遊びの依頼

南口昌平

遊びの依頼

第1話『毛玉小僧』

1-1

 ひと仕事を終え伸びをする。

 冷蔵庫の牛乳をパックに口をつけて飲み、エレキギターを抱えて椅子に座る。アンプにはつながずコードを押さえ、ジャランとピックを振り下ろしたときに、スマホが鳴った。

 画面には氷山芽衣子ひやまめいこの名前があった。

「もしもし」

「あ、神市かみいち? どうせ暇でしょ?」

 挨拶を抜きに芽衣子が言う。僕はギターを抱え直し、ネックを握る手に力を入れた。

「どうせ暇でしょって言い方はないだろう。仕事をしていないほどには忙しいよ」

「あなたに相談したいっていう人がいるのよ」

 芽衣子は赤信号に苛つくせっかちドライバーのような調子で本題に入った。

「私の高校時代の友達なんだけど、その子が、ぜひ神市に話を聞いてほしいって言うのよ」

「仕事の依頼? なんの記事?」

「だれがあんたみたいな三流ライターに記事の執筆を依頼するのよ。遊びよ、遊びの依頼」

 僕は俄然興味が湧き、ギターをスタンドに戻して姿勢を正した。

「ほう、それはいいね。内容は?」

「だからこれからその内容を説明しようとしているのに、話の腰を折らないで」

「わかったよ、黙って聞くよ」

「ねぇ、私は忙しいのよ。詳しいことはその子から聞いて。もう神市の住所、伝えてあるから、今日の十五時頃にそっちに行くと思うの」

「今日の十五時にその子がここに来るってこと? もう三時間もないじゃない」

「どうせ暇でしょ。それじゃ、よろしくね」

 電話は切れた。

 全く要領を得ない話に苦笑いをするしかなかったが、それでも悪い気はしなかった。

 ギターをかき鳴らしていると、知らないうちに時間が経っていた。

 ポロロンというチャイムで我に返る。十五時を少し過ぎていた。

「はいはい」

 インターホンで応答すると、小さな画面に女性の顔が映し出された。二十代前半くらいに見えるが、芽衣子の同級生であれば三十手前のはずだ。

「あの、神市さんのお宅でしょうか?」

「はいはい、神市辰明たつあきです。あなたは氷山芽衣子のお友達の?」

「そうです。佐々木紗英ささきさえといいます」

 僕はエントランスを開けた。

 二分もしないうちに玄関チャイムが鳴り、黒いノースリーブワンピース姿の佐々木紗英が入ってきた。

 小柄な女性で、小さな顔に並ぶ大きな目が小動物のような印象を与えるが、同時に、姿勢良く胸を張った佇まいと艶のあるベリーショートの髪の毛とが、彼女を力強い存在にも見せていた。

 挨拶もそこそこにリビングの三人掛けソファに腰をかけさせ、僕は台所へ向かった。

「牛乳しかないんですが、いいですか?」

「え、あ、はい。お気遣いなく……」

 新しく牛乳を開け、コップに注いでリビングへ戻った。

 紗英の隣に腰を下ろす。

「すみませんね、座るところがここしかなくて」

「いえ、大丈夫です」

「デスクチェアはあるんですが、ソファの後ろにあるので、そっちに座ると背後からお話をしなくてはいけなくなりますしね。それじゃさすがに落ち着かないでしょう」

「まぁ、はい、そうですね」

 紗英は小さく腰をずらし、体を斜めに僕へ向けた。

「あの、芽衣子からは詳しい話を聞いていますでしょうか」

「いや、あなたがここへ相談に来るということしか聞いていなくてですね。なにしろ芽衣子はせっかちなうえに大雑把ですから、詳しい話はほとんど……」

「あの、神市さんは、『毛玉小僧』の話をご存じですか?」

 紗英もせっかちなようだった。散歩に出かけたい室内犬のような調子で口を開きたがっている。

「毛玉小僧?」

「ええ。あの、芦花公園ろかこうえんってありますよね」

「芦花公園っていうと、環八沿いの」

「はい。私、あの辺りに住んでいるんですが、最近、妙な噂が立ち始めて」

「どういう?」

「それが毛玉小僧の噂なんです。顔中が毛で覆われていて、体は全裸。顔が毛むくじゃらのわりに、体には一本の毛も生えていない……その毛玉小僧が、芦花公園に現れるんです」

