【180万PV感謝】機械仕掛けの乙女戦線 〜乙女ロボゲーのやたら強いモブパイロットなんだが、人の心がないラスボス呼ばわりされることになった〜
補話【三】 鍵盤、或いはハンス・グリム・グッドフェローとマーシュ・ペルシネット その二
補話【三】 鍵盤、或いはハンス・グリム・グッドフェローとマーシュ・ペルシネット その二
酷い耳鳴りがする。
室内に、煙が充満していた。
粉塵と、白煙と――――硝煙。
『クソッタレ……
近くの兵士が叫んだ――――三十二歳。この間、戦地で妻と再会していた。子はいないと聞いた。
その頭部が、19.05mm弾の直撃を受けて破裂する。
飛び散る脳漿よりも、頸動脈から吹き出る血液が天井に達するまでに至っていた。
『ちくしょう……機体に乗れさえすれば……!』
そう咄嗟に腰の拳銃を抜いて応射した者も同様に、隠れた机ごと引き千切られて血煙に変わる。
出撃前のブリーフィングは、地獄絵図と化した。
ある種の――首刈り戦術。
彼らは大規模な空軍も持たなければ、機甲師団も砲兵も持たない。宇宙艦隊も現実ではない。宙間
それ故の――機体搭乗前の
彼らの軍がまさに得手としていた分野において、その襲撃は行われた。
元は地上で生まれたその技術も、その地政学上――宇宙服や宙間作業服の発達が必要とされた彼らこそがノウハウで勝る。装甲性と軽量性の両立、つまりは隠密性においても地上のそれを上回っていた。
こちらが何とか一人仕留め、機動警備小隊がかけつける頃には、中隊の大半のメンバーは獣に食い荒らされたような死骸に変わっていた。
それが故だ。
陸軍との共同駐屯地の中の、武器庫にて。
建てられてそう間もないというのに埃っぽくて薄暗く、変色した壁には銃器が収められた棚が並び、空気中には銃火薬の匂いが漂っている。
その中で――弾薬管理担当の短髪の女性兵が、ぼやく。
『無茶ですよ、生身でこの銃を扱おうとするなんて……これは本来、
目の前のガンテーブルに鎮座するのは、“
殺風景な作業机の上のその
その角張ったフォルムは、一見すると死へ繋がる黒曜で作られた石畳の道を思わせる。そして、その拳銃として狂ったような長身は、対象たちを一瞬で狩り尽くす冷静さと計算力を象徴しているかのようだった。
ルイス・グース・ガンスミス社製の五十口径12.7×55mm弾・五連装リボルバー。
同口径の同社ライフル弾を装填可能な近接対装甲拳銃。
全長371mm、銃身長255mmの怪物。
『問題ない。……俺は全てに備えている』
『ですが……』
『
手に取れば、冷ややかな死の予感が手の内に滲み出す。
カチリと、シリンダーが音を立てて展開した。
戦慄の予兆――恐怖の予兆。この銃が戦闘態勢に近付くという存在感が、生物的な太古の本能をも刺激する。
『
『そりゃあ、防弾ベストでも役に立ちませんからね。コイツを前には……。軽装甲車だって、百メートル以内だったら正面から確実に撃ち抜けます』
『そうか。……頼りになる』
女性の口紅よりも大きな弾薬は、死の女神の口付けには相応しいか。
手元の12.7×55mmの弾薬を一つ一つ確認しながら、リボルバーのシリンダーに装填していく。五つ。四粒でペルセポネーが冥府に留まる理由となった
熟練のピアニストが鍵盤を撫でるように、その巨大さに比してあまりに静かに一発一発が呑み込まれていく。
腹を満たしたこの獣――銃は、強い存在感が形となったような重さと共に右手にのしかかった。
『歩兵用のグリップに置換したのも、冗談のつもりなんですよ。どれが最強の拳銃だ、なんてガキみたいなバカの話で酔って殴り合いになるぐらいまで盛り上がる奴らもいたもんで……これだったら、象どころか悪魔や怪物やドラゴンでもブッ殺せるだろうって』
『そうか。殺すのは、竜ではなく
『いや、ですから……』
まだ話を続けようとする彼女を一瞥して、金網と防弾ガラスに囲われたシューティングレンジに向かう。
投射型のホログラムが蛍光色のガイダンスを作る無菌室めいて白いシューティングレンジ。
現実に存在するトルソー型のスケルトンターゲットと、その上に被せられる拡張現実のターゲット。十メートルのあちらに立ちはだかるのが、昆虫じみた
そのまま――まずは胴部に一撃。
一瞬、目の前が火炎に包まれるようなマズルフラッシュが襲いかかった。それこそ竜が吹く炎じみている。弾は僅かに下に逸れた。反動を警戒しすぎたようだ。
『……マジかよ、この人』
フライトジャケットの下には
そのまま、続けて撃つ。
まずは一秒に五発。それを目標とし、連射する。
狙いはやはりその胴部と腹部に。
『あー、その……〇.九二秒です。中尉どの』
『まだ大きく余地があるな』
『……マジかよこの人』
確実に仕留めるなら、相手が引き金を引くだろう時間――どう遅く見積もっても〇.三秒のその間に、こちらは二発は撃ち込みたい。
この骨まで痺れる反動の強さが、これほどまでの低速での射撃となる理由か。
あとは日々の訓練で調整するとして、
『シングルアクションも可能だな?』
