補話【一】 涙、或いはハンス・グリム・グッドフェローとフェレナンド・オネスト


 本格的な出撃の日々の前。

 シンデレラ、エルゼを含んだ四人での昼の休憩のときだった。

 観葉植物があって、ベンチがある。

 自販機も備えられた格納庫近くの待機室にて、


「人は猫を見倣うべきだと思う」


 突然目の前で、あと十五分そこいらで休憩も終わって午後の訓練に向かおうかというタイミングで――自販機の真横、真向かいのベンチに座る黒髪の上司がそう言い出した。

 真顔で。

 いつものなんとも言えない無表情というか、濃い隈の刻まれた何とも冷たいアイスブルーの目付きのまま。

 いつもの激しい抑揚もない声で。


「お薬だしておきますねー」

「違うが」

「……あの、大尉、お仕事が辛くなったんですか?」

「違うが」


 フェレナンドにも何となく判ってきたが……憮然と言っているというよりは、こういうとき、ほんの少しだけ目がつぶらになる。多分内心では戸惑ったりしてる奴だ。いや本当にわかりにくい反応なんだけど。

 そして、もう一つ、部隊で共に仕事をするようになってたからフェレナンドにも分かったことがある、


「……もしかして大尉、さっきのっスか?」

「ああ」


 彼はそうだと頷く。

 こういうことが、結構ある。

 何かを質問して、即答や即決ではないものの場合、彼は時間を置いてからその質問に答えたりするのだ。

 雑談やふとした疑問程度なのか、それとも詳細に聞きたいものかを確認してから「時間をくれ」と言って――それから、ふとしたタイミングでこんなふうに言う。

 その間、熟考していたのだろうか。


 常に冷静――というより冷徹そうに見えるが、意外とぼんやりノソノソしてる人だ。かと言ってそれが素の性格や個人性かと言われたらまた違っていた。職務や訓練中の判断や会話は非常に早く、そこで何か無理してそうしているような印象は感じないのだ。

 フェレナンドは、何となく結論付けた。

 、のだ。

 戦闘やそれに類することが起こるまで、彼は脳味噌の半分を眠らせている。それで生活している。ぼんやりとした目で。緊急時には即座に、それが完全に目覚める。

 それが前線を経験した者特有のオンオフの技能なのかは不明だが――とにかく彼は今、ぼんやりモードだ。かんたん大尉だ。


「バイクで街を走ってるときのことだ。道の向こうに、にゃん……猫がいた。白と黒の斑でぶちぶちした、少しもふもふもっふりとして――……いや、太っていた猫だ。猫がいた」

「うす」

「バイクだったので、猫は逃げた」

「うす」

「あれを見倣うべきだと思った」


 散文的だ。


「その逃げ方の素早さもそうだったが、驚いたのは次だった。どこかの家の駐車場に入って行った猫は――覗き込んだらまだその入口あたりにいるのかな、と思った」


 そのまま――でも言葉以外は戦闘時とあまり区別の付きにくい様子のまま、彼は続けた。


「だが隠れていた。大きく……車の影に。車を盾とするように。彼は遮蔽物に身を隠していた」


 覗き込んだんだ。わざわざ。バイクを止めて。

 想像したらシュールなのだが、そこでふと、ほんの少しだけ雰囲気が変わった――と何となくフェレナンドは思った。

 そして事実、彼は僅かに、顔付きを精悍そうに変えて、


「基地急襲による駆動者リンカー襲撃にどう備えるべきか、と言われたらそれが真理だろう。脅威を速やかに認識し、可能な限り素早く距離を取り、そして明確に安全が確保されるまでは遮蔽物から身を出さない。これが真理だ。……生き残るためにおいては、だが」

「えっと……それ以外のためがあるんですか?」


 そう、新たに赴任したあまり馴染みない教師へと遠慮がちに尋ねるかのように、シンデレラが切り出した。

 彼はまた、小さく頷いて、


「あまり多くはないが、例えばその状況でも命令としてアーセナル・コマンドの緊急発進が求められることがある。敵によって基地が襲撃され、基地の陥落が間近に迫っている場合に――それでも後を見込んでせめて戦力の温存をするため。或いはアーセナル・コマンドによって状況を打破するため。もしくはそうでなくとも退避や基地防護を求められたときだ」

