第3話『河童さわぎ』
3-1
晩飯を食べていると、ブログにコメントがついたことを知らせるメールが届いた。「毛玉小僧」の記事に誰かがコメントを残したようだ。
四ヶ月以上も前の記事に今頃どうしたのだろうと思い、パソコンに向かって確認すると、それは記事の内容とは関係のないコメントだった。
『最近、仙川(川のほう)に河童が出没しているのを知っていますか?』
記事の内容と関係ないとは言え、ブログの主旨に沿った内容ではあった。アンチかもしれないという不安もあった僕は、ひとまず胸をなで下ろし、返事をしようとキーボードに手を添えて首を傾げた。
仙川に河童。
仙川は東京都を流れる一級河川だ。仙川が流れる調布市にはその名が由来になった「仙川町」がある。コメントに「(川のほう)」とあるのは、ここで言う「仙川」が、町ではなく川の意味であることを示しているのだろう。
『本当ですか? 仙川のどの辺りでしょうか?』
とりあえずそう返事した。ひと言で仙川と言っても、この川は小金井市、武蔵野市、三鷹市、調布市、世田谷区と、いくつかの市区をまたがって流れているのだ。
僕は世田谷区の上祖師谷にマンションを借りており、仙川は徒歩五分程度のところを流れている。
その辺りであれば今からでもすぐに確認へ行けるが……。
と、返事が来た。『この辺りです』という文言の下に、地図アプリのスクリーンショット画像が貼付されていた。地図の一カ所に赤いバツ印がついており、その場所が河童の出現ポイントであるようだった。
画像を拡大し、住所を確認する。
世田谷区の上祖師谷。まさしく僕のマンションのすぐそばだった。
『ありがとうございます。ちょっと確認してみます』
そう返信し、早速、仙川まで行くことにした。
マンションを出ると、冷たい秋の風が脇を吹き抜けていった。僕は身を縮こめて、表の道を駅とは反対のほうへ歩いた。
住宅街と言えるほど家は建っていないし、店が軒を並べているような繁華街でもないが、車や人の往来はそれなりにあり、人間の生活感は充分に感じられるエリアである。
東京の街中を流れる川に河童が出るとは不可思議千万な話だ。
好奇心と懐疑心を半々に抱きながら歩いている内に、バツ印のついていた場所に辿り着いた。
道路が川をまたいでおり、欄干代わりになっている手すりから覗き込む形で、川を見下ろすことができる。
それほど高くないが、川幅も狭く水深も膝下程度しかない仙川の流れは穏やかで、定期的に車がすぐそばを通り抜けていくため、水のせせらぎのような音は聞こえない。道路沿いの街灯の光を微かに反射する水面がチラチラ小さく揺れて見えるだけだった。
不可解なものや音は確認できない。
僕は橋の脇から川沿いの土手に入り、川を見下ろしながら少し歩いた。土手の側面は擁壁になっている。
二、三十メートルほど行くと、車の排気音は聞こえなくなり、小さく川の音が聞こえてきた。虫の鳴き声も聞こえるようになり、気温が少し下がったように感じられた。
「誰もいないよ」
軽装で出てきたこともあり、寒さがひどく堪えられない。風邪をひいては馬鹿馬鹿しいと、身震いをして引き返すことにした。
そのとき、前方でポチャンと、なにかが水へ飛び込む音がした。それからバシャバシャと、乱暴に水面を叩きつけるような音が続く。
音のするほうへ目をこらすと、川の中に、黒い影の動き回る姿が見えた。人の形をしている。
「おおう」
思わず唸って、僕は謎の影がいる位置まで走った。
謎の影は両手でしきりに水面をかき乱しており、ときおり両手で水を汲むようにして体に飛沫をかけていた。
「河童だ、河童だ、仙川に河童がいる!」
僕は興奮し、川へ向かってスマホのライトを照らした。
黒い影が白く照らし出される。
「河童だ、河童だ、やけに皮膚が白い河童だ!」
「なんですか突然!」
ライトに照らされた白い皮膚の河童が叫んだ。おや? と思いよく見ると、それは河童ではなく、ボクサーパンツ一丁で水浴びをしている人間だった。
「ちょっと、眩しいのでライト避けてもらっていいですか?」
男の低い声が言う。
「すみません」
咄嗟にライトの向きを右にずらした。
「ああ、びっくりした」
男はふぅとため息をつくと、思い出したように水を体にかけ始めた。
「なにをしているんですか?」
僕は好奇心を押さえ込めず、訊ねた。
「え? あ、ええ、水浴びです」
「この寒い時期にですか?」
「ええ、ちょっと、わけがありまして」
「毎日来るんですか?」
「いえ、毎日ってわけじゃないんですけど、思いついたときに」
「仙川に河童がいるって噂を聞いたんですけど、あなただったんですね」
「噂になってますか?」
男が不安そうに言った。慌てたように川縁まで歩み寄り、擁壁に両手をついて、僕を見上げる。
「いえ、噂になっているというか、僕のブログにそういうコメントがつきましてね。僕は都市伝説とか、そういうことを道楽で調べて記事を書いているので、そういう話を人一倍聞かされる機会が多いんです」
「どういうコメントだったんですか?」
「ええ、なんだかおかしな話でね。『仙川に河童が出没する』なんて言うもんですから、こうして確認しに来たんです。でもまぁ、だいたいそういう話ってのは、単なる勘違いってパターンが多いですから……」
「勘違いじゃないですよ!」
男が真に迫る声色で言う。
「僕は、河童なんです!」
思わずライトを男に向けた。男は眩しそうに顔の前に手をかざした。
