1-5
水曜日の昼過ぎ、佐々木紗英に電話をした。
「はいはーい」
「紗英ちゃん? 神市だけど、今仕事中?」
「あ、お世話になってます。今、お昼休憩が終わって職場に戻るところです」
「そうなんだ。あの、毛玉小僧についてなんだけど」
「あ、なにかわかりました?」
食いつくように紗英が訊ねた。
「うん、多少はね。そこで、ちょっと確認したいことがあって。一緒に芦花公園へ行ってほしいんだよね」
「もちろんですもちろんです!」
「あ、じゃあいきなりだけど今夜、芦花公園来られる?……」
今夜二十一時に、ちょうど彼女が毛玉小僧を見かけたという公衆便所前に待ち合わせの約束をした。
僕は少し早めに芦花公園へ行き、公衆便所から一番近いベンチに腰をかけた。
ちらほらと人間がいたが、公園に居座る気のない、近道目的の歩行者ばかりだった。
二十一時に差し掛かった頃、公園の入り口から、ひとりの女性が歩いて来た。半袖の白ブラウスに黒いテーパードパンツというオフィスカジュアルな服装で、髪の毛は前髪が少し長めのベリーショート。
紗英だった。
僕は立ち上がり、手を振った。
「どうもごめんなさいね。公衆便所の前で待ち合わせなんて」
「いやいや、大丈夫ですよ」
紗英は笑いながら公衆便所を一瞥し、思い出したように僕に向き直った。
「あ、敬語は駄目なんでしたっけ?」
「友達と接するように話してくれればいいよ。芽衣子に話しかけるみたいに話してくれればそれでいい」
「芽衣子に話しかけるみたいに話したら、神市くん、きっと私のこと嫌いになるよ、私たち、口が悪いから」
「口の悪さで嫌いになるなら、芽衣子とはもう五年も前に絶交しているだろうね」
紗英は「あはは」と笑った。
「仕事帰り? 晩飯は食べた?」
「あ、うん。スーパーで買った惣菜家で食べて、面倒くさいから着替えずに来た」
紗英はどこかを指さした。自宅マンションを指さしているつもりなのだろう。
「あ、そう。なんの仕事してるんだっけ? あ、座ろうか」
僕らはベンチに腰掛けた。
「仕事は、ウェディングプランナー」
「ウェディングプランナーというと、結婚式の計画とかするってやつ?」
「そう。式場紹介したり、日程決めたり」
「カップルの相手をするのって大変そうだね」
「うん」
紗英はあまり、仕事の話をしたくなさそうだった。露骨に嫌な顔をしているわけではない。しかし、膝の上の手がそわそわと落ち着かないし、足下を見たり正面を見たり、なにか別の話題を探しているように見える。
「そんなことより、毛玉小僧について、なにがわかったの?」
紗英が思い出したように訊ねた。
僕は気を取り直し、「そうそう、それそれ」と手を叩いた。
「あれからね、少し調べたの。ネットにはあの掲示板以上の情報はなくてさ……」
ランニングをしていた男性や、橋本樹里、行田に聞いたことを話した。
「芦花公園に不審者が出るんだね」
紗英が眉をハの字にして苦笑した。僕はここからが本題というように膝をポンと叩いて見せた。
「それでね、なんだかよくわかんないからさ、都市伝説考察系のユーチューバーをやってる友達にも訊いてみたんだよ。そいつも毛玉小僧については知らなかったんだけど、俺の説明を聞いて、毛玉小僧が妖怪や幽霊の類いだって言うんだよね」
「妖怪や幽霊……?」
紗英は眉をひそめたが、姿勢は前のめりになった。興味を持ったらしい。
「そう。それで、妖怪や幽霊の類いにはね、ある整った条件のもとに出現するタイプのものがあるらしいんだよ。それで、そいつが言うには、夜、芦花公園、男女ってのが、毛玉小僧を出現させるトリガーだって話なんだ」
「だから、今日、私を呼んだってこと?」
「そうなんだよ。もしかすると、犯罪ってのがセットになっているかもしれないけど、紗英ちゃんが見たときは、犯罪は起こらなかったでしょ? だから、とりあえず、男女がそろった状態で芦花公園に来てみて、様子を見ようと思ったんだ」
僕はそこまで言って、いったん口を閉じ、紗英の様子を窺った。紗英は目を輝かせ、興味津々で周囲に目をやっていた。僕は伝えるべきか悩んでいたことを言うことにした。
「あと、念のためになんだけどね。ユーチューバーの話では、毛玉小僧が犯罪を誘発しているかもしれないんだよ。俺が思うに、特に性犯罪だろうね。毛玉小僧が出現することによって、男性が女性を襲う」
「満月の夜に狼男になるみたいな感じ? あ、だから、不審者と一緒に毛玉小僧が出てくるのか」
「そうそう。だから、もしかすると、毛玉小僧が出てくることによって、俺の気が変になっちゃうかもしれないんだ。仮に俺が変なことをしようとしたら、ぶん殴ってでも俺から逃げてくれ」
紗英は可笑しそうに笑った。
