体の奥で鳴る音

三角海域

体の奥で鳴る音

 彼女と出会った時のことを思い返してみよう。

 あれは、冬の寒い日の事だった。クリスマスが近く、町はどこも華やかで、忙しなくて、僕にとってはとても退屈な、そんなただの一日のこと。

 週末にいつも行く酒場はやたらと混んでいて、けれど酒を諦めきれなかった僕は、他の酒場を探すことにした。

 寒空の下、あてもなく歩き回っていると、一軒のバーを見つけた。僕はその店に入り、適当にカウンター席に座り、ウイスキーを頼んだ。

 小さな店だった。けれど、そのこじんまりとした店内には、細かなこだわりがあるように見えた。

 カウンターはピカピカに磨かれ、淡い照明がほどよく店内を照らし出している。

 酒が注がれたグラスも、透明感のある洒落たものだった。琥珀色のウイスキーがそんなグラスの中でゆらりと揺れるだけで、味がよくなるように感じられる。

 そんな中、一番目立つのは、店の中央に置かれた立派なピアノだった。あれが置いてあるせいで、余計に店が狭くなっている。

「ジャズの演奏ができるバーを作りたかったんですよ」

 そんな視線に気付いてか、マスターが言う。

「ジャズはお好きですか?」

「いえ、特に」

「そうですか、良いものですよ」

 マスターはそんな風に言いながらも、そこで言葉を切った。ジャズを押し売りするようなことはしないようだ。

 しばらく酒を飲んでいると、店の扉が開いた。冷たい外気と共に店に入ってきたのは、女性だった。

 体調が悪そうな色白の顔。ぼさついた髪。けれど、それらが妙に似合っていて、不潔だとはは感じなかった。

 彼女は扉を開けっ放しにして、その場に立ち尽くしている。

「ご苦労様。入って」

 マスターがそう言うと、彼女は扉を閉め、ようやく店内に入ってきた。

「何か飲む?」

「バーボン」

 マスターの問いに答えながら、ピアノに向かう。

「ピアニストなんですか?」

「ええ。それも、素晴らしいピアニストです」

 マスターは素晴らしいという言葉を強調して言った。

 彼女はピアノの前に立ち、ぼんやりと鍵盤を見つめている。どこか悲し気で、今にも泣き出してしまいそうに見えた。

 マスターはバーボンをグラスに注ぎ、ピアノの上に置いた。それが合図というように、彼女は椅子に座り、とても自然な動作でピアノを弾き始めた。

 それが、彼女との出会いだ。


「お客さん?」

 マスターの声で我に返る。気が付くと演奏が終わっていた。

「素敵な演奏でしょう?」

「いや、僕は素人だから、良し悪しなんてものはわからないですよ。でも、なんていうか、聞き入ってしまったというか」

 自然だった。すべてが自然だったのだ。ピアノを弾き始める動作も、最初の音が鳴った瞬間も、演奏そのものも。全てが自然に在った。意識を音楽に向けているわけでもないのに、なぜか聞き流すことができない。

「本当に、彼女は素晴らしいピアニストですよ」

 素晴らしいというより、僕には不思議に感じられた。まるで何かの魔法のようだと。

 演奏を終えた彼女は、ぼーっとしている。そんな風にして一分ほどが過ぎると、バーボンを一口飲んだ。

 そうして、また椅子に座り、演奏を始める。

 そんな流れを、何度も繰り返す。

 演奏、酒、演奏、酒。

 そのひたすらの繰り返しの後、酒が無くなると彼女はそのまま店を出て行った。

「面白いでしょう」

「ええ」

 僕は、彼女に強烈に惹かれていた。

 理由はわからない。ただ、彼女の演奏がそうであったように、僕が彼女に惹かれたのもまた、自然なことのように思えた。



 それから、何度か店に通った。

 マスターとも仲良くなり、彼女についていくつかの話を聞くことができた。

 この店だけでなく、様々な店で演奏していること。どこの店でも、同じスタイルで演奏していること。

「人気ありますよ。上手いとかそういうのを越えた、不思議な魅力が彼女の演奏にはあります」

 マスターは心の底からの笑みを浮かべながら言う。

 何度か、彼女に話しかけようと思った。けれどそれは、すべてが自然な彼女の動きを邪魔するように思えた。

 僕にそんな勇気があったのは驚きなのだけど、それなら、彼女が店を出たあとに追いかければいいのではと思った。気色悪がられるかもしれないが、その時はその時だ。

 酒を飲み終え、店を出て行く彼女を追いかけ、声をかけた。

「あの」

 彼女は振り返り、僕をじっと見る。

「さっき演奏してた店で、今度お話でもどうですか?」

 彼女はしばらく僕を見たあと、答えを返さずに歩き去った。



「こんばんは」

 ある夜、演奏を終えた彼女が僕に声をかけてきた。

「え? なんで?」

「お話しようって言ってたから」

 なんでもなさげに彼女は言った。あの時、無言の拒絶をされたと思っていた僕は驚いたが、きっと、彼女の中ではなんでもないのだろう。僕の誘いも、こうして話すことも、全部が自然の流れでしかない。僕はやはり、そんな彼女に魅力を感じる。

