執拗に輸送破壊作戦を行った……おそらくまだそれほど大掛かりな再建は叶っていない筈だ。である以上は、こちらも敵本国への襲撃ではなく被占領地域の解放を優先――」

「いやいや、違えよ相棒。違うって」

「違う?」


 何か視点が欠けていたかと僅かに内心で首を捻る。

 すると、


「ここいらみたいに、アイツらが駐留するところはそんなに焼かれてねえだろ?」

「ああ」

「つまりは物資だの施設だのも無事で、補給状況が改善するってのわかるな?」

「ああ」


 幾らか破壊の痕は目立つにせよ、おおよそ生産施設は無事だ。撤退際に火を放つ者たちもいることはいたが、概ね殺し尽くしてはいた。


「ってことは……色々と手に入るってことだ。なあ?」

「……確かに」

「で、お前さんは何が欲しいのかって話だぜ」


 そこで、なるほどな……と思った。

 どことなく兵士たち皆の顔が明るいのはそれか。

 衣類や装備品のみならず、食事状況の改善が見込めるというならばこう歓喜が湧いてくるのも頷けるというものだ。


「わたくしは……プリ……いえ、紅茶! 紅茶ですわね! ふっ……これでようやく、わたくしの舌に相応しい品物を口にできるというものですわ!」

「ハッ、駄菓子パンパンに頬張ってたリスがよく言えるな」

「ちょっとロビンさん!?」


 そう、皮肉げな片笑いを浮かべるロビンへとマーガレットが顔を赤らめ、


「俺はもう少しまともなコーヒーが飲みたいところだな。酒も上等なのが手に入るといいねえ」

「お酒って……美味しい……の?」

「んー? 興味あるかい、リーゼ嬢ちゃん。ならまあ、アレだな。いつか飲む日にはちゃんとお兄さんがイチオシ見繕ってやるよ。楽しみにしてな」


 リーゼは変わらず控えめな態度をしている。


「僕は……ガーゼと包帯、あとは化膿止めが不足してきているからその辺りが手に入ったらいいけど……」

「おいおい、アシュレイの旦那。もう少し面白みがある解答はないのかい?」

「……そうだね。なら、いい材料が手に入ると嬉しいかも。クッキーでも焼いてみようかな。実は多少はお菓子作りもできるんだ」

「まあ……! 流石ですわ……!」


 意外と言えば意外であるし、彼らしいといえば彼らしい特技を持ったアシュレイ。

 そのまま色々と会話を続ける彼らは、実に楽しそうだった。本当に――ああ本当に、この場にメイジーがいたなら、彼女へのいい癒やしになっただろうに。

 そのことが酷く残念で、


「んで、だ。相棒……お前さんは何か欲しいものはあるかい?」


 こちらの肩を抱きながら笑いかけてくるへイゼルは、己が愚にも付かない思考に囚われそうになるのを留めてくれているのかもしれない。

 ああ――……


「俺は……」


 食事そのものを喜ぶ気持ちもなくはないが、それでも、別にそれだけが楽しみという訳ではない。

 食事を、趣味と呼べるほど気に入ってはいなかった。一人で食べていても栄養補給以上の意味はないのだから。それが趣味になるとしたら余程のことだろう。

 ただ、己にとっては何よりも――……


「……皆が居れば、それでいいよ」


 替え難い戦友。命懸けの友人。流れる血肉よりも濃い鉄と屍仕立ての結び付き。

 それを懐かしいと思うのは愚かしく罪深いことなのだろうが――……。


 それでも己にとって。


 あまりに輝かしく――。

 あまりにも懐かしい――。


 二度と還らない、戦場の日々だった。



 ◇ ◆ ◇



 警戒出撃を終え、休憩シフトに入ったときだろうか。


「【ハシバミの枝ヘーゼルアスト】が確認されたぞ」


 食事代わりの補液を終えて、待機室で目を瞑っているときだった。そんな声が耳に届いたのは。

 情報共有用の内部回線を通じたホログラム・ヴィジョンが青く浮かび上がり、その明かりにリノリウムの床が彩られる。

 どこかの偵察機からの映像だろうか――――四機のアーセナル・コマンドの編隊。


 肩には、横たわる球形の大地に目掛けて伸びる世界樹の大枝めいた揃いのエンブレム。

 水棲生物の頭部じみた意匠を機体に持つ【角笛帽子ホーニィハット】――第四世代型量産機の二機を筆頭に、そこには、刃翼を広げた鳥類じみた第四世代型試作機【ホワイトスワン】と白銀に輝くさらなる新型がもう一機。


「新型機ばかりじゃないか。アイツら、そんな技術も持ってるのか?」

「どこで重要警護対象パッケージと合流する気だ? 間違いなくこれが護衛の本命だろう? いや、アシュレイ・アイアンストーブもいるらしいが……」

 

 映像を眺めつつ湧き上がる会話が、己から僅かに離れた位置で交わされていた。

 ボソリと、口を開く。


「……このまま飛行する筈だ。あれは、ロビンの動きではない。おそらくはアレにそのまま、あちらのリーダーを乗せている。……欺瞞工作だろう」

「マジかよ。流石は元同僚ってか? ははっ、なあ、ひとっ飛び説得してこれねえのかよ?」

「……不可能だ。失礼する」


 そして一人、待機室を後にした。

 立ち入った軍事施設特有の分厚い壁に遮られたロッカールームは、外の喧騒を移さない。

 どこまでも静寂な室内で、さながら遺体安置所の簡易棺の如く幅狭いロッカーが並んでいる。


「……」


 開いた割り当てのロッカーの中にあるのは、ロザリオを付けたドッグタグと使い古した手帳。

 あとは、写真だ。

 黒衣の七人ブラックパレードの皆と――メイジー以外と――撮った写真。

 そして、あの日――四人で撮った写真。ヘイゼルと、シンデレラと、ヘンリーと……そのまま続いていくと思っていたあの日々の写真。

 もしどこかで自分が死んだら、この写真は、唯一の遺品として棺に収めて貰えるのだろうか。

 そうしたら、焼け落ちる肉体の一万分の一の塵ほどでも、写真を通じて、彼女たちの元に行けるのだろうか。あの日笑った皆の元へ。


(俺は、何故、ここにいるのだろう。……あの日の俺たちが行き着く先は、こんな場所だったのだろうか)


 あれほど出会うことを願っていたメイジーへと剣を向け、へイゼルともロビンとも殺し合い、アシュレイも敵に周り――。

 マーガレットは死に、リーゼと会うこともできず。

 知己であるマクシミリアンとも戦場にて刃を交える。

 己の結んだ縁の大半は、壊滅状態にあると言っていい――それも極めて最悪な、戦場での闘争という形で。


(……あの出会いの結末は、ここだったのだろうか。俺たちは、ここに行き着くしかなかったのだろうか)