 僕は腕を組んで記憶をたどった。しかし、毛玉小僧に関する話を聞いたことはこれまで一度もなかった。

「毛玉小僧については存じ上げませんが、そいつはいったい、芦花公園でなにをしているんですか?」

 紗英は口を閉じて、言葉をひとつ飲み込んだ。おならを我慢しているように、もじもじとお尻を動かしている。

「佐々木さんは、毛玉小僧を見たんですか?」

 かまをかけると、紗英は観念したようにおならをぶっ放した……いや、話し始めた。

「はい。二回ほど。一度目は、春先のことでした。二ヶ月くらい前でしょうか、恋人とデートをしていて、その後、私の家へ行くことになったんです。バス停からの帰り道に芦花公園があって、そこを突っ切るのが近道で、二人で歩いていました。夜中の十一時を過ぎた頃だったので辺りは暗く、人もほとんどいませんでした。すると、彼氏がベンチに座ってお話をしようと言い出したので、私たちはベンチに腰をかけてお話をすることにしたんです。他愛もない話をしているうちに少しこう、私たちの体が近くなって、こう、顔と顔が近づいて、彼氏の手が私の体を……わかりますか?」

「まぁ、カップルが夜の公園でいちゃつくことはありますよね」

「ええ……二人で、じゃれ合っていると、ベンチの背後で物音がしたんです。芦花公園は夜中でもランニングなどをしている人がいますから、そのときもそれだと思い、私たちは慌てて体を離しました。しばらくじっとしていたんですが、ちらっと後ろを振り返って、背筋が凍ってしまって。私たちは一目散に公園から逃げ出しました」

「そこに、毛玉小僧がいたってことですか?」

 紗英は下唇を噛んで、頷いた。

「ベンチの後ろに公衆トイレがあって、そこだけ電気がついていて明るかったんです。その公衆トイレの入り口の辺りに、さっき言った、顔だけ毛むくじゃらの男が、ぼぉっと立って、こっちを見ていたんです。いや、顔は毛だらけなんで目がこちらを見ていたかはわかりません」

「目も毛で覆われているんですか?」

「目だけじゃないんです。鼻も口も、耳も、なにもかも。首の上にほつれた毛糸玉がのっかっている感じです」

「体は全裸って話ですよね?」

「はい。体には全然、毛は生えていないんです」

 僕は毛玉小僧の姿を想像して笑ってしまった。

「ひげもじゃの露出狂ですかね」

 紗英がキッと目つきを険しくする。

「違うんです。毛玉小僧は、人間じゃないんです」

「人間じゃない? どういうことですか?」

「あの、私、毛玉小僧の股間を見たんです……見たというか、見えたんです。そしたら、そこになにもなかったんです。言葉どおり、なんにも」

「凹も凸もですか?」

 紗英はこくりと頷いた。

「タイツを着ていたってことはないですか?」

「乳首やおへそはあるんです。でも、股間にだけ、なにもないんです」

「さっき佐々木さん、毛むくじゃらの男って言っていましたが、それじゃ、男かどうかはわからないじゃないですか」

「でも、胸の膨らみはなくて」

「胸の膨らみがない女性もいるでしょう」

 紗英は一瞬自分の胸に手をやりかけて、すぐに僕を睨みつけた。

「男か女かどうかはどうだっていいんです。言葉の綾で男と表現しただけで」

「確かに、毛玉小僧の性別なんてこの際どうだっていいですね」

 僕が大げさに頷くと、紗英は満足そうに胸を張った。

「それで、二回目に見たときのことなんですが、それがちょうど二週間前の土曜日で。そのときも私、彼氏とデートをして、夜中に私の家へ行こうってことになって、公園を突っ切ってて。それで、二ヶ月前と同じように、ベンチに座ろうってことになって、そういえばこの間ここで変な奴を見かけたよなって話をしながら、彼氏が次第にそういう気分になったらしくて……」

「いちゃこらさっさとしたわけですか」

「ええ、まぁ……。そしたらまた、背後で物音がして、振り返ると、毛玉小僧がそこに立っていて。今度はこう、ゾンビのように手を前に伸ばしてこっちに歩いてきたんで、私たちは転がるようにして逃げ出しました」

