第11話

 退院の日、初めて俺の母親と会った久志と雅美の二人は、俺の母親に向かって丁寧に挨拶をする。

「高校時代から洋明くんとお付き合いさせて頂いて居ります、土屋と申します」

「同じく、石里です。以後、お見知りおきを」

 そう言って、友人の母親に向かっては有り得ないくらいに深々と頭を下げる二人に、俺の母親の方が面食らっていた。

「え、ええ、こちらこそ。ご丁寧な挨拶と、お見舞いのお花まで頂いちゃったみたいで、今後とも洋明と仲良くしてやって下さいね」

 同級生二人と自分の母親との、この何だか芝居じみた遣り取りは、観ているこっちか気恥ずかしくなる感じがして、それ以上の会話を聞きたくはなかった。

 ん?待てよ。芝居じみたって、そう言えば、こいつら演劇部だったな。当たり前か。

 つい、クスッと笑ってしまう自分が居た。

「どうしたの?ヒロ」

 俺のにやけた表情に、久志が直ぐに気付いたが、俺は「何でもない」と、それだけ言って誤魔化した。

 そんな俺を見咎めるように、今度は母親が、

「ごめんなさいね、変な子でしょ。でも、本当に、これからも、宜しくお願いしますね」

 等と、まだ話を続けようとするので、俺は困ってしまう。

「もういいって、お袋・・・」

 久志と雅美も笑いながら、「はい、こちらこそ」と返すので、俺だけ何だか浮いた感じがするのだが、それはそれで心地の好い空気に包まれた感じもした。

 病室に差し込む陽の光は、事故を起こしたあの日と打って変わって、正に春らしい柔らかく白んだ暖かいものだった。

 明後日から、三月だ。

 そして、それから、四人は病室を後にした。

 俺は胸をコルセットでガッチリ固めていたが・・・。



 退院の日、母親は「どうせそのまま春休みなんだし、実家でゆっくりすれば?」と言ったが、俺はどうもそんな気にはなれず、三日間だけ実家で過ごし、結局、独り暮らしの学生アパートに戻ることにした。

 身体が多少痛いといっても、コルセットを巻いていれば普通の生活には支障はないし、アルバイト先でのレジ打ちくらいは出来そうだったので、実家で何もやることが無い方が、色々と思い出したくないことを思い出してしまいそうで、精神衛生上宜しくないとの自己判断でもあった。

 元々春休み前から、アルバイト先の店長には、春休みは一カ月間フルタイムで働かせて貰えるようにお願いしていたので、力仕事は無理だとしても、ずっとレジ打ちでも構わないと言うと、そちらの方が却って喜ばれたようで、三月五日から一カ月間、週五回のシフトを組んでくれた。

 三月三日、午後、俺が呼んだわけでもないのに、何故だか久志と雅美が、久志のパジェロミニでやって来た。

「あらあら、いらっしゃい。ちょっと待っててね。ひろあきぃ、洋明。土屋さんと石里さん、いらっしゃったわよぉ」

 母親の呼ぶ声に、茶の間で祖父とお茶を飲みなららNHKの何だかよく分からないドキュメンタリー番組の再放送を観ていた俺は、少し驚いて「はい?」と返事をする。

「『はい?』じゃないわよ。早く準備していらっしゃい」

 準備ってなんだ?

 俺は何のことだか分からずに、取り敢えず玄関に向かおうと立ち上がった。

 いてて・・

 不用意に動くと、やはり肋骨だか横隔膜だか、兎に角胸の辺りが痛い。

 胸を摩りながら玄関へ顔を出すと、そこには久志と雅美が居るではないか。

「大丈夫?まだ痛そうだね」

 久志が胸を摩る俺を見て、少し心配そうな顔になる。

「ああ、大丈夫。今ちょっと捻っただけだ。何もしなけりゃ痛くもない。でも、何でお前ら・・・」

 それには母親が答えた。

「昨日、土屋さんからお電話貰っててね、今日あなたがアパートに戻るって話したら、車で迎えに来て下さるって仰るから、それじゃあって、甘えさせて貰っちゃたのよ。私もほら、今日は美千代のピアノの発表会だから、丁度良かったわよ」