 全てが炎の道に焚べられて行くかの如く、灰になって色褪せていく。消し去りていく。

 そしてまさに先程目にした光景が――――金切り声のような爪音を立てながら記憶の蓋をこじ開け、寒気を伴って神経を刺激する。

 一度味わった死に際の苦痛と末期の恐怖をい交ぜにして、己という匣に詰まっていた様々な感情が洪水の如き奔流となって総身を震わせた。


 遠く輝く、白銀の機体。

 物語の聖騎士のような――ああ、愚かしくも、彼女こそがだと説かれるまでもなく思えてしまうその機体。

 己は、それを、否定しようとしていたのに。

 己の全てを捧げて、そんな在り方を否定しようとしていたのに。


 希望の担い手。時代の旗手。輝ける者。善の守護者。

 それは、遠い。

 油もさせずに醜悪な異音を立てるだけの血に錆びた鉄の身体で、地を這うような己には、あまりに遠い。


 自分では、届かない。

 歴史の決定的な表舞台へと、聖剣を握った聖騎士は歩み出した。

 ここでは、遠い。

 あの華奢な肩に、手を伸ばすことも叶わない。

 尊くも儚きその光を、支えることも望めない。


(……それほどの重責を担うに足るほどの力を君は手に入れたか。それは、こんな世界での僅かな生存の助けにもなろう。そのことを言祝ぐべきなのかもしれないが――)


 小さく、拳を握る。

 ゴン、と鈍い音がした。


「……それでも俺はあなたに、こんな場所には出てきて欲しくなかったよ。シンデレラさん」


 ロッカーの扉に拳と額を持たれかからせて、そのまま力が抜けるまで、そうしていた。

 遠く。

 遠雷のように、換気扇のファンが回っている。


 目を瞑っても、網膜に焼き付いた焼け焦げたメイジー・ブランシェットの死体が消えようとしない。


 自分も、あの娘も、彼女も、誰も彼も――――河を渡っていた。ルビコンの河を。

 賽はもう、投げられてしまったのだ。

 あまりにも取り返しの付かない賽が。


 遠く――――――だとしても、


(――――いいや、いいや、まだだ)


 己はまだ、ここにいる。

 死なず、欠けず、ここにいる。

 己の望むその通りに鋳固められて、ここにいる。


 ならばまだ、折れる余地はない。

 だとしたらただ、立ち向かわなければならない。


 



 ◇ ◆ ◇



 ――星歴二一四年、一月三十日。


 ――〇八マルハチ三〇サンマル



 海岸のテトラポッドめいたコンクリート造りの車両止めと、稼働式対狙撃防壁に囲まれた庭園の一角。

 急増整備を行われた駐機場に、四機の鋼鉄の巨人が降り立った。

 まず先陣を切ったのは燕尾服を纏った青年ローランドであり、それに灰色髪のマクシミリアンが続く。

 そして小柄な金髪の少女が機体を離れ――ついに最後に、灰色の軍制服に無骨なコートを纏った老人が降り立った。


 赤絨毯に踏み出される革靴の一歩。


 恐らくその場にいる全ての人間が、最も気を使っている瞬間であったと言って過言ではないだろう。

 アーセナル・コマンドで乗り付けた【ハシバミの枝ヘーゼルアスト】は、この瞬間の狙撃などを警戒し――。

 一方の【フィッチャーの鳥】と保護高地都市ハイランド連盟は、アーセナル・コマンドを接近させるがままに攻撃を行われることを懸念していた。


 駐機場に満ちた張り詰めて冷えついた緊張感のまま――しかし、その老人は容易く歩を進める。

 言うなれば巨木。老木。

 若き頃はその拳で悪魔すらも物理的に払ったであろうとまで推測させる――――敬虔なる老牧師にして頑健たる拳銃使いガンスリンガーの風情の男。

 好々爺そのものといった笑みを浮かべたままに、スティーブン・スパロウ空軍中将は赤絨毯を進む――一人の老獅子へと、盟友へと向けて。


「久しぶりだね、ヴェレル」

「……来たのか、スティーブン」

「はは、勿論。君が顔を出しているのに僕が出さない訳には行かないだろう? アイリーンは居ないのかい?」

「……イレーヌアイリーンなら来ない。挟める口はない、とな」


 スティーブン・スパロウ。

 ヴェレル・クノイスト・ゾイスト。

 イレーヌ・オルランティーナ・パースリーワース。


 かつて、ゴンドワナ水資源戦争やアマゾニア麻薬事変において肩を並べた三人は気安く、そして同時にお互いへと最大の警戒を払っていた。

 ヴェレルはスティーブンに対し、その気になれば彼の銃の腕ならば物理的にこの盤面を引っ繰り返すことも可能であり――場合によってはそれも辞さないほどの胆力すら持つ男であるとの認識を。

 スティーブンはヴェレルへと、彼が顔を表すということは即ちヴェレルを殺したところで揺らがない勝利の方程式すらも組み上げられているというその周到さを。


 握手ほどの距離のまま、互いに探っていた。

 そして同時に――彼らは郷愁にも似た寂しさと共に悟った。互いに老いた。双方が注意するその事態は起こらないまでに目の前の相手は衰えたのだと、諦めにも近い眼差しを交わしていた。

 そして入れ替わりに、一人の少女が歩を踏み出した。

 退廃的童話の如き憂いがちな美貌と地に届かんとするほどの長髪――――若干十八歳にしてこの大いなる会談の立役者が、遠方からの来訪者を迎えていた。


「ようこそ、会談の場へ。……貴方は」


 彼女から集団へと向けられた怪訝そうな一瞥へ、


「公爵……お初にお目にかかる。私は、マクシミリアン・ウルヴス・グレイコートという者です」

「グレイコート?」

「……ええ。貴方がたの国を焼いたあの衛星の、開発者の息子です」

「……そ」


 灰色狼めいた青年が応じれば、マーシェリーナはそれきり興味をなくしたとばかりに顔を戻す。

 代わりに、ヴェレルが問いかけた。


「スティーブン、彼は?」

「ああ、ええと……うん、彼は以前にウィルへルミナ・テーラーくんと交流があってね。どうかな、彼女が影武者ではないか――という判別のためにも。この中で、互いの正体を保証できないのはテーラーくんだけではないかな」

