九頭竜戦記
蒼樹エリオ
序章
九頭竜降臨
これは人類が宇宙へ進出しながらも、総人口は未だ母星を離れるには至らない時代。
ある日それは突然現れた。
「なんだあれは……」
その存在にいち早く気付いたのは地上の人々だった。とりわけ昼の時間に住む人々はそれが陽光を、いや空そのものを覆い尽くしたことに言い表せない圧力を覚えた。
「グルルルル……」
見られている――
地上の誰もが大空を埋め尽くす白銀の鱗を纏ったとぐろと、その中央に鎮座する巨大な骨ばった頭部から注がれる視線の前に無言で立ち尽くしていた。
おかしい、こんな巨大なものがどうしていきなり、一体どんな理屈で――
空中に
だがそんな陳腐な考えを誰も支持しない。目の前のそれは不愉快な音を立てながら白銀を擦らせ、突風を思わせる吐息を
「……警報は、宇宙部隊は何をやっているんだよ! こんな時のための存在だろ!」
誰かの一声で人々は通信端末を開いては目の前の存在に関する情報を集め始める。ネットニュースはどれも竜のことで埋め尽くされている。しかしながらその情報のほとんどが一般市民からのものであり、肝心の宇宙側からの発信は未だに上がらない。
「これはどういうことなんだ……」
人工衛星を操る者、月面コロニーから地球を観測する者、衛星軌道上の宇宙コロニーから気まぐれに地球を観測していた者……あらゆる意味において外側から地球を観察していた者たちもまた観測された情報を理解できないでいた。弾道ミサイルやスペースデブリ、その他あらゆる脅威をいち早く検知できるはずのセンサー類は未だに反応せず。何度走査させても、トラブルシュートを重ねても結果は同じ。理屈はわからない。だがあの地球を覆い尽くす巨大な質量は人類の目をかい潜り我が物顔で占有している。
「……………………」
地上も、宇宙も、想像を遥かに超えた事態を前に人類は足踏みしていた。
まず考えるのは実力よる排除だ。果たしてこの存在を既存の兵器で排除できるのか……いや、人類の持つ最大の兵器でもあの巨大質量は滅ぼせまい。例え倒せたとして地球はどうなる。あんなものが欠片でも落ちてきたら地上の人類はひとたまりもない。
それとも対話を重ねて丁重に帰っていただくか……頭部があるならば相手にも一定の知性があるはず。地球外生命体とのファーストコンタクト、こちらから下手に刺激さえしなければ……そうだ伝説によればドラゴンは交渉次第で人類の味方になってくれるじゃないか。
様々な案が浮かんでは……しかしそのどれもが口に出されることなく打ち捨てられる。いや、どの案も非現実的で目の前の存在に通用するとは思えない。そもそも非現実的な存在を前にどうしろっていうんだ!
無力感を前に人々の感情は爆発寸前だった。中にはいっそのこと発狂したい者もいたし、事実その縁に立った者もいた。科学技術全盛の時代。すでに宗教は慣習の形でしか残っておらず、宇宙へと進出したことも相まって人々は「人類に出来ないことは存在しない。例え今は理解できなくとも未来できっと解明できる」と、そう思い込んでいた。その前提が崩れた今、強烈な不安がとぐろ同様に人類を覆っているのである。
「グルルルル……」
「……………………」
それでも喚き出さないのはひとえに竜に睨まれているからだ。蛇に睨まれたカエル、今もし余計な一言を発して状況を崩したらどうなってしまうのか……その恐怖が人類に無言を貫かせる。霊長の長などというプライドはすでに無い。竜の圧力という新しいルールが確立した瞬間である。
それからどれだけの時間が経ったのだろう。それは一秒だったかもしれないし、一時間だったかもしれない。少なくとも地上から文明最後のこう着状態に関する記録は消え去る事になる。
「ギヤアアアアアアアアア‼︎」
叫ぶと同時に竜の全身が白銀の光を放つ。それは地球そのものが恒星になったような輝きで、この光のために宇宙からの観測器類は今度こそ異常を検知した。
「う……撃て!」
宇宙部隊はようやく金縛りから解かれ、衛星兵器に搭載されたありったけの兵器をぶつけた。本能が目の前の存在を脅威だと、排除しろと訴えている。この攻撃は受理された正式な命令ではなく、現場の隊員の独断だった。しかしながら誰もそれを咎めようとせず、むしろ積極的に竜へ攻撃を仕掛ける。彼らの頭から地上への影響は抜け落ちていた。地球に襲いかかる脅威がいつ一転して月や宇宙に来るかも分からない。生き残るためならこの際地球は犠牲になってもらって構わない。撃て! 撃て! 撃て!
