第3話 身代わりマホちゃん☆

 昭義は午後三時すぎに出版社に戻った。

 まだ編集長に今回の事をスマホで報告していない。今回、怒られるのは社会に出てから最も恐ろしい事になる気がした。いつもは行けたあかがねだいちの家が今回は消えていたなんて非現実的な事をどういう態度で告げればいいのだろうか。

 何よりも今回、気になっているのは、原稿を受け取れなかったのはあの美女の『因縁切り』が原因かもしれないと思える事だ。

 どのような超常の力が働いたかは知らないが彼女を巻き込みたくない。彼女を憎まれ役にはしたくないと心底思う。

 彼女が『悪縁』を切ったのだとすれば、彼女は自分にとってよい事を施してくれたのではないのか。

 と、すれば、自分とあかがねだいちが関係していたのはひどく悪い事だったというのか。

 確かにあかがねだいち周りの情報は、非日常といっていい不思議なムードだった。一般的な作家との関係とは思えない、不条理なバランスだ。

 それでも、と昭義は溜息をついた。あかがねだいちの今号の原稿は手に入れなくてはならない。それは社会人としての自分の義務だ。

 幸い、最終締め切りまではまだ間がある。

 色色と考える事がある。まずは社内の喫茶店でコーヒーを飲みながら落ち着きたかった。

 出版社の前でタクシーを降りた昭義は大きな玄関をくぐり、エントランスに入った。

 奥が喫茶店になっている。

 そこへ向かおうと受付の前を何気なく通ろうとして、ちょっとした騒ぎが起こっているのに気がついた。

「だからぁ! あかがねだいちの真帆ちゃんの漫画を載せちゃいけないんだ!」小学生らしき子供が水兵服の様な服装で受付嬢にくってかかっていた。「あかがねだいちの関係者に会わせてぇ!」

 受付嬢は困っている様だが、男の子は奮然と声を張り上げていた。奮然と? 違う、あれは精一杯の背伸びをして勇気を振り絞っている声だ。

 どうもその子の訴えの内容からして、自分が口を挟まなければならないみたいだ。

 死んだ祖母が自分の背中を押した気がした。

 関心を向けたからには早くしないといけない。その子に対して警備員が近寄ってきたからだ。

「ちょっと僕」

「あ、鈴木さん」受付嬢が昭義が現れたグッドタイミングに安堵した。

「あかがねだいちの漫画に興味があるんだって。ファンかい。いいよ。俺が関係者だ。ちょっと向こうで話を聞かせてくれないか」

「おじさんがあかがねだいちの漫画の関係者なの」

「おじさんじゃないよ、お兄さんだ。あかがねだいちの担当だ。名前を教えてくれないか」

「名前……?」その時、その子は恰幅のいい警備員が自分の背後に立っているのに気がついた。

「名前を教えてくれないと入館バッジが作れないじゃないか。予約をとってきたんじゃないんだろ。名前は」

「信一……井出坂信一」

 受付嬢が入館バッジに井出坂信一と印字して、自分に渡してくれた。それを信一という小学生に渡す。

「これで君は、俺の眼の届く範囲ならこの社内で自由に行動出来る」

 信一が胸のポケットにバッジを着けると、警備員はここから離れていった。

「行こう」

「編集部?」

「いや、そこの喫茶店」

 昭義と信一は心地よいBGMが流れている喫茶店に行った。エントランス内のそこは他の雑誌の編集員や作家達がそこかしこのテーブルに散らばり、独自の時間を味わっている。

 昭義は奥のテーブルに信一を座らせた。

 昭義はウインナーコーヒー。信一はクリームソーダだ。

「パフェ食うかい。俺も食いたい気分なんだ」

「あの……」ストロー付きのクリームソーダを一口だけ飲み、信一は意を決した様に手元に眼線を落として、訴えてきた。「あかがねだいちの漫画をもう載せないでください……!」