「……そのグレイコート氏と彼女に交流があるという卿の言にも、保証があるとは言えないがな」

「ハハハ、まあ、信じなくてもいいさ。それなら少なくとも、僕らだけは伏せ札を明かせるという訳だ」


 不敵なウィンクを飛ばすスティーブンへ、ヴェレルは冷徹そうな一瞥で返した。

 そして、二足歩行の金属の昆虫じみた強化外骨格エキゾスケルトンの集団が護衛として彼らを囲み、駐機場から室内へと誘われる。

 その、最中だった。


「あ、あの……マーシュさん……」


 おずおずと――取り囲まれた周囲に威圧される中で口を開いた小柄なシンデレラ。

 久方ぶりの知己との出逢いに安らぎを見出すような彼女の視線へ、マーシェリーナが足を止めた。

 護衛が、怪訝そうに歩を止める。

 それに構わぬまま――ゆっくりと歩み寄ったマーシェリーナはシンデレラへと向かい合い、言った。


「綺麗な目をしてるわね。……あの時は気が付かなかったけど」

「えっ、ええと――」


 同性でも思わずドキリとしてしまうような、マーシュの美貌。僅かに微笑みかけると共に、その橙色の目がシンデレラの瞳を覗き込む。


「ええ、とても綺麗な瞳……貴女は、美しいものを見続けたのかしら? それとも貴女の心が美しいから?」


 その冷たさも感じるほどにスラリとした指先が金髪を掻き分けてシンデレラの頬を這い、


「――?」


 一瞬――彼女の瞳が、ゾッとするほど強まった。


 それはもう一人の出席者が駐機場に降り立ち、会談が開かれるまで、強くシンデレラの心に残り続けた。



 ◇ ◆ ◇



 赤き絨毯の向こう、背後に聳えるは白亜の神殿じみた講演堂と白き円卓。

 古代ギリシア建築を強く思わせるその建物の前に集った記者団と――――その庭園の外に詰めかけた数多の観衆が鳴らす雑踏の音。


 しかしそれは、一瞬にして静まり返った。


 露出を抑えたレース仕立ての黒衣は明らかなる喪服であり、赤絨毯に歩を進めるたびに薄栗毛の髪が揺れる。

 憂いを湛えた深遠の美貌。

 人形めいて整った容姿はあまりに神々しく――――ああ、だからこそ、人は彼女を仰ぎ見るのだ。

 仰ぎ見るべきだと、そう、己に科さされてしまうのだ。


 紛れもない貴種。


 女王蜂のように細い腰と裏腹に豊満な肢体はあまりにも女性的な魅力に溢れていたが、こと此処に至ってはそれすらも感じさせない。

 人はただ――現実離れした感覚を覚えるだけだ。

 絶世の美女という言葉すらも生ぬるいほどの佳人の麗容を前に、誰しもが口を噤むしかない。それはある種、神話や伝承の光景めいていた。

 広がる電波に、その令嬢の姿は乗る。


『まずは、黙祷を』


 貞淑に腰を折ったその姿に、その場の誰もが従う。

 従うべきだと、思わされていた。

 そして弔礼じみたラッパの音が鳴り響き、円卓を囲む面々は神妙な面持ちで瞳を瞑る。

 どれほど、時間が経っただろうか。

 やがてその憂いがちな長睫毛を上げたマーシュが、蝋燭の炎のような橙色の目を開く。


『こうして御三方にお集まりいただけたことを、パースリーワースの名を継ぐ者として嬉しく思います。私が父を失ったように……多くの人が肉親を、同僚を、家族を失ったあの大戦から四年が経過しました』


 静かに。

 その声は、響く。


『今なおその災禍は収まらず、このときにも後遺症に苦しむ方がいます。大地にも深く傷痕が残り、それは、我々が得る筈であった健やかなる生を傷付けるでしょう。……だからこそ、人はまた、歩み出そうとしている。あの不幸なる大戦を胸に刻み、しかし、また我々が失ってはならない明日を取り戻すために――日々の暮らしという戦いの場に向かっています』


 その瞳が、レンズを通して、向けられる。


『私マーシェリーナ・パースリーワースは、そんな貴方がたを誇りに思います』


 そこに居るだろう多くの人々に、見守る人々に、多くの名も知られぬ人々の一人一人に語りかけるように向けられる。


『この会談のために仕事の手を止めた方……この会談があろうとも日々の商いを行う方……。あの災禍の痕を乗り越えんとする貴方がたは、一人一人が英雄です。ただ生きようとする貴方がたの行いが、その一つ一つの手が、社会という大いなる箱舟を支える尊い柱です』


 それは祝福だ。

 祝福であり、肯定だ。

 聞き至った聴衆の一人一人に深い慈愛を向けた、その存在そのものへの肯定だった。


『……ですから、どうか、深い感謝を。貴方がたが今日この日まで生き延びてくださったことに、どうか限りない感謝を』


 淡々と静かながらに噛み締めるようにも聞こえる言葉は、彼女が真実――民を慮って語りかけていると思わせるには十分だった。


『またこうして、貴方がたの前に顔を出せたことを――その機会があったことを、私は心から誇りに思います。……皆様は、お元気でしたか?』


 公用語のうちの、古い発音。

 かつて王族やそれに連なる者たちが使っていた透き通るような発音が、否応なくその高貴さを感じさせた。

 何より――


(……大尉、みたいだ)


 シンデレラは僅かに離れた会談の場を眺めつつ、携帯デバイスから流れる声を聞きながらそう思った。

 彼のスピーチを何度か見た。

 訓練過程での演説。時には戦場で言ったというそんな発言を集めたものや、或いは取材された音声や、再現テープなども耳にした。

 それに、似ていた。

 君はただ生きているだけで価値があるのだと――そう、そこにいる人々を抱き締めるような言葉。善き営みを慈しむアイスブルーの瞳。


(……大尉、スピーチに手を貸したりしてるのかな)


 そう思うと、チクリと胸が痛んだ。

 あれだけ何度も日常的に顔を合わせていたから忘れてしまっていただけで――彼はやっぱり、本当に、保護高地都市ハイランドの英雄なのだ。

 その戦果も、言葉も、英雄なのだ。

 淀みなく言葉を紡いでいくマーシュはまさに貴人と言って然るべきであり、それは、英雄の隣に立つ姫を連想させる。騎士道物語の末に、英雄と結ばれる美しい姫。


『尊敬すべき方々よ……どうか、暫しの間、私の言葉をお聞きください』


 背筋を伸ばし、何者にも怯えることもないように一礼をするマーシュ。


『私の父は、終戦を見届けることなく没しました。私は、父から、何か政治的な教育を受けた訳でもなく……政治的な素養を継いだ訳でもない家名だけの女です。……ですが今日このとき、既に歩み出している貴方がたの何か力になれればと、それでもこの場に登らせていただきました』


 毅然として――或いは凛として。

 言葉を紡いでいく彼女は、まさに貴種というものだ。

 その華奢な肩のままに、それでも責務を当たり前に果たさんとする貴人そのものだ。


 それを眺めていると……画面のこちらにいる、自分の立つ瀬がなくなる気がした。

 自分だけが一方的に親しさを感じてしまっているに過ぎず――二人とも本当は遠いところにいる人なのではないかとか、自分が彼の隣に立つのは相応しくないのではないかとか、そんな疑念がよぎってしまう。


 先程の言葉もある。

 それは――彼我の断絶を感じさせるには、何よりも十分すぎる振る舞いだった。


(……マーシュさん、怒ってるのかな。今まで……何か失礼なこと、しちゃってたのかな……)


 己の感じていた親しさが共有されていないという愕然。

 それなのに、一人で、勝手に盛り上がって。

 それがなおのこと惨めに思えた。

 ……こんな重大な場なのに、そんな余りにも個人的なことを気にしている自分という人間のちっぽけさが、余計に。


『私が申し上げるまでもなく、おそらく皆様は既に、ご存知でおられるでしょう』


 緩やかに、表情を大きく移ろわせずに紡がれる言葉。

 それは心を震わせるというより、静かに染み入るような声だった。


『何よりも――……そう、何よりも。我々が日々を生きるために、我々はあの大戦を過去のものとして受け入れなければなりません。それはただ当たり前に生きていける場を取り戻したいという心からの願いであり、前提なのです。既にそうして世界は回り始めているのです。……今更誰に言われるまでもなく、誰よりも貴方がたが、そう歩みだしているそのように』


 画面の向こうの聴衆を真っ直ぐに見据えていた瞳が、揺らぐ。


『……ですが、あの戦いの炎が、今もなお、世界には燻っています。そう不安を抱える方も多く、現実として、それは私の耳に届くほどに大きくなっていきました』


 その目は伏せられ、僅かに唇が結ばれる。

 痛みを慮るそのように。

 貴人もまた、痛みを抱えるそのように。

 それが――反転した。


『ですので――パースリーワースの名のもとに、ここレヴェリアに、会談を開きます。全ての疑念を一掃し、また、人々が明日の復興に向かえるように。今この場を以って、世を騒がせる争いというものに一つの決着を付けられるように』