地上をゆうに五回は灼熱地獄に変えられる攻撃が降り注ぐ。だが攻撃を受けても竜はみじろぎもしない。それどころか鱗一つ傷ついていない。打ち尽くした宇宙人類は地球に悠然と絡みつく竜の姿を見て呆然とした。
「……ち、地上はどうなったんだ――」
竜は倒せていないものの、ひょっとしたら自分達の攻撃が少なからず地上に影響を与えた可能性がある。敵を倒せず仲間だけ殺してしまったらなんともお粗末な話だが、それでも自分達には引き金を引いた責任がある。彼らは残った通信インフラを総動員し、状況把握に努めだす――
「⁉︎ これは……」
接続した地上のカメラが捉えていたのは地獄だった。
結論から言えば宇宙軍の攻撃は地上に対して何一つ影響を与えていない。竜のとぐろはまるで地球を育むように絡まり、外部の影響を遮断した。放射線など、目に見えない影響はあるかもしれない。だが
「うっ……」
観測していた一人が耐えきれず嘔吐する。カメラ映像のあまりの悍ましさに気絶する者もいた。正気を保っている者たちはこれを現場で目撃しなかった事を心から幸運だったと今でも思っている。
観測結果から竜の首は合計九つ存在していた。それぞれの首は七大陸を睥睨すると自身を見上げる人類に向けて銀色の吐息を吹きかける。
「なんだこれ……うっ、あああああああああああああ――」
竜の息吹を取り込んだ者は内側から銀色の炎に炙られ火柱を立ち上らせてゆく。手始めに外出していた者たち。続いて民家も銀の炎に包まれる。そして地下からも……息吹が充満するにつれ、地上は銀色の灼熱地獄と化してゆく。
「……………………やめてくれ」
「ギヤアアアアアアアアア‼︎」
宇宙人類を嘲笑うかのように、再び竜は吼える。今度は竜鱗から銀色の液体を滴らせ、地球全体に滴らせてゆく。
「ピュイイイイイイイ!??」
「ギャン! グリュアアアアアアア‼︎」
「……………………」
空、大地、海、あらゆる生物が銀色に侵食され、その原型を失ってゆく。
鳥は翼を五枚生やしたかと思うとバランスを失い墜落。しかしながら細胞はまだ分裂しているのか元の質量からは想像できないような面積の銀色の染みを広げる。
どこかの番犬は頭部を巨大に膨らましたかと思うと破裂。その後に五体の小型犬が残った所を見ると新たな生殖方法めいている。
肉食魚類は共食いの果てに互いの体を融合させ、幸運にも出鱈目な生き物として新たな生を受けると銀色の海を無様に掻いてゆく。
「……………………やめろ」
植物だけは一方的に枯れ果てていた。侵された側から消失する地球の緑。それが生物から逃げ場を奪わせ銀色へ上書きされてゆく。今や地上に見知った生き物はいない。鳥も虫も馬も魚も子供が下手くそな粘土細工で練り上げたような醜い姿に変わり果ててしまった。
多くの生き物は侵食に耐えきれず即死。よしんば生き残ったところで元の姿からは想像もつかないような異形へと変わり果てる。もはや見るに耐えない。宇宙人類たちは思い出したかのように十字を切ると地球の終焉に別れを告げ、モニターを落とすべくパネルへ指を伸ばした。
「あの……待ってください……」
「……なんだ……」
上官は静かに、しかし怒りを込めながら部下に言った。こんな世界の終わりの光景をこの場にいる誰もが記憶から消し去りたい。地上は竜という侵略者によって滅ぼされた。同胞は燃え落ち、次は自分達の番かもしれない。そんな状況で視聴の続行を強要されるなんてたまったものじゃない。好き者には付き合えないと、その場の誰もが彼に非難の視線を向ける。
