[2-19]闇に怯える夜に
ルエル村で兄と暮らしていた頃、夜は退屈な時間だったが嫌いではなかった。夕食を終え湯浴みを済ませたら早めにベッドへ入り、夜光石の淡い明かりの中で睡魔を待つ。
幼い頃は兄と一緒のベッドで、兄が語り聞かせる物語を子守唄がわりに。身も心も成長したあとは一人で、窓辺にたゆたう
変わり映えなく続いていた、それでも穏やかで幸せな夜の時間は、
殺された二人は兄の幼馴染で、ミスティアにとっても兄のような存在だった。精霊魔法と商才は優秀なのに森歩きが苦手な兄の代わりに、いつも狩りへ同伴してくれた。
ルエル村からシャラール国――ガフティ隊長の所属国へ移住して、新たな家の慣れぬ寝具で眠った夜。ミスティアは夜中ひどい悪夢に苛まれた。何度も目を覚まし、薄明かりの中でその度、自分の生と新たな場所での現実を再確認する。
『なけ』
『なくな』
ざわざわと、闇精霊たちがざわめく。さっきまで見ていた悪夢が現実に取って代わり、迫ってくる錯覚を覚えた。翼と腕で身を守るように自分の体を抱きしめながらも、心のどこかでこれは罰なのだと思った。
小さな闇精霊たちの群れは悪夢を引き連れ、ミスティアに
上掛けと毛布の下に潜り込み、固く目を瞑って朝まで息を殺し続けた。
兄には、言えなかった。兄から親友たちを奪った自分が断罪から逃げようとするなんて、身勝手だと思ったからだ。償う方法を考えて悩み抜き、ガフティに相談して砦入りを決意した。ちょうど彼も親友の遺志を継いで革命軍へ加わるつもりだったと、聞いたので。
砦に来て、フェリアと出会った。ミスティアより過酷な境遇にありながら優しい笑顔とあふれる好意を向けてくれた、愛らしい歳下の
同じく夜の悪夢に怯えていると知り、寄り添って夜を過ごそうと思った。そうやって二人で眠るようになれば不思議と闇は遠ざかり、悪夢に苛まれることもなくなった。
守られ生かされたこの命は、新たな家族を守り、幼馴染の仇を討つことに使い尽くすのだ。そうすればきっと償える。いつか再び産まれくる彼らを迎えるときに世界が平和であるよう戦うことこそ、
ずっと気を張ってここまで来たのに、うっかり流されて妹を一人にしてしまった。フェリアは今ひとりで闇の中震えているかもしれないのに、自分はヴェルクと同じ空間にいられることに浮ついて、胸を高鳴らせている。
そう自覚した途端、一気に恐怖と罪悪感が襲ってきた。
『なけ、なけ』
『なくな』
耳に馴染んだ声が聞こえ、心臓が縮みあがる。
そうっと上掛けから顔を覗かせ、息を呑む。ベッドサイドの棚、ベッドの足元辺り、枕元にまで、闇の群れがひしめいていた。悪夢の予感に震えた胸が涙を押し上げ、ただでも見えない薄明かりの視界がぼわりとにじんで不明瞭になる。
そもそも、
ヴェルクの心配を解消し、フェリアの祈りを後押しするために、無理やり着いてきたのではなかったか?
それなのに、自分がここで
(ぼく、最低だ――……)
自覚した途端、胸が苦しくなる。
声をあげて泣きたい衝動を
「大丈夫か」
すぐ側で聞こえた低い声に、羽毛で覆われた耳が震えた。弾みで、堪えていた嗚咽がほんのわずか漏れ出してしまう。
息を呑む気配がして、布越しに何かが触れミスティアの肩を揺り動かした。慕い求めていたぬくもりに心が
「……ヴェルクっ、……
もはや絡まっていると言ってもいい状態の上掛けから何とか抜け出し、ミスティアはベッドサイドに立つ熊のような影を見あげた。逆光のためほとんど顔は見えないけれど、彼が気遣わしげな表情で自分を見ていることは容易に想像がつく。ヴェルクに下位精霊は見えないらしいが、彼なら理解できないことでも笑い飛ばしたりはしないはずだから。
はたして、戸惑うような一瞬の沈黙を挟んでから、ヴェルクが姿勢を屈めた。遠すぎて見えなかった顔が至近に迫り、夜光石の明かりを照り返して紫の目がきらめく。
すぐ側で見た彼は想像の通り、少し困惑したような、それでも気遣わしげな、いつもの気難しい表情だった。
「シェード? 怖いのか?」
「……ん、っ、
「そうか。おまえも、悪夢がちなのか」
おまえも、という言葉に含んだのはフェリアのことなのだろうか。それともヴェルク自身のことだろうか。どちらにしても、彼はミスティアの訴えを否定しなかった。
安堵と不安のない混ぜになった涙がぽろぽろとこぼれ落ち、彼の顔が再びぼやけてゆく。手で拭おうとしたところでヴェルクの手が伸び、大きく無骨な指がミスティアの頬を軽く撫でた。
「悪かったな、レイシェルのせいでフェリアと一緒に寝れなくなって。俺は精霊のことはさっぱりだから、役に立てねえし」
「そんな、……こと、――ふぇっ!?」
相槌だけの言葉は最後まで言えなかった。太い腕が身体を掬い上げ、閉じ込めるように抱きしめられる。厚い胸板と柔らかな体温が頬に触れ、肩を掴む力強いてのひらを感じた。
ミスティアを軽々と抱えたヴェルクが、彼女を自分の太腿に乗せるようにしてベッドに腰掛けたのだ。
「何か……できることがあるなら、してやるんだが。領主は精霊使いらしいし、起こして呼んできてやろうか」
確かに領主様なら、闇精霊たちを追いやってくれるのかもしれない。眠りを導くお茶か薬を持っているかもしれないし、いい対処法を教えてくれるかもしれない。――そう頭で考えつつも、ミスティアの意識はいま自分を包んでいる感覚に全集中していた。
昼と違って彼が着ているのは薄手のシャツであり、布の下に隠された弾力ある身体も、腕の筋肉に込められた力の加減も、そのままじかに伝わってくるのだ。
風呂に使われていた香料が彼の体臭と混じって、ほの甘く匂う。束ねられていない髪が落ち掛かってミスティアの頬と翼耳をくすぐる。肉体面は細く頼りない兄と全く違う
「……大丈夫、だけど、もう少し、こうしててほしいの」
「わかった」
何も聞かず、責めたりもしない。気の利いた言葉より雄弁な沈黙と、全身に
ルエル村で狐の牙から逃れた時も、森の奥で墓標を見つけた時も、彼は多くは語らなかったけれどその体温を分け与えてくれたと思い出す。気づけば心の中で誰よりも安心できる存在、頼りたい相手になっていたことを、改めて自覚する。
いまだ涙はあふれ続けていたが、心に根を張り思考を絡め取っていた恐怖心が少しずつ薄れてゆく。広く深い胸に抱かれ、ミスティアは彼の鼓動を数えながら、しばしの間身をゆだねたのだった。
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