 僕は腕を組んで背もたれに背中を預けた。夜中現れる顔面が毛むくじゃらの怪人。かなり興味深い話である。

「それで、私もいよいよ怖くなって。彼氏は興奮してて、毛玉小僧を見つけてぶっ殺してやるなんて息巻いてて」

「血の気が多いですね」

「ええ、まぁ……なんだか私を守りたい一心らしくて。それで彼氏が何回かひとりで夜中に芦花公園へ行ってみたんですが、そのときは現れなかったようです」

「現れるときと現れないときがあると」

「はい。それで、私も気になって、いろいろ調べたんです。そしたらネットの掲示板に、『芦花公園に現れる毛玉小僧』っていう噂話に関するスレッドがあったんです。読むと、私と同じような経験談を語る人が何人かいて」

「顔中毛だらけの怪人を見たってことですか?」

「そうなんです。その掲示板の書き込みを読んで怖くなっちゃって。芦花公園は私もよく行きますし、仕事終わりにひとりで歩くこともあるんです」

「生活圏内に謎の怪人が現れるのは確かに怖いですね」

「それで、誰かに相談したいと思ったんですけど、警察に言ったって信じて貰えないでしょうし、会社の同僚とはこんな話をするほど親しくないし、彼氏は……とにかく、そんなときに、この間の水曜日に、久しぶりに芽衣子と飲むことになって」

「その話をしたところ、僕のことを紹介されたってことですね」

 紗英は頷いた。

「神市さんが怪奇現象について調べてブログを書いていることを聞いて、芽衣子も神市さんなら喜んで話を聞いてくれると太鼓判を押してくれたので」

 紗英はそこまで言うと、コップの牛乳を一気に飲んだ。鼻の下に白い線ができる。それから呼吸を整えて体を僕のほうへ大きく傾けた。

「どうか、毛玉小僧について調べてください。できれば、捕まえてやっつけて欲しいんです。そうじゃないと、安心して……」

「彼氏と公園でいちゃこらできない、と」

 僕は牛乳を一口飲み、ふぅと鼻で息を吐いた。腹は決まっていた。

「いいでしょう。毛玉小僧について、僕が調べますよ」

 紗英は目を大きく見開いて手を叩いた。

「ありがとうございます。謝礼はきっと出しますので」

 僕はもう一口牛乳を飲み、慌てて首を横に振った。

「謝礼なんていりませんよ」

「でも、時間を割いてもらうのに、なにもしないってのは」

「いいんですよ、こっちは道楽でやるんですから。謝礼なんて貰ったら興ざめだ」

「でも、お仕事も忙しいんじゃないですか?」

「毎日仕事をしている暇なんてないですよ、人生」

 紗英はよくわからないという表情をしていたが、とにかく納得してくれたようだった。

 僕は残りの牛乳を飲みきってしまい、「ただひとつ条件があります」と大事なことを付け加えた。

「条件ですか?」

「はい」

「なんですか?」

「僕と友達になってください」

 紗英は目をぱちくりした。

「いえ、下心なんてありません。その点に関しては保証します。いや、友達になるというのはこういった遊びの依頼をしてくれた人に対して絶対に出す条件なんです。男女問わず。疑わしいなら、芽衣子に訊いてみてください」

「友達になるというのは、どういうことですか?」

「なに、別段難しいことはありませんよ。連絡先を交換し、気が向いたときに飲みにでも出かけて他愛もない話をする。人から『神市辰明って誰?』と訊かれたときに、『私の友達』と紹介する。それくらいのものです。僕が危険な人間でないことは、僕があなたの友達の芽衣子と友達であることを考えれば、明らかでしょう」

 紗英はしばらく呆然としていたが、「それでいいのなら」と割とすんなり条件をのんでくれた。

 この条件を出すと、だいたいの人はまごついてしまうものだが、大方、芽衣子からあらかじめ聞かされていて、ある程度の覚悟ができていたのだろう……いや、芽衣子がそこまで説明しているとは思えない。

 紗英もあの芽衣子の友達なのだ。どこかぶっ飛んだ女性なのだろう。

 連絡先や例の掲示板のURLなどを教えてもらってから、僕は紗英をエントランスまで送った。

 紗英は去り際に振り返ってたどたどしく口を開いた。

「それじゃ、神市くん、よろしく」

「ああ、友達の頼みは断れねぇや」

 僕が手を振ると、紗英は可笑しそうに微笑んで立ち去った。

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