 一転した決意の視線。

 先導者たる貴族の眼差し。強い光を持った淡い橙色の目。

 それは、断言する瞳だ。

 ここでは終わらないと――――そうしてここから始めるのだという決意の瞳だ。

 黒衣の少女が僅かに身を躱すと共に、背後の円卓に集った人々の姿が映し出される。


『既にここに、皆、集まりました。誰一人欠けることなく、対話のテーブルに着きました。……それが、皆の持つ――誰しもが持つ、明日を続けようとする意思の現れだと私は思います』


 ごく当たり前にそこにある願いなのだと――彼女は小さく、しかし確たる意思で首肯する。


『今もどこかで武器を握る方も……どうか、その手を止め、対話のテーブルへ。たとえどのような結論になるとしても、こうしてこの話の場が設けられたそれこそが――私はまず、何よりの歴史的な成果だと思います』


 訴えかけるようにその涼しさすら感じさせるほどに長く端正な腕が動き、


『どうか皆様のお力添えを。そして、私から皆様にもお力添えを。……それが、私マーシェリーナ・ジュヌヴィエーヴ・パースリーワースにできる最大の努力です。多くの善き祈りの下に、私は今ここに、足を運ばせていただきました』


 最後に一度、彼女は再び豊かな髪を揺らして腰を折った。


『ここで交わされる一つ一つの言葉が、我々の行くべき先を紡いでいく道となることを願って。――――ここレヴェリアにての、会談の開催の挨拶とさせていただきます』


 そして、拍手が巻き起こる。

 聴衆は思っただろう――――自分たちこそがまさに歴史のそこに、居合わせているのだと。

 生き証人なのだと。


 レヴェリアの三頭会談は、こうして始められた。



 ◇ ◆ ◇



 機体にて待機するエディス・ゴールズヘアは、コックピットに映し出された会談の様子に舌を巻いた。


「……昨日までピアニストだったわりに、大した演説じゃないか。多くの聴衆になる相手のことにもしっかり言及してる。……アンタが手を貸したのかい、ボス?」


 印象操作。

 人心掌握。

 それは、通信先の男の十八番と思っていた。

 だが――


『ふ、ふ……生憎と私は大衆に語りかける言葉など持たないよ。これは全て――あの男ならば言うであろう言葉を、彼女なりに言葉にしただけだ』

「あの男? ……ああ、そういうことかい」

『彼自身は、そこになんの価値も見出してはいないだろうがね。ふ、ふ――……そうとも。あの男はただ進むままにそこに行き着いただけだ』


 脳に搭載されたデバイスを通じて行われる無発声通信。

 会談の場に控えたコンラッド・アルジャーノン・マウスは、涼しげな顔のまま円卓に座している。

 その含みある言葉に、


(確かに昔から、落ち着いて自分の言葉だけ話していい場面だと……そうだったかもしれんな)


 エディスはそう頷いた。

 彼は――ハンス・グリム・グッドフェローは、その言葉に、何とも奇妙な説得力がある男だった。

 立ち振る舞いか在り方か。

 静かに控えつつも――だが絶対的にその二本の足で立っていると思わせる存在感からか、彼の言葉は不思議と人に受け入れられがちなところはあったのだ。受け入れられがちというか、話せば奇妙な影響力と説得力がある。

 それが仮に彼個人というキャラクターに由来している素質というよりも、或いはこうして模倣でも効果を伴うのであれば、それは意図して磨かれた技術のような面もあったのだろうか。


(本当はそうなりたかったのか、お前は?)


 担い手に。

 弁舌と規範を以って、人を導く者に。


(……お前さんの元々の適性は、戦場の中での端的な命令じゃあなく、礼式ある演壇の場だったのかね? それとも……)


 エディスは、僅かに黙した。

 つまりは、どちらかを――或いはその両方を後天的に身に着けた側の人間だということだ。

 迅速果断な抜き放たれた剣の如き判断速度か。

 それとも、人々の心に希望という火を灯す光の如き立ち振る舞いか。

 あのボンヤリとした人間性からは、双方の素質が自然に生まれるとは思えない。少なくとも教官を努めた上での身上調書には、雄弁さや闊達さとは遠い人間と綴った覚えがある。


 ……ああ、何にしても。

 それが本当ならば、向いていない者が、訓練にて適応したということだ。

 それはそんな訓練課程を褒めるべきか、それともそうするだけ積み上げた個人を褒めるべきなのかはエディスには判らなかった。


(……この場だけ見れば、そんなお前さんは、報われたと思うかい?)


 人々が自ら武器を手放し、一つのテーブルについた。

 市民のために、争いが止まろうとしている。

 それは何と――――ああ、何と輝かしい光景なのだろうか。きっと、


 そんな中で、けたたましく――サイレンの音が響いた。


 不明機の接近を知らせる警報。

 つまりは、戦闘の予兆を知らせる警鐘。

 報道陣がざわめいた。警護の兵士たちも顔を見合わせた。警報がなるのはつまり空からで、それはアーセナル・コマンドや航空機などの高速の襲撃を意味している。


 瞬く間に、ここは、攻撃圏となる――。


 だが、その円卓に座す四者は腰を上げることもなく頷いた。


『我々は、我々にできることをしましょう。……安全と平和を守るのは、勇敢なる方たちの仕事なのですから』


 その言葉と共に上空をフライパスしていく無数の機影。

 コマンド・リンクス及びコマンド・レイヴン――古狩人と大鴉が、群れを為した猟犬じみて飛び去っていく。

 その姿を追おうともせず、マーシェリーナは小さく頷いた。


『彼らを信じて――我々も、平和のために』


 同時、カメラに映し出される機体たち。

 横に伸びた棘付き三日月のエンブレム――首切り痕を示すような、首輪のペイントが一際大きく映された。

 それだけで、映像の視聴者は、誰がこの場を守護しているかを知るだろう。

 猟犬が。

 恐るべくも頼もしき国家の猟犬が、今も、国の命の下に戦いに従事しているのだ――――この会談を成り立たせるために。


 それはどこか、故意に、大衆に向けて英雄というものを印象付けようとしている風にもエディスには思えた。



 ◇ ◆ ◇



 全天視認型コックピットの中、大地と雲が凄まじい勢いで過ぎ去っていく。

 脊椎接続アーセナルリンクが伝える機体信号。己の脊椎に埋め込まれた信号変換装置が、鋼の五体を生身の肉体に同期させる。

 接続率――【六二・一%】。

 普段通り。可もなく不可もなく、一般的な数値。機体光学カメラでの画像認識を、また改めてコックピット内部の自分が視認して初めて認識できるという接続率。


 侵入経路として想定されたのは複数。

 未国家領域――自由放浪都市ロストワールを通じた離陸からの攻撃。

 他に、海洋からの強襲潜水艦による射出。


 この場合の敵手段は前者だった。


 おそらくはこれが第一陣であり――……そして程なく、コンバット・クラウド・リンクが後者の方法によるミサイル砲撃の警報を鳴らしていた。

 それで少なくとも、相手の正体は知れた。

 残党軍。

 それ以上でも以下でもない。仮に【フィッチャーの鳥】ならば都市部周囲に散らばった兵による行動を実行し、他の勢力ならば大気圏外からの最短突入降下を織り交ぜるだろう。

 つまりは、この会談に集まった四勢力のトップを殺害することで混乱を引き起こそうとする者たちによる攻撃だ。


戦闘管制フロントアイより各機、接近する不明機とミサイル、その母艦を確認。所定の配置に付け』


 冷静な管制オペレーターの声。


『ヴァイパー隊、了解』

『バンドワゴン隊、いつでもいけるぞ』

『エンプレス隊、行動開始するよ』

『対空防御網は展開済みだ! 問題ないぜ!』


 管制区域内の各機が応じる。

 ホログラムのマップに示される光点――さながらチェス盤のように。幾度と繰り返した戦場の作図。俯瞰的視点。

 自分たちは、都市上空を離れての邀撃ようげきだ。その役目が決まっていた。

 刈り取ること。

 普段通りの、特に考えることもない――殺しの仕事。


(……お前たちは、何故、壊す?)


