[0-4]人間たち


 思ったより深く寝入っていたのか、目が覚めた時に一瞬、自分の家と錯覚する。天井付近に吊られたカンテラは灯が入っておらず、室内はほんのり明るかった。見覚えの薄さに何度か瞬きを繰り返し、ようやく眠る前の記憶がよみがえる。

 自宅は暴徒の襲撃で荒らされ、火をつけられた。全焼していなかったとしても帰れない。持ち物も武器も何一つ持ちだせず着の身着のまま一文なしだ、と思い至れば憂鬱ゆううつになる。

 起きた不幸はどうしようもなく、考えたところで仕方ないと気分を切り替えた。恐る恐る身体を起こすと、嘘のように痛みが消えている。リーファスと名乗った医者の彼、思った以上に腕が良いのかもしれない。

 切り抜かれた窓の向こうに眠る前と変わらぬ薄曇りの空が広がっていた。当然裸足で寝かせられていたが、見ればベッドの下に室内履きサンダルが置いてある。ゆっくりとベッドから降り窓に近づいて外を眺めれば、森を切り開いてしつらえとりでの様子がよく見えた。


「目が覚めた? シャイル。気分はどう?」


 じっくり観察しようとしている所に声を掛けられる。優しげで愛らしい響きをシャイルの耳は覚えつつあった。振り返れば予想に違わず、翼族ザナリールの少女が両手に大きな編みかごを抱え、部屋の入り口に立っている。眠る前と服が変わっているように思ったが、さすがにその記憶が正確かまでは自信がなかった。


「今は嘘みたいに身体が軽くなって、痛みもないよ。少し寝ただけでこんなに良くなるなんて、リーファスのお茶はすごいな」


 心底感動して言ったのだが、フェリアは蒼穹そうきゅうの目を大きく見開いてから、肩をすくめてくすくすと笑い出す。弾みで籠の中から、小瓶がぶつかり合う音が響いた。


「シャイルってば。あなた、丸一日眠っていたのよ」

「えぇ? 道理で、食べたばかりなのに喉が渇いてると思った」

「お手洗いの場所を教えるから、顔を洗って歯を磨くといいわ。そのあと、朝ご飯をたべましょ」


 彼女が近づき籠を差し出す。中には、大判のタオルや着替えに洗面用具も一揃い入っていた。申し訳ないと思いつつも、感謝して受け取る。

 砦というので殺風景な施設を想像していたのだが、実際は居住もしやすいよう整備された塔といった風情だ。シャイルが寝かされていたのは仮眠用の一室らしく、同じ並びに医務室がある。部屋は無人だったので、リーファスも朝食に出ているのかもしれない。

 狭い階段を降りて案内されたのは、共用の手洗いと浴室だった。フェリアは中を覗き込んで確かめてから、振り返る。


「今は誰も使ってないみたい。身体も洗えるけど……お腹、すいてる?」

「え、もしかして僕、臭う?」

「違うの! シャイルが気にならないならいいの、今は使っても大丈夫よって言いたかったの!」


 すすと血に塗れ腐葉土ふようどの上を転げ回ったのだから臭って当然なのだが、フェリアは気を遣ったのか慌てて言い直した。その一生懸命さが可愛く思え、シャイルは微笑む。


「ありがとう。使っていいなら、遠慮なく借りるよ。でも、砦で水は貴重なのでは?」

「砦の裏に小川があるの。ヴェルクもいいって言ってたから、大丈夫よ」

「わかった。身支度が済んだら部屋に戻ればいい?」


 一度しか通っていないが、複雑な造りではなかったので大丈夫だろう。シャイルの問いにフェリアは少し考えたあと、こっくり頷いた。



 † † †



 手洗いで用を済ませてから、脱衣所で服を脱ぎ、巻かれていた包帯も外す。着せられていた服も借り物だったので、備え付けの籠に軽く畳んで入れた。

 殴られたあざは黒ずんでいたが、昨日の激しい痛みは引いていた。刺された傷が塞がっているのは治癒魔法によるものだろうか。一日でここまで回復するなど通常はあり得ない。

 浴室に溜められた湯を使って髪と身体を洗う。流れる湯が幾分いくぶん赤く色づいたので、髪の間に血液がこびりついていたようだ。襟足に合わせてやや長めに切り揃えた髪は深い赤色だから、見た目でそうとわかりにくいが。


