第2話 治癒
ガララパゴス諸島。
天には満天の星空が広がっていた。
心地よい海風が吹く静かな浜辺に、年老いた魔物が木製の椅子に座っていた。
目を隠すほど伸びた長い眉毛も、長く伸びた顎髭も真っ白である。
リクゾウガメの魔物。
名を、カメジ=ゾガメスといった。
右手に酒の入ったひょうたんを持っていた。
それを飲みながら、夜の海の音を聞き星空を眺める。
カメジの日課であり、そして至福の時間であった。
白い眉毛に隠れた眼が、眠そうにとろんと垂れ下がっている。
酔いが回って来たらしい。
ひょうたんを口に持って行き、再び酒をこくりと飲んだ。
その直後。
「……む」
ふと、カメジが後ろを振り向いた。
後方には森が広がっている。
森の奥から、ぴりぴりとした異様な気配が漂って来たのを察知したのである。
そしてその気配は、殺気であった。
「マイア……?」
一瞬にして、両目に鋭い光が宿った。
次の瞬間には、椅子から飛び上がり、森に向かって走り出していた。
そして、森の中を少し進んでから止まった。
「何事じゃ!?」
叫んだカメジの目線の先には、マイアという名の黄色い体色のトカゲ型の魔物が、出血している腕を抑えて地面に座り込んでいた。
ただならぬ気配を感じた他の魔物達も、続々と集まって来た。
その魔物達の視線の先に、岩を背にして、こちらを威嚇している子猫ほどの大きさの魔物がいた。
全身灰色の小さなトカゲの魔物。
名は、オラン。
昨日、卵から孵ったばかりであった。
まだ生えたばかりの、小さな牙を剥いて必死で威嚇していた。
両眼が紅く輝いている。
その紅い瞳で、周囲の魔物達を睨みつけていた。
「まさか……この子に!?」
カメジの問いに、マイアはこくりと頷いた。
どうやらオランは、母親の腕を爪で切り裂いたらしかった。
「何があった!」
騒ぎを聞きつけてやって来た、ウミイグアナの魔物が言った。
全身の鱗が黒く、精悍な顔付きをした男だった。
名は、イグオ=ウミーグアノ。
イグオが、オランを捕まえようと手を伸ばした。
その時。
オランが、全身の筋肉を使って後ろに跳躍した。
そして背中側にあった岩を蹴って、一気にイグオとの距離を詰めると、爪を立てた右手を振った。
「ぐあっ!」
声を上げて、イグオが片手で顔を抑えた。
指の隙間から血が流れた。
「イグオ!」
そばにいたペンギンの魔物がイグオに駆け寄った。
名は、ペギト=ガラペンペン。
地面に降り立ったオランがペギトに視線を向けた。
次の瞬間、オランは飛び掛かると同時に噛み付いた。
オランの小さな牙がペギトの右のふくらはぎの辺りに食い込んでいた。
「いっつっ!?」
脚に鋭い痛みが疾り、ペギトは声を上げた。
「痛ぇなこのチビッ!」
ペギトが、左足の甲でオランの体を思い切り蹴り上げた。
オランの小さな体が宙に舞った。
「オラン!」
母親のマイアが、悲痛の声を上げた。
いくら凶暴とはいえ、昨日産まれたばかりの我が子を大人の魔物に蹴り上げられたのである。
マイアの背筋が、ぞっと凍り付いた。
しかし、そんな母親の心配をよそに、オランは驚愕の動きをした。
宙を舞っているオランは体を屈めて丸くなると、クルクルと回転しながら羽毛のように軽々と地面に降り立った。
ペギトの蹴りのダメージなど、まるで無いように見えた。
そして降り立つと同時に、再び飛びかかった。
オランの飛びかかった先はカメジであった。
「ぬっ」
カメジが身構えるのとオランが爪を振りかざしたのは同時だった。
そしてその爪が振り落とされた瞬間。
カメジは右手で、オランの身体全体を掴んで持ち上げていた。
オランは低く唸り声をあげながら、必死でカメジの腕を引っ掻いた。
だが、カメジの硬い皮膚には傷一つ付かない。
「マイアよ! この子を気絶させるが良いか!?」
カメジがマイアに視線を移して聞いた。
「……はい!」
マイアが頷くと、カメジは左手の人差し指を暴れているオランのこめかみに当てた。
そして。
「むんっ」
カメジが唸った。
次の瞬間、細い閃光が指先から奔り抜けた。
カメジは指先から、オランの頭部に気を送り込んだのである。
「がっ……!」
悲痛の声を上げて、オランの身体がピンと仰け反った。
その次の瞬間には、全身をだらりとさせ、目を閉じた。
気を失ったようであった。
カメジがオランを地面に優しく置くと、走り寄って来たマイアがオランの小さな身体を抱き締めた。
抱きしめながら、周囲を取り囲む魔物達に言った。
「みんな、ごめんなさい!」
周囲の魔物達が騒ついていた。
「おいマイア、異常だぜその子供。気の毒だが今のうちに殺しちまった方が良い」
イグオが顔を片手で押さえながら言った。
