10 幕間 後宮外の人々

帝国の宰相

 衛兵がサッと道を開けた。

 表情が少し緊張している。昨日、趙良を不審人物と疑った若い男だ。古参の衛兵に怒鳴られたことが効いているのだろう。無理もない。宮廷に二日も続けて出仕したのは三年ぶりだ。下級の兵士や役人の中には趙良の顔を知らない者も増えている。


 趙良は奇妙な懐かしさを感じながら宮廷の廊下を歩いた。

 ここに来ると、どうしても昔のことを思い出してしまう。最後の決戦に勝ち、前の皇帝勢力を滅ぼしてから無人の宮廷に入った。倒れた椅子に持ち出された調度品。その荒れ果てた様子が、まるで昨日のことのように鮮明に蘇ってくる。


 このような記憶をあの者は、常に見ているのだな。

 趙良は口もとが自然と弛むのを感じていた。文月のことを考えると、なぜか心地いい。変な娘だ。見た事もない男の幻影に恋をして、必死に尽くそうとしている。それが自分であることが、何ともこそばゆい。


「宰相殿に趙良が来たと伝えてくれ」

 入口にいた衛兵に声をかけると、程なくして扉が開いた。


「趙良か。約束の時間よりずいぶんと早いな」

 鴻帝国の宰相、夏陽は筆を動かしながら目も上げずに言った。

 別に機嫌が悪いわけではない。いつもそうなのだ。四十がらみの地味な男で、顎ヒゲを細長く整えている。

 頭の切れる男だが、その種類は趙良とは違う。策をめぐらすのではなく、目的のために効率的に仕事をこなす。直言が嫌われることもあるが、私欲がないだけに粛清は免れている。そういう男だ。


「全く。おまえのせいで面倒事ばかりだ。昨日のうちに片付けるはずだった仕事がまだ残っている。おまえは天下国家の運営を何だと思っているのだ。それだけの才能を持っている癖に。少しは手伝おうとは思わないのか」


「宰相殿ならともかく、私のような俗人には国家の運営をどうこうする力量はありません。せいぜい掻き回された水の流れをどうするか、小賢しく策をめぐらすのが精一杯です」


「わしに皇后様の妹を押しつけたのも、その策とやらか。妻を亡くしたばかりなのを良いことに、よくぞやってくれたものだ。あれは皇后様と言い争うとすぐに泣く。そのせいで外戚の連中に物が言いにくくなった」


「宰相殿は細君にご不満でもおありですか」


 夏陽は困ったような顔をした。

「別に、そうではない。あれはわしによく仕えてくれている。年がふた回りも離れているのに、なかなかできた女だ。何より愛らしい。

 おまえが押しつけた厄介事の中ではまあ、マシな方だな。それで……言い忘れていたが、子ができた。生まれれば皇后様にとっては甥か姪になる。おまえはその子をどう扱ったらいいと思う?」


「面倒事を押しつけ合うのはお互い様のようですね。男か女か。わかったらまた相談に乗りましょう。ところで宰相殿。仕掛けた網に魚はかかりましたか」


「ああ、おまえの見込みどおりだった。今朝早く、後宮から出て行こうとしている宮女と宦官を見つけた。伝染病のせいで追放されたことになっているが、それらしい症状はなかった。おそらく医者に金でも積んだんだろう。兵士に命じて捕らえ、見張りをつけて監禁している。すぐにでも会いに行くか?」


「手荒なことはしていないでしょうね」


「当然だろう。わしを誰だと思っている。男も女も体中傷だらけだったが、それは元からだ。ただし、自殺しようとして暴れるからキツく縛って口に布を噛ませてある。尋問するなら舌を噛まれないように注意しろよ」


「わかりました。感謝します」

 やはり、想像したとおりだ。

 捜査が核心に近づけば、黒幕は必ず関係者を始末しようと考える。

 だが、後宮の中で殺せば死体が残る。手を下した人間の痕跡も知られてしまう可能性がある。それならば密かに後宮の外に出してしまえばいい。後宮の出入りは厳密に管理されているが、伝染病にでもかかったことにすれば特例でいつでも追放できる。


「そうだ。ついでに教えておいてやる。そいつらを後宮の近くまで迎えに来ていた連中を見つけて、部下とちょっとした戦闘になった。その辺にいる地元のゴロツキだ。生き残った男のひとりに話を聞いたが、金をもらって殺すように頼まれただけで依頼主のことは名前も知らないそうだ。どうだ、参考になったか?」


「はい、十分です。この借りはそのうち必ずお返しします」


「その点なら信用している。それより、陛下から聞いたぞ。おまえもようやく身を固めることになったらしいな。他人に妻を押しつけたりするから、その報いが来たというわけだ。……だが、後宮で美女選びか。これは難しいぞ。皇帝陛下が目をつけていた美女をさらえば恨まれるし、つまらない女なら陛下をバカにしたことになる。わしならばお手上げだ。天才軍師がこの難問をどう切り抜けるか、注目しているぞ」

 夏陽は、趙良の顔を楽しそうに見た。


 やれやれだ。皇帝陛下も口が軽い。仙月として潜入していることはともかく、後宮の女の中から妻を選ぶ話は宮廷中に広まっていると思った方がいい。


「そのことなら、心配していただくにはおよびません」


「なんだ、もう決めているのか。わしとおまえの仲だ。誰にも話さないから先に教えてくれ」


「皇帝陛下よりも先に他人に漏らすような不敬はできません。それでは、私は仕事があるので失礼させていただきます。宰相殿には細君と仲睦まじくお過ごしください」


 自分でも意外だったが、趙良はもう、その難題が自分を苦しめることはないことに気づいた。どうであろうと心のままに決めればいい。策を弄さぬのも策の内だ。

 趙良は戦略家として、自分自身も盤面を争う駒のひとつに過ぎないことを知っていた。そしてその駒がついに詰まされる時が来たことを、むしろ喜ばしいことだとさえ思っていた。

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