『そりゃあ勿論……ところで、何を考えてるんですかね』
『抜き撃ちを』
『……マジかよ神様』
それがリボルバーを用いる一番の目的だ。
機構の堅実性もある。発射不良への備えもある。大口径の運用が比較的容易というのもある。ただ、一番は如何に敵を即座に仕留めるかという点においてこれを用いている。
とはいえ、これほどの重量と銃身の武器を扱った経験はない。それを如何にして埋めるか――そして万全に敵を殺傷する武器にできるか。それに、全てがかかっている。
呼吸を一つ。
幼少期から費やした反射と反撃の訓練のために、平常のリボルバー拳銃なら〇.〇三秒ほどで抜き撃ちが可能であるが……果たしてこの巨大銃を用いてどれほどの速度が出せるかは疑問が出るところである。
『あの……失礼、空軍中尉殿』
『何か?』
『……動画を撮っても?』
『……。……機密保持に抵触しないのであれば』
『すげえな……ジョナサンの奴、喜ぶぞ……! さ、どうぞ中尉! 存分にやっちまってください!』
『……同僚か?』
『いや、息子です。六歳なんですよ。古典物の西部劇が大好きで……いつもビデオを見てるって母が』
『……、……そうか』
そうして自分は、対装甲用の武器を手に入れる。
その後も数度に渡り、
その度に多くの犠牲を出し、しかし、自分は生き残った。それは、ひとえに、この銃によってだろう。
◇ ◆ ◇
その銃は、今も、自分の腰のホルスターに収まっている。一度も手放したことはない。
少なくとも軍人であり、
ともあれ……今は銃ではなく、大事なのは料理だ。
料理に集中したい。
集中したいんだけど、あんなこともあって何か気まずいのでカウンターで隣に座る彼女へ話しかけることにした。
なんで店内はまだ空いてるのに隣に座るのかは判らないが、この気まずさを狙ったのなら見事な作戦だろう。
さて。彼の故郷の料理といえば、羊だとかジビエだとか。聞くにどうも、本来なら、あまり香辛料などでの味付けはされていないそうだ。
羊のいくつかの内臓にハーブとタマネギを混ぜた詰め物系の料理が名産らしい。この店では、それに衣をつけて揚げていた。
あと、ジャガイモ。マッシュポテトのパンケーキ。それと、美味しそうに野菜が煮込まれたスープ。
ナイフを手にとって――ぎょっとした。
隣の少女は、音もなく食べ始めていた。食器と皿が立てる音が全くしない。かなりの上流階級出身なのか……如何に高級クラブと言っても、そのような場所でピアニストをしているのが信じられないぐらいだった。
「……何か?」
フォークで料理をその小さな口に運びつつ、不躾な視線だと言いたげに美貌のピアニストは眉を寄せた。
内心での咳払いと共に、
「……あれから、問題は」
「問題? それは、予定を空けてもいいと思ったのに袖にされたことかしら?」
「いや……」
「そうね。別に、特に何もないわ。しつこい方には、貴方の名前を出させて貰ったから。……有名なのね、貴方」
「悪名だ」
やむを得ず終戦パーティで居合わせてしまったクーデターの対応を行ってから、それからあることないこと噂される。
曰く――折れたサーベルでテロリストを切り裂いた。
曰く――――素手で人間を引きちぎった。
曰く――――――参加者である戦友ごと殺した。
曰く――――――――一瞥して料理を食べなかった。
曰く――――――――――助けた女の子を口説いた。
全部嘘。大嘘だ。
儀礼用の刃引きされたサーベルを目玉に突き立てて殺しただけであり、素手で首の骨を折っただけであり、参加者の戦友が首謀者の一人だったので殺しただけであり、ご飯は食べたかったのに食べ損ねただけであり、女の子から口説かれたけど助け終わったあとは悲鳴を上げられて会話にもならなかっただけである。全然違う。本当に違う。
特にせっかくの料理、絶対終戦記念だけあって美味しい料理だった筈なのに全然食べれなかった。何故かコックさんがやたら強くて二人で色々とやったが、そんなことよりご飯を食べたかった。今も食べたい。
「すぐに考えを飛ばすのは貴方の癖なのかしら? ねえ、無口な
「――――」
「……どうかした?」
怪訝そうに、マーシュ・ペルシネットが目を細めた。
「……その呼ばれ方が、懐かしかっただけだ」
「懐かしい、って……?」
「あれは――……そうだな」
幾人か、自分のことをそう呼ぶ人間に出会った。
いずれも郷愁めいた懐かしさを伴い――……
「特に君に話すことでもないと思える」
「あら。この間の侮辱の、埋め合わせとしても?」
「……」
やけに棘がある。
この間も思ったのだが、彼女はかなりプライドが高い女性らしい。確かに――……確かに頷けるところではある。
その美貌や身体付きを見れば、さぞ男性から熱い視線を向けられるだろうし、そんな選ぶ側の絶対強者であった彼女からしてみれば、わざわざ胸襟を開いたというのに後ろ足で砂をかけられたのは一ヶ月前とはいえ相当記憶に新しいだろう。
喋るよりも、ご飯を食べたい。喋ってると食べられない。冷めてしまう。つまりよくない。