「そういうのも、あるんですね……」

「基地を根拠地にしている空軍には避けられない問題だ。……とはいえ、これから俺や君が向かう場所にはほぼ無縁だろう。艦載機の駆動者リンカーはまた状況が異なる」


 そう、彼は締め括った。

 やはり戦闘に関することにおいては、十二分に脳が働くようになっているらしい。

 メモでも取りたそうにシンデレラは大いに頷いている。


 それともこうも多弁なのは、これまでの生活環境とまるで異なる場所へと向かおうとするシンデレラを精一杯フォローしよう――という意志なのかもしれない。


「まだ時間はある。……似たような、何か対処法を聞いておきたいことはあるか? 簡単なものでもいいが……」


 案の定そのつもりなのか、彼はそんなふうに質問を促していた。

 目の前で、シンデレラが考える。

 こうしていると――新人とベテラン。それとも、教師と生徒のようで何だか微笑ましい。シンデレラという民間人からの登用者で、しかも現役のハイスクール一年生を相手にしているからなおのことそう見えた。


「えっと……あの、その……大尉に聞いても、仕方ないのかもしれませんけど……」

「なんだろうか?」

「えっと、その……もし誘拐とかされたら……どうすればいいんでしょうか?」


 言いづらそうに。

 躊躇いがちに。

 それでも何か助けを求めるように俯きがちに問いかける彼女へ、


「そうだな、いくつかあるが……長くなっても構わないか? それなりには、長いが」


 やはり小さく、そして確かに頷き返した。

 本人はひょっとして鷹揚に頷いたつもりなのかもしれないが、それは精密機械じみていて、だからこそ非常に正確性を感じさせるものだった。


(……アレ?)


 その瞬間のシンデレラの――僅かにその琥珀色の目を輝かせた、まるで救いの英雄でも見詰めるような瞳が少し気がかりだったが……。

 まあ構わないかとフェレナンドも頷き、折角なので聞き入ることに決めた。

 英雄的な戦果を持つ軍人の所見を聞けるなど、実に貴重な経験なのだから。


 そして、また淡々とした解説が開始される。


「このような事案を考えるにあたっては、基本的に、相手の立場になることだ。……これは何も心理的に一体化しろ、という意味ではない。深くのめり込めという意味ではない。むしろ心理的には遠ざかったまま、ただ必要性と合理性のみで分析しろということだ」

「えっと……」

「具体的に言おう」


 一拍置き、呑み込みやすい緩やかな喋り方のまま彼は続けた。

 

「例えば誘拐犯の立場に立った場合、考えられることとして――相手を拘禁することも含め、その場で危害を加えることが難しいからそうするというのがあると思う」

「それは……はい」

「ならまず、何故その場ではできないか――という点から考えるべきだ」


 聞きながら、フェレナンドも心中でメモを取った。

 誘拐の対処が知りたい訳ではない。

 ただ、話の持って行き方を知りたいのだ。フェレナンドもまた、いずれは士官として部下を指導したり指示したりする立場になる。今からは全く想像もできないし、正直上手くできるかはわからず――まあなるようにしかならないし、多分それなりにはできるだろうが折角の先達の見本なのだ。利用しない手はない。

 別にまあ、難しいことじゃなくて。

 単にスポーツをしているときから、一応、そうするのは意識していたというだけだが。


「一つ、道具などがその場にない。二つ、その場の長期利用が不能などの時間的制約などが付き纏う。三つ、その他のそれを阻む要因がある」

「それを阻む要因……」

「通行人がいる、見る人間がいるなどだ。……単純な話だが」


 回りくどくはなるが言葉は多く――あたかもそれに留まらない思考方法の機会教育のように、彼は詳細に説明を始めた。


「つまり、これらが相手がその場での危害行動を避けて誘拐しようとしている理由であり――対処というのも単純、この点を突けばいい」

「えっと、つまり……」

「なるべく人混みを歩くこと。人通りがない場所を避けること。それが第一だ。……君が望む答えとは異なるかもしれないが、最良の対処はまずその事態に対する危険性との直面を避けることだ。これは、万事において変わらない」


 あたかもそれこそがの最上だ――と言いたげに頷いた。


「その上での被害にあった際の対処法だが……基本的には相手にイニシアチブを握られた状態での余計な反発は避けるべきだな。脱出の機会までの体力の温存……勿論これは、逆に相手からの加害を増長させてしまう面もあるが……しかし過度に反発することによる加害増長に比べれば、差し引きでも体力確保の分だけ理があると思える。油断も誘えるかもしれない。この点については研究がないために不明だが」