 両手に操縦桿を握り、灰色の空を進みながら問いかける。


(何が嬉しい? 何が面白い? 何故、終わるべき炎を今なおも振りかざす?)


 ホログラムの計器が機体の増速を示す。

 銃鉄色ガンメタルの狩人は、超音速領域への突入を果たしていた。

 三機編成。まとわりつく白き雲霧さえ払って、固まった機体たちは一直線に飛ぶ。


(それとも、そうしなければ生きていけないだけの苦しみを抱えてしまったのか? お前たちはもう、そうする以外の手立てというものを失ったのか?)


 答えは返らない。

 いや、そも、自分は求めていない。

 常に行う問いかけは、或いは、自分自身に向けるに等しいものだろう。

 他人の正気を図りながら、それはその実、を以って己自身の機能を確かめているに過ぎないのだ。

 問いかける力が――自問自答の能力が、検証機能が、未だ、失われていないかを。


(だとしたら――……ああ、だとしたら、それが悲しい……だが)


 


 如何なる事情だろうと、この街に住まう人々の平穏を犯していい理由はない。

 何も知らぬ人々を踏みにじっていい道理などない。

 それを侵す脅威は、推し並べて打ち払う――――己の命題はそれしかない。


「ノーフェイス小隊各機、速度を維持して運動力弾を叩き込め。俺が敵の歩を乱す」

「ノーフェイス2、了解っ!」

「ノーフェイス3、了解っス!」


 まずは、如何にしてアーセナル・コマンド――強襲のために生まれた兵器にその本領を発揮させないか。

 防衛任務は、とどのつまりは、そこに尽きる。

 その歩調を乱し、その進行を砕く。

 それには――――恐怖というそれ以外に、手段は存在しない。つまりは、己の得手だ。


「……勧告はしない」


 言葉を一つ。

 片手で触れるホログラムコンソールで、僚機たちへと指示を飛ばす。合わせて、他のスクランブルに上がった機体たちへも。

 接近する敵予測進路に合わせたゾーンディフェンスのような空域防御。

 空域展開された【炎鳥の黄身クリスタルクーゲル】による対空防御。

 敵誘導兵器や力学的兵器の搭載を加味した防御限界線を設定する――――ここで市街に流れ弾一つでも逃したら、終わりだ。

 故に、


「敵機方向確認」


 全《仮想装甲ゴーテル》――停止オフ

 全出力――――推進系に変換。

 加速開始。会合予想終端速度――


 

 

「――――全機、殲滅する」


 防ぐことだ。

 ただ、防ぐことだ。


 打ち払う悪意を片端から斬り捨てる、それだけだ。


 。 



 ◇ ◆ ◇



 遠雷のように音速の壁を突き破る音が遥か響く空の下、パルテノン神殿めいた行政庁の前には白塗りの円卓が誂えられていた。


 報道陣と、強化外骨格エキゾスケルトンの護衛に取り囲まれる形で……。

 その円卓に、六人が座した。

 会談を呼びかけたマーシェリーナ・パースリーワースの他、保護高地都市ハイランドからは首相と大統領が。

 そして、他に勿論――


「さて。……お初にお目にかかると言えばいいかな? 私は保護高地都市ハイランド連盟空軍・空軍資材軍団――第九空軍副司令官のスティーブン・スパロウ中将だ。【ハシバミの枝ヘーゼルアスト】の実質的な指導者を勤めているよ」

「……ウィルへルミナ・テーラー。四圏共同開発・外宇宙探索船【蜜蜂の女王ビーシーズ】の臨時艦長。艦に合流したテロリストによって父が死亡したために、艦長を務めています」

「ヴェレル・クノイスト・ゾイスト――……保護高地都市ハイランド公安特務憲兵部隊【フィッチャーの鳥】の指揮官だ。階級は、特務大将」


 拳銃使いガンスリンガーの老牧師めいた長身の男、炎髪を翻した仮面の女、老いた銀獅子じみた風貌の老人。

 それぞれの持つ強い威圧感に、大統領は思わず喉を鳴らした。

 ウィルへルミナを除いた各人は、それぞれ、秘書官のように青年を侍らせていた。灰色髪の狼じみたマクシミリアンと、白スーツの美丈夫コンラッド。


 ウィルへルミナ・テーラーは、それらを伴っていない。


 その代わりに――その顔には、仮面舞踏会じみたマスクを着けていた。

 仮面をつけてなお目元から僅かにハミ出す程度に醜い火傷の痕があり、それがかつて襲撃によって負った負傷と彼女は主張し、そして、その怪我の痕が故に仮面の着用を望んだ。

 スパロウ空軍中将はともかくゾイスト特務大将はそれを容認し、マーシェリーナも認めたために、彼女だけは素顔を隠して会談に臨んでいる。


 それでも――……とウィルソン・フィリップ・アームストロング大統領は思った。

 そんなもの一つで表情を隠して有利には運べないというのが、この場だ。

 報道陣や民衆がどう考えているかはさておき、仮にも政治の場の頂に近い場所に両足を載せている彼だからこそ、ここが如何に真剣突き付け合う鉄火場なのかは理解している。


 まず、マーシェリーナが口を開いた。


保護高地都市ハイランドからの希望は、この、軍事的な衝突の即座の停止を。それが市民と、その代表たる議会の意思です。人々は平和を望んでいます」


 そう、静謐とした声で告げる。

 睫毛が長く憂いがちなその美貌だからこそ、なおさらその言葉は映えた。真に国を慮っていると、彼女を見た人間は言うだろう。

 そして、大統領には何より恐ろしくあった。

 声明を出すというなら、判る。或いは通常の連盟議会の政府答弁や行政会議のように事前に質問の条件を告げた上で互いに意見表明をするというのもまだ判る。


 


 いきなり民衆が見守る中でのスピーチやディベートだ。

 そこで何かの失言や失着があれば、それだけで事実に関わらず社会的に首を刎ねられるに等しい会談だ。

 生半な胆力では臨めない。

 言葉という刃が、その起爆コードを切り間違えてしまうことが、己も相手も吹き飛ばしかねないという会談であるのだ。……いや、それに留まればどれほど幸福か。下手すれば言い回し一つで、多くの市民が血を流しかねない。


(……いくら積まれても御免ではないか、こんなものは)


 その正気すらも、或いは疑うほどに。

 言ってしまって引っ込みが付かないとなったら、そんな面子のためだけに、本来なら互いに望めた筈の穏当な着地点すらも崩しかねないのだ。

 その点からすれば完全に馬鹿げていると言っていい。

 己のカリスマ性を演出する政治的なパフォーマンスにしても、何もこんな形でなくていいのだ。

 明らかに劇薬でしかない。

 だがマーシェリーナは、そのリスクを呑み込んでいる。それは決して政治知らずの向こう見ずや若さゆえの不見識ではなく、それらに思い至る聡明さを有した上で――だが敢えてそんな恐ろしい場に三人を引き立てたのだ。


(彼女は祖国原理主義者なのか……?)


