明けの空におちる

倉橋玲

明けの空におちる

 ああ、良かった。


 鉄格子の向こう、物々しく鎧を音立てながら入室してきた兵が告げた言葉に、少女は何よりもまずそう思った。

 こちらと会話をすることもなく、必要な言葉だけを投げて寄越して、兵は入ってきた時と同じように扉を開けて出て行った。

 安心した、と思わず呟いた声は、久方ぶりに発したものだから、喉に引っかかってまともに出て来はしなかった。力の抜けた身体を、腰掛けていたベッドに投げ出す。自分以外誰もいなくなった牢の静けさに、じわじわと胸に安堵が広がり、牢に入れられた時ですら乾いていた両目が潤んで、世界が滲んだ。

 涙が落ちる気配はないけれど、きっと今、酷くみっともない顔をしているのだろう。誰に見られているわけでもないのに、少女はそっと手で顔を覆った。閉ざされた視界の暗さは、少しの平静さを取り戻させてくれる。

 そうとなれば、暗闇の中に浮かぶのは一つの影だ。鮮やかな金色。美しい明け。素晴らしき王と讃えられる人。

 愛されていると知った。愛してしまったと悟った。信じることは、いつだって恐ろしくて、何度やめてしまいたくなったか判らないくらいだけれど。

 信じて良かった。今は心からそう思う。あの人を信じて良かった。ああ。

 いつとも知れない裏切りに、もう怯えなくてもいいのだ。

 あと数日。もしかすると、早ければ明日にはここを出られるかもしれない。

 そうなったなら、あの人の顔を見たい。そう思っているうちに、気づけば少女の意識は眠りの中に落ちていた。




 翌日、少女は声を掛けられ目を覚ました。高い位置にある嵌め殺しの窓からは、夜の気配が残る薄明かりが差し込んでいる。夜が明けるまで、まだ少しかかるらしい。

 声の方を見れば、兵士が二人立っていた。牢の鍵が開けられ、促されるまま外に出る。二人に前後を挟まれ、連れて行かれた先は浴場だった。確かに、一応身体を拭く布は与えられたけれど、それだけでは限度がある。きちんと身体を洗う機会が与えられたことに、少女は少しばかり安堵の息を吐いた。

 身を清めたところで、彼女の身体に刻み込まれた傷や、犯した罪が消えてなくなることはない。それでも、それを承知の上で、彼女は選ばれたのだ。その事実は、そのままの自分で良いのだという証明のようで、自分には勿体ないくらいだと少女は思う。

 丁寧に身体を洗っているうちに、浴室の窓の外が少しずつ明るくなっていくのが見えた。また今日という日が始まり、今日という日が続いていく。可笑しいくらい素直に、それを言祝げる自分がいる。言いようのない、どこか浮ついた気持ちだ。

 全身を磨き終えた少女は、風呂を出て用意されていた白い服を身に着けると、また兵士と共に廊下を進んでいく。闇の気配が払拭されていない中はとても静かで、彼女と兵以外の姿はなかったが、外へ繋がる扉の前に、男が一人立っていた。

 白皙はくせきの顔がじっと少女を見つめている。よく整ったそれを見るのは数日振りだったが、離れていた日数以上に懐かしい気がした。同時に、この先に進む前に、見知った顔を見られたのが嬉しくて、少女は少しだけ笑う。

 その時不意に、無表情な彼の黒々とした両目が、どこか悼むような眼差しをしていることに、少女は気づいた。しかしそれも、すぐに伏せられてしまったものだから、見間違いだったのかもしれない。

 内心で首を傾げた少女の見つめる先で、宰相たる彼は深々と頭を下げてから、背後の扉を開放した。そこから差し込む光は、どういうことだか赤い。理由は、建物から出ればすぐに知れた。

 燃える空が、少女の視界一杯に広がる。



 朝焼け、だ。



 未だ夜が滲む空を、炎のような赤が焼いて焦がし、少しずつ闇を払っていく。世界の美しさを知らしめるかのように燃える色は、まるで似ていないはずなのに、どこかの王のようだった。

 己に世界の美しさを広げてくれた人だからだろうか。

 朝焼けに染まる世界の中、眼前に泰然と佇む王の姿を認め、少女は思う。

 鮮やかな金色こんじきの髪が燃える空に照らされて、明けを宿したそれは夜明けそのものであり、正に太陽と称するに相応しい様相をしている。優しく笑んでいる二つの瞳はいつものように、咲き誇る花の如き赤色だ。否、今は朝焼けの空すら取り込んで、いつもよりずっと美しい。この世の美しさのどれほどを掻き集めたとて、あのに勝るものなどあるはずがない。

