桃太郎『官能』

千紫万 紅

川を走って

分からなかった。

桃色の桃のようなそれが、何なのか分からなかったのである。

深呼吸をし、冷静に、先入観を捨てて凝視した。

桃だった。

あたしより大きな桃だった。

あたしは今年で六十になる。つまり老化によるなんらかの弊害が起き、

幻影を見ている可能性を否定できないのである。

しかしあたしは誰よりも矍鑠としている自信がある。

なぜなら。


              ○


四十歳。十二年間の夫婦生活はあいつの女グセの悪さが原因で幕を閉じた。

泣きながら怒るあたしに謝り続けるあいつ。しかしあいつは最後には開き直ってこう言った。

「子どもが欲しかった」



正直、ちゃんと謝ってくれれば浮気は許せたかもしれない。好きだったから。

ただどうすることもできないあいつの欲望が、家族という強固な糸を切り裂いた。


         ○


どんぶらこ、どんぶらこと巨大な桃は川の流れに沿って、こちらへやってくる。

近づくにつれて増す異様さが不気味で、あたしはそれから逃げた。

自分と同じくらい大きな桃は、もはや桃色の怪物である。誰だって逃げるに決まっている。

しかし、走り出した足はすぐに止まった。


         ○


「桃子さん、桃って美容にいいんだよ。果物の中でもナイアシンっていう成分が豊富に含まれてる。

ナイアシンは皮膚や粘膜を健康に保ってくれる。桃って美の果実なんだ」

 これがトモヤくんの初めてのピロートークだった。

 トモヤくんはマッチングアプリで出会った医大生である。彼は毎回ピロートークで、「桃がもたらす美容効果」を語ってくれた。

「桃子さんのおっぱい、大きな桃みたいだ! はあっはあっ」

 最中も頭の中は桃でいっぱいの彼は、医者になりたいのか、桃の学者になりたいのかよく分からなくて可愛かった。



そう。あたしはマッチングアプリを利用している。しかも39歳と偽って。

21もサバを読んだら流石にバレるだろうと思われるかもしれない。

確かに普通ならそうだ。でもあたしはまだバレたことがない。

もともと童顔なのもあるが、あいつから貰った慰謝料を全て美容に注ぎ込んでいる。

「若見え」「マイナス10歳肌!」

などの言葉がつく商品は全て試す。シミやシワも手術で簡単に取れる時代なのだ。


たくさんの美容を実践し、人生経験も六十年あるあたしが、身を持って得た名言がある。


 一番の美容はセックス

                        39歳 独身 桃子 Gカップ



              ○


ありがとうトモヤくん。久しぶりに連絡を取ってみよう。『大きな桃、食べない?』とか。

彼からの返信は容易に想像できる。2分も待たないうちに『いただきますっ!!どこのホテルで食べますか?』

とかなのだろう。やっぱり連絡を取るのはやめた。

 さあ、あの桃を食そう。美容こそが今のあたしの全てなのだから。もっと若返って、イケメンとしたい!

 ザパーン!