 心の中でメモを取ると言ったがすまんありゃ嘘だった。

 長い。

 この人は、話すとなったらすごい長い。想像の三倍ぐらい長い。ぽわぽわしてるときとどうしてこうも違うんだというくらいに長い。

 んー……と、フェレナンドの思考は逃避を始めた。エルゼはもうほぼ逃避してる。誘拐からの逃避方法の伝達への逃避を。


 逃避しながら、何故こうも長くなるのかなーなんて考える。ちょっと分析してみる。

 物事の定義、原因、総論、例外、補足――と話を運んでいくからだろう。もうこれは完全に職業病っぽい。例えば交戦規定とか作戦詳細の説明のときみたいな。

 多分、この人の中で命の危険とかに類することは全部長く話すべきことなんだろう。可能な範囲で。


(……でもシンデレラちゃんは嬉しそうなんスよねー。優等生なのかな? オレと違って)


 本当に真剣に聞き入っている。

 まあ、多分、元々教師に何かこうして質問することも多いタイプなのだろう。

 彼女の日常生活が垣間見える気がして――多分勉強熱心でわりと教師の言葉を素直に聞いて予習復習とか欠かさずにいて質問とかもいっぱいするタイプ――クラス委員とかに自分から立候補しそうな真面目ちゃん、的に思う。そんなの大体どこでも一人ぐらい同級生にいるやつ。


(そういう娘って先生にちゃんと話してもらえると凄い嬉しそうにするよなー)


 だから目の前もそれもそうなのだろうと、そう思いながら見守ることにした。


「落ち着くのは難しいと思うが、まずは深呼吸をして落ち着くことだ……難しいと思うが。なので、一つだけ予め方針を定めておくといい。ルーティーン……戦場においても同じだが、頭を使う余裕がない場合はまず行動することで頭が落ち着く。そのために必要なのは反射であり、これは訓練や普段の方針により定められる。……共通事項は、ということだ」

「シンプル、ですか?」

「複雑だと思い出すのに時間がかかる上に、簡単に行えない。……それでは失敗が起こりやすく、そうなると余計に焦る。だから大切なのは、全て、シンプルなことだ。命のやり取りの場は、シンプルなことの積み重ねに成り立っている」

「シンプルなことの……積み重ね……」


 おっとこれはメモを取っておいた方がいいやつだ、とフェレナンドも頷く。

 心の中のメモ帳先生と赤ペン先生が起立。いや生徒か。この場合は。どっちでもいいけど。

 ところでむしろ、戦場のパターンのときのそのシンプルな行動について聞きたくなった。どうしたらいいんだろう。この生徒と教師、師匠と弟子のやり取りに口を挟めないから遠慮しかできないけど。


「方針は一つ。『周囲の敵の人数の把握』。……全員でなくていい。まず、周りに何人いるかだけでいい。これは声だけで分かる。難しくない。シンプルだ」

「はい……!」

「そしてくれぐれも、人数のではない。必要以上に考えようとしないことだ。……焦りを生む」

「……はい」

「それができたら、まず最低限は頭が落ち着く。……次が『目的の把握』『その情報収集』だ……これは会話を注意深く聞くだけでいい。そして失敗も起こりにくい。分かるだろうか?」

「はい……!」

「これもまた推測ではない。……ああ、自然と生まれるものを禁じる訳ではない。それもシンプルさから離れる。ただ同様に、過度に答えを求めようとするのもまた焦りになる。相手からの確信情報の欲しさにな」


 ぼんやりと二人を眺めながら、フェレナンドはなんでシンデレラがこんなに嬉しそうなのかを考えてみることにした。

 一方のエルゼは、相槌を打ちながら二人を見てた。

 まあ、誘拐の対処法とかいうわりとレアなことなのでせっかくだから……と聞こうとしてるのかもしれない。彼女はそこそこ貧乏性で、好奇心が強いタイプだ。


「目的がわかれば――その目的外での被害はなくなる。例えば尋問なら、話すまで殺しはされない。人質だと少し生存率が下がるが、いきなり危害は加えられない。その他の目的では危険性が応じて変わるなど……これが分かれば君の方針も定まる。ここで思考能力は取り戻される。それから、『何を行うべきか』を考えるのがいい」

「はい……! じゃあ、何を行うべきなんですか?」

「当然だが、第一に生存。第二に無事だ。それら以外のことは捨ておいていいし――第一目的を果たせたら、それ以外については些事だ。と自分を褒めろ。君は生還者だ。それは闘士であり、十分に勇敢な行為だ。君自身で難しいなら……難しいだろうが……その時は俺が褒めよう。――と」

「……!」


 ぼんやりと聞きながら、何となく思う。

 多分彼は、あらゆることにおいてその人の幸福と生存を願っている。だからそれに関することについては、どう長くなろうと必要なだけこうして語るのだ。

 シンデレラが、なんで嬉しそうなのか。

 特に最後の言葉に感極まったのはわからないが――……多分、彼がそれだけ真剣だからだ。真摯だからだ。本気で向き合ってくれていると思うから、そう、信頼を向けるのだろう。