 傷にさわらない程度に全身を洗って流し、タオルで水気を拭き取ってから、籠に入っていた着替えを身につけた。脱衣所には小型の鏡があり、写った自分の顔を見てどきりと心臓が戦慄わななく。

 薄くはなっているが殴打のあとは顔にもあった。額に裂傷の痕もあったので、刃物がかすったのかもしれない。目を潰されなかったのは幸運だった。色素が抜けたような灰色の目は感情を映しにくいらしく、赤い髪とも印象が不釣り合いで不気味だ、と以前に言われたことがある。


 穏やかに過ごしていた日常は、突然の襲撃によって呆気なく奪われた。

 シャイル自身は他種族の者たちとも仲良くやっていきたいと願っているが、世界は個人の願いなど容赦なく呑み尽くし加速してゆく戦乱の情勢だ。

 溜息を飲み込んで気鬱きうつを振り払い、洗い場を出ると、通路をこちらへ歩いてくる人間たちが見えた。ぎくりとして足を止めれば、向こうもシャイルに気づいたようでざわめきが上がる。ひりつくような焦燥と、悪い予感。


「てめえ、魔族ジェマの癖に、調子に乗りやがって」


 躊躇ためらっている間に取り囲まれ、詰め寄られる。恐怖がり上がって喉を塞ぎ、呼吸が上手くできない。壁に追い詰められ、ぐいと肩を押しつけられた。籠を奪い取られた瞬間、次に来るだろうりを予測して身がすくむ。――が。


「やめろ」


 低い声が響き、激昂げっこうしていた男が動きを止めた。暴れる動悸どうきとままならぬ呼吸に眩暈めまいを覚えつつも、何とか、男の肩越しへ視線を向ける。


「ヴェルク、おまえも何を考えてこんなやつ拾って来たんだ! 馬鹿なのか!?」

「うっせぇな。おまえたちこそ、ってない魔族ヤツに何する気だよ」

「こいつが人いかどうか、本人と『闇の王』以外はわからないだろうが!」

「わかるんだよ」


 心臓の音がうるさい。男たちの声には怒りと恐怖がにじんでいて、耳を抜け脳髄に突き刺さるようだった。肩を掴まれていなければ、膝が崩れて立っていられなかっただろう。水面を泡立てる嵐のような音の奔流ほんりゅうの中にあって、ヴェルクの声だけが重く低く穏やかで、遠い。

 男たちのかきを割り、浅黒くたくましい腕がシャイルの肩を支えた。明滅する視界が恐ろしくて、必死にすがりつく。


「そうだとしても! フェリアの家族は、吸血鬼ヴァンパイア魔族ジェマわれたんだぞ!」


 ――ああ、そうなのか。


 誰かの一声が場の空気を凍らせ、シャイルはぐらぐら揺れる意識で残酷な現実を受け止めた。彼女が時折り見せる、泣きそうな表情。あれは、家族を奪った者と同じ種族の男を世話しなければならない葛藤かっとう――だったのだろうか。

 チッ、とヴェルクが舌打ちし、シャイルを支え直した。間近でみる横顔は最初の印象通りよく整っており、うなじの後ろでくくった黒髪はつややかに褐色の首筋を覆っている。触れた肌を通して響く低い声が、怒気をはらんで場を打ち据えた。


「助けたいと望んだのは、フェリア本人だ。あいつの境遇を勝手に言い触らして、自分が抱える憎しみの理由づけに利用するんじゃねえ!」


 今度こそ全員が完全に沈黙した。行くぞと耳元にささやかれ、シャイルは頷く。

 うつむき黙り込む男たちに背を向けても、暴徒たちのように罵倒ばとうを投げつける者はいなかった。だからこそ、恐怖ではなく罪悪感で胸が潰れそうだった。




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