3-5

 迷子が母親の姿を発見して一目散に駆け寄るように、長谷川はより強い自信を持って水浴びをするようになった。

 体調不良は決して改善しないらしいが、それでも、自分の歩いている道が目的地に続いていると確信できることで、少々の期待外れは気にならなくなるようだ。水浴びを終え帰宅するときには、「きっと明日は治るはず」と、毎回笑顔で言い残すようになった。

 僕も、近いうちにきっと長谷川の体調不良は快復するだろうと思った。

 しかし、いつまで経っても「治る明日」は来なかった。

 二人で飲んだ日から連続で一週間、長谷川は欠かすことなく仙川で水浴びをし、僕も三、四回は顔を出したが、彼の体調不良は改善の兆しさえ見せなかった。

 長谷川が前向きであることが唯一の救いだったが、ただ前を向いているだけで事態は好転しない。それどころか、悪くなることだってある。

 だんだんと、長谷川の顔色が夜目にもわかるくらい、青白くなっていった。一週間が経った頃には、顔だけではなく、全身の肌が水で薄めた青い水彩絵の具のような色に染まっていた。

 こうなってしまうと、さすがに楽観はしていられない。

 僕は長谷川に、いったん水浴びをやめるよう進言したが、母親を見つけた迷子を一時停止させるのは難しい。長谷川は「きっと明日は治るはず」と繰り返すばかりで、水浴びをやめようとしなかった。

 狂気とは同じことを繰り返し違う結果を期待すること、という言葉があるが、長谷川はまさしく狂気そのものだった。もはや長谷川にとって、水浴びをすれば救われるというのは、呼吸をしなければ死んでしまうことと同程度の確からしさを持ったものであるようだった。

 僕は、霊堂真作がはっきりと「河童だ」と言い切らなかったことがかなり気がかりだった。

 あくまで僕らが知り得たのは、長谷川の前世が、「河童のような生物」であるということだけなのだ。

 もし、河童でないとしたら、気温の低い秋の夜に仙川で水浴びをするのは無意味、いや、体調不良を改善したいというのなら、むしろ逆効果である。すぐにでもやめさせる必要があるが、やめろやめろと言うだけではもう長谷川は止まらない。

 仙川での水浴びに代わる、別の解決策を考えなくてはいけなかった。

 僕はイラストつきの妖怪辞典を広げ、河童によく似た姿の妖怪がいないか調べた。「アマビエ」という妖怪がそれらしく思われたが、アマビエには脚ではなく三本のヒレがついており、霊堂の説明した容姿とは異なっていた。

 なにしろこの妖怪辞典には、九百種近い妖怪が掲載されている。ひとつひとつチェックしていては日が暮れる。僕は『河童』の項目を開き、河童に関して忘れていた特徴がなかったか、また、河童の仲間にそれらしい妖怪はいないか調べた。

 文字を目で追っていると、氷山芽衣子から着信があった。

「ちょっと、神市、サイテーよ」

 芽衣子は開口一番言った。

「俺がなにをしたってんだ」

「ジンちゃんが死んじゃったのよ」

 最初、なんのことかわからなかった。

「ジンちゃん?」

「伊勢エビよ。伊勢エビの、ジンちゃん」

「ああ、生きてたから食べるのやめて育てるって言ってたやつ。なんだ、死んじゃったの?」

 芽衣子はなにかを頬張り、もぐもぐ咀嚼した。飲み込んで言う。

「死んじゃったの? なんてやけに他人事みたいじゃない!」

「他人事だからね」

「今朝までは生きてたの、多分。でも、さっき仕事から帰ったらひっくり返って死んでたの!」

「ちゃんとエサやってたの?」

「もちろんよ! わざわざ水槽と、空気ポコポコ出すやつまで買って育ててたのに!」

「もともと弱ってたんでしょ。一週間ちょっと生きてただけでも、奇跡だと思うよ」

「やっぱり、カルキ抜きしなかったのがいけなかったのかな」

「カルキ抜き?」

 芽衣子はまたなにかを頬張り、今度はそれを口の中に入れたまま言った。

「そう、カルキ抜き。塩素抜くやつ。でも面倒だったから、水道水にそのまま入れちゃったのよ」

 ふむ。これはエサをやったやらないの問題ではないようだ。

「水道水にそのまま入れたの?」

「そう。だってそうしないとジンちゃんを入れる場所がほかにないから」

「それじゃダメだよ。伊勢エビは海のエビなんだから。真水じゃ死んじゃうよ」

「水道の水じゃダメなの?」

「ダメだよ。塩素を抜くとか以前に、海水じゃないとダメなんだよ」

「もっと早く言ってよ!」

「そのくらい知ってると思ったんだよ」

「ああ! もう私ってサイテーな母親! ごめんねジンちゃん!」

「ちゃんと供養してやりなよ」

「うん、今食べてる」

「食べてんの?」

「もともとその予定で買ってきたんだから」

「真水で死んだ伊勢エビが旨いの?」

「エビチリにすればなんだって食べられるわよ。……」

 電話を切ってから、僕は呆れて鼻で笑った。

「真水で育てちゃしょうがない……」

 と、そこでピンと来た。もしかするとと思った。

 妖怪辞典を開き、河童の仲間とされる妖怪の一覧から、それらしい名前のものを見つけ出し、「これだ!」と叫んだ。

 居ても立ってもいられなくなり、僕は急いでマンションを飛び出した。

 近所にある閉店時刻間際のホームセンターに飛び込み、ペットショップコーナーへ向かう。

 霊堂が見たという長谷川の前世の河童は、川に入ろうとしなかった。霊堂は、ほかの河童に嫌がらせをされて川に入れないのだろうと推測していたが、それは誤りだ。あの河童は、自らの意思で、川へ入らなかったのだ……。

 目当ての商品を購入し、僕は急いで帰宅した。

 浴槽にぬるま湯を入れ、溜まるまでの間、僕はスマホで長谷川にメッセージを送った。

 今夜も仙川に入るか訊ねると、数分後に、『もちろん』とひとこと、返事が来た。

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