血が、細い線を引いて垂れている。
「同感だ。母親の君にも危害を加えるような奴だぞ。危険過ぎる」
ぺギトが不安気な表情で言った。
噛まれた右脚から血が流れている。
「そんな、殺すなんて出来ないよ……!」
マイアが懇願するように言った。
「長老がいなかったらもっと被害は大きくなっていたぞ」
イグオがカメジの方を向きながら言った。
頬のあたりに、ざっくりと3本線の傷が斜めに走っていた。
「あの身のこなしと、この凶暴性はまずい。襲われたのが子供達だったら死んでいたかもしれん」
言いながら、ペギトは自分の右脚の噛み跡を見た。
「……」
マイアは無言で目を伏せた。
もし、この場にいたのが島の子供達だったら。
そう考えると、返す言葉が見つからなかった。
「まぁまぁ皆の者、ちょいと落ち着くのじゃ」
ここでカメジが口を開いた。
「確かにこの子……オランの戦闘力は危険と言える。さらに触れてみて分かるが、尋常ならざる魔力を内包しておる。じゃが、この子も天の導きによって生を受けた島の子じゃ」
「こいつは危険過ぎる! そもそも父親はあの男だ! 必ずこの島を不幸にする」
イグオが、カメジに真っ向から意見した。
頬の傷が塞がりかけていた。
イグオには、いずれこの子供がこの島を不幸にするという確信があった。
明確な根拠があるわけではない。
いや、根拠があるとすればオランの父親だった。
1年半程前に突然島に現れて和を掻き乱し、そして数ヶ月前に突然去っていったあの男。
イグオは、あの男を思い出すだけで漆黒の憎悪の炎がめらめらと燃えた。
絶対に許す事が出来なかった。
あの男。
エンキド=コモドスだけは。
「離れ小島に移る」
突然、マイアが口を開いた。
全員が一斉に、マイアの方を向いた。
「まだ誰も住んでいない、離れ小島があるでしょう。今夜中にそこに移って、そこで静かにこの子を育てる」
このガララパゴス諸島は大小様々な島や岩礁からなる諸島である。
本土の周囲には、誰も住んでいない小島や岩礁がいくつかあった。
「小島がダメなら、もっと離れた岩礁に住む。それでも許されぬと言うのなら、この島を出て行くわ」
マイアが我が子を抱きしめながら、カメジを見つめた。
そしてイグオを、ぺギトを、周囲を取り囲む魔物達をまっすぐに見据えた。
その眼差しには強い決意の光と母の強さが宿っていた。
我が子を守り抜くという、信念の光であった。
「ふむ……そうじゃな。南東に、ヤシの木が10本ほど生えた小島があったであろう。そこに住めば良かろう」
カメジが、自分の白い顎髭を撫でながら言った。
誰も反論しなかったが、イグオは不満そうな表情でカメジを見ていた。
そして、その晩。
マイアとオランは、その南東の小島を住処とする事に決まった。
干潮時にも本土と陸続きにはならない完全に海で遮断された小島であった。
マイアの産んだ子供が、とてつもなく凶暴で危険な性格であるという報せは、一晩の内に島中に知れ渡り、島に住む100人程の魔物達全てが知る事となった。
ーーーー翌朝。
よく晴れた日だった。
離れ小島の沿岸部で、マイアは我が子に、ヤシの実の絞り汁を与えていた。
オランの昨晩の凶暴さが、嘘のように消えていた。
今はつぶらな可愛らしい茶色の瞳で、母親の黒い瞳を真っ直ぐ見据えながら、ヤシの実の果汁を飲んでいる。
マイアは微笑みを浮かべていた。
微笑みながら思った。
この子から凶暴性が消えたのは、一晩中、抱き締めていた事に関係があるのだろうか。
自分の我が子に対する愛情が、オランの奥深くにまで浸透し、心を許してくれたのだろうか。
それとも、食事中だから大人しくなっているだけなのだろうか。
頭の中に渦巻く様々な思考も、オランの可愛い顔を眺めると全てどうでも良くなった。
そして顔を見る度に、父親の生き写しだなと思う。
この子の外見は、自分には似ておらず、完全に父親似だ。
この子の異常な戦闘力は父親譲りなのではないか。
その時。
突然、近くの海面が盛り上がった。
マイアがその方向に視線を移すと、海面からサメの顔が出てきた。
「よう、マイア。その子が噂のオランだね? なるほど、エンキドにそっくりだ」
いきなり、サメが言葉を発した。
サメの名前は、ジョース=ホオジロ。
ガララパゴス諸島の海に棲む、ホオジロザメの魔物である。
マイアはジョースの質問に答える前に、慌ててオランの顔を見た。
オランはまっすぐジョースを見ていた。
眼が、変化していた。
先ほどまでの、つぶらな瞳ではなくなっていた。
瞳が縦に細くなっている。
肉食獣が獲物を狩る時の眼だ。
そして。
茶色の瞳が、炎が灯るように真紅に輝いた。