(なるほどなるほど。……上司は相談事には真剣に、っスね。確かにクラブの先輩もちゃんと話聞いてくれる人ほど、なんか尊敬できたもんなー)


 普段どれほどちゃらんぽらんにしてたり。

 或いは怖かったり。

 でもそんな人が、小さな悩みでも茶化さず聞いてくれたらそれだけでなんか好きになった。それと多分、同じなのだろう。

 今はシンデレラ向けだから若干退屈だし長く感じるけど、彼女にとってはちゃんと真剣に向き合ってくれてることになっているのだ。こっち向きでないだけで。


(素でやってるんスかね? それとも計算で――……んー、わっかんねえな。ただ、まあ、そういうとこもナチュラルボーン兵士なんだろうなぁ……)


 生存だとか、思考法の確立だとか。

 民間人の幸福だとか、尊厳だとか。

 信頼関係の構築だとか。

 そういう――多分、戦場や兵士に求められる者に関しては、的確なのだ。嗅覚を持つように。戦争の犬の鼻だ。


「細かい脱出方法については……ここで話すには長いな。ただ、備えることで対処はできる。例えば、ベルトのバックルに鋭い刃物を仕込んで置けば拘束を抜ける備えになる――などか」

「備え……」

「あとはまあ、普段からの近接戦闘訓練も役に立つかもしれないが……駆動者リンカーだとか、空軍だとかではそれほど深くは求められはしない。余暇を研鑽に当てるか、それとも機会があればそのような特殊訓練に志願するなどだな。……君の場合は促成栽培なので、おそらくは十分に行われない。くれぐれも、自力脱出は考えないことだ」

「……駄目なんですか、自力で脱出は」

「そうなれば、敵からの被害を受ける確率が非常に上昇する。逆の立場で――逃げたり抵抗したりする相手では手間がかかる。なら、合理的には大人しくさせようと思うのではないだろうか?」

「……」


 聞きながら、当然だと思った。

 捕まった状態から単身で脱出してくるのは殆ど映画のヒーローだ。捕虜からの自力脱出なんてのは間違いなく勲章もので、つまり勲章が貰えるぐらいめちゃくちゃ無理だってことである。例えばあの有名なコルベス・シュヴァーベン特務大佐はその大胸筋と上腕二頭筋で拷問する敵を殺して単身脱出してきたらしいけど、あれはまぁまぁバグなので無視していい。

 ……いや、目の前の人はもっとバグだが。なんだろう一人で敵機五百機以上撃墜とか。もう違う生き物では。


「っ、でも……!」

「……シンデレラ?」

「でも、それじゃあ――わたし、何もできないってことじゃないですか! 軍人になったのに……普通の人みたいに捕まえられて、言いなりになって、何もできずにいろってことじゃないですか!」


 アレ?――と。

 しかし、至極まっとうな彼の意見に、シンデレラは反発していた。

 軍人を映画のヒーローと思っているのだろうか。

 いや、軍服を纏って訓練をしているだけで……社会人だ。つまりはまあ、他の人と同じだ。できることとできないことがある。フェレナンド自身もシンデレラのように思うことは確かになくはないが、促成士官学校で散々ブチのめされてちょっとは現実を知った。入隊前に抱いていた将来の英雄的な軍人像みたいなのは、自分よりもっとできる奴とかめちゃくちゃに凹ませてくる教官とかでだいぶ揺るがされた。


「いやシンデレラちゃん、無理無理。無理っスよ。陸軍のぶっちぎってる奴とか、海兵隊の選抜者とか、海軍の特殊部隊とか、空軍のレスキューでもない限り一人で大勢の相手は無理っスから」

「そうですよー? いや、危機感は判らなくもないですけど……アーセナル・コマンド使ってるならともかく、そうでなきゃもう本当に無理ですって」

「でも……!」


 それでも納得する様子はなく、癇癪のように彼女は食い下がっていた。

 基本的に素直で真面目だとわかって来たが、シンデレラにはこうして反発心があるというか反骨心があるというか……それと強情なところが見え隠れする。

 単なる雑談だった筈なのに、何だか小隊の空気にまで関わりそうな話題になってしまった――と彼へと目線をやれば、理解したのかしないのか、小さく頷いてシンデレラに向かい合った。


「重ね重ねになるが、俺は、ただ生存できるだけでも褒め称えられる偉業と考えている。君の気持ちも分からなくはないが――……その考えは、己を蝕む茨となろう。不要な荷物は捨てるべきだ」