「わかった。顔の形が変わるまでボコボコにぶん殴るね」
「そこまでしなくてもいいけど」
「でもやっぱり、毛玉小僧は人間じゃないっていう私の考えは正しかったんだ」
紗英は嬉しそうだった。
「紗英ちゃん、妖怪とか幽霊って、信じるの?」
「うん? 信じるよ。特に霊感があるとかじゃないけど、いるって信じたほうが楽しいから」
「良い考え方だね」
僕が頷くと、紗英は体を僕へ傾け、真剣な目をした。
「私、小さい頃に一回だけ幽霊を見たことあるんだけど、まるで普通の人間のように、そこにいたんだよ。ってか聞いて聞いて、どこで幽霊を見たかって言うとね……」
紗英は小学生の頃に見たという幽霊の話をした。その幽霊は放課後、校庭のブランコでひとりで遊んでいたらしい。見かけた瞬間はなんとも思わなかったが、ふとブランコが修理中だったことを思い出してもう一度目を向けると、そこにはもう誰もいなかった。
紗英はそれから、友達が見たという心霊写真の話や、親戚のおじさんから聞いたという怖い話を僕に聞かせた。僕は興奮しながら話を聞いた。
不意に、紗英がため息をついた。
「どうしたの?」
「いや、彼氏のこと思い出して」
「突然だね」
「うん。あのね、私の彼氏、幽霊とか全然信じないタイプなんだよね。信じないだけなら良いんだけど、信じている人をめちゃくちゃ馬鹿にするタイプなの。毛玉小僧についてだって、ただの変質者の一点張りだし」
「なんとまぁ」
「だから、私、今したような話、全く彼氏にはしてない……っていうか、彼氏は、人の話を全然聞かないタイプで。人の意見なんて全然聞かない。常に自分が正しいって思ってるタイプだね。まぁ、結構なエリートだから、自分に自信があるって言えば聞こえはいいけど……」
紗英が重たそうに視線を下に向けた。パンプスのかかとで石畳の地面をコツコツと蹴っている。
「神市くんは、結婚とかってしたくないの?」
「結婚?」
突然話題が変わって驚いたが、紗英にはつながりのある話であるようだった。僕は笑った。
「今のところはね。俺は結婚ってのは刺身醤油みたいなもんだと思ってるから」
「どういうこと?」
「刺身を美味しく食べたいから、刺身醤油をかけるでしょ? 刺身がないのに刺身醤油だけ飲みたいとは思わないし、体に毒だよ」
紗英は少し考え、納得したように「ああ」と声を出した。
「じゃあ、今は食べたい刺身がないってことだね」
「刺身が手に入れば、ドバドバ刺身醤油かけたいけど」
「焦らない?」
「焦ったってしょうがないでしょ。魚が捕れるかどうかは、海次第」
紗英は「あはは」と乾いた笑い声を上げ、両足を前に伸ばした。
「達観してるなぁ」
「ぼぉっとしているだけかもしれないけどね」
「私は、焦っちゃうんだよね。ウェディングプランナーやってるからかな、結婚ってのが人生最大の喜びであるように感じられるんだよね」
「なるほどね」
「もう友達のほとんどは結婚しちゃって。仲間内で結婚してないの、芽衣子と私だけなんだよ。結婚した友達は気軽に飲むにも誘いづらいし、子どもができた子もいるし」
「ああ、だからこの間芽衣子と会ったってことね、独身同士、気軽に」
紗英は「そうそう、独身同士、ね」と頷きながら、軽く僕の肩を叩いた。
「早く結婚しなくちゃーって焦ってばかりで、いろんな人ととりあえず付き合ったりしたけど、全然合う人いなくてね。もう私もアラサーだし、今付き合ってる彼氏となんとかなればいいなぁと思ってたんだけど」
「そうじゃん、彼氏は、結婚の話とかしないの?」
「全然。ってかね、されても困るかもしれない」
紗英は様子を伺うようにそこで言葉を切り、僕の顔を見た。僕は話を続けるよう大きく眉を上げて見せた。
「なんというか、私、はっきり言って、彼氏のこともう全然好きじゃないんだよね」
「あらら、致命的だね。やっぱり、人の話を聞かないから?」
「うん。それがきっかけかな。彼氏とは去年合コンで知り合ったんだけど、今思えば、最初から仕切り屋で、全部自分が自分がの人だった。付き合うまではリードしてくれてるんだって思ってたけど、だんだん息苦しくなって。詳しい話は胸くそ悪いからしないけど、こっちがなに言っても頭ごなしに否定するし、束縛もすごいし。それでもう、半年くらい前から完全に気持ちは冷めてる。顔も見たくないレベル。キスも歯医者かってくらい前歯ばかり舐めてきて気持ち悪いし、エッチもゴリラみたいにウホウホ言いながら……」
あまりの言いように僕は思わず吹き出した。紗英が「あっ」と目を丸くした。
「こんな話聞きたくないよね。ごめん。とにかくもう、大嫌い」
それから声を出して笑った。
