2-5

 おそらく、もう一度あの店へ行ったところで、新しい情報を入手することはできない。事態を進展させるためには、なにか別の方法を見つける必要があるだろう。

 僕はティッシュの上に載せた吸い殻を見ながら、腕を組んだ。

 しかし、これといった妙案は浮かばなかった。煙草の違法製造販売であれば警察沙汰である。今回の出来事は遊びの範疇を超えた事件なのかもしれないという不安が大きく、上手く頭が回らなかった。

 夕方、夏の陽が暮れかけた頃、部屋のインターホンが鳴った。そのとき僕はデスクに向かい書きかけのネット記事原稿に手を加えていた。

 インターホンの画面には行田の顔があった。ぎゃあぎゃあとなにやら喚いている。

 エントランスを開けてやると行田の姿が画面外に消え、それから少しすると玄関のドアがガチャガチャと揺らされる音がした。その後チャイムが鳴る。

 玄関を開けると、顔を真っ赤にさせた行田が転がり込んできた。

 かなり酒臭い。

 昼間から酒をかっ喰らっていたとのことだった。どうやら昨日マッチングアプリで出会った女性にけんもほろろに振られてしまったらしい。昨晩はショックでめそめそしていたが、だんだんと腹が立ってきて、昼間から缶酎ハイを五、六本空けて来たという。

 行田は缶ビールや缶酎ハイ、そしておつまみが大量に詰まったビニール袋を二つ提げていた。

 おまえも飲め、としつこく迫るので付き合うことにした。傷ついた人間の相手をするのは友として当然だし、空飛ぶ煙草に関する調査が行き詰まってもいたのだ。酒を飲むこと自体、やぶさかでない。

 行田は一気にまくしたてたり、かと思うと突然黙りこくったりと、免許取り立ての人間が運転する自動車のように急発進と急ブレーキを繰り返しながら話した。僕はできるだけ黙って、行田の乱暴運転トークに耳を傾けていた。

 行田がポケットから煙草を取り出した。それは見たことのない銘柄だった。

「これ、これな、さっきあの店で買ってきた。『orange』は売り切れてたんだよ。これ、これな……フランス製の煙草」

 煙草を吸いたそうにしているので、僕も芽衣子から貰ったオレンジを手に取ってベランダへ出た。こちらのオレンジであれば、酔っていてもヤニクラに襲われることはない。

「そういや、あのデモ男、いなかった」

 煙草に火をつけながら行田が言う。僕は行田からライターを借りて、火をつける。

「そういや、俺昨日、あのデモ男に襲われたよ」

 僕は昨日の出来事を話した。恐怖体験を語ったつもりだったが、行田は涙を流しながら大笑いするだけだった。

「じゃあ、あの嫌煙家が、今頃オレンジを吸ってるのかもな!」

 結局僕らは夜更けまで酒を飲み続けた。

 日付が変わった頃、行田がすっきりした様子でソファに横になり、眠ってしまった。もう帰宅する気はないらしい。僕は暑かったら冷房を入れていいからと残し、寝室へ向かった。

 すぐ眠りに落ち、悪夢を見た。内容は明確ではないが、とにかく嫌な夢だった。

 僕は夢の中で、悲鳴を上げた。

「わああああ!」

 目を覚まし、がばりと上体を起こす。夢を見て悲鳴を上げたのは生まれて初めてだった。

 貴重な経験だ。

 僕は満足し、再び目を閉じた。

「わああああ!」

 また、悲鳴が上がった。今度は僕の声ではなかった。

 慌てて起き上がって廊下に出た。電気をつけると、リビングにつながるドアの前で、行田が片膝をついていた。ドアノブを両手で握り、全身で荒く呼吸している。

 僕はすぐに、行田が空飛ぶ煙草を目撃したのだと察した。

 途端に頭が冴え渡る。酔いも覚めてしまった。

「大丈夫か?」

 駆け寄ると、行田が振り返ってリビングを指さす。

「煙草がよ! 煙草がよ!」

 行田の目が血走っていた。右頬に黒いすすのようなものがついている。

「おい行田、どうしたの、そのほっぺた……」

「煙草がよ、襲ってくるんだよ!」

「煙草が襲ってくるって?」

「わけがわかんねぇよ! ぶんぶん音がして目が覚めたら、火のついた煙草が飛んでてよ、顔目がけて突っ込んで来やがったんだよ!」

 僕はドアのガラス部分から中を覗いた。三つの灯りが、空中で停止飛行をしている。

「なんなんだよ、いったい!」

 興奮する行田をなだめ、僕は寝室へ戻って枕元に置いていたスマホを手に取った。なにがなにやらわからないが、とにかく、飛行する煙草を画像や映像として記録しなくてはいけないと思った。

「ちょっと、中入ってみる」

 僕は行田を押しのけ、ドアノブを握った。

「おいおい、危ねぇぞ!」

 ゆっくりドアを開けた。

 リビングに足を踏み入れると、三本の煙草が同時に僕のほうへ向きを変えたのが気配でわかった。藪から獲物を虎視眈々と狙う獣のように、三つの火種が僕に照準を合わせてゆらゆら揺れている。

 僕はスマホのカメラレンズを煙草に向けた。カメラを起動し、撮影ボタンをタップした。

 途端に煙草が一直線に僕目がけて飛んできた。僕は咄嗟に身を翻してそれを避けた。風を切る尖った音が耳元を通り過ぎる。

 煙草はリビングの壁に激突し、タタタンッと乾いた音が部屋中に響いた。

 僕は体勢を整え、すぐさま後ろを振り返った。ドアのガラス部分から、不安そうにこちらの様子を窺う行田の顔が見える。と、再び、煙草が火花をまき散らしながら突進してきた。叩き落としてやろうと思うが、動きが速すぎて避けるので精一杯だった。

 煙草は窓ガラスに当たり、また火種をこちらに向けた。

 三つの火からは、明らかな殺意が窺える。

 この煙草は、僕を殺そうとしているのだ。

 煙草が三手に広がる。三方向から突撃し、僕を仕留めようと考えているのだろう。

 と思うが早いか、一斉に飛びかかってきた。

 僕は恐怖ですくみかけた足を必死でむち打ち、決死の思いでリビングのドアを開けた。

 隙間から外へ逃げ出し、後ろ手にドアを閉めようとしたとき、背中にずきんと痛みが走った。そのまま廊下に倒れ込み、痛みの発生地に手を伸ばす。

「背中に突き刺さってる!」

 行田が僕の背中を押さえつけながら言う。どうやら、右肩甲骨付近に煙草が一本、突き刺さったらしい。

「いや、でもそんなに深くねぇ! おらぁ! おらぁ!」

 行田が言い、廊下を何度も踏みつけた。

「もう大丈夫か?」

 行田が言って足を上げる。踏みつけていた部分を見ると、もみくちゃに潰れた煙草の吸い殻があった。オレンジだった。

 僕はシャツを脱ぎ、行田に傷跡を見せた。傷は深くなく、皮膚が小さく焼けただれているだけだった。

 それよりも素足で煙草を踏みつけた行田の足の裏のほうが重傷だった。すぐに風呂場へ連れて行き、水を当てる。

「どうするよ?」

 行田が上ずった声で訊ねる。

「とにかく、今夜は寝室で夜を明かそう。朝になれば、火は消えているはずだから」

「いったい、なんなんだよ、これ」

「ううん……」

 僕はただ唸った。

 僕の中で謎の一部ははっきりしているはずだった。しかしアドレナリンがだだ漏れ状態になっている昂ぶった頭では、思考を整理して言葉にすることができなかった。

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