「だけど……!」

「……もう一度言う。すべき努力は生存。可能ならば、無事。そこに情報収集が加われば、十二分すぎる。……対処を行うよりも己を戒めることが、君にすべき全てのことだが」

「じゃあ……どうすればいいって言うんですか! 相談に乗ってくれたって思ってるのに! 力になってくれるって思ったのに、これじゃあ……!」


 なおも彼女は食い下がる。

 どこにスイッチが見え隠れしているか判らないが、たまに彼女はこうなった。

 反抗期というか思春期というか。難しい年齢なのは確かなのだろう。

 しかし目の前の上司は、歴戦の兵士は動じることもなく落ち着き払って頷いた。


「……そうだな。今ある自己の努力をした上でどうしても君がそれ以上を行おうと思うのなら――」


 そして、一言。


「――俺を呼べ」


 如何にもな兵士の顔で、実に英雄的な所作で、彼はそう言い切った。



 ◇ ◆ ◇



「っ……!?」


 端的に告げる言葉に、シンデレラの反論が止む。


「せんぱーい、またそうやって格好つけようとしてー。若い子のポイント稼ぎですかー?」

「いやいや、流石に大尉を呼びようはないっスよねー?」


 ここぞとばかりにそれに乗っかった。

 乗っかりながらフェレナンドは、少し意外な気持ちになった。

 あえて茶化されようとするとか、それはそれとしてシンデレラの二の句を止めるとか、そういう器用なことまでできるとはあんまり思っていなかったのだ。


 やはり、流石は大尉。

 上官経験が長くなると、そういうの苦手そうに見えてもできるようになるのだろうか。それはそれですごいな――と思い、


「いや、あるが」


 また一言。


 普通そうに。

 当然そうに。

 いつもと同じトーンで。


「え?」

「ん?」

「……いや先輩を呼べって? 攫われて?」

「そう言ったが……」


 エルゼと顔を見合わせる。

 シンデレラの英雄願望というか、英雄切望よりもとんでもないことを言ってやしないだろうか。そこまでナチュラルボーンなのだろうか。

 しかし、


「いや……超能力とかではなく」


 心なしか何かアセアセした感じで、彼はベルトから何かを取り出してきた。

 そのゴツゴツとした皮の厚い手のひらに乗った、クリップのような電子機器。

 それはわりとどこにでもあるもので――


「ワイヤレスのイヤホンだ。長押しすれば、通話もできる……短縮登録したものにも、だ」


 確かに。

 フェレナンドにも見覚えはある。

 というと……エルゼがその場を代弁するように、


「えっと先輩、つまり心の中でとかじゃなくて――……」

「物語的な比喩ではなく、現実的な対処としてだ。……俺は、そんなロマンチストに見えるだろうか?」

「いや正直まあ。口説こうとしてるのかなーって」

「…………………………」


 何か、急に背中が煤けた。

 捨てられた犬のような目をしていた。

 わかりにくいけど、何となく分かった。ぽわぽわ大尉だった。ふにゃふにゃ大尉だった。しわしわ大尉だった。


 しかし、気を取り直したように――といっても何か大きな表情の違いはないんだけど――彼は精悍な顔つきに戻り、言った。


「まず、誘拐する者はよほどそれ専門で手慣れていない限り、基本的にその場で電子機器などを廃棄はしない。初段階として、迅速性が求められるためだ。ポケットの中のものを漁っている時間などない。捕獲を優先する」


 その時点では電話が使えなくはならない――と、彼は指を折った。


「距離がどれぐらいかは不明だが、到着後も目的地まで運び込まれるまで時間がかかる。何なら、もたついたりヨタついたりして時間を稼いでもいいだろう。その間も、電話の廃棄などはしない。……完全に室内に運び込むまでは、誰かの目につく心配があるからだ」


 淡々と。

 しかし、聞き取りやすい速さで。


「その間にコールしろ。……予め、規定回数を定めておけばいい。例えば、ワンコール・それ以上・ワンコールなどでトン・ツー・トン……SOSを表現するなども可能だ。或いはこれを利用すれば、モールス代わりに建物の情報なども伝えられるだろう」


 どんな問題でさえも容易く斬り捌いて対処可能とでも言いたげに、彼は続けていく。


「ベルトのどこに挟んでおくかだが……拘束というと多くは後ろ手に縛られることを想像すると思うが、誘拐に限っては前が多い。というのも拘束は車に引き込んでから行うことになるのだが、車内で後ろ手に縛るのは基本的に行い難い為だ。……後ろ手にやる場合は、車外で、銃で脅しながらなのが一般的だな」


