風は予告なく吹く
白夏緑自
第1話
風は予告なく吹く。いつだって、僕らの知らないところで蝶が羽を揺らして、海と野を超えて、前髪を揺らす。その程度だったらいいのだけど、時には桶屋が儲かるどころか、それまでの生活を一変させてしまうような事態を引き起こす。
倒壊させてしまうのだ。
僕の中学三年生の終わりに風は吹いた。
母さんが倒れた。
父親のいない家庭で、女手一つで僕らを育ててくれていた母が癌で倒れた。風は予告なく吹くと言ったが、もしかしたら、僕が気づけていなかっただけかもしれない。身体からのサインを母さんは受け取っていたかもしれず、僕がそれに気づけなかっただけで。
母さんの職場から連絡を受けて病院へ駆け込み、ベッドに腰かけて笑う顔を見た時、こんなに弱々しかったのかと愕然とした。まさか、朝から数時間会っていないだけで人はあんなにも頬の肉を削げ落すのかと。
さて、ただ倒れて「はい、入院。治療を頑張りましょう」とはいかないことを僕は知ることになる。
働く母さんは、中学生の僕以上に社会の色々な人やモノと結びついていたのだ。
まずは仕事である。
母さんは地元の小さな設計事務所の事務として働いていた。
職場の人は理解がある人で、いつ完治するかもわからぬ母を解雇せず、休業扱いにしてくれた。社会のことなんて学校の授業で習ったことしか知らぬ僕に、できるだけわかりやすく、積み立てた健康保険を削りながらもお金を得る方法を教えてくれた。社長の奥さんは一週間に一回ほど、煮物や総菜を持ってきてくれる。
母は民間保険には加入していなかった。これは後で知ったことだが、僕と妹の学資保険には費やしてくれていた。けれど払うことが難しくなり、若い女性のセールスマンが病院に来て、心苦しそうな表情で解約の手続きを母と同席した僕に説明して、判子を押した書類を持って行った。
一緒に病院を出た僕と、家で待つ妹へ、と近くのコンビニで大量のお菓子とその日の晩御飯用のお弁当を買って、彼女はタクシーに乗って会社へ戻った。
この学資保険を解約した日のことで忘れられぬものが二つある。一つは親子丼を選んだ妹を見ながら食べたから揚げの濃い味付け。もう一つは判子を押す母の表情。上を歩く者を支えながらも沈みこむ、波が引いた後の砂浜のような目で、それに気づけば、直視できず、ただずっと細くなった指がつまむ判子に集中していた。
あと、いくつかの社会のセーフティネットに捕まり、それでもやっぱりお金は必要になる。
母の治療費。僕と妹の学費。家賃、食費、光熱費、通信費。その他、諸々。僕らの周りに優しい人はいっぱいいたけれど、お金の面で助けを求められる人はいなかったのだ。
そんなわけで、僕はバイトを始めた。
もとより、高校に進学したらアルバイトはするつもりだった。同級生たちに比べて裕福ではないことは知っていたし、少しでも家庭の足しになればと思って。
今日も、働く。
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