確かに気温の下がった秋の夜にパンツ一丁で川遊びをするのは奇妙だが、とは言えその男の容姿は、いたって普通の人間の通りである。皮膚が緑色であることもないし、頭に皿が載っていたり、指の隙間に水かきがついていたりするわけでもない。
「僕の知っている河童とはかなり見た目が違うようですが、あなたは河童なんですか?」
「ええ、すみません。なんというか、僕自身は河童じゃないんです」
なんだかよくわからない。
「どういうことですか?」
男はじっと水面に視線を落としていたが、やがてばつが悪そうに顔を上げた。
「僕の前世が、河童なんです」
より詳しく話を聞くために、土手の上へ上がってもらった。
互いに軽く自己紹介をした。男の名前は
長谷川は土手の草むらに置いていた衣類を着て、僕の横に座り、事情を語り出した。
「ここのところ、どうも体調がよくなくて、なにをするにもやる気が出ないんですよ。気持ちが塞ぎ込むと言いますか、ちょっとした鬱状態で」
「お仕事はなにをされているんですか?」
長谷川が勤め先の企業名を言った。それは僕も聞いたことがある有名企業だった。そこで営業マンをやっているらしい。
「わりと成績は良いんですよ。同期の中では一番の売り上げらしくて」
自慢話のようだったが、長谷川からはエリートサラリーマンが持っているような自信に満ちた覇気のようなものがほとんど感じられない。むしろ、なにか後ろめたいものを持つ、逃走中の罪人のような印象で、彼がこれ以上、その話をしたがっていないのは明らかだった。
僕も別に、長谷川の仕事ぶりについて話を聞きたいわけではない。
「天職なんでしょうね……それで、前世が河童というのは、どういう意味なんですか?」
長谷川は恥ずかしそうに口をすぼめた。
「いや、なんというか、その通りの意味なんです。体調が悪くなったんで、病院に行ってみたんですよ。でも、体に異常はなくて、おそらくストレスなどに起因する自律神経の乱れだろうということで。心をリフレッシュするように言われたんですけど、なにをしてても気分は晴れなくて、体はだるいし重いんですね」
長谷川は足下に落ちていた石ころを拾い上げ、それを川へ投げた。水面のほうからポチンと音がする。
「どうすればいいんだろうと思って。もしかしたら霊的ななにかに取り憑かれたんじゃないかと思い始めてですね。僕、わりとそういうの信じるタチですから。神市さんは霊的な力とかそういうの、信じますか?」
「ええ、信じますよ。そういうのを調べるのが趣味ですから」
「あ、そうでしたね。それならよかった……それで僕、あの、仙川駅の向こうに霊能力を持っている占い師がいるってネットで知って、みてもらうことにしたんです」
「この辺にそんな人いるんですか?」
「ええ、
「へぇ。知らなかった。今度行ってみよう」
長谷川は「ぜひ」と笑い、話を再開した。
「その占い師のところへ行って事情を説明すると、前世の霊が僕に取り憑いて、その霊が僕になにかを訴えているんだって言うんです。それで、僕の前世はなんなんですか? と訊ねると」
「河童だった、と」
「そうなんです。それで、河童は川の生き物だから……というか妖怪だから、川で水浴びをすればいいと言われて。そうすれば体調不良はなくなるって。それを信じて、こうしてここ一ヶ月くらい、時間があるときに仙川に来て水浴びをするようになったんです」
「体調はよくなりましたか?」
「いや、余計に悪くなりました」
長谷川は力なく微笑し、諦めたようにため息をついた。
「こんな話、誰にも言えないじゃないですか。霊能者に前世が河童だから川で水浴びをしろと言われて、その通りにしているなんて。友達にも彼女にも、家族にだってしてないですよ、こんな話。我ながら馬鹿馬鹿しいことやってるなって思いますし……でもこうして神市さんに話ができて、ちょっとスッキリしましたね。神市さんがそういう話を信じてくれるからってのもあると思いますけど、神市さんって話をするだけで人の気分を軽くしてくれるオーラみたいなのがありますよ。話をしたいと思わせる雰囲気というか」
長谷川は嬉しそうに言った。しかし、その表情には、ストレスに疲弊した現代社会人らしい陰鬱さが漂っていた。
なんとかこの男を救ってやりたいと思った。
「僕でよければいつだって話聞きますよ。そういう不可思議千万な話はどれだけ聞いていても飽きませんし、それで長谷川さんの気分がよくなるんであれば、喜ばしい限りです。なんだったら、友達になりますか?」
長谷川の力のない目が一瞬輝く。
「僕は友達のためなら、取るものも取りあえず尽力するのが生きがいですから。その謎の体調不良が良くなるように、手伝えることはなんでも手伝いますよ」
「本当ですか?」
僕が頷くと、長谷川は感激したように僕の手を取り、「ありがとうございます」と言った。
僕は首を横に振った。
「お礼なんて白々しいことは言わなくていいよ。もう友達なんだから」
それから僕らは連絡先を交換した。
長谷川は、同棲している恋人が待っているからと、帰り支度を整え始めた。
「あいつには、ジムのプールに行ってると言って出てきてるんだ。そろそろ帰らないと、心配する」
僕は頷き、手を振る長谷川を見送って川面を見下ろした。
本物の河童がいないか凝視したが、それらしいものは一切見当たらなかった。
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