 意図が読めない。

 あるとすれば、これを持って徹底的に保護高地都市ハイランドのイニシアティブを確保することぐらいか。心理的には確実に優位に立てる。

 それは、彼女の父親がそうしたように保護高地都市ハイランドの精神的な象徴になるという――そんな意図なのだろうか。

 その場に座した三者は何一つ表情を崩さない。

 そのまま、まず、老獅子が口を開いた。


「……我々【フィッチャーの鳥】はまさしくこの国の――そして生息四圏における国家基盤の安寧と平穏を目的としている。先の大戦の停戦交渉後も引き続いた残存勢力による戦闘は終戦後も散発し……事実として戦争の継続を望む声は、衛星軌道都市サテライトのみならず保護高地都市ハイランドからも挙がっていた。そんな懸念が一つ」


 淡々としつつも思慮深さを伺わせる重い口調で、彼は告げる。


「何よりも――アーセナル・コマンド。この兵器の登場によって、我々の社会はかつてない危機に瀕している。開戦当初のそのように、あの鋼の巨人による強襲攻撃は単機で甚大な被害を齎す。今日での運用ドクトリンや防御戦術の構築により、かつてのように都市一つを焼き尽くすことは叶わなくなったとしても、それはあまりにも容易く防衛線を突破し――――我々は今なお、有効な防衛手段の確立ができていないのだ」


 それは、ウィルソンもまた頷くところだった。

 終戦後に生まれた最大の問題のうちの一つ――アーセナル・コマンドの頭抜けた強襲能力。

 戦車じみた装甲と戦闘機の機動性と大陸間弾道ミサイルの速度を持つ襲撃兵器は、世界を悩ませる頭痛の種だ。


「そのための公安警察機能も持った特殊部隊によって、事態を未然に防ぐべく対処を行っている。……例えば巨大な防壁によって都市を覆うこと、都市そのものを移動式の要塞に組み込むことなどの対応策はあるにせよ……いずれも、全ての国民を収容するだけの手段としては現実的ではない。我が国家と国民の安全を保証しきる手段がない」


 移動要塞都市のみならず地下要塞都市の構想は持ち上がっているが――予算の関係から否定されていた。


「海軍軍事研究所の試算では、対アーセナル・コマンド防衛を行うにおいて、防御側は攻撃側の最低三倍のが求められる。……更に敵の浸透強襲を凌いでなお、そこからは陸戦や空戦の時間だ。この巨人同士の衝突によって都市機能が損なわれるよりも先に、我々は、その根から断つ必要があるのだ……先程の防空対処のような方法では、あまりにも不確実がすぎる」


 あくまでも軍人らしく軍事的な合理性だけから話すゾイスト特務大将の言葉は、しかし説得力が高かった。

 保護高地都市ハイランドは、あの大戦からそれほどの年数を経てはいない。

 つまり――――総力戦じみたそれに参加した国民もまた、ある程度の軍事的な視点を持ち合わせているのだ。或いはそれがなくとも、強襲によって都市を滅ぼされる記憶は焼き付いている。

 その分からも申し分のない言葉であったが――――しかし、老牧師じみたスパロウ空軍中将が静かに手を挙げた。


「そのためなら、多少の犠牲は飲み込むべきものということかな? 君らの苛烈な捜査によって、容疑をかけられた者が――その潔白の証明の後も社会復帰できないほどの被害を与えられているという問題は? また、【フィッチャーの鳥】に属する一部の者は恣意的にその権威を振りかざして軍事的な合理性とはかけ離れた行動をする――という傾向にあると報告も受けているのだけど……それについては、どうお考えなのかな?」


 泰然とした言葉は、必要があれば幾らでもデータで示せると言いたげな響きであった。

 口先の言い逃れはできない――。

 そう表すような鷹揚とした態度のままに彼は続ける。


「夜盗を防ぐために猛犬を庭に放ち……さて、常駐する猛犬の牙によって流れる血と夜盗による被害はどちらが大きいだろう。そして、まず――……そうだね、ゾイスト特務大将。先ほど君の言葉に、この国にさえ戦闘の継続を望む声があるという懸念があったという話だけれども……」


 円卓の面々を見回し、彼は告げた。


「それでも何故、彼処で、戦争が終わったのか。中枢的な居住区ボウルが損なわれることなく、戦いが停止されたか……それは戦後復興の観点からと君もまた理解しているのではないかな?」

「……というと」

衛星軌道都市サテライト本国は、遠からず、それだけで経済圏として再び独立を果たす必要がある。人道的な見地からもそうであるし、経済的な面からも我々が彼らをいつまでも監督しておくことは不可能だ。そして、何よりも明白に安全保障上――――極度の貧困と荒廃は、テロリズムの温床となる。……これは星暦以前の世界における数多の戦争研究からも、示されているだろう?」


 ヴェレル・クノイスト・ゾイストがテロに対する防衛姿勢を挙げたと言うのであれば――。

 彼もまた、その観点からの言葉を敢えて吐き出していたのだ。聴衆の関心がどこに向かっているのかを、しかと認識したその上で。

 被害者がいる、という人倫の話ではない。ともすれば感情論や必要な犠牲と切り捨てられるそれではなく、同じく軍事的な合理性の土俵に上ったのだ。


「つまり我々は――保護高地都市ハイランドは、戦争を正しく終わらせるために、その後も続けぬために、あの形で停戦合意を行った。それ以上の争いの炎が生まれることを厭ったんだ」


 異なる主題によって弁舌を振るうのではない。

 それは、ともすれば、話をすり替えたとも思われる。

 故に正面から――完全に正面から、スティーブン・スパロウ空軍中将は論をぶつけていた。


「君たち苛烈に過ぎる【フィッチャーの鳥】の行いは、それを崩すことに繋がる。そこに渦巻く社会不安や不満……ようやく終わらせた筈の戦いの火種を次に飛ばし、また、新たなる戦いの炎の理由となりかねない行為だ」

「……我々は、極めて合法的に活動をしている。いずれも戦中――戦後に定められた内閣特務令に従った活動だ。決して逸脱した行動ではない」

「しかし、それが満足に働いているとは言えない状況にあるのも事実ではないかな?」

「……というと?」

「監査機能の不全……本来なら軍内にてそれを行うべき憲兵をもその内に抱き込んで、自浄作用が極めて発揮し難い状況を作った。君たちの部隊構築のための憲兵からの引き抜きもそうであるし、何より、捜査における上位権限の設定がこれを後押ししている」