「何故だい」昭義はここで自分が知らない新事実が手に入る気がした。

 信一はあの夜、自分と真帆が異界であるあかがねだいちの家で体験した全てを語った。

 蜘蛛の様な怪物のあかがねだいちやその想像したクリーチャーに襲われた事。

 自分が呪文を唱えたらあかがねだいちは退散したが、自分は真帆を置いて逃げ帰ってしまった事。

 自分が逃げたら、あかがねだいちの家は消えて、不良達のたまり場と化していた事。

 警察が調べても真帆やあかがねだいちは発見されなかった事。

 そして、あかがねだいちの新連載がコミック・ニンフォで始まった事。

「僕が助け出さないと、真帆ちゃんはずーっとあの家で漫画の為に拷問され続けるんだ……!」

 昭義はクリームとコーヒーが程よく混ざったカップを飲み干した。

 これまでの自分だったら、子供の寝言だと一笑に付していただろう。

 しかし、今まで何度も訪れていたあかがねだいちの家が忽然と消えてしまったという体験をしたばかりだ。

「異界……」昭義が呟く。

 信一は眼の前の大人が自分の話を真剣に受け止めている事に、予想とは裏腹に驚いていた。

「……しかし、あかがねだいちとは何者なんだろう。幽霊とも違うみたいだが……妖怪という奴か……」

 昭義は完全にあかがねだいちが人間ではないという前提で考え始めていた。

 ホラー雑誌の担当として現実とフィクションは区別して考えなければいけない。

 しかし、今日、体験してきたのは現実が変容した事実なのだ。

 あかがねだいちという漫画家は謎だらけだ。

 あかがねだいちがコミック・ニンフォで今、連載しているスプラッタコメディ『身代わり(いけにえ)マホちゃん☆』とはこういう作品だ。

 絵のタッチは現在、普通に見られるポップなコメディ。今風だ。

 この令和の日本のある町で繰り広げられる超日常の毎日。

 突然、町が人食いゾンビーでいっぱいになったり。

 不気味な幽霊が電車の踏切にとりついて、通行人達を一斉に電車でミンチにしたり。

 狂った科学者が作った不気味なクリーチャーが近所の人間をバラバラに引き裂いたり。

 空飛ぶ巨大鮫が幼稚園の送迎バスを襲って幼児を食い漁ったり。

 ほんわかした絵柄の日常と、不気味で残酷でスプラッタな非日常が精緻なバランスで入り混じり、最後には必ず献身的な霊能者であるマホちゃんが、自分の身を拷問機に捧げる事と引き換えに強力な魔法を発動させて事件を解決する。コメディなのに登場人物の痛みが伝わってくるのは、そのオリジナリティあふれる確かな画力の故だ。特に拷問機に入ったマホちゃんの痛痛しさは読んでいる自分にも血しぶきが飛んでくる感覚がある。

 拷問機にかかった時、マホちゃんは悲痛な呪文を叫ぶ。「カガンマ!」と。

 あかがねだいちの家で置き去りにしてしまった真帆という少女と、このスプラッタ漫画の主人公同じだというのはやはり意味があるのだろうか。

「そういえば、さっき洋館の中であかがねだいちは叫んだと言ってたな」昭義はメロンソーダで口内を湿らせている信一に問いただした。「『カガンマ!』と」

「はい!」信一は慌てて答える。

 クリーチャーとしてのあかがねだいちと、漫画の中で主人公が叫ぶ言葉が同じだというのは意味があるのだろうか。

「カガンマ……カガンマ……どういう意味だ」

「あのぅ」信一は恐る恐るの風で昭義の思考に口を挟んだ。「カガンマって『漫画家』の逆じゃないでしょうか」

「漫画家」昭義はなるほどと思ったが、その逆読みの言葉を選ぶ意味が解らない。その言葉で漫画作家であるあかがねだいちとマホちゃんの存在意義がつながっているという事か。

「マンガカを逆読みする事に何の意味があるんだろう」

「鈴木さんは『ジューダス・プリースト裁判』を知ってますか」

 突然、予想していなかった第三者に声をかけられた。

 信一と昭義が顔をそちらに向けると、黒いサイドバッグをたすき掛けにした痩せた眼鏡の男がテーブルを覗き込んでいた。

 長髪をポニーテールにした、ひょろ長い身体。

 コミック・ニンフォで連載している漫画家の一人、新藤不二男だった。

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