Mission2〈アセーナ湾海賊討伐作戦〉

[2-1]医師の依頼と少女の願い


 温暖湿潤なダグラ森にはよく雨が降る。昨夜から続くれい雨によって石造りの室内はしっとりとした空気に満たされ、心なしか砦全体が悄然しょうぜんとしているようにも思える。

 翼族ザナリールは湿気に弱く雨が苦手なので、いつも元気なザナ女子たちも今日は厨房に引きこもっているようだ。ヴェルクも昨日はずっと思い詰めたように無口で、今朝はまだ食堂に姿を見せていない。彼が悩んでいる原因に心当たりがあるシャイルは、何と声を掛けたものか決めかねている。


 砦の偵察隊によって保護された鱗族シェルクの若者は、リーファスの懸命な治療もむなしく息を引き取った。今際のきわに「ノーザンの白き王によって故郷の集落が全滅した」と言い残して。

 小雨と霧が立ち込める中で何とか火葬を行ない、砦近くの共同墓地に埋葬したのが今朝早く。全滅した集落は山間の湖底にあったというが、ノーザン国内なので確かめに行くのは難しい。ルエル村のように助けになりたくとも、望みの薄い現場へ誰かを派遣できるほどには人員も戦力もないのが現状だった。


「ヴェルクは、アセーナ湾の鱗族シェルクたちを心配しているんだよね」


 珍しく食堂でリーファスと遭遇したので、一緒のテーブルについた。朝から真っ赤なスープが出てきてびっくりしたが――火焔菜ビーツと鳥肉の煮込み料理だという――医師青年が動じていないので、シャイルも恐る恐る赤紫色のスープを口に運ぶ。存外甘い。

 温かい物で喉が潤ったので、詰まっていた声も溶けだした。わずかに逡巡しゅんじゅんするも、思い切って聞き返す。


「襲われたのは内陸の集落じゃなかったっけ?」

「ノーザン国内にある鱗族シェルクの集落、という意味では、ハスラ湖もアセーナ湾も同じだからね。港湾都市のノスフェーラを治めているのは穏健派の魔族ジェマだけど、王が鱗族シェルク狩りを奨励するようなことになれば、真っ先に狙われるよ」


 穏健派、つまり、人いを是としない魔族ジェマだろうか。人口三百人程度とはいえ、湖底の集落が壊滅させられるというのは大事件である。深い水底まで攻め入る手段を得たのか、もしくは村に裏切り者がいたのか、どちらにしても殲滅せんめつの手段があるという証明だからだ。


「陸上からの手が及ばない場所、外海とかに、移住することはできないのかな」

鱗族シェルクは水中に適応しているとはいえ、人族だからなぁ。文化的で楽しみが多い生活は陸の近くでないと難しいだろうね。鱗族シェルクにとって大海の深みは、俺たちにとっての樹海と同じだよ」

「そっか、……そうだよね」


 リーファスの指摘に改めて、生存できることと生活できることとは同じでない、と気づかされる。確かに地上のどこにでも空気と水はあるが、快適な生活にはもっとずっと多くのものが必要なのだ。

 シャイルも以前は都会に住んでいた。家を追われてからが慌ただしすぎて、砦の生活を不便だと思う余裕もなかったが、ここに集った者たちは街での快適な生活を捨ててまで、戦いに身を置いているのだと実感する。


「詳しい話を聞ければ良かったけど、俺がた時にはほとんど意識がなかったから、無理だったんだよ。まぁ、今はガフティもいるし、ヴェルクが少しくらい砦を留守にしても回ると思うけどね」


 赤紫色の汁を最後の一滴まで飲み干してから、リーファスはそう言って微笑んだ。薄水色アクアブルー双眸そうぼうが何かの期待を映しているのに気づき、シャイルは医師青年の顔を見返す。いま彼は、ヴェルクが出掛ける前提で話していなかったか。


「ヴェルクが、アセーナ湾に行きたがっているの?」

「うん。本人は、絶対に言わないけど。シャイルはアセーナ湾か漁港、もしくは港湾都市ノスフェーラに行ったことはあるのかな?」

「ノスフェーラなら、エレーオル国に住んでいた時に仕事で立ち寄ったけど……。育った施設で貰った身分証は襲撃で焼けちゃったから、国境の検問を抜けられるかわからないよ」


 魔族ジェマ国家であり人いが横行しているノーザンと、人間族フェルヴァーの国家で人魔族ジェマを強く警戒しているエレーオルは、地上海上どちらも国境を接しており、当然ながら外交上の緊張関係にある。

 アセーナ湾の星方側はノーザンの領土だが、月方側の一部はエレーオル国の領土だ。ノーザン国が主要港をようする港湾都市ノスフェーラの領主に穏健派の魔族ジェマを任じているのも、隣国との交渉事を任せるためなのだろう。