 統計された資料でも読むように彼は言う。


「結束バンドについては、腕ならば破壊して脱しようがあるが……指だと極めて難しい。ただし、指の場合は締める側が不十分に終わらせがちなのでそれは狙い目だ。……逆に自分がやるときは、相手の指が鬱血するまでやった方がいい。どうせ腐り落ちたところで生命維持には然程は支障がない。脱走や反抗を防げ、抵抗力も下がる。効率的だ」


 非常に恐ろしいことも、シレッと合わせて告げながら。


 ああ――……と思う。

 判っている。英雄らしい英雄など、戦場の御伽話だと。フェレナンド・オネストにも判っている。

 多くの兵士が、フェレナンドよりも年季豊富で経験豊富な兵士ならそれはもっと判っているだろうに。


 それでも彼が軍人たちからある種の英雄と称され思われているのは、全て、これが理由なのだろう。


 絶対的な対応力。

 この人なら、何があっても乗り越えるのだろうと思わせる存在感。

 あらゆる問題をも叩き切って進んでいくようなその在り方を指して――――そして実際にそれができるだけの経験と実力を指して、人は言うのだ。


 あれこそが鉄のハンス――アナトリアの不屈だ、と。



 一体、どれほどの経験と知識を積めばそうなるのか。


 人生を何周もしていると言われても頷けるほどの、徹底した事態対処能力と危険への知識。

 この人に不可能はないのではないかと、部隊員として知るフェレナンドでさえそう思ってしまう。

 ましてや戦地で遭遇すれば、それはなおのこと強いだろう。


「今のは余談だが……つけるなら、身体の側方だろうな。どちらにも対処しやすい」


 そう頷く様子も実に泰然としていて、シンデレラがあれほどまでに言葉に聞き入っていたのも実感してしまうほどだった。


「詳しいっスね、大尉……そういうのも教わったりするんスか?」


 思わず、そんな言葉が出てしまう。

 だが、


「俺も攫われたことがあるからな」

「……えっ、ど、どうしたんです?」

「手錠の鍵を持っていた。……実は手錠というものの構造は、歴史上のある一定時期から大きく変化していない。構造が単純であり、更に生産会社が一社が大半のシェアを占めている。……鍵も共通なんだ。一つ購入しておけば、大概は使用できる」


 実際にそのベルトか、或いは靴の中にでも彼は持っているのだろう。

 本当に――……何から何にまで備えている人だった。すべてを生存、或いは戦闘のために使っている。戦闘力の発揮と継続のために使っている。

 もう、とても一兵士とは見えない。

 あらゆる戦いに関することにおいての徹底したプロフェッショナルとさえ見えてしまう。


「そうなんだ……」


 そう呟くシンデレラは、フェレナンドのような畏怖は持っていないだろうが。

 それでも多分彼は――それほどまでに信頼ができる人間なのだと、まるで絶対に壊れないメーカー製の車なのだと思わせる程度には頼りに思えるだろう。

 そして彼は、残り少なくなった休憩時間を確認してからまとめた。


「とにかく……要点は簡潔だ。『そもそものリスクを避けること』『生存を第一とすること』『可能な範囲で外部に助けを求めること』……ことが起こってからできることなど少ない。他の多くにも言えることだが」