 幸せだ、と、少女は思った。

 ふわふわと甘い砂糖菓子のようなそれではなく、息苦しさすら覚えるくらいの、確固とした幸福感が、ひたひたと内側を満たす感覚がある。それは、生まれて初めての感覚だった。

 どうしようもない人生だった。呪われた生だった。望まれない命だった。それでも、こんな幸福が与えられるのなら、こんなにも幸せになれるのであれば、きっとこれまで生きてきたことにも、僅かでも意味があったのだと思えた。

 あのひとが笑っている。誰よりも正しくある人が。民を照らす光が。輝くが。癒すように慰撫するように、愛を告げるように微笑んでいる。

 その絶対的な揺らぎの無さが、少女の魂をすくってくれるのだ。

 ああ、良かった。本当に良かった。どうしようもなく、心から嬉しくて仕方がなかった。

 あのひとは間違えない。迷うことなく民を導き、惑うことなく国の標となってくれる。あのひとは、何も変わらない。たとえ行く先が、針の上を歩むが如き隘路あいろでも。非情な歩みの先に身を刻まれ、臓腑はらわたを晒すことになろうとも。いつまでもまばゆいまま変わることなく、ああ、これから先もずっと正しく、その道を違うことはないのだろう。

 まるで未来が視えているかのように、少女は確信する。

 だからだろうか。不思議なくらい、恐怖は浮かんでこなかった。



 促されるままに進み、台に首を乗せる。その直前、傍らに構える人が痛みに耐えるような表情を見せたのが、目の端に引っかかった。憐れまれたのだろうか。けれど安心してほしい。恐ろしくないのだ。怖くないのだ。むしろ今、しあわせなきもちなのだ。

 真正面を見れば、王が微笑んでいる。じっと逸らすことなく、ただ少女だけを見て。だから同じように微笑みを返せば、優しいその両目がやわく細められた。

 赤の瞳に、醜い己が映っている。けれどそれは最早、彼女にとって忌諱すべきものではなくなった。

 ああ、ああ――


 私が愛しても、私を愛しても、あの人は何も変わらない。変わらないということはつまり、正しいままだ。良かった。本当に良かった。心の底から安心した。

 私はあの人を、歪めずに済んだのだ。



「すきになって、よかった」



 台の上で、首がその衝撃に僅かに転がった。

 最期の最後まで、宰相はしっかりとそれを見届けた。国を支える者としての、その場に立ち会った者としての義務だと、瞬き一つなく見届けた。

 おびただしく流れていく血が、少女の白い服を、台を、受け皿を染め上げていく。台から抜かれた斧を伝う赤が、朝焼けにより深く輝くようであった。

 もっと怯えるものだと思っていた、と。一人、宰相は胸の内で呟く。少なくとも宰相の知る少女は、精神的に脆く、少しの負荷で瓦解してしまいそうな子供だった。

 だから、まさか笑うとは思っていなくて、呑み下したはずの罪悪感が込み上げてくる。苦々しく刺すようなそれは、ただただ不快で、より一層に喉を焼くようだった。

 もう皆が目覚め始める時刻だというのに、この場所はまるで夜の深さのように静かだ。滴る水音ばかりが、時の流れを物語る。そんな中で、宰相の視線の先、同じように最期を見届けた王が、倒れ伏す身体にそっと歩み寄った。

 別たれてしまった小作りな頭を、大きな手が静かに持ち上げる。それを胸に抱き、口を寄せた王の表情が、一瞬悲哀に歪んで見えた気がした。

 そこでとうとう見ていられなくなった宰相が、そっと目を逸らす。だから彼には、王の口が少女になんと囁いたのかは判らなかった。

 ありがとうだろうか。愛しているだろうか。それとも謝罪の言葉を告げたのか。別にそれがどんなものであったとしても、何も変わることはないのだが。

 王は王たる務めを果たした。選ばれた贄は捧げられ、災厄は祓われる。

 朝焼けが滲んでいく。そう待たずして夜は完全に消え去り、ただひとりをいしずえに、また平和な世界が続いていくのだ。

 万の為に一が失われる。その一が王の愛し子だとしても、例外ではない。万を抱える国の為、一は正しく捨てられるべきだ。だからこの世で最も正しくある王は、一切の不備なく、何の余地もなく、己に課せられた責務を果たした。


 ただそれだけの話だった。

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