 美千代は、俺と歳の六つ離れた妹で、来月中学三年生になる。

 俺はかなり放ったらかしで育てられたイメージだったが、妹はというと、習い事だ、学習塾だ、洋服を買ってやるだ、お小遣いだと、俺からするとやけに至れり尽くせりの過保護のように感じられたが、別にそれを僻んではいなかった。

 美千代自体は俺に懐いていたし、俺も可愛らしい妹として、まぁそれなりに可愛がっていたとの自負もある。

 だがしかし、その妹のピアノの発表会があるという話を、この場ですることはないではないか。

 俺は少しムッとして言う。

「悪かったな、わざわざ来てもらって。俺独りでもバスで戻れたけどな」

 間髪入れずに、母親が俺を咎める。

「せっかく来てくださったのに、なんてこと言うの。ごめんなさいね、いつもこんな感じでしょ?ほんと、ごめんなさいね」

 それを聞いている久志と雅美は、どう答えて良いか分からずに、苦笑気味に笑うしかないらしい。

 俺は思う。

 お袋、そういうことじゃないんだ・・・。

 これ以上同級生二人を巻き込んでの母親との遣り取りは不毛以外の何でもないと感じた俺は、黙って自分の部屋に行き、アパートに持って行くボストンバッグ一つ抱えて、すぐさま玄関に戻った。

「おう、じゃ、せっかく来てくれたんだから、アパートまで送ってくれよ。じゃ、お袋、そういうことで」

 俺はそう言って二人を促しながらスニーカーを突っかけて表に出ようとする。

 すると母親は、少し俺に向かって不満げな表情をして見せたものの、直ぐに今度はパッと表情を変え、その笑顔を久志と雅美に向け、前掛けのポケットから封筒を取り出し、それを雅美に差出した。

「それから、これ、ガソリン代。それと、と美味しいものでも食べて、ね」

 ん?

 俺は母親の言葉に、ちょっとした違和感を感じた。・・・ねぇ・・・。

「い、いえ、そんな、頂けませんよ。そんなつもりじゃ・・・」

 雅美が慌てて断りを入れるが、そんなことは俺の母親は聞き入れる筈もない。

「いいの、いいの。こういうのは、素直に受け取っていいんだから。せっかくのお休みにと二人で来てくださって、ねぇ。だから、うちの子を送ってくれた後で、二人で、ね?」

 おおっ、俺の母親は何か盛大に勘違いをしている。しかし、そのことを今ここで訂正したり説明するのも面倒に思えたので、放っておくことにした。

「石里、貰っておけよ」

 俺がそう言うと、「あなた、女の子に向かって呼び捨てって・・・」と、母親はまた俺に小言を言おうとしたが、俺はそのままそれを無視して久志の乗って来たパジェロミニに向かう。

 俺の素っ気ない態度に、二人も挨拶も適当に、俺の後を追ってきた。

 俺が後部座席に乗り込み、運転は久志、助手席に雅美。この座席配置を見て、更にお袋は勘違いの度合いを深めるに違いないが・・・。

 車をスタートさせて一分ほど、国道に出て俺の実家が見えなくなると直ぐに、雅美が自分の鞄に仕舞っていた先ほどの封筒を取り出した。

 そして、徐に中身を取り出し、驚きの表情で俺と久志に見せびらかすようにヒラヒラと手首を動かした。

「凄いじゃん、高柳、あんたのとこのお母さんっ。諭吉さんだよ、諭吉さんっ。ガソリン代引いても、八千円は残るよ。いや、この車だったら、往復でもそんなにも掛からないか?ねぇ、土屋、聞いてる?」

