[2-17]闇に沈む想いと記憶


 腕の中でひどく震えていた身体が少しずつ落ち着いてゆく。激しい嗚咽おえつも徐々に治まり、穏やかなすすり泣きに変化する。

 これまでずっと幼い少女だと思っていただけに、シャイル自身の動揺も大きかった。年齢退行は自らの意思でできるものではない。恐怖や絶望は外部から与えられるものであり、自責を持つ理由はないのだ。それでも彼女は弟を想って無力な自分を責め、悪夢と化した罪悪感にずっと囚われていたのだろう。

 過去を悔い恐怖と戦いながらも砦に留りつづけた勇気ある女性を、知らなかったとは言え子供扱いしていたのではないか。自分の接し方によって彼女を傷つけていなかったか。内側に広がる不安を、しかし表情に出すわけにはいかない。


「……落ち着いた?」


 声が震えないよう、低く囁く。腕の中で少女が頷いたのを知る。

 咄嗟とっさに抱きしめたのは、泣いている彼女を慰めたかったから――だけではない。衝撃と動揺のあまり自分がどんな表情をしているかわからなくなり、フェリアに見せまいとしたゆえの行動だった。

 ルエル村で対峙した時、自分はあの少年を見てフェリアを思い出したのではなかったか。彼は自分がカミルの鳥だと言っていた。その真意を、シェルシャとカミルの関係性を確かめなかったことが悔やまれる。あのとき彼がシャイルの手を振り払ったことには、理由があるはずなのに。

 それでも腕の中に温かな体温を感じていれば、シャイル自身の心もおのずと定まってゆく。


 彼女の成長を待ちつつ、寄り添うと決めたのだった。兄が彼女の故郷を蹂躙じゅうりんし、ミスティアの故郷をも焼き尽くそうとしたのは疑いようもない事実。加えて、山間の湖で滅ぼされた鱗族シェルクの集落のことも記憶に新しい。

 他種族を虐げる魔族ジェマの国家を野放しにはできないとシャイルは考えている。それが兄と敵対する道であったとしても、正すべきという決意は変わらないのだ。


「ええ、……ありがとう、シャイル」


 涙に湿ってはいるが、フェリアの声はもう震えていなかった。気怠げな甘さを含んで聞こえるのは彼女が眠気を覚えているからだろうか。

 翼族ザナリールは夜に弱く、遅い時間に起きていることができない。強く抱いていた腕を緩めれば、少女は身じろぎした。柔らかな両翼をふるりと震わせ、深く吐息を漏らす。


「眠れそう?」

「ん、……安心したら、すごく眠くなってしまって……」

「一人で眠れる?」


 ごく自然にそう尋ねたものの、フェリアから返ってきた沈黙にシャイルは内心で焦る。

 朝までずっとこのまま、というわけにはいかないが、この状況で彼女を一人にできるはずもない。答えにくい問いをしてしまった――と思ったところで、少女が顔を上げた。


「シャイル、わたし、小鳥になるから……ここで眠ってくれないかしら」


 泣き腫らした目元にはまだ赤みが残るが、さっきまでの悲愴な表情は消えていたのでシャイルは安堵する。と同時に、彼女の頼みを理解すれば、胸がざわめきだす。


「小鳥の姿では落ち着かないよね。僕が蝙蝠こうもりになって、部屋の隅で寝るよ。フェリアはちゃんとベッドで寝て?」

「……あの、あのね。わたし、シャイルのぬくもりを感じていると、安心できるの」


 辿々たどたどしく告げられた言葉が心臓を震わせた。今までずっと、フェリアは心が幼くシャイルのことを異性としては意識していない、と思っていた。けれど、年齢退行の事実を知れば勘違いであったとわかる。彼女はずっとシャイルをとして意識していた、ということではないか。