しばし無言でナイフを動かそうとしたが、手を止めてジッと眺められてしまうとどうにも悪い気がしてくる。仕方なく、口を開いた。
「昔何度か、そう呼んでくる人間がいた。その内の何名かは、死んだ。もういない。……他も生きているかどうか」
「……」
「君のようにピアノをやっていた少女も居たが――……」
振り返りながら答えれば、
「どんな子、だったの?」
カウンター上で身を乗り出した彼女が、こちらの肩に手を置きながら問いかけてくる。
近い。こそばゆい。
そうされると顔を背けることもできず、そのままやむを得ず答える他なかった。
「特に覚えていない。生きている人間のことを覚えるのは、思い出すのは、不得意なんだ。……おそらく、あまり大した話はしなかったのだろう」
「……」
肩口でされる、小さな吐息。
「……そ。つまらない男」
彼女は、それで興味を失ったようだった。
また黙々と料理に向かい出す。
こちらも改めて、ナイフとフォークでそれを解体していく。
(……秘密、と言われたから話すべきでもないだろう)
流石に――どう遠ざかろうとも、恩師とその孫のことは覚えている。
たとえそれが、戦火と硝煙のベールの向こう側に行ってしまったとしても。
その細部までが、正確に思い出せないとしても。
あまり多く、深くを語った訳ではない。
ただ――約束した、ということは覚えていた。
◇ ◆ ◇
十七歳のときだった。
メイジー・ブランシェットとの婚約から二年たち、そろそろ、手紙の内容にも悩み始めて来た頃だ。
恩師――タイム・パースリーワース教授の死。
結局、一度とて生身で顔を合わせることはなかった。彼からはこの世界の歴史学や地政学を踏まえた政治学を教わっていたというのに、直接顔を合わせて礼を言う機会もなかった――……正しく言うならば、すべてを研鑽に費やす自分がそのような長期での旅行を行わなかっただけだ。
始めて直接見る恰幅の良い老紳士のその顔は、穏やかに眠りについた死に顔だった。
かつては議員を努めていたというのもあり、公爵であったという身分もあり、その弔問客は多い。
ランピオネールという古くは欧州と呼ばれた土地の一画の貴族――上院議員を務めていた彼は、その家督を息子のセージ・トビアス・パースリーワースに譲り、好々爺として大学で教務の鞭を執った。
その元生徒。議員時代の知人。
その中には彼の息子とその妻は見えず――多くの人混みに辟易して、その大きな教会の廊下の長椅子に腰をおろしたときだった。
『……』
天井を見上げれば、高く遠い。
人工光の圧倒的で無機質な明るさなどなく、取り入れられる自然光は僅かに薄暗さを残している。
鉛筆のように細い窓から差し込む世界の喧騒とはほど遠い静穏な光。それでも聖堂内部に散りばめられた煌めくキャンドルは、そんな暗闇を押し戻すように光っていた。
吐息が漏らすと同時に、ふと気付く。
自然光の室内にあっても抜けるような白い肌と、闇を吸い上げたように黒い衣服。その上に流れ込むかの如く踊った豊かな強い栗毛色の髪。
絵画と見紛うた、喪服の――童女。
ゴシック朝の美術品じみた儚げな少女が、僅かな距離を離して静かにベンチに腰掛けていた。
大それた弔問客ばかりのそのような場に、あまり相応しくないと思える喪服姿の幼い少女。
それは繊細なレースやビーズで飾り立てられ、彼女の小さな体には大きすぎるものの、むしろそれが彼女の華奢な身体を引き立たせていると言うべきか。
その年齢を加味してなお、浮世離れした美貌。熟練の職人が天才的な技術で創り上げた精巧なビスクドールにすら見える。
ふと、思い至った。
彼はおそらく、教授が話していた孫娘の――
『お父様とお母様は、わたしには辛く当たるわ』
声をかけようとすると、こちらを一瞥しようともせず黒服の少女はそう呟いた。
『だから、わたしを通じても無駄よ。……今日だって、この葬儀には来ないわ』
儚げな声色ながら、淡々とした明晰な口調。
どこか憂いがちなその表情は、おおよそ子供らしさとかけ離れている。早熟という言葉で片付けていいものか。
そこで、彼女の言葉が気になった。
虐待――……その被害の一つに、年不相応の精神年齢というものがある。過度の成熟や過度の幼稚。どちらも表裏一体のものだ。
『……それでも貴方は、わたしに語りかけるの?』
そこでようやく少女は、緩やかにこちらを眺めた。
琥珀色の瞳。もう少し色素が薄まれば、橙色にも見えるかもしれない。
『それとも貴方は、わたしを助けてくださる?』
遠く、荘厳なオルガンの音色が響き渡り、現実感を薄れさせる教会の中で、まるで物語の一説のような少女がこちらを見詰めてくる。
壁面一面に、崇高なステンドグラスが輝く。
そう伺う少女へ――こちらはゆっくりと首を振った。
苦難にあるなら手を差し伸べるべきだと思う。
だが、
『それは裁判所の管轄だ。俺の力の範囲外だろう。……だが、具体的にどのような件があるか、可能なら話せるだろうか? 場合によっては今すぐに保護を訴えるべきだ。そのためになら、いくらでも力を貸せる』