 憲兵の基本的な役割は、主に軍内部での警察機構だ。

 しかし【フィッチャーの鳥】は公安警察機能も有しており、軍民問わぬ強い捜査権限を持つ。それが故に、憲兵さえもその場から遠ざける形での捜査も可能であった。

 スパロウ空軍中将は、ハッキリと言っていた。

 その権能を――彼らは己たちの保身に使っているのだ、と。


「いわば、【フィッチャーの鳥】に対する治外法権――その所属が四軍のどれにも当たらないことが拍車をかけているよ。監査機構である軍部の刑事捜査局さえも、【フィッチャーの鳥】に対して明確に管轄が決定されていない……これは極めて不適切な状況である、と言える」


 その言葉が続けられる。

 巧みな話術だった。

 まずはヴェレル・クノイスト・ゾイスト特務大将が懸念として述べた国家安全保障を一切否定しないまま、糾弾を上乗せした。

 これでは、国家安寧の為だと言うエクスキューズが使えない。


――――それは皮肉の言葉であるだろうけど。だけれども本来ならば歴然と軍に存在している自浄作用が、軍事組織にあるべきものが、君たちの行いに対する抑止力が、まるで存在していないんだ」


 聴衆にも判るように明白に。

 彼は、その問題点を議場に引き出した。


「それとも……ああ、それとも君たちはこう考えてでもいるのかな? 仮に彼らの逆恨みを買ってもう一度戦いが起きたとしても――圧倒的な軍事力でそれを消してしまえばいい、と」

「……」


 おそらくは、衛星軌道都市サテライトへと嫌悪感を懐き――そして強硬論者なら口にするであろう言葉を代弁するかのように、スパロウ空軍中将は言った。

 そして当然、


「……無論、懸命な君がそう考える筈がないとは判っているよ。アーセナル・コマンドという兵器の存在への、どこからでも市民の方々を焼かれかねない懸念からの、公安機能を得た【フィッチャーの鳥】だ。……?」

「……」


 ――彼は否定する。


 その論を持ち出したが最後、彼ら自身ののだと突き付けて。

 当然、ゾイスト特務大将もそんな言葉は発するつもりはないだろう。

 一部の保守派や強硬派の支持と引き換えに、市民の大半は眉を顰める言葉なのだ。戦争の記憶も新しい今、戦闘によって何が失われ――どれだけ損なわれるのかは、市民自身が知っている。


「積み上げられた社会不安と怨恨……そしてそれはあまりにも深刻だった。……終戦後は息を潜めていたはずの先程のような残党たちの活動が活発化し始めた。……何故か? それは、さ」


 まさしくあれこそが証左であるそのように――


「少なくとも、だからこそ我々は組織の結成を行い――最終的に今回のような軍事的な強制力の行使しか、最早選べる手段がないという結論に至った。君たちによる人権への侵害は、非常に根深く、そして危険な状態にあると」


 スティーブン・スパロウ空軍中将は、然りと頷いた。


保護高地都市ハイランドはさておき――衛星軌道都市サテライト海上遊弋都市フロートにおいての反【フィッチャーの鳥】の熱は高まっている。このままでは分断された地球圏の意識が、再び、大地を焼きかねない。今ここで誰かが増長する【フィッチャーの鳥】の横暴に歯止めをかけなければ、そんな最悪に辿り着く未来が見えてしまうとね」


 それを聞き守りながら、ウィルソンは内心で喜ばしげに頷いた。

 戦後議会において大統領権限の増大を見込んだ旧米国閥は、まさしくその権力増大との引き換えに今回の内乱によって民衆からの引責と批難を受けていた。

 だから――ここでスパロウ空軍中将が【ハシバミの枝ヘーゼルアスト】の正当性を説くことは、少なくともある程度の追い風になるのだ。少なくとも利敵行為を行う軍人たちや統制不足による内乱ではなく、そこには民衆にも明白な言い分があってのものとなる。


 それが果てには意見の分断に繋がるとしても――正義と不正義ではなく、正義と正義の構図が望ましいのだ。統制という立場においては。


(……よし。これで少なくとも課題の一つは解消されたな。あとは――……)


 今はあの大戦の反動から、民衆にも保守論や強硬論が目立つ。

 首相のように議会からの指名を経ずに成る大統領である彼にとっても、そんな支持者たちの声は無視できないものであり――――畢竟、軍部出身の新騎士コンダクタとばかり強く手を結ぶしかなかった。

 だがこれで風向きがある程度変わるならば、新騎士コンダクタと対立構造にある新貴族デファクタと呼ばれる企業出身の議員たちとも連携した政策を打ち出せる。

 そう頷く彼へ、


「……我々の兵士の職務について問うならば、その質について問うならば――……重大な規律違反を行う軍人が多く存在している、つまり【ハシバミの枝ヘーゼルアスト】に参加しているというまさにそのことが、翻ってそのような兵士の質の低下を示すのではないか。……諸君らの存在が、つまり身辺調査にて十分に問題ないと判断される兵士の確保が叶わぬ事が、事態を悪化させている証左だ」


 ヴェレル・クノイスト・ゾイストは、ウィルソンが言祝いだその構図を塗り戻しにかかっていた。

 咄嗟に、スパロウ空軍中将を見た。

 その反論を望み、そして、


「ゾイスト特務大将。順序が逆だよ。【ハシバミの枝ヘーゼルアスト】は、君たち【フィッチャーの鳥】が結成された何年もあとに作られたのだから」

「……結成の年代と、兵士としての質の問題は別の話だろう。一朝一夕に成り立つ組織ではなく、それは地続きなのだ。如何なる――如何なる理由にせよ軍規を犯すことを視野に入れる軍人が、正常な軍人として公安部隊に選抜されることは考えにくい」


 確かに。

 本来ならば公安任務というのは、高い守秘意識や国家への帰属意識と不可分な職務である。


「諸君らが行うべきは、いたずらに戦いを引き起こすことではなく――兵士としての献身を以って、組織の健全化に務めることだった。考えはしなかったのだろうか……己たちの行いがこの先に何を生むかを」


 やおら、円卓の上で指を組んだゾイスト特務大将が口を開いた。


「諸君らに崇高な目的意識や大義がある――そう仮に認めるとして。諸君らの行いは、間違いなく、軍人としては不的確な行動だ。いや、民主主義国家の市民としては避けられるべき行動だ」

「……」

「人権委員会に訴える訳でもなく、連邦国家裁判所へと争う訳でもなく、諸君らは武装蜂起を行なった。……これは果たして、近代国家にあるべき軍人の姿だろうか?」


 あくまでも彼らの存在と行動が、誤りであると主張する言葉――――。


(……まぁ、消されかねないからな。公安捜査にかこつけて。口に出さないだけで皆そう思ってるだろう?)


 そう、ウィルソン大統領は何とも言えない顔をした。

 些か陰謀論じみた話だが……新騎士コンダクタのような政治勢力との結び付きもあり、またその苛烈化し先鋭化する捜査もあって、事実として【フィッチャーの鳥】に不都合な公然とした批判は出血を伴う面がある。

 少なくとも保護高地都市ハイランドでは表立って多くは確認されていないが――……衛星軌道都市サテライトなどで、人間がいるのは事実なのだ。


 そこを指摘されてしまうと、不味い。

 しかしそこを指摘しなければ、【ハシバミの枝ヘーゼルアスト】は不良軍人の烙印を免れない。

 どちらが望ましいものかと考えながらスパロウ空軍中将に目線をやったが――……彼はどうも、その点で論争を起こす気はないらしい。何故だろうか? 陰謀論めいた話で世論が分かれることへの懸念でもあるのだろうか?