同時に、マイアの腕の中で、オランは全身の筋肉を小さくたわめた。
次の瞬間。
「ダメッ!」
オランが跳躍しようとしたまさにその瞬間、マイアは我が子を強く抱きしめた。
「ギィ!」
オランは声をあげながらマイアの腕の中で暴れた。
手の爪と足の爪で、マイアの腕を必死でひっかいていた。
マイアの腕がみるみるうちに傷だらけになっていく。
赤い血がぼたぼたと地面に滴った。
「おいおい。恐ろしい坊やだな」
ジョースが驚きの表情を浮かべてその光景を見ていた。
「早く行って! ジョース!」
マイアが叫んだ。
「行っても良いが……大丈夫かい? その怪我。かなり血が出ているぞ」
ジョースが心配そうな顔をして傷を見た。
「いいから行きなさいっ!」
「分かった分かった。そう怒るなよ。すまなかったね」
そう言うとジョースは海中に潜って行った。
「ギッ!」
オランは、まだマイアの腕の中で叫びながらもがいていた。
「オラン、もう大丈夫だよ。落ち着いて」
マイアが優しく我が子に語りかけた。
しかしオランは暴れ続け、さらに激しく腕をひっかいた。
マイアの腕からはかなりの量の肉がえぐられ、血が滝のように流れ落ち、地面に血溜まりが出来ていた。
それでもマイアは少しも苦痛の表情を浮かべていなかった。
聖母のような温かい眼差しを我が子に向けていた。
「大丈夫だよ、オラン。もう怖くないよ」
再びマイアが優しく語りかけた。
だがオランはまだ必死で暴れている。
小さな身体が、返り血で朱く染まっていた。
「大丈夫。私はあなたの味方だよ。オラン」
「ガアッ……ギ……」
急に、オランの動きが止まった。
オランの視線は、自らが切り刻んだ母親の腕の生傷に注がれていた。
そしてオランは、視線を上にあげて母親の眼を見た。
瞳から真紅の輝きが、ふっ、と消えた。
つぶらな茶色の瞳に戻っていた。
「ふふっ。本当に可愛い子ね」
マイアは、あの温かい微笑みを我が子に向けた。
オランは大きな瞳で母親の眼をじっと見つめた。
そして、母親の腕の生傷に視線を落とすと、不安そうな表情をして傷を見つめた。
「心配してくれているの? 大丈夫だよ」
先ほどのオランの動きを止める為に強く抱き締めた時と違い、今度は優しく抱き締めた。
オランが申し訳なさそうに、上目遣いで母親を見た。
「ふふ。平気だよ……ん?」
その時。
突如、オランの身体の周囲を、透き通った緑色のオーラが漂い始めた。
「!?……オラン!?」
マイアは眼を見開いた。
オランの瞳が、エメラルドの様な透き通った緑色に輝いていた。
オランの身体が温かく感じる。
それとも、この緑色のオーラが温かいのだろうか。
次の瞬間。
その緑色のオーラが、マイアの身体に蛇のように巻きつき始めた。
春の陽射しのように暖かく柔らかな心地良さがマイアの身体に浸透した。
やがて、その緑色のオーラは出血しているマイアの腕を優しく包み込み始めた。
そして。
「……傷が……」
マイアの腕の生傷が、塞がり始めた。
「これって……治癒魔法……?」
マイアが、驚愕の表情で自分の腕を見ていた。
ものの数秒で、腕の傷が完治していた。
肉がえぐれる程の傷が、もう跡すら残っていない。
オランは、母親の顔をまっすぐ見上げていた。
マイアも、我が子の顔を見た。
オランの瞳が緑色から茶色に戻っていた。
眼が合った瞬間、オランはにっこりと破顔し、赤ん坊の無邪気な笑顔を浮かべた。
「オラン……あなたは……」
マイアの心の中が驚愕で満たされた。
この子はいったい、何者なのか。
生後2日目で、治癒魔法を容易く使ってしまった。
それもこんな強力な。
そして他の魔物を見た瞬間のあの凶暴性は何なのか。
緑色に光る瞳。
真紅に光る瞳。
いったい、この子は……。
〜〜〜(子供の名前、オラン、はどうかな。じっちゃんの故郷に伝わる英雄の名前なんだ)〜〜〜
突然、夫の声が思い出された。
あの逞しい姿がマイアの頭に浮かんだ。
灰色の鱗に覆われたオオトカゲの魔物。
「……」
マイアはふと、オランを見た。
腕の中で、我が子はにこりと笑っている。
笑った時の目元が、父親とそっくりだった。
同時刻。
ガララパゴス諸島の本土の中心に大きな崖がある。
その崖の頂上に、老齢の魔物が胡座をかいて座っていた。
カメジ=ゾガメスである。
カメジは驚異的な視力で、遠く離れた小島での先ほどの光景を見ていた。
「……ふむ。慈悲の心も備えるかよ」
独り言を呟きながら、左手で白い顎髭を撫でた。
「エンキドめ。とんでもない土産を残して行きよったな」
カメジは口元に笑みを浮かべていた。
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