『――――』
『……何か?』
息を止めるように。
その瞳を大きな丸にした少女が、改めてこちらに向き合いながら問いかけてきた。
『お父様とお母様を、裁判所がどうこうできると思う?』
信じてもいいのか――と、問うような瞳。
遠く音の唸りが聞こえてくる静謐な教会の空気が、こちらと少女の間には漂っていた。
何にせよ、こちらから言えることは一つしかない。
『ここは法治国家だ。そして、法の下の平等がある』
『……公爵よ?』
『それが何か? 如何なる身分も、法の下の特権を意味しない。行政に対する参画権という例外はあれ――……刑法は適用される。他と変わらずに』
それは、理念だ。
現実とは異なる面もあるだろう。
少女も、幼いながらにそれを知っているのだろう。
だから、
『されない、と言ったら?』
『されるだけの証拠を集める。その中で君にも協力を求めるだろう。……状況を聞かせてほしい。いや、言いにくいなら公的職員やカウンセラーに打ち明けるべきだ。彼らは、職務においてその守秘義務を持つ。俺などの素人よりも心配はない筈だ。……俺にできるのは、その公的な援助までの手助けだ。その範囲でならあらゆる手を尽くす』
『――』
『どうした? ……それほどまでに、早急で深刻か』
無礼であり、事案にもなりかねないが少女の服の下を改めるべきか。
仮に、公爵という立場を利用して娘にそんなおぞましい行動を行っており――そして精一杯の助けを彼女が求めたというなら、自分はその声を無視してはならない。
多少のリスクなど、知ったものか。
そう思い手を伸ばそうとすれば――ベンチから立ち上がった少女は、氷の美貌から花を綻ばせるような高貴な笑みを浮かべていた。
……ああ、つまりは。
『今のは、嘘よ。……そう言ったら愛想笑いで気まずそうに済ませるか、逆に自分が何か力になれないかとやけに親身そうに聞いてくるかなのに――ええ、魂胆が透けてみえるほど』
『……』
『でも……そう。面白い人ね、
『……ここが法治国家である以上、これが最も望ましい対応だろう。そうでないものは親権がある以上は逆に法に問われかねないことであり、また、正しく君の手助けをするならば個人ではなく社会の保障を利用すべき案件だ。個人間での援助や補助を否定しないが、厳正に対処されるべき問題に関しては通すべき筋道がある』
そう言えば、
『……貴方がリスクを負いたくないから?』
『君が正しく助けられるべきだからだ。……苦難の中でそれでも声を上げたなら、俺は、報われるべきだと思う。そこに万一の誤りもあってはならない。何一つもだ』
『だから貴方は騎士道も捨てる? 臆病者と呼ばれても? 見事な守護者という称賛を得ようともしない? ……相手を救うことより、相手が救われることに重きを置いているのね。貴方は』
こちらを分析するように覗き込んだ黒衣の少女は、また、ベンチに腰を下ろした。
先程よりも近く。
こちらの隣に。
ほんの少し、そのパーソナルスペースを詰めていた。
陰影につつまれたこの場所では、葬儀に参列した人々の声も遥か。聖歌隊の歌も遠い。
荘厳で神聖な空間の中の外れ者同士が身を寄せ合うように、静かな祈りを捧げるかの如く穏やかな声で少女は呟いた。
『貴方、本当に面白いわ。……お祖父様から聞いていた通り』
『……どのように?』
『騎士道物語に出てきそうな方。それも融通がきかないせいで、色々と損をしながら無理難題の中で旅をする』
『………………』
故人からそんなふうに思われていたのは、ちょっと衝撃だった。若干の悲しさがある。
講義をしてくれてるときも――ああこの子は損をしながら無理難題の旅をするんだろうなあ――なんて裏では思われていたというのか。
いやちょっとショックだ。どんな顔でこちらの師事を受け止めてくれていたんだろう。
なんて考えると、ああ――……と思えた。
その真相を聞くことはできない。真意を確かめることもできない。
彼と語り合うことはできず、今回の話を聞いた彼が笑いながら言い訳することもなく、彼と自分の話にもう続きはなく、つまりはそれが死という長い別れということだ。
ようやく、ここで、実感が湧いてきた。
『……そうか』
聖堂に流れるオルガンの音は、神聖さを加速させるようなものだった。廊下の壁に沿って飾られた絵画の木枠にすら低く反響する音は、荘厳かつ神秘的で、広大な教会内に広がっていく。
この、置き去りにされた廊下ですらも例外なく包まれる。それは音がある故の、真逆の、一層の静謐さだ。
教会内に響き渡るだけでなく魂を揺らし、心の波と一体に震える。だからこそ、ただ静かに謎めく感動と慰めを齎すのだ。
それは信仰者たちの心の中で――故人への哀悼や、神への祈りを穏やかなものに変える鍵となるのだろう。或いは、こんな己にすらも。
(……教授。異邦人たる俺の、師よ)
ああ――……もう二度と。
タイム・ヒューゴー・パースリーワースは、亡くなったのだ。