「おかしいんです……」
「そりゃおかしいだろう。ついに黙示録の日が、この世の終わりが来たのだから。ついぞ来ると思っていなかった終末が――」
「そういう事じゃなくて‼︎」
彼は上司の言葉を遮るとモニターの一点を拡大した。そこには先ほどの火柱と化した人間の姿があったのだが――
「……え?」
火柱を上げるほどの高温であるにもかかわらず、人体は燃え落ちていない。突然の発火にパニックに陥っていた人々も今ではすっかり平静を取り戻し、ゆっくりと立ち上がっている。まるで何かを待つように、真っ直ぐ背筋を伸ばして……。
「一体……何が……」
宇宙人類が一転してモニターを食い入るように見つめる。
「グルルルル……」
それと同じくして竜も変化を待っていた。まるで我が子の誕生を見守る親のように。
火柱の中へ銀の雨が降り注ぐ。炎に浄化された人類が恵みの液体をたっぷりと吸い上げたその時、不意に灼熱地獄が姿を消す。
「ふふふ……はははははははは!」
それは産声だった。
宇宙人類がモニターしたのは銀色の体表をぬらぬらと輝かせ、元の肉体から一回りも二回りも膨張したかつての同胞の姿。
「ハッ!」
彼はモニターに向かって叫んだかと思うと真っ直ぐに腕を突き出し――映像が途切れた。
それと同時に地上を監視する全てのモニターがダウンした。宇宙側の機器が正常なのを見るに、原因は地上にあるのだろう。
「………………………………」
今度こそ誰もが黙った。
間もなく九頭竜はあの銀色の息吹と汚染の体液をもってコロニーに襲い掛かるだろう。自分達があのような姿になれ果てるのも時間の問題だ――
一分が過ぎ、一〇分が過ぎ、一時間が過ぎた。人々は流れゆく時間の中でひたすらに祈っていた。頼みの武器は全て打ち尽くした。母なる大地と異なり、自分達を覆う甲鉄の殻のなんと脆いこと。おそらくコロニーは九頭竜が接近するだけで崩れ去るだろう。人類のちっぽけな抵抗が一体何になるだろうか……。
「………………………………」
一時間が一〇時間になり……そして一日が過ぎた所で流石に疲れたのか、人々は姿勢を崩してくつろぎ始める。
「止まった……のか……」
計器類を確認すると九頭竜からは一切の反応が検知されない。出現時同様の不気味な静けさが一帯を覆う。
「グルルルル……」
それどころか竜鱗からは輝きが失われ、透明な帯状に変質すると薄い雲の様に銀色の地球を浮かび上がらせてゆく。
「………………………………」
コロニーが変化を及ぼすのに不適格だったからか気まぐれか……それともただの気まぐれか。疑問はつきないものの宇宙人類の胸にひとまずの安堵が生まれる。彼らはおもむろに身近な者同士で抱き合うと自分達がありのままの姿で生きている現実に感謝し、慈悲深き神への感謝を唱え始めた。
「……」
一方で、かえって冷静に事態を推測している者もいた。
九頭竜の目的が始めから地球という環境と……そこに住む人類というワンセットなのだとしたら――
「ハッ!」
彼らの脳裏にはカメラに向かって敵意をむき出しにした同胞だった何かの姿が焼き付いている。もしテラフォーミングが都合良く人類だけを生き残らせたのだとしたら――
「俺達はこれから、彼らとどう向き合っていけばいい――」
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