「うん、聞いてるよ。そうだね、リッター十五キロは走るから、この車なら、千円ちょっとくらいかな、往復で」

「だぁよねぇっ」

 久志は冷静に答えるが、雅美は明らかに興奮状態だ。

 次に雅美が吐く台詞は、大凡予想通りだった。

「じゃあさ、今晩、飲みに行こうよ。三人で飲んだって、居酒屋なら充分だよね。二時間飲みほでお釣りがくるわねっ」

 完全にそっちモード全開だった。

 久志が後部座席の俺の方を気にしながら、異論を唱える。

「ダメだよ、ヒロ、まだお酒飲めないって。ねぇ、ヒロ、無理だろ?」

 実際のところ、俺は飲みに行きたかった。恐ろしい酒豪との噂の雅美と飲むことに、一抹の不安があるには在ったが、それでも事故を起こしてから一週間、病院では勿論、実家でも事故を起こして迷惑を掛けてしまった手前、ビールの一本も飲むことは憚られていたから、どの道独り暮らしのアパートに戻ったら、先ずはビールを飲もうと思っていたところでもあったのだ。

「そうだなぁ・・・。でも、俺も体調はもう戻ったし、せっかくだから、行くか?俺も十日近く飲んでないし、久々に酒飲みたいと思ってたところなんだ」

「だよねぇ。私もさ、高柳が飲みたそうな顔してるって、思ったのよ。ね、ということで、土屋、決定ね。私、これからネットで居酒屋予約するからさ、どんなとこが良い?純和風みたいなとこか、洋風居酒屋か、それとも多国籍みたいのが良いとかある?」

 雅美は既にノリノリだ。

「良いよ別にどこだって。任せるよ」

 俺がそう答えると、「分かった」と言った雅美は、直ぐに携帯を取り出して、早速検索を始めたのだった。

「大丈夫なの、ヒロ?」

「大丈夫って、言ってるだろ」

「でもさっき、まだ痛そうにしてたじゃん」

「大丈夫、大丈夫。俺の身体は俺が一番よく知ってるんだよ。変に力入れなきゃどうってことはないんだ。酒飲むのに力要らないだろ」

「でもさぁ・・・」

 運転席と後部座席の遣り取りに、雅美からひと言「あんたたち、ちょっと黙っておいてくれる?気が散るじゃない」と、注意をされる。

 そう、飲みに行くことは既に決定事項で、このことが覆ることはない。既に居酒屋検索をする雅美の目は真剣そのものなのだ。

 そう言えば、雅美の真剣な表情なんて、今迄見たことが無かった。

 大概の場合、少しふざけた感じで、何事にも上から目線の楽観主義的な印象の彼女だったし、彼女の言葉はいつも『皮肉』と『嫌味』、それから『笑い』で殆どが構成されている感じだった。

 いや、それでもそれが相手を嫌な気持ちにさせる訳ではないのだ。どこかしら、彼女自身の自虐的な笑いのセンスと、敢て自分自身のキャラクターを作り込んでいるイメージが相手に、勿論俺にも伝わるからなのだろう。

 そうなのだ。

 雅美が見舞に来てこれまでの約十日間、俺は何となくそのことに気付いた。

 言葉や行動がどんなにぶっきらぼうだろうが、上から目線や自意識過剰な態度を雅美がとったとしても、何故か憎めないし、本来の彼女の奥底には『清らかさ』『優しさ』、そしてどこかしら『繊細さ』を感じてしまうのだ。そしてそれをキャラクターというスーツで、キッチリ身を固めているように思えた。

 そして、言っては何だが居酒屋予約如きに真剣な表情を見せる雅美を見て、彼女が自分の好みでそれを選ぼうとしているのではなく、俺や久志が喜びそうな場所を真面目に探していることが丸分かりなのだ。

 やはり良い奴に違いないのだろう。

 だから俺は、敢て逆のことを言う。

「なぁ、別にそんなに真剣に探さなくていいよ。どうせ、お前の好きそうな所になるんだからさ、お前の感覚でパッと決めちゃいなよ」

「そういう問題じゃないのよ」

 一瞬、雅美の表情が曇った。思った通りだ。

 彼女は居酒屋ひとつ選ぶのにも、実は周りに気を遣うようなやつなのだ。

 後部座席の俺の表情は見えないくせに、雰囲気で分かるのか、雅美は「なにニヤついてんのよ」と、照れ隠しのような悪態をついたが、俺はそれには答えずに、もう一度「任せるよ」とだけ言った。

 久志は相変わらず、あまり乗り気のしない表情で運転を続けていた。

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