 以前仕事のため訪れた時には、エレーオル国民としての身分証を提示し滞在を許可してもらったのだが、今のシャイルは身分証どころか私物の一切を失っている。身元が保証されない魔族ジェマは、不審者として拘束される可能性が大きい。

 だが、リーファスはシャイルの答えに満足したようだった。にこにこと笑顔で席を立ち、シャイルの隣に来て顔を寄せる。そして、声をひそめるように耳元で囁いた。


「ノスフェーラの領主は革命軍うちの協力者でもあってね、何なら空間転移テレポートで不法侵入しちゃっても、ヴェルクさえ一緒なら大丈夫だよ」

「えっ、ああ、そういうことか」


 砦からアセーナ湾までは山岳地帯のふもとを大回りして行かねばならず、しかも経路はひたすらノーザン国内だ。馬や馬車では目立つし、徒歩では時間がかかり過ぎる。目立たず素早く入り込むにはやはり、空間転移テレポートが便利なのだ。ヴェルクが現地に人脈を持っているなら、同行者のシャイルが捕縛されることもないだろう。

 リーファスは頷き、双眸を細めて言い加えた。


「砦の留守はガフティと俺が預かるから、ヴェルクを港湾都市へ連れていってくれないかな。アセーナ湾に住む鱗族シェルクたちは、ヴェルクにとって家族も同然なんだよ」

「わかった。食事のあとヴェルクと話してみるよ」


 不謹慎ながら、彼の過去につながる話に興味を覚えたのもあり。しかしやはり一番の動機は、ヴェルクの役に立ちたいということだ。二つ返事で引き受けたシャイルは、深皿に残っていた赤紫色のスープを急いで喉の奥に流し込んだ。





 食堂を出て、二階にある事務室へ向かおうとしたところで呼び止められる。聞き違えようもない可憐な声は、朝から厨房にこもっていたはずのフェリアだ。急いで追ってきたのか、呼吸に合わせて肩と翼が大きく上下している。


「どうしたの、フェリア」

「あの、シャイル、さっきリーフと……アセーナ湾に行くお話をしていたでしょう?」

「そうだけど、まだ行くとは決まってないよ」


 少女はゆっくり息を整えてから、胸の前で両手をぎゅっと握り合わせ、珊瑚さんご色の唇を引き結んでシャイルを見あげた。空色の目が何かの決意を映し、きらめいている。だがその表情は浮ついたものではなく、むしろ悲愴ひそうすら感じさせるものだった。

 秋風のような不安がシャイルの心をざわつかせる。フェリアは何度か息を飲んでから、思い切るように強く、訴えた。


「わたしも連れていってほしいの。翼族ザナリールが街に行くのは良くないって、わかっているわ。だから、小鳥になって、シャイルのポケットでおとなしくしているから……おしゃべりもしないから、お願い!」

「ちょっと、待って。フェリア、まだ行くと決まったわけではないよ?」


 いつもにこにこふわふわしている彼女の、意外な一面だった。見るべきでないものを見てしまったような動揺に波立つ心を抑えつつ、シャイルがたしなめるつもりで答えるも、フェリアは引きさがらない。


「ええ、わかってるわ。今からヴェルクにお話にいくのでしょ? わたしも一緒に行くわ」

「それは……うん、僕が判断できることではないし、ヴェルクに直接話すのがいいとは思うけど」


 どうしたの、という意味を込めてシャイルは一歩踏みだし、彼女の両手を自分の手でそっと包み込む。フェリアは大きな空色の両目を一瞬潤ませ、瞬かせた。蒼天に似た透明感ある瞳に映る自分がはっきり見えるほどに、シャイルと彼女の距離は近い。

 少女が何を思い詰めているのかわからなくても、力になりたいと思う。シャイルにとってフェリアの存在は特別なものになりつつあったから。


「シャイル、あのね。わたし……に、祈りを捧げたくって」

「歌いびとの、聖域?」


 耳慣れない名称に思わず鸚鵡おうむ返しする。フェリアは頷き、目を伏せた。深く息を吸ってから、彼女はか細い声で続ける。


「魔法の歌を人に与えた鱗族シェルクの女王さまが、歌い手を志す者に加護を与えるため、祈りを込めた聖殿なの。わたし、ずっと、囚われた弟のために祈りたいと思っていて。お願い、シャイル。わたしも一緒に連れていってください」


 それはフェリアの口から初めて語られた、彼女の過去にまつわる話だった。胸をつかれ、次いで愛おしさがあふれて、シャイルは頷く。


「うん、わかった。フェリアも一緒に行けるよう、僕からもヴェルクに話してみるよ」

「本当! 嬉しいわ、ありがとうシャイル!」


 翼の少女が嬉しそうにはにかみ笑ったので、シャイルの胸にも温かな感情が広がる。

 しかしこの時のシャイルは、彼女の過去が自分自身の運命とどれだけ複雑に絡み合っているかを、十分には知らなかったのだ。




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