「は、はい……!」


 一時はどうなるかと思ったその場の空気も戻される。

 あんな如何にもな反抗期に見えたシンデレラが黙ってまた素直になるのも、フェレナンドにも分かる。

 それは確かに、ああまで質問を浴びせたり言葉に聞き入ったりするだろう。

 逆にスポーツにおいてそんなに詳しいコーチが居たら絶対に素直に話は聞くし、色々話に行く。間違いなく。師匠や先達という意味では、これ以上ないほど強すぎる。


 おずおずと大尉の手のひらに乗ったイヤホンを手にとったシンデレラが呟いた。


「じゃあ、わたしも買いに行こうかな……」

「その必要はない。備品で購入する」

「え?」


 同じく――そりゃあ同じく、フェレナンドも内心でびっくりした。

 イヤホンを備品。

 それは通るのだろうか。

 いやわりと、必要物品とかちょっと便利な品を自費購入するのもある軍隊で。イヤホンを備品。


「上に掛け合ってみる。小隊全員分を、経費で落とせないかとな」

「え、そんなのいいですよ……これを買えるぐらいのお金はありますし……」


 金髪を揺らしながら控えめに固辞するシンデレラへ、


「……いや。正式に備品として購入し、その根拠として小隊内での緊急事態のマニュアルを作成する」


 彼はまた、そう言い切る。

 そこまでしないとそうできないだろう――という気持ちと、イヤそこまですることかという気持ちが入り交じる。

 ちょっと通販サイトを使うか基地内の家電スーパーに足を運べば簡単には済むものを、そんな手間までかけるのか。頼まれれば別に今からでも買ってきてもいい。

 そう思っていた、ところだった。


「上への議決が必要となるが……そうなればそれは、正式な内部規定となる。こうなったなら命令――それは明確な公文書として残る。どうなるか分かるか?」

「えっと……」

「警察に、電話の位置特定の請求がしやすいということだ。……個人的な取り決めだけでは根拠として乏しいが、明確に小隊内での正式な手続きとして定めていればそれはある種の行政文書であり、となる。……つまり万一の際、いち早く助けを向かわせられる」

「……!」


 思わず、舌を巻く。


「グレイマン技術大尉が攫われている以上、おそらく君に対する誘拐被害も想定し得る……そう説得すれば根拠命令の発行も容易だろう。あとは、俺に任せておくことだ」

「大尉……!」


 そして彼はベンチから腰を上げ、手に持っていたコーヒーの紙コップをゴミ箱に捨てた。


「というわけで、申し訳ないが午後からは文書の作成に入る。……本日の規定カリキュラムについては、必要分は終了している。あとは体力錬成を行うといい。ローズレッド少尉は、爾後じごの監督を頼む」

「了解でーす!」

「くれぐれも各人、水分はこまめに取り怪我のないように。……あとは頼んだ、エルゼ」


 そうして彼は、待機室を後にしようとする。

 完全に今は、間違いなく戦闘用のそれだ。思い立つこと、判断力、そして即断即決が普段のアレソレとは全くことなっている。

 そんな彼へと、


「あっ、あの……」

「何か?」

「あ、ありがとうございます……大尉……!」


 シンデレラは、本当に信頼を込めた目線を向けて頭を下げた。


「礼を言われる程のことではない。職務だ」

「でもっ……」

「君のような民間人を関わらせる以上、その保護においては俺たちが行うべき明白なる義務だ。……可能な限り、職責と職務において、俺は君を守る。そう言ったはずだ」

「……!」


 感極まってと言おうか――なんと言おうか。

 心なしか、そう言われたシンデレラは目が潤まんばかりにその言葉を噛み締めている。フェレナンドからはめちゃくちゃわかりやすいくらいに。いやこれで判らない奴居たら相当バカだと思う。流石にそんなぼんくらすっとこどっこいは多分この世にはいない。きっと。

 コソッと隣の小柄な女性へと耳打ちしてみる。


「いやー、あれ、いいんスか? めちゃくちゃ英雄って感じじゃないですか……あの年頃にはめちゃくちゃ響きますよあれ。オレもグッと来ましたもん……うわ、すげえモン見ちゃった……」

「エルゼちゃんは先輩狙いじゃないんで別にー? というか、男もそういう英雄とか大好きですよねー。ブービー後輩も先輩のそういうとこに憧れてここまで来ちゃったんです? まあいいですけど」


 古女房というと絶対怒られるし否定されるだろうが、そんな麻疹の時期は過ぎ去りました――みたいなエルゼが呆れた目を向けてくる。


「やー、いや別にグリム大尉の戦いとか見たことはないっスけど――」


 それは本当に。

 フェレナンド・オネストは、そんな、何から何までハンス・グリム・グッドフェローに関わり合いがあった人間ではないから。

 そしてその続きを話すことになるのは、一通りの体力錬成が終わったあとの雑談でだ。


 シンデレラは、まだ、草の上で腕立てを続けている。


 根性があるな……という気持ちと、自分が新兵だったときもそうだったかなという気持ち。

 あとは彼女がオーバーワークにならないように注意しつつ、草むらじみている訓練場に腰を落として風を感じながら、改めてされたエルゼからの問いかけに答えた。

 そう――ハンス・グリム・グッドフェローと、フェレナンド・オネストの間に何があるか、だけれど……。

 

「いやオレ、別に大尉とすげー関わりあるとかじゃないんスよ。大恩人とか、戦地で助けられたとか。そりゃ、あの訓示には感動したっスけど」

「そうなんです?」

「いやー、まあ、話くらい流石に小耳に挟んだっすけど、何か、こう、あんまり縁がないかなーって思って。……あの戦争も、オレたちにとっちゃ何か大会に出られねえな程度で。街も占領されましたけど、今思えば、あっちの中だとまだ良識的な奴らだった方みたいで――……」