あの恰幅の良い男性の、鷹揚とした笑い声を聞くことは二度とない。彼との講義の時間は訪れない。自分の記憶の中に――――いずれ旅の果てに色褪せてしまう記憶の旅の中にしか、もう、彼という男はいないのだ。
それが怖く、酷く悲しかった。
『……』
こちらを見上げる少女が、僅かにそのワンピースの裾を握り締める。
それから、小さな彼女は涼やかな声で言った。
『決めたわ』
『何を?』
『わたし、貴方に恋をすることにしたわ。……騎士との恋。それなら、わたしにも、物語の心境が判るかもしれない。貴方、全然タイプでもないのだけれど』
『………………』
なに。
それ。
『そういう場面じゃないと思う』
『恋は突然に、なんでしょう? お父様とお母様はそう言っていたわ。なら、逆に――突然すれば、それは恋と呼んでいいのでなくて?』
『……必要条件と十分条件の違いがある』
『恋の前には、些細なことでしょう?』
『……………………』
そのりくつはおかしい。
多分おかしい。きっとおかしい。何もかもおかしい。
彼女が本気でこちらに恋をしたというなら、年齢差を鑑みた上でそれでも真剣に応対するだろうが――……だがこれはなんだろう。
恋って、やろうと決めてそう呼ぶものだっけ。これは違う気がする。絶対違う。こんな事務的ではない。何か定義とかじゃない。それはちょっと人の心がない気がする。
どう答えるべきか考え、
『……その、あの、俺には婚約者がいる』
『へえ。どんな方? 何歳? どこにお住まいでいて?』
『……………………あの』
言わなきゃ駄目か。
言ったら不味いか。
結局言っちゃった。駄目だった。
すると彼女は、その幼いながらに高貴な表情から、満足そうに頷いた。
『なら、わたしが恋をしても平気ね。安心したわ』
『いや平気じゃない。どう考えても平気じゃない』
『いいえ? その年齢相手でも、貴方がそうも真剣に婚約関係を守ろうとしていると分かれば……つまりわたしでも問題ないということでしょう?』
『問題しかないが。どう考えても問題しかないが』
なんで婚約者がいるって言ってるのに踏み込んで来るんだろう、この令嬢。わかんない。なんで。ひょっとして悪役令嬢なんじゃなかろうか。
普通に考えて、これまで、あれから何度か女性に誘いをかけられる機会にも稀有にして恵まれたが――大体そう答えると相手の反応は二つだ。
一つがちょっと寂しそうに笑ってから諦めてくれる人。
もう一つが、そのまま食い下がってこちらの話を詳しく聞いてからドブ川ロリコンミンミンゼミを見るような目を向けてきて唾を吐きかけながら平手打ちしてくる人。
どっちか。基本ひりひりした。
目の前の少女は違った。
むしろチャンスであるかのように僅かな笑みを浮かべ、というかそもそもが恋ですらない何かの打算からの申し出だ。そもそも意味がわからなかった。
というか、こう、子供から告白されても困る。本当に困る。自分の中での印象は大体固定されるから、仮に彼女がどう成長しても自分の中で子供のままだ。困る。応じられないし――というかこれは何なんだろう。応じるとかそういうものなのだろうか。わかんない。むつかしい。助けて。
なのに、
『問題ないわ。先にわたしと結婚して――その後、愛人でも好きにしたらいい。入婿で貴方も貴族になって……ならほら、妾の一人ぐらいは貴族の嗜みでしょう?』
『……、……、…………』
『どうかしました、
その言葉に、急速に頭が冷えた気がした。
オルガンの音が、不協和音の如く響き渡る。
『それは……君のご両親も?』
『いいえ。愛人が入る余地なんてありませんもの。……ただ、そんな話がパーティでも聞こえてくるだけ。便利よ、演奏って。わたしのことを壁の花と同じと思い始めるのだから』
『……』
法の下の平等とか言いながらも、確かに現実にはそんな面はある。どう法で平等を定めようと、仮に貴族がなくなろうが、結局のところ金とか権力とかあるとそういう関係は起きる。自由意志で。自由意志かは知らないが。そういう勾配は出来上がる。人の世の常だ。
そしておそらく、そんなある種の歪さを目の当たりにする状況が――目の前の少女の不釣り合いな聡明さを作ったのだろう。
そんな言葉たちが。
『あら? それとも今、わたしのことを心配してくださったの?』
『いや……』
言葉を濁せば、また彼女は僅かに口角を上げた。
表情が豊かというタイプではない。実際のところ、彼女はあまり感情を露わにはしていない。
それでもそんな人形のような美貌の中にも、移り変わりがある少女らしい。
『面白い方ね、貴方。本音と建前が真逆なのは皆と同じだけど……貴方の建前は、他人から悪く思われてしまうようなことばかり。損をしたいの?』
『……特には』
『なら、性格? そんな果てしない我慢や意地が騎士道というもの? ……男の方って、難しいのね』
しみじみと――年齢を感じさせない流暢さで。
大人顔負けであり、しかしある意味では童話や物語などの幼気じみたようなこちらとのやり取りを行っていた少女の顔が、ふと褪める。
『……』