 その上で、この申し出は――と、つい荒ぶりそうになる心を努めて抑え、できるだけ冷静に聞こえるよう声を低めてシャイルは問い返す。


「もし、フェリアが怖くないなら……だけど、僕でよければ、添い寝、しましょうか」


 動揺のあまりおかしな敬語が混じった。フェリアの目元に朱が差し、恥ずかしげに目を逸らされる。夜光石の淡い明かりに浮かびあがるおもては白く見えるが、さっきまで縮こまっていた翼がぶわりと広がっており緊張しているのがわかる。


「シャイルは怖くないわ。……添い寝、よろしくお願い、します」

「では、謹んで」


 ぎこちないやり取りをしながら腕を解けば、少女はいそいそと端へ寄って場所を空けてくれた。毛布と上掛けをめくって隣へ上がれば、ほんのり残る温度と匂いに目眩を覚える。息を抑え、背を向けて横になると、背に触れるのは柔らかな翼の感触だ。

 一人用の寝具ではあるが、領主宅の物だけあって二人で入っても余りあるほど大きい。背中越しに互いの体温を交わしながら毛布の中に収まってしまえば、たかぶっていた心も徐々にいでくる。興奮して眠れないのではないかと思っていたのに、文字通りの甘い香りとぬくもりに包まれていると、微睡まどろみが全身を心地よく侵食してゆく。


「シャイル、あの。今日はすごく、楽しかったわ。ありがとう」

「こちらこそ。僕も、すごく楽しかったよ。また……今度は二人きりで、街を散策したり食事したり、したいな」


 背中合わせの安心感に心をゆだね、思うままを言葉にする。少女の翼がふわりと膨らむのを感じ、形容しがたい幸福感が胸に満ちてゆくのを自覚した。

 思った以上に大きくなっていた恋心は、たとえ誰かに身の程知らずと言われようと手放すつもりはない。


「ええ、一緒に……お出掛け、しましょうね」


 眠そうにとろけた返答を聞き届け、シャイルの意識は温かな闇へと沈んでいった。



 † † †



 ――夢を、みた。

 翼の少女が経験した過去を聞き、兄の所業を伝えられて、心の奥深くに眠っていた記憶が刺激されたのだろうか。


『カミルは、しないの?』


 魔法職を目指す近所のお兄さんやお姉さんは、分厚い本を開いて魔法語ルーンの詠唱文を覚えようとしていた。しかしシャイルは、双子の兄がその仕方で魔法を行使する姿は見たことがない。

 肩ほどまでで切り揃えた白髪はくはつを揺らし、彼は首を傾げた。同じ歳なのに大人びて見えるのは、彼がシャイルと違い大人しい子供で、余り感情を荒立てることがないからかもしれない。


『僕が詠唱で指示するまえに、精霊たちが勝手にやっちゃうんだ』


 困ったようにはにかみ笑いながら淡々と語る、兄。当時は魔法に関する知識がほとんどなく、天才型や理論型というタイプの違いについても知らなかったが、幼心にすごいと思ったものだった。

 今になって思えば、学齢前の幼子が着火や治癒ちゆを使いこなし様々な精霊たちと親しく交流していたのだから、驚くべきことだった――はずだが。


『気味が悪い。どうしてあの子は人間族フェルヴァーのくせに、魔法なんて』

『この子のように、剣を学んでくれれば良かったのに』


 どうしてだろう。ちらつく記憶の断片は、決して幸福を感じさせるものではなく。兄は、自分は、奇異なものを見るような大人たちの視線に何と答えたのだっただろうか。

 目を凝らし耳を澄ませても肝心なことは思いだせず、じわじわとい寄る闇に想い出の残像も塗り潰されてゆく。どこまでが真実で、どこまでが妄想なのかもわからない。けれど。


『ぼく、カミルといっしょにいたい』


 あの日、あの時。幼い自分は心からそう願っていたはずだ。だから――選んだはずだ。


『ぼくを、たべて?』


 それに対する兄の返答も、両親がどうしたかも、やはり思いだすことはできない。もやもやとした不安さえも生ぬるい闇に溶けてゆき、シャイルの意識は再び深い眠りの淵へと引き込まれていった。


 



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