 そうしていれば、当然、ゾイスト特務大将は言葉を続けた。


「ここで正規軍人が武力蜂起を起こしたならば――今後の歴史において。同様に武装蜂起を行う軍人が出ないと何故言い切れる? そう、まさにあの終戦直後のクーデター未遂事件のように――国の決定を不服とした軍人が、国家へと銃を向けないと」


 【血の薄明館】事件。

 そこに居合わせた空軍大尉が、クーデターを起こした同期将校を射殺してまで対応した事件だ。

 ウィルソンの娘も、巻き込まれていた。


「諸君らに明白な正当性が真実あるならば、良いだろう。だが……その時に行う者たちにあると言えるだろうか」

「……」

「そこでもやはり、問題になるのはアーセナル・コマンドだ。この兵器が存在する限り、そこに有効な対策を打ち出せない限り、この世界は常に焼け落ちる力を内包する。諸君らのような主張を持たぬ者たちでさえも、


 やはり、論はそこに帰結すると――ヴェレル・クノイスト・ゾイストは手振りで潮流を引き戻した。


「全てに――全てに優先するのだ。アーセナル・コマンドという兵器を封じることは。諸君らの主張にも、我々軍人の本懐にも。まずはそれが、何にも並ぶ大前提であるのだ。……雨風や野の獣と遠ざかるために、我々が、家を作ったのと同じように」


 国家安全保障。

 そして、あの大戦を踏まえた人々の持つ危機感を刺激する言葉。

 一旦はスパロウ空軍中将に引き寄せられつつあった話の主権を、彼は取り戻していた。


 そう――――結局は。


 恐ろしいのだ。皆、恐ろしいのだ。

 あのような兵器がまた己の都市に出現し――再び戦いの渦に巻き込まれてしまうことが。

 それが、何よりも恐ろしいのだ。

 いつの日かの衛星軌道都市サテライトからの復讐などではない。自分と異なる地域の、それもあの宣戦布告を経ない爆撃を仕掛けてきた者たちへの人権侵害ではない。

 本当に純粋に、皆、焼かれたくないのだ。


(……うん、まあ、これはこれで。危機は真実であるし――少なくとも一つは、懸念が解消したからな)


 完全な無法者ではないと、【ハシバミの枝ヘーゼルアスト】のことを民衆に示せただけいいだろう。

 それだけでも甲斐があったと、麗しのパースリーワース公爵へと目を向けたときだった。


「……だからこそ、私は思う。諸君らが真にこの国を案じ、そして優秀な兵士であるというならば、今こそ【フィッチャーの鳥】に加わり、より組織そのものを高めていくべきではないかと」


 ゾイスト特務大将の言葉は、それまでとはまるで毛色が変わったものであった。

 彼は静かに拳を握り、


「――――


 そう、重苦しさを漂わせた声を上げた。

 パフォーマンスだと、ウィルソン・フィリップス・アームストロング大統領には分かった。

 おそらくこの円卓に座すものは皆様、読めただろう。

 だが――きっと民衆は違う。

 ゾイスト特務大将こそが、切実に、心の底からこの国の未来を慮っている男だと知らせるには十分だった。十分であり、布石だった。これから彼の為す提案への支持を集めるためには。


 そして――彼は言った。


「国家が許すのであれば、必要な調査を行った上で、重大な戦争犯罪を行った兵士以外は――【ハシバミの枝ヘーゼルアスト】に参加した兵士に対して、保護高地都市ハイランド連盟軍への復帰を、それどころか【フィッチャーの鳥】への参画を呼びかけるつもりだ。ないしは、その、として組み込むことも視野に入る」


 優位であるその立場から、敢えて譲るような形での手打ちの提案。


「……確かに、前大戦により寸断された通信網によって、末端にまで十分な統制が行き届いていないという事実が存在し得るかもしれない。そも、あの保護高地都市ハイランド衛星軌道都市サテライトの争いがそうであったように――宇宙と地上は互いに隔たっている。ましてや宇宙は今、前線とも呼べる場所だ。そこでの価値観と、地球に座しての価値観の共有が万全ではないということもあるだろう」


 そして、一部の事実を認めた形にしつつも、それが仕方のない出来事であると思わせるような口ぶり。

 全ては、終戦から三年という短い歳月で――人々の記憶からも冷めやらぬからこそ、出せる言葉。


「我々に、宇宙は、広すぎる。……ならばこそ、卿たちのような分断を避けるべきではないか?」


 上手な軍人は戦いの終わらせ方をこそ考えるというが――ヴェレル・クノイスト・ゾイストのそれは、まさにその言葉をウィルソンに思わせるものだった。

 今後の事例を防ぐためにも非難すべき部分は非難し、しかし、決して【ハシバミの枝ヘーゼルアスト】とその支持者のメンツを潰し切らない。

 更には今後の【フィッチャーの鳥】への批判追求を躱す下準備と、戦力の増強。

 何よりもそれを、彼から提案したという優位。


 若き時分は剃刀のような切れ味と称された男は、老いと共に老獪さを身に着けていた。


新騎士コンダクタが今後勢力を増すだろうが……まあ、幸いにして悪い関係ではないからな。これならこれでいい)


 あとはどうにでもなる。

 表向きは確かに監査機構を設けたとか、内乱に及んだ兵すらも受け入れたとしつつ――……裏ではどうとなりとも扱える。

 少なくとも、いずれは組織の健全化を行うとしても、今の段階にあっては表向きさえ取り繕えば数年は持つだろう。【フィッチャーの鳥】に痛手はない。

 それをスパロウ空軍中将も読んだからか、


「ゾイスト特務大将。……我々【ハシバミの枝ヘーゼルアスト】からは、【フィッチャーの鳥】こそが故意に宇宙と地球の価値観を寸断しているとしか捉えられないものだけどね。騒乱を敢えて起こそうとしているのではと、そう思える。果たして本当に、【フィッチャーの鳥】に四圏の安寧を保つ意図はあるのかな?」

「……事実として、一部の残党における大規模テロ被害を防いだのは【フィッチャーの鳥】だ。それは疑うべくもないことだと思うが?」


 そう告げたものの、どこか、気勢が弱い。

 【フィッチャーの鳥】の不法行為について言及すればそれを引き戻せるとウィルソンとて思うが――……腐っても空軍中将であるからなのだろう。

 そんな、ともすれば民衆からは陰謀論のようにも思われかねない……つまり国家を二分するような言葉は避けているふうに思えた。或いは、軍の権威の失墜と、それに乗じたテロリズムへの警戒だろうか。


(……片手封じのような状況だった訳だ。そしてお互い、それを織り込み済みで話していた――と)


 そう、ウィルソンは頷いた。

 最終的に勝敗を分けたのはそこだ。

 スティーブン・スパロウ空軍中将もまた保護高地都市ハイランドが焼け落ちることを厭ったからこそ、そこでは使えない手札があった。或いは、より良い札を引かなければショーダウンできない札があった。


 何にせよ、ここからの結果は見えてると思ったその時に――


「……この場は水掛け論のために誂えられた場ではない、と私は考えますが」


 それまで口を噤んでいた炎髪の少女が、言葉を発する。


 その仮面の奥で、鋭く目線が尖った――そんな気がした。


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