花香る国の殺人

小泉葵

第1話 再び幕は上がる

 静寂の中、何度目かのアラームが鳴り響いた。すると、ベッドの中から伸びた手が、無造作に携帯をつかむ。論田眞子は目をこすりながら時間を確認すると、正午をやや過ぎていた。


「はぁ~、もうこんな時間、誰よ目覚まし止めたの。」


 その発言とは裏腹に再び眠りに就きかけたとき、掛布団の中から何かがもぞもぞと動いた。それは眼前までやってくると、あるじの顔を熱心に舐め始めた。


「ちょっと、ベル、やめてよ~。」

「はっ、また寝ることろだった。起こしてくれたのね、さすが賢い。」


 論田眞子が飼っている2匹の猫の1匹が、飼い主の寝坊をいさめるがごとく、あるいは、できる限りを尽くして起床の手助けをしていた。ベルと呼ばれたラグドールは、ハチワレ模様でとても愛くるしい。


「よーし、起きるぞ。」


 布団の中から微動だにせず、気合らしきものを入れた。すると、器用にも寝室のドアをあけグレー色の毛むくじゃらが入ってきた。もう1匹の猫である。ベッドの下からしきりに切ない声で鳴き始め、何かを主に訴えかけていた。どうやら空腹が限界まで来たようだ。


「チャイ、もうご飯の催促?まったくどんだけご飯食べるのよー。」

「マンチカンって猫種は食いしん坊って本当ね。」


 ようやくベッドから身体を起こし目が覚めてきたところで、家のチャイムが鳴った。1週間家を空けるため、猫の世話を実家の妹に頼んでいたのである。


「猫ちゃんのお世話リスト作っといたから、それみてやっといて。」


 と、玄関にいる妹に言い放つと、慌ただしく準備を始めた。


「あー今日もほぼノーメーク。」

「まあ、メイクでごまかす必要ないしいいか。」

「うー、急に出かけるの面倒になってきた。」

「やっぱりアオイに全部やらせればよかった。」

「あいつ先にエジプト行くから現地集合とか、ちょっとあり得ない。」

「スーツケースは事前にホテルに送っといて正解だった。」

とブツブツ言いながら手荷物の確認をしていた。


 彼女にとってはいつも通りの一日の始まりである。


「チャイ、ベル、行ってくるね。ちゃんと留守番してなさいよ。」

と2匹の猫を抱っこして別れを惜しんだ後、颯爽と家を後にした。


 ミラノ行のフライトが午前であったため、万全を尽くして成田空港に隣接するホテルを予約していた。起こしてくれる猫はいないため、時間に余裕を持った方がいいだろうという、ある種のリスクマネジメント意識が働いたためである。


「空港のホテルに前泊って、すでにこれだけで旅行よね。」

「あ~、チャイとベル元気かな~。」

猫と別れて数時間、2匹の猫が脳裏を横切る。


 翌朝、珍しく目覚ましより早く起きると、イタリア旅行への期待と不安を胸に抱き成田空港へと向かった。そして、あらかじめ渡されていたメモ書きを参考にして、なんとか無事にイタリア行の飛行機に乗り込んだ。


 イタリア・フィレンツェ


論田眞子の飛行機搭乗から、十数時間前。


 竜崎蒼汰は仕込みのため、日の出前から車を走らせ買い出しに向かっていた。竜崎は2年前からイタリア料理のシェフを目指して、フィレンツェのレストランで修行をしている。


「ほんとオーナー人使い荒いよな~。」

「片道1時間以上の場所まで買い出しとか、まあ今に始まったことじゃないけどさぁ~。」

「そろそろ料理の味認めてほしいなぁ~。」

「マコさん来るの明日だったかな。」

「今度は褒めてもらえるかな~、前はキャットフードのが美味しいだもんなぁ。」

「キャットフード食べてんのかなぁ~。」

「修行の成果みせてやるかぁ。自己肯定大事だよな。」

などと、ひとりごと言っているうちに目的地のオリーブ畑へ到着した。


 用事を済ませた竜崎が帰ろうとした時、遠くから呼び止める声がした。

「ブルーさん、お店に行くんでしょ~、乗せていって欲しいな。」

と、ラテン気質の明るく悪びれない感じで、若い女性が話しかけてきた。


 「ブルー」とは竜崎の呼び名で、名前の「蒼」から来ている。イタリア語ではBlu(ブル)なのだが、ブルさんと呼ばれるのに違和感を感じて竜崎の希望でブルーとなったらしい。なお、名字の「竜崎」はドラゴンとはかけ離れた外見であるため、即スルーされていた。


 その女性の名はジュリア。オーナーの義理の娘でオリーブ畑とブドウ畑の管理をまかされている。週に何回かはオーナーの店の手伝いをしており、この日はたまたま来たブルーの車でお店へ向かうこととなった。


 帰りは話し相手もできて、楽しいドライブになるかと思いきや、ラジオから幾つかのニュースが流れてきた。

「日本の佐渡島のタワー建設を巡り、漁協と開発会社が衝突して大規模な抗議運動が起こっている。」

「ミラノ市内の開店前の店内で、老人が惨殺されているのが発見された。犯人は未だ手掛かりなし。」

「エジプト・カイロで行方不明になっていた宝石が発見された。所持者である人物は変死を遂げていた。」

 

 ミラノ市内での殺人事件は、フィレンツェのお店からのほど近くの場所であるため、その話題で持ちきりになってしまった。


「そういえば、数日前から変な客がきてるんだよね。」

「変って、どんな風に?」


「えーと、無口なんだよね。」


「風貌からして、僕と同じ日本人だと思うんだけど、メニューもっていって注文しても、『なん』しか言わないんだよ。」

「で、インド料理の『ナン』のことかと思ってさ、ピザ生地を焼いてナン風にして持ってったらさ。」

「『クソが』の一言だけ発して、パクパク食べててさ。」

「まあ、ちゃんとお金払ってくれてるし、あまり気にしてないんだけど、もう3日も来てるんだよね。」


「それは確かに謎ね~。」

「日本人ならもっと話しかけてみればいいのに、イタリア語できないだけかもしれないじゃない?」


 そんな会話をしているうちに、車は店に到着した。


「ブルー、いつまでかかってるんだ。もう店開ける時間だぞ。」

「客もきている、さっさと開店準備しろ。」


「ジュリア、その東洋人から注文とってくれ。」


 ジュリアが開店前からまっていた東洋人をテラスに案内すると、メニューを差し出した。その東洋人はメニューを受け取ると目もくれずに、言葉を発した。

「くさなん」


ミラノ空港


 空港についた論田眞子は待ち合わせの場所へ向かっていた。長時間のフライトであったが疲れている様子もなく、滞在中のスケジュールを頭に巡らせていた。

「まずはミラノ市内にある猫カフェに案内してもらうぞ~。」

「はぁ~ネコちゃん~。」


イタリア某所


 椅子にくくりつけられた初老の男性が死体で発見された。死後約1日。胸に刃物が刺さった男性と、床一面に広がる乾いた血が、休み明けの店主を出迎えた。先日ミラノ市内でも似たような事件があり、国家警察が調査を始めていた。被害者が東洋系であったため、極秘裏に東洋人への捜査協力も要請されていた。







 

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