冷ややかな……憂いがちな顔立ち。
これまでの興じていた少女の表情は収まり、彼女は、ふと吐息を零した。
また静謐で荘厳な――ある種の残酷さを伴った圧倒される聖堂の気配が、入れ替わりに押し寄せる。
そんな中で、彼女は言った。
『……わたしのピアノ、情緒というものが不足しているんだそうなの。先生もそう言われて、コンクールでもそう言われる。正確だけど、ただそれだけ。機械みたいだって』
『それは……』
今までの会話からすれば、想像できない。
だけれども彼女の中では一つの事実として――深刻であり、疑いのないものとしてそれは語られていた。
『このお葬式もそうよ。……お祖父様にあれだけ可愛がっていただいていたのに、わたしは、涙一つも流せない』
『……』
『あの人たちは――……集まったあの方たちは泣いているわ。でも、それは本当なのかしら。色々な言葉を口にするあの方たちは、本当にお祖父様の死を悲しんでいるの? そんなあの方たちにはできるのに、わたしにはできないの?』
後ろめたそうに――同時にある種の憤りのように。
『石女とか、人形女とか言われるわ。子供っていつもそう。好き勝手に、言ってくる』
『……』
『……なのにあの子たちは、泣きたくて泣ける。泣きたいときに。わたしは、いっぱい頑張っているのに泣けやしない。……残念ね。偉いって褒められても、凄いって褒められても、わたしにはそんなことの一つもできる心はお授けくださらなかったなんて』
高い天井を見上げた彼女のそれは、神への――ある種の、不公平さへの問いかけなのか。
成熟しているとも言えるし、逆に年若いとも言えた。
貴方なら多分話が合うでしょう?――と、その聡明さ故に年嵩の相手を対話相手に選ぶような高貴な少女は、何かの共犯者のようにこちらへと語りかけてきていた。
『……貴方も、同じかと思ってたのだけれど。貴方は、少し違うのね。泣きもせず、悲しみもせず、よく似てると思ったのに……貴方にはきっと、情緒があるのですもの』
『……』
『なら、きっとわたしの参考になる――……違って?』
『いや……。……どうかは、俺には』
『言い切れない? 言い切ってくださらない? それは、曖昧なことを言いたくないから? それとも、わたしのことを真剣に考えてくれるからこそ? ……思った以上に、悩ましい方なのね、貴方』
こちらをジッと見る彼女が、自分から何を読み取ろうとしているのか判らなかった。
ただ少なくとも、この少女は、決めたらしい。
それは会話の初めから、示されていた。
『ですから、想像の中の貴方に、物語の騎士様に何とか恋をしてみるわ。……ええ、物語よ。知っていて? 彼らはいつも、色とりどりなの。愚かだけど、眩いわ』
『……』
『恋をしてみるわ。……そうしたらわたしも、情緒が判るかもしれないでしょう?』
『そうか。……内心は、君の自由だろう。好きにすればいい。俺は関しない』
『ありがとう。芸の助けにさせてもらうわ、
『……麗しき方の助けになるなら幸いです、レディ』
そこにどんな理屈があるのかは当人しかしれないところだろうが、自分が、善良なる人の手助けとなれるなら幸いという他ないだろう。
……同時に、思った。
おそらく、実際のところ、それは年齢の進みと共に解決する話だ。何らかの自分との折り合いは、悩みというものは、生きていくうちに生存というものを続ける以上は――それを続ける中でどうにか折り合いをつけるしかないから必然と折り合いがつくものなのだ。
とはいえ、今を苦しむ彼女に、いつか何とかなるとは告げることは躊躇われ――……
『一つ言わせていただくとしたら……』
『あら、何かしら』
『そう悩める人間には、情緒があると思う。……それに哲学的ゾンビというのは未だ発見されていない。心理学からしたら、人間に感情が存在しないことはなく、何らかの抑圧を受けるか……希薄になるかというだけらしい』
『……そういう貴方には、情緒がないのね。女との話で学問を持ち出すのは、不粋よ? どこの誰だかと君は同じ、だなんて言われたくないのですもの。特別扱いされたいのよ?』
『……そうか。肝に命じよう』
本当に聡明なのだろう。
それか、女性は成熟が早いというか。……こう言うとジェンダー的に憚りがあるかもしれないが。だがふと振り返っても、そして一定の精神年齢を持って幼少期からこの人生を送っても、やはり基本的に男の方が精神の成熟は遅いふうに感じられた。専門家ではない、素人意見だが。
『……でも』
果たして――椅子から立ち上がった彼女は、ほんの少しだけ口角を上げてこちらへと笑いかける。
生と死が交じる教会の中で。その現実から切り離された空間の中で。彼女は、そんな邂逅を楽しんでいるようだった。
『わたしを励ましてくれようとしてくださったのはわかったわ。……ふふ、不器用な方ね』
『……すまない』
『いいえ? 謝ることではないわ? 真逆よ、貴方。不器用そうな方が自分を励ましてくれることほど、楽しいことはないでしょう? だって他にそんな機会がなかったというのに――わたしにはそうしてくれようとした、なんて』
