美しき善良?

もう会えないかもしれない、と八重花さんに言われた。

いつか来るだろうな、そろそろだろうな、と思っていたので別段驚きはしない。

それでも、実際に言われたら想像していたよりずっと悲しくて、彼女が居ない生活が嫌で嫌で仕方がなくて、両目からみっともなく涙が溢れた。

口が曲がりそうなほど塩っぱい涙。

「どうしても、ですか?」

「うん、旦那がね」

旦那さんが理由なら仕方ない、僕にはどうしようもない事だ。

離婚は出来ない、と初めて八重花さんを抱いた日に言われていた。


八重花さんと出会ったのは約一年前で、僕が高校二年生の夏休みのことである。

うちの学校の園芸部は八月に入って週二日の活動を行っていた。

畑で育てているトマト・キュウリ・ピーマンの収穫と学校の花壇の整備に加えて、今年は文化祭の企画として校内の樹木を調べて、樹木プレートを作ることになっている。

夏休みと言えど、部活動の時間は火曜日は午後四時から午後六時まで、木曜日は午後一時半から午後三時までであり、意外と忙しい。

元々は廃部を免れる為に後生だからと是枝(これえだ)先輩に泣き付かれて、数合わせの幽霊部員として参加するつもりだったのに、思いの外、部活動にプライベートの時間を割かれていて先輩方の口車に乗せられた気がしてならなかった。


部活動の帰りに小腹が空いた僕はファストフードチェーンストアに足を運んだ。

色々と候補はあったが、とりあえずハンバーガーやポテト、チキンナゲットにコーラなどの無難なモノを買えば間違いはないだろう。

スマートフォンで店の公式サイトを開き、メニューを見て、僕は肉よりも魚の方が好きだったのでメインはフィッシュ系にした。

注文したメニューを載せたトレーを持ち、会計場所から右側にある階段を登って二階に向かう。

二階に着くと、僕は辺りを見渡して空いている窓際席に座った。

ガラス張りの窓から外を見下ろすと風でわさわさと揺れる木々がある。


一面の曇り空ではあるが、中で見ているよりも暑いのかもしれない。

コーラはとっくに飲み干して、溶け始めた氷に口を付けながらぼんやりしていると、僕の運命は現れた。

真っ直ぐに切りそろえられた前髪、その横に胸元まで流れ落ちるような桃髪の中に守られている陶器の人形のような顔立ち。

ファンタジックな世界を思わせる西洋更紗柄の帯と薄桃色の生地に黒く描かれた西洋更紗柄の着物は、十九世紀のイギリスの詩人、ウィリアム・モリスの影響を強く感じさせるデザインだ。

帯留を初めとする小物類もアール・デコテイストで揃えられており、日本的な和の伝統を抑えた、淑やかなドレスのような装いである。

八重花さんは僕の真横の席に腰掛けた。


彼女は少々もたつきながらストローを刺すと、小さな赤い唇をつけて控えめかつ音も小さく、白い液体を啜る。

華奢な喉がこくんこくんと上下する度に、僕は不思議な気持ちになった。

彼女の肌はその冷たいバニラがそのまま形造っているかのように白い。

バニラシェイクが喉を通り抜ける一瞬だけ彼女の人形のような無表情が緩み、強気そうな切れ長の瞳がうっとりと伏せられた。

八重花さんの耳元で夾竹桃の花が揺れる。

彼女は僕の見ている前で、ストローから口を離すと形の良い唇をそっと開き、柔らかく甘い声を零す。

「あの、そんなに見つめられると、照れちゃいます……どうかしましたか?」


真っ白い頬に、ぱっと朱が差して可愛らしい。

「あ、えー、あー、あー!えっと!そのピアス。夾竹桃なんですね!」

「……わかるの?」

間の抜けた様子で、八重花さんが目を丸くして、僕を改めて見つめた。

「じ、ジロジロ見てしまってすみません!僕、実は園芸部で……」

僕は狼狽えて忙しない調子であーとか、えーとか、言葉にならない声をあげる。

八重花さんはしばらく考え込むように目を伏せて、それから柔らかく魅惑的に笑う。

その笑顔を見た瞬間、頭の隅からコトンと音がして鍵が外れるような感じがした。

胸がドキンとして一気に頭がのぼせ上がる。

きっと、八重花さんはそうやって数々の男を虜にしてきたのだろう。


僕は吐き出すこともしないまま、口内に溜まった唾液を自分の意思でごくりと飲み干す、喉を通った唾液は僕の思考を舐め溶かすように熱くて、甘く蠢いている。

そして、僕は八重花さんに言われるがまま、ラブホテルまで着いていき、彼女を抱いた。

陶器のような手、白い指に映える深い紅色の爪でじゃれつくみたいにかりかりと腕を引っ掻かれて、甘ったるい多幸感で包まれる。

じわりと汗をかく背中に少しの不快感を感じながらも、僕は目の前の夜闇のように虚ろで、星のように穏やかな瞳を見つめた。

今以上に幼かった僕はひたすら飾り気の無い気持ちで綺麗な色だな、とその瞳を賞賛する事しか出来なかったが、今なら分かる。

彼女の瞳の、世界に二つとない美しさが。


八重花さんとの出会いの記憶に胸を刺され、またぶわりと涙が膨らんだ。

めそめそと涙を流す僕の頭を、まるで宝物を愛でるように繊細な手つきで撫でる。

「祥汰(しょうた)くん、幸せになってね」

八重花さんは最後の餞別とばかりに初めて僕の名前を呼び、それから部屋を出た。

扉が閉まって、オートロックが掛かる。

きっと、破滅こそが、僕の初恋だった。

次の日の午後に、自分の部屋でお気に入りのソシャゲをプレイしながらごろごろしていると、玄関のチャイムが鳴り響く。

部屋を出て廊下を渡り、玄関の扉の鍵が外すと、パーカーのフードを目深に被った全身が真っ黒い服装の男が現れた。


刹那。腹部に強く殴られたような鈍痛、肉を割るように突き刺さる包丁、赤く濡れる衣服に視界が震えてしまう。

僕は全身に広がる激痛に膝から崩れ落ち、息も絶え絶えに、パーカーから覗く男の顔を見上げる。

その瞬間、八重花さんが僕を選んだ理由が、分かった。

彼の瞳は薄暗く、恋というには深すぎて、愛というには汚れ過ぎた感情に塗れていた。

まるで、悪夢を見続けているような眼差し。

「くっ、ははっ……なあ、お前は悪くないんだ。でも、人の物に手を出したお前が悪いんだよ。運が悪かったなぁ……」

男は蹲る僕の髪を掴み、無理矢理目を合わせると顔面をサンドバッグのように何度も殴りつけ、更に踏みつけた。

憎悪に満ちた暴力を振るわれて僕の鼻は折れ、ゴポゴポと血のあぶくが止まらない。

男は何かを嘲るように、嫌悪するかのように笑う。

「ははははっ、はぁ、はは、大体俺は、二人も……」

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