 川は下流に向けて幅が狭まり、下り坂になっている。桃はどんどん勢いを増して目の前を通り過ぎていった。

「待て! あたしの美の果実! 」

あたしは桃にややリードされながら走った。土を蹴って、腕を振り、軽やかに。

しばらく走っていると疲れを超えて気持ち良くなってきた。気分が高揚し、脳から気持ちいいのが

分泌されているのがわかった。

「はあ、はあ」

 おっぱいが激しく揺れて、セックスみたい。いや、違う。これはあれだ。


               ○


「土を蹴って! 腕を振って! 軽やかに! だぞ桃子」

「はい! 」


 マラソン一筋。中学、高校、大学。文字通り、学生時代を必死で走り抜いた。

 努力は実り、あたしは実業団に入団。その時のコーチがあいつだった。

 厳しかった。食事制限はもちろん、フォームの改善、いつも怒声を浴びせられ、

毎日逃げ出すことしか考えていなかった。

 でも、血の滲むような努力は結果に結びついた。実業団の全日本大会で見事チームは優勝。

 その大会で我ながら、素晴らしい走りを見せたあたしは世間から注目を集めるようになった。

 みんなが必死な顔で走る中、軽やかに涼しい顔で、下り坂を誰よりも速く走るあたしを人は「急流の桃子」と呼んだ。

 練習を見にくるファンの人も少なくなかった。しかし人気が高まるにつれて、ファンからセクハラまがいなことを言われることが

増えた。今まで気にしていなかった大きな胸や、走る時の表情などが気になり出して、走ることに集中できなくなった。

大会の日、周囲の視線と声援が気になって走りは最悪だった。

あたしは途中で気分が悪くなり、逃げるように棄権した。


「あたし、マラソンやめたいです」

チームの関係者は誰もそれを許さなかった。走れないお前になんの価値がある、

契約を違反するなら法的処置を取る、脅されたあたしはさらに走れなくなっていった。

限界に到達し、自殺すらよぎったある日。

「お前が行きたい道を走ればいい。あとは俺に任せろ。土を蹴って、腕を振って、軽やかにな」

あいつは、あたしをチームから離れさせてくれた。ダサくて余計な一言を添えて。

あたしは精一杯の感謝を伝え、建築会社の事務として精一杯働いた。みんなが無知なあたしに仕事を教えてくれた。

辛いことももちろんあったけど、働かせてもらえることに喜びを感じていた。


三年が経って、こっそりマラソンの大会を観に行った。走ることに未練は全くないと言ったら嘘だった。

ああ、あたしはあそこを走っていたんだ。ちょっとの嫉妬が胸に染みた。

ふと、なんとなく作った視界にあいつがいた。

目があって、すぐにそらしたけど、大きな声が会場に響いた。

「桃子!久しぶりだな!」

 あたしは小さく手を振って、きっと届かないであろう小さな声で言った。

「……お久しぶりです」



                ○


「はあ、はあ、はあ」

土を蹴って、腕を振って、軽やかに。

美の果実よ。あたしを巻けると思ったら大間違いだ。


あたしは急流の桃子。誰よりも軽やかに速く走る女。

あたしは桃子39歳。誰よりも遅く年を取る女。

ラストスパートを加速した。

ジャパッジャパッ

あたしは川に足を突っ込んで、桃を堰き止める。

「捕まえたよ。あたしの美の果実」

なんとか堰き止めたが、これだけ大きいと六十になる女一人では運べない。

一旦、岸に桃を運び、考えた。

仕方ない。トモヤくんを呼ぼう。

『大きな桃、食べない?』

 彼の桃の解説を久しぶりに聞いてやろう。


                ○


「桃子、俺と一緒に人生というマラソンを走って欲しい」

考え直すほどダサいプロポーズは、急流の川で行われた。そういうところが好きだった。

「はい。あたしでよければ」

急流の桃子。これからはゆっくり、でも、しっかり土を蹴って、腕を振って、軽やかに。

あの日、川から車に戻るまで、二人で少し走ったんだ。

それはそれは気持ちよくて、美しかった。

あたし、このために走ってたんじゃないかって思えた。


               ○


ピコン。間髪入れずにトモヤくんから連絡がきた。

『いただきますっ!どこのホテルで食べますか?』

違うんだトモヤ。あたしの桃なんかよりももっと大きなリアルの桃なんだよと教えるために、

桃の写真を撮ろうとした。そのときだった。


ンギャー、ンギャー! 

 桃の中から何か音がする。赤ん坊の泣き声のようである。

 あたしは慌てて、桃をこじ開けるように、中に手を入れた。


 小さくて弱い手のような何かが、あたしの手を触った。

 あたしはトモヤを無視して救急車を呼ぶ。

 

 助けないと。

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