『……』
『貴方って不器用で、優しくて、可愛らしいわ。そうでしょう、悩ましい
乙女心というやつなのだろうか。それとも何か、貴種故の楽しみ方というやつなのだろうか。
何にせよ彼女はこちらとの会話には興じてくれたようであり、無聊を慰められたなら幸いという他ない。
そう長い語らいと言えぬ中でも、多少なりとも打ち解けはしてくれたらしい。
チラと時計を眺めて――もう、何かの時間なのだろう――こちらへ少し近付いた彼女は、
『……今日の話は、秘密よ。
『了解した』
『もう一つ、秘密――』
漂うオルガンの波の中、ベンチに腰掛けるこちらへと彼女が耳打ちする。
『わたし、歌も歌えるの。本当はピアノよりも、好きかもしれないわ。……お父様や先生たちに悪いから、言えないけど』
それが心底大事で大変な秘密なのだと言う――まるで神様にさえも知られてはならない言葉とでも言いたげに声を潜めた彼女は、真剣だった。
そうしていると、やはり、子供なのだと思う。
とびっきりの、懺悔室での告解とばかりにそう言った彼女は、秘密の共有相手として――共犯として、こちらへと親しげな笑みを浮かべた。
『今度会ったら、聞かせてあげる。恋の歌。それと、いつか出来上がる貴方を題したピアノの曲。……その日までの想像の中の貴方のように、現実の貴方も立派な方で居てくださいね』
『努力しよう。……申し訳ないが、その恋に応えられる日はないだろうが』
そう告げると、
『どうかしら。わたしがとても綺麗に育ったら、貴方の方から交際を申し込んでくるかもしれないでしょう?』
『……』
『その自信がどこから、という目ね? 貴方、思ったよりも目でお話をするのね。口よりも雄弁に。動物みたいで可愛らしいわ』
『……』
初対面の相手から動物に例えられていい気はあんまりしないと思う。
犬とか。ゴリラとか。ゴリラとかゴリラとか。森の賢者とか。バナナ好きそうとか。ゴリラとかゴリラとか。黒髪を短髪にしていて多少鍛えてたらゴリラ扱いとかよくない。ゴリラさんのことを馬鹿にするつもりはないが。あんまりいい意味で言われてない気がする。よくないと思う。猫ちゃんは猫ちゃんなんだし、人は人だと思う。
まあ、彼女なりに親しみの情を表したつもりなら受け入れよう。……受け入れる努力はしよう。受け入れるように頑張る。凄い失礼だと思うけど。こちらはあくまで人なのだから。失礼だと思うけど。絶対他でやったら問題だと謂うけど。
『……なら』
『?』
『ならばお名前を聞かせて頂いても? 麗しいレディ』
『あら。……とっくにお祖父様から聞いてると思っていましたけど』
『………………』
メイジーと婚約したあたりから。
何か話題にあんまり出されなくなった。
いや話題に出ることは出るんだけど。個人情報の特定に繋がるようなのは避けられていたと思う。いや被害妄想かもだが。何か。気のせいだろうが。多分。きっと。
とはいえ、
『わたしは――……』
その麗しの栗毛の少女は、顎に指を当ててしばし何かを考えて、
『ジュヌヴィエーヴよ。……そう、ジュヌヴィエーヴ。覚えておいてくださる?』
『なるほど、騎士に拘るのは……』
『不倫の王妃の名前でしょう? なら、貴方が結婚していても恋をして問題ない。違う?』
ジュヌヴィエーヴ――フランス語、こちらでは遠く言語として滅び人名にしか使われない言葉であり、それを現代の名前に訳せばグィネヴィアだ。
グィネヴィア。アーサー王の妻。そしてランスロット卿の想い人であり、その恋が国を割った女性。
彼女とランスロット卿の道ならぬ恋が円卓に滅びを齎す要因となったのであるが、
『逆では……?』
『いいのよ。細かいことよ、
そうなのかな。……そうなのかも。
何にしてもそんな不倫だとか重婚だとかハーレムだとか人道を外れたことは自分は行わないので構わないが。
余談だが、騎士道物語における不倫は現代の不倫とは話が違うそうだ。というのも結婚というのは政治的意味合いもあるシステマティックなものであり、騎士ロマンスにおける不倫はつまり――恋という、それとは対極にあるロマンティックなものとなるためらしい。
いや、自分には縁はないが。特に不倫とか。縁がないが。……正直こちらでの初恋の相手が人妻、幼馴染の母親であったあたり実のところ結構己に戒めている。そのままの傾向を引きずってしまったら人倫に外れる。ダメゼッタイ。ノー不倫、ノー重婚。愛の前に立つ限り、答えは全て多分そのへんにある。知らんけど。
……おそらく、彼女のこれもそういうことなのだろう。
貴族の娘というのに付き纏う何かしらのしがらみ。
そんな状況の打破――或いは逃避。もしくは夢。
何もなければ置かれている現実を前に苦しんでしまうだけだからという、そんな現状をやり過ごすための娯楽の意味。そんなものの体現として、おそらく教養として学ぶ古典と、彼女の祖父が持ちかけた話が合体したのだろう。
そうせざるを得ない程度のものを、幼いながらに見てしまった。