 物凄く、実感があったわけではない。

 不自由だったし、戦争が現実になったことへの恐ろしさもあった。先が見えない毎日への恐怖があった。

 ただ、フェレナンド・オネストにとってそれは――ある種の、ある種の対応しなければならない日常に変わっただけだ。

 それは非日常でなければ、絵空事ではない。

 つまりはそこに、英雄の介在する余地のない生活だ。


「ただ、まぁ……」

「なんです?」


 運動用にその桃色髪を三つ編みにしたエルゼへ、少し考えてから返答する。

 本当にちっぽけな――――本当に物語性もない。

 英雄も、伝承も、神話も、何一つ関係ないどこにでもいる一個人の人生。世界中にある群像劇。

 そんな中の、面白くもない一つだ。


「いや、オレの居たスポーツクラブの先輩に……こう、大したことない人がいたんスよ。年取ってるわりに、とか学年上のわりに……とか言っちゃ悪いっスけどあんまり上手くなくて。まあ、なんていうか、そういうところで後輩からちょっとナメられてて。……オレも別に何かって訳でもないけど、何となくちょっと……まあ他の先輩よりは下に見てたかな」

「……」


 別に何か陰口で盛り上がる――なんてことはしなかった。そういうのは好きじゃないし、不満があったら基本的にその場で言えばいいと思ってる。

 ただまあ、軽んじる気持ちがなかったかと言えば嘘になるし、試合中や練習中に不満に思ったことだって何回もある。

 そんな一人の人。

 別に何か名前をつけて、大きく主題がついて物語になったりしない人。記録にも残らない人。

 だけれども、


「ただその先輩が引退するときに、同級生の奴が泣いてたんスよね。なんでかって聞いたら――なんか相談に乗ってくれたり、オレには言わなかったけど辞めようと思ってたときに親身になったり遊びに誘ってくれたりしてたらしくて……。皆にはああ言われてるけど、そう思われてるけど、本当はすげーイイ先輩なんだって……」


 それは、フェレナンド・オネストの記憶に残った。


「なんか、それからっスね。なんていうか、って……スゲー人だと思うんスよ。そう言われてからオレの中でもその人への評価変わったし、あと、オレのときはそんな風に思ってくれる後輩とかいるのかなーって……」

「……その先輩、戦争で?」

「いや、全然。……別に直では関係ねーんスけど、街が解放されたときに」


 誤解させる言い方になってしまったけど、本当に関係ない話なのだと首を振る。

 思い返すのは、街の奪還が終わって、避難誘導が済んだときの話だ。

 これから再度、敵によって奪還や占領があり得るかもしれないと――……軍人たちが街の人を集めて注意を行っていたときの話だ。


「グリム大尉――……その時は中尉かな。なんか、行方不明になったらしいんスよ。どっかで。それを知らされたオレらの街の解放に来てくれた軍人たちが、泣いてて。本当に大勢」

「……」

「結局まあ、大尉がそのままどっかの部品が壊れながら……こう、救援に応じて別の場所に戦いに言ったせいでそんな風になっちゃってたそうなんスけど……多分、そのときの皆の中だと大尉は死んだことになってて……」

「……」

「ああ、って。いなくなっちまったときに、そんなにも泣いてくれる人がいるぐらいのことをやってたんだなーって……それが、なんか、すげえなって思って」


 そう言ってから、何だか気恥ずかしくなってきた。

 なんで軍人になったかとか――どうして兵隊に志願したかとか。

 そういう話は、士官学校でもわざわざ口にしなかった。

 多分、そんな胸の内は他人に明かす必要がないものだった。明かすべきでもないと思っていたし――実際、戦場に出た訳でもないからそういう青臭かったり何やりだったりすることを言うのには、言ってから白い目で見られたり批評されたりするのには恥ずかしさがある。

 だからまあ、誤魔化すように、


「ローズレッド先輩、オレが死んだら泣いてくれます?」

「縁起でもないこと言う馬鹿に流してやる涙とかないんで無理でーす♡」

「厳し……そっかぁ」

「そうでーす♡ ……というか仮にも前大戦で戦地にいたエルゼちゃんにそういう話題振るとかマジぶっ飛ばされておかしくないやつですからね、ブービー後輩?」


 相変わらず貼り付いたような笑顔の仮面を持つ彼女へ、肩を竦める。

 怒らせてからはあとが怖いし、


「……んじゃ、生き残るためにもう少し走って来ますかねぇ」


 そんな風に言って、また、フェレナンド・オネストは運動場に向けて走り出した。


 それがハンス・グリム・グッドフェローと、フェレナンド・オネストの物語だ。

 それ以上でもそれ以下でもない、上官と部下の物語だ。

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