 カウンター席に並んで腰掛け、話をする。酒をおごると言ったが、演奏している時にしか飲まないのだと断られた。

「決めごとなんですか?」

「なにが?」

「店に来て、注文をして、座って。その流れがいつも同じだから」

「考えたことない」

「そうですか」

「おかしい?」

「いえ」

 短い会話が続く。けれど、それが彼女らしくていいと思った。

「それじゃ、そろそろ」

「また話せますか?」

「いいよ」

 去って行く彼女の背中を見つめながら、僕は酒を飲んだ。いつもより体が熱を帯びているように感じた。



 何度か彼女と会話を続けていた。別に、何かしらの発展があるわけでもない。ただ話すだけの時間があって、やはりそれらは、すべて自然の流れでしかないように感じられた。これ以上先があるわけではない。それがわかっていても、僕は彼女と話し続けた。

 そんな時間が、数か月、一年といつまでも続いた。

 こんな時間が、これからも続くのだろうと思った。けれど、それはある時、突然終わった。

 ある夜の、ある演奏。演奏が始まった瞬間、マスターの手が止まった。最初は何故だろうと思ったけれど、演奏が続くうち、僕にもその理由が分かった気がした。

 彼女の演奏が、いつもと違う。体の中に、音楽が入り込んでくるとでも言えばいいのだろうか。自然と、視線が彼女へと向く。発せられる音が、おそろしいほどに美しく感じられた。

「すごい」

 マスターがそう漏らす。ジャズを知らない僕がこれほど感動しているのだ。マスターはどれほどの衝撃を受けているのだろう。

 そして、演奏が終わった。

 彼女の方を見ると、彼女は静かに涙を流していた。はじめて彼女を知った時と同じ。ぼんやりと鍵盤を見つめている。あの時と違うのは、色白の頬につたう涙だけだ。

 その夜、僕は彼女に誘われ、彼女の家に行った。彼女の部屋は物がほとんどなかった。まるで空洞のように感じられた。そして、そんな、空洞の中で、僕は彼女と一線を越えた。どちらから誘ったのかはおぼえていない。だが、一線を越えたというのに、やはりそれは自然の流れでしかないと感じた。きっと、これをきっかけに何かが変わることはないのだろう。

 ベッドの中で、彼女は話をした。珍しく饒舌だった。

「昔、死のうと思った」

「何故?」

「何もないと思ったから」

「何もない?」

「そう。生きる理由がないと思ったの」

「理由がないから死ぬ?」

「そう。でもそこで思った。どのみち理由なんてないんだとしたら、生きようが死のうが同じなのかもしれないって」

「そう思ったから生きることにした?」

「きっかけはそう。だけど、理由はそれじゃない」

 彼女は目をつむる。眠ってしまったのかと思ったが、そうではないらしい。どこか嬉しそうに語り始めた。

「なんとなく、ラジオをつけたの。そうしたら、ジャズが流れてた。それが、なんだかすごく自然だった」

 自然。僕が彼女に持っている印象が、彼女の口から言葉として発せられたことに少し驚いた。

「それを聴いて、私もこんな演奏をしたいと思った」

「それが、君が生きる理由になったんだね」

 彼女は目を開き、僕の方を見た。

 そして、初めて、笑みを見せた。とても無邪気で、嬉しそうな笑みを。

「いいえ。死ぬ理由ができたの」

 会話はそこで終わった。彼女はそれ以上なにも語らず、僕も何かを語ろうとは思わなかった。

 その後、彼女は死んだ。

 自殺だった。



 彼女の葬儀をすると、マスターが教えてくれた。

 けれど、僕は行こうと思えなかった。

 彼女がいなくなったことはとても悲しいけれど、きっと、それも自然なことだったんだろうと思う。

 あの時、彼女は彼女が望む演奏ができたのだろう。

 だから、悔やむことは少し違うように感じられた。

 悔やむかわりに僕は、自分の望むように生き切った彼女を称えるため、酒を飲む。

 夕暮れの日差しを受け、僕は目を閉じる。

 彼女の演奏が、体の奥で鳴った気がした。

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