「ああ、もうわけわかんないけど、なんかスッキリした。芽衣子にもしてないよ、今の話」
大きく息を吐く。
「芽衣子には見栄張っちゃうから」
「女同士はいろいろあるの、ってやつだね。芽衣子がよく言ってるよ」
「そう。っていうかさ、神市くんって聞き上手だよね。ついつい喋りたくなっちゃう」
「よく言われるけどね。でも、俺の聞き上手は、芽衣子曰く『私が話し上手なだけ』らしいけど」
「芽衣子が言いそうなことだね。でも、本当に聞き上手だよ、神市くん。前に担当した熟年カップルの人が言ってたけど、聞き上手ってのは相手を話し上手にする人のことだって」
「それ、芽衣子に言ってやってよ」
「芽衣子もわかってるよ。実は結構前から芽衣子から神市くんのこと聞いてたんだけど、とにかく安心して喋れる人、みたいなこと言ってたから」
「素直じゃないんだな」
芦花公園に来てから、三十分ほどが経っていた。
「それにしても、全然毛玉小僧現れないね」
紗英がきょろきょろしながらつぶやく。
僕もそれとなく周囲に目をやった。人っ子ひとり見当たらなかった。
「男女でいるだけじゃ、現れないのかな」
「この様子だと、そうなるね」
「こないだは、そこの、トイレの脇から出てきたんだよね」
紗英がそう言ってベンチの後ろを振り返ろうとしたとき、彼女のスマホが鳴った。紗英は画面を見て「げ」と顔をしかめた。
「彼氏だ」
紗英は右手を顔の前に出し「ごめん」と言って、電話に出た。
「どうしたの? え? 今、芦花公園。え? なんで、今日飲み会じゃないの? なんでよ。……あの毛玉小僧の調査。そう。……だから、別にいいでしょ、私の勝手じゃん。……ああ、もう、はぁ……うん。わかった。帰るね」
紗英はスマホを切り、ため息をついた。
「彼氏が私のマンションに来てるらしくて、帰って来いって。私が芦花公園にいることが気に入らないみたい」
「どうして?」
「わかんない。頭おかしいからでしょ」
紗英はもう一度ため息をつき、額が腿につくくらい項垂れた。
と、僕はそのとき、紗英の背中に大きなカナブンがひっついていることに気がついた。
「あ、紗英ちゃん、背中にカナブンがいるよ」
「ええ? えええええ? やだやだ!」
途端に紗英が暴れ出した。
「取って取って! やだやだ! やめて! 取って!」
「取るから暴れないで!」
僕は紗英の肩を掴み、カナブンをつまんで放り投げた。どうにか紗英は落ち着いてくれた。
「はは!」
紗英が笑った。
「なんか、ほんとごめんね、取り乱しちゃって」
「あのカナブンにとって、一生のトラウマになっただろうね」
紗英は少し乱れた襟元を直してから前髪を横に流した。
「それじゃ、ちょっと私、帰るね。あいつが待ってるって言うから」
「ああ、うん」
「神市くんも帰る?」
「いや、俺はもう少し、様子見てみるよ。待ってる人のいない、気楽な独身なもんでね」
紗英は顎を上ずらせて微笑むと、手を振って回れ右をした。少し歩き出して、振り返る。
「私たち、友達になったんだよね?」
「ああ、俺はそのつもりだよ」
紗英は目を細めて「心強いな」と笑った。
僕は紗英の背中を見送ってから、「さて」と独りごちて振り返った。
そこでぎょっとした。
視線の先、公衆便所の灯りの届かない銀杏の木の脇に、裸の人間が立っていた。股間に目をやると、そこにはなにもなかった。
薄暗くてはっきりとは言い切れないが、顔は真っ黒い毛で覆われている。いや、顔が毛で覆われていると言うよりも、本来顔があるべきはずの場所に、ほつれた毛糸玉が載っているだけのように見えた。
毛玉小僧だ。
胸が大きくどくんと鳴った。嬉しい胸の高鳴りではなかった。見てはいけないものを見てしまったときの、激しい緊張感のある動悸のようなものだった。
逃げなくては。
真っ先に脳裏をよぎった言葉はそれだった。毛玉小僧を追い求めていたはずなのに、恐怖に気圧されるのは妙だった。それでも、第六感のようなものが、この場にいてはいけないと警鐘を鳴らした。
毛玉小僧は少しの間、同じ場所に突っ立っていたが、やがてスライドするように木の陰に姿を引っ込めた。
途端に気分が楽になった。
僕は急いで毛玉小僧が立っていた場所へ向かった。しかし、木の裏にも、その周辺にも、毛玉小僧の姿は見当たらなかった。
ベンチに戻り、乱れた呼吸を整えた。妙な恐ろしさがまだ尾を引いていた。
毛玉小僧の妖力だろうか……。
視線の先に、さっき放り投げたカナブンが歩いていた。
そこではっとした。
紗英は、彼氏のことが嫌いだった。
「そういうことか……」
夜明けが来たみたいに目の前が明るくなった。
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