『やはり、考えたが、相談すべきだと思う』
『……何を?』
『君の現状を。……幼い君が、先程のような言葉を聞かされるような状況をとても正常とは思えない。……君の父母にその意図はなくとも、ともすれば虐待として受け取られることもあり得てしまう状況だ。……或いは君の父母が知らぬうちに、何かが起こりうる』
『――――』
思っていたのは、高貴な振る舞いの中でのその言動が、試し行動にも近いということだった。
世間を。
世界を。
値踏みして線を引いて、それを観察しているようなその状況。彼女を早熟で聡明と称したが、おそらくそれは正しい。本心から騎士物語を信じて待ち詫びるほど、夢を見がちな子供でもないだろう。
果たして、
『……悩み過ぎよ、優しい
『それは……確かに侮辱だった。失礼した』
『もう。……ふふ、本当に貴方は頑固で偏屈なのね。お祖父様がああ言ったのも判るくらい。察し過ぎは身体に毒よ? それとも、だから、こんなことに対してだけに絞ったの?』
『……』
『無礼になることより、取り零すことの方が貴方にとっては恐ろしくて? 名誉より実なんて、貴方はロマンスとは無縁なのね』
覗き込む少女は、吐息と共に肩を竦めた。
こちらの杞憂を取り覗こうとした、そんな顔だった。
『これは……そうね。音楽と同じ、でしょう? 別に永遠の幻想に住む訳ではないわ。ただ、幻想を胸の中に住まわせるだけ』
彼女なりの現実との決着の付け方。
そして微笑む彼女はそれ以上に、本当にただ娯楽として付き合うだけなのだろう。
そう言われてしまえば、
(取り越し苦労か。……悪い癖だ。ともあれ、児戲でそうしたというならこちらへの深い行動でもないのだろうな)
幼子の、ちょっとしたままごとのようなもの。
それ以上の意味はないのだと思い――……直後、驚愕した。
黒いドレスのスカートの裾を持ち上げて、思わず息を飲むほどの見事さで腰を折ったジュヌヴィエーヴ。
神聖な音の中、絵画の如く一礼する黒衣の少女。
彼女はそのまま、告げた。
『……お祖父様と付き合ってくださってありがとう、騎士さん。ずっと楽しそうに貴方のことを、喋っていたわ。わたしにとっては遠いくらいの凄い方だと思ってたのだけれど――子供のように笑うこともあるのよ、あの人』
愛おしそうに――これまでで一番、その頬を緩めて。
『……お祖父様がそうできたのは、そしてわたしがそれに触れられたのは、貴方のおかげ。……今日まで――いいえ、今日この日も。貴方との出逢いに、どうかお礼を言わせてくださいな、素敵な
それでようやく最終的に、合点がいった。
これまでの会話は、彼女なりの感謝の現れであり祖父への親愛だったのだ。
高貴で、不器用で、自負があって、子供なりの、精一杯の語らいと言う名の謝意の表現。試し行動にさえ見えたのはそれが故か。
吐息を漏らす。
そんな回りくどくも尊い貴種の家族愛を前にあっては、不作法や不調法、不釣り合いと思ってなおも自分も応じるしかない。
『どうかお顔をお上げください、麗しいレディ』
こちらも公爵の令嬢の一礼に、教会の廊下へと片膝をついて。
それは――演技や表現ではなく。
心の底から、タイム・パースリーワースという男と、彼が愛した人と、そんな彼との思い出の名残りへと敬意を払うべきだと思ったからだ。
『そう評されるなど、光栄です。……貴方の祖父は、俺の善き師であった。俺の方こそ、どうかその善き出会いと替え難い恩寵に、ただ感謝を』
『あら。……本当に、騎士様みたい』
去ろうとしていた彼女はもう一度こちらへと歩み寄り、この肩に手を置きながら彼女のその白い頬を近付けた。
『お互い素敵になって、また会いましょう? その時は、一エーカーの土地を角で耕してね?』
『……なら、針もハサミも使わずに、シャツを作って貰わなければ』
『――――』
そう返すと彼女は意外そうに目を開き、また笑った。
『合格よ、騎士様。教養は騎士には不可欠ですもの。……いつかの素敵な貴方と、いつかの素敵なわたしの再会を待ちわびるわ。わたしにどうか、素敵な恋をさせてくださいね?』
それもただ、機知を交えた戯れなのだろう。
それから遠くからの呼び声に応じるように、喪服の彼女は教会の廊下を去っていった。
やはり結局は――そんな素敵ないつかなどは、訪れはしなかった。
セージ・パースリーワースとその妻は戦地にて死亡し、その娘も行方不明となった。
そして自分はその頃には、到底騎士などと呼べるものではなく、ただ人殺しとして名を馳せることとなる。
彼女の奏でるその曲を聞く日など、ついぞ、訪れることなく終わったのだ。
一エーカーの土地と、縫い目のないシャツ。
不可能の契約を表す妖精騎士の伝承の、その通りに。
己はただ、血塗れの死霊騎士となる。
それがハンス・グリム・グッドフェローと、ジュヌヴィエーヴ・パースリーワースという少女の物語の結末だったのだろう。
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