危険な愛?

俺の恋人は重度の浮気症だ。

その奔放さは俺と彼女が結婚して、俺が彼女の苗字を竹宮から夏住に変えて法的に縛り付けた後も変わることは無かった。

八重花ちゃんと出会ったのは、俺が高校二年生の梅雨時のことで、俺から告白して付き合い始めたのは同年の夏休み前日のこと、初めて浮気が発覚したのは高校三年生の夏休み最後の日のことだ。

見知らぬ男と手を繋ぎ楽しそうに歩く彼女を初めて見つけた日のことはよく覚えている。

彼女と親しげに会話をする男はドーメルのフレスコスーツを着ていて、年齢は四十代程度だろうか。

その容姿は八重花ちゃんと似ても似つかず、血縁関係という可能性は早々と打ち砕かれた。


その日の八重花ちゃんは生者だったものが打ち捨てられた光景を想起させる恐ろしくも耽美な野晒しの骸骨の帯に、銀色の蛇の帯留を合わせ、露芝を舞飛ぶ蛍を描いた墨色の単衣に、薄紫色の骸骨と墓地の半衿を纏っている。

桃色の髪は毛先だけを軽く巻き、ねじって後ろでまとめており、いつもより大人びた上品な雰囲気を醸し出していた。

耳元には俺が彼女の誕生日にプレゼントした夾竹桃の耳飾りが揺れている。

二つの人影が絡みつくようにして歩いてきて、通り過ぎる瞬間、八重花ちゃんと目が合った。

見慣れたかんばせ、見慣れた髪、見慣れた着物、彼女が目に入る。

俺は彼女の腕を掴み、当惑する男を押しのけ、自分の家に向かった。


激情に突き進められるまま、歩き続ける。

自分が自分じゃなくなる、俺という人格を支えていた理性が失われて、熱烈に狂っていくのを感じていた。

あの男と俺の違いはなんだ。

年齢の違い、財力の違い、見た目の違い。

それとももっと別の違いがあるのか。

彼女はあの男の何に惹かれたんだ。

俺の一体何が、あの男より劣っているんだろうか。

苛立ちながら自宅マンションの鍵を開ける。

室内に八重花ちゃんを力任せに押し込むと、非力な彼女はバランスを崩して、玄関のフローリングに尻もちを着く。

俺は鍵を閉めて、先程から黙りを続ける八重花ちゃんを見下ろした。


「どうして?」

俺の質問に彼女は答えない。

「どうして……浮気したんだよ。なあ、アレって立派な浮気だよな。俺の何が不満だったの?もしかして八重花ちゃんの気に障ることした?気づかなくてごめんね。だとしてもさ、浮気はひどくない?あの男と何したの?どこまでしたの?俺に言えないようなことまでした?いつから会ってたの?どこで出会ったの?どうしてあんなに親しげにしていたんだよ。なんで……どうして俺じゃない男に触られて平気なんだよ、だっておかしいだろ!お前、おかしいよ!なんでわかんねぇんだよ!」

怒鳴りつける俺を、八重花ちゃんは寝起きのようなぼんやりとした目つきで見上げていた。


「……わたしにないものを持ってる鼎(かなえ)くんっておもしろい。でも、生きるのしんどそうだね」

彼女は累々と倒れ伏した数多の男の屍を踏みつけ、弄んできた妖婦のように薄く笑う。

刹那。

パンッと、空気を鋭く引き裂く音がする。

八重花ちゃんの横顔は整っていて、その鼻筋は西洋人形のようだった。

彼女はまるで何をされたのか分からないらしく、目をぱちくりさせている。

俺は自分が八重花ちゃんの右頬を叩いたのだと気づくまで、しばらくの時間を要した。

「ちが、ちがうんだ……手を上げる気なんて、そんな、つもりは……」

暴力によって変色した彼女の頬に、くらくらと目眩がする。


何も楽しくないのに笑い声が零れ、俯いた俺の双眸から落ちる水分が床を濡らす。

「どうして」

八重花ちゃんに暴力を振るってしまった。

愛してるのに、こんなに愛しているのに。

やってしまった、と思って脳みそが停止した隙に、八重花ちゃんは立ち上がり、リビングに入ってパタリと扉を閉めた。

ちょっと待ってよ、弁解させてくれよ。

リビングの扉の前でわめきたてる。

閉まった扉は開かない。

鼻水を啜って、涙を乱暴に手首で拭う。

「暴力は悪いことだよ、ごめんなさい。もうしないよ。だから許して。お願いだから話をしよう?ねえ、やっぱり俺が嫌いになったの?だから浮気したのか?悪いところがあったなら言ってよ。すぐに口が悪くなるのが駄目なのか?直す、直すよ!全部直せるように努力するから!」


閉まった扉は開かない。

耐えきれない情動をぶつけるようにして、丸めた両手を木製の扉に叩き付ける。

「八重花ちゃん、八重花ちゃん、八重花ちゃん、愛してるんだ!驚いただけなんだよ!俺を捨てないで!返事をして!」

閉まった扉は開かない。

なんだか、肉体の芯が全て抜けてしまって、薄っぺらい紙になったみたいだ。

膝をついて、そのまま冷たい床に倒れ込む。

彼女からの沈黙が続くほど、俺達の関係が修復不可能なものになっていく気がした。

泣き止む方法が、もう分からない。

「俺、死のうかな……」

そう呟くと、しばらくの沈黙の後とうとう扉が開いた。


彼女はゆるやかに首を傾けて、柘榴のような唇を動かす。

生え揃った睫毛の陰から男好きする瞳が、剣のように輝いている。

「どうして?」

「八重花ちゃんに嫌われたら、もう生きている価値がないから……」

「そうなの?」

彼女はすらりとした身体を、しなやかに屈めながら、誇りと安心の垣間見える態度で俺の顔を見下ろす。

臨機応変に動けることが自慢だったはずの脳みそは、涙と酸欠で使いものにならなかった。

自分の情けない顔が見られたくなくてもういっそのこと、この場で噛み切って死んでやろうと口内の柔らかな舌に歯を突き立てた瞬間、彼女は俺を優しく抱きしめたのだ。


元を辿れば全ては彼女の所為だというのに、彼女の笑みは母が子に向けるような慈愛に満ち溢れてる。

「鼎くんのこと、嫌ってないよ。ただ、わたしは……」

「いいよ。もういいよ。八重花ちゃんが遊びたいなら少しくらいは許してあげる……俺じゃ物足りないっていうなら、仕方ないよ……だからもう、俺に隠れて浮気しないでよ……愛してるんだ」

それから、俺と八重花ちゃんは何度も似たようなやり取りを繰り返した。

彼女が浮気をする度に俺は泣き叫んで死ぬと騒ぎ、結局最後は俺の方が折れる。

傍から見たら愚かな男だと笑うだろうが、俺は彼女が浮気を繰り返すのは俺には埋められない何かがあるからだと信じていたのだ。

それに、彼女は浮気を繰り返す癖に俺との関係を優先してくれたし、他の男との関係性が長期化することもない。

だから、あの日まではずっと許せていた。

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