エイル

さつき

第1話





「ほら、これ、うちの猫を油絵で描いたやつ」

 乃木坂の美術館で今日知り合ったとは思えない程、卓と亜津子は話が弾んでいた。

「え! 上手じゃない。私が美大生だった頃より上手だよ。学校でも、成績いいんじゃない?」

「ありがと。まぁー、皆が必死こいて描いた絵より、俺が左手で描いた絵の方が魅力的だと思うよ。ふざけた話じゃなくて真剣にそう思う。俺、小学生の頃から都の展覧会で、都知事賞とか、とっていたしね」

 卓の絵がファイリングしてある群青色のファイルを、パラパラと白くか細い手で捲りながら卓が言った。 

「才能があって、羨ましい」

 亜津子はそう言うと食べかけのホットサンドを一口かじり、卓の持っていたファイルをのぞき込んだ。

「才能と努力の結晶なわけよ。俺の絵は」

「猫の絵ばかりね。この猫、左目と右目の色が違うの?」

「気付いてくれた? そうなんだよ、うちの猫はオッドアイと言って、左右で目の色が違うんだ。魅力的でしょ? 亜津子さん。エイルって名前なんだ」

 素敵ね、と言いながら大きな目で卓の顔をのぞき込むと、卓と目が合った。ドキドキと、香ばしい感情が胸を埋め尽くした。亜津子は卓の才能と、自信があり、ドンと構えているところに惹かれていた。まだ美術展で知り合って亜津子が声をかけてから、正味二時間半程度であるが。

「珍しそうだね。なんか、幸運を運んでくれそう、エイル君」

「ははは。ちなみにメスね」

 卓が腕時計で時間を確認してそろそろ出ようか、と申し訳なさそうに言った。

「まだ十四時前だからもっと話していたいな」

 勇気を出して本音を言うと卓も本音を話した。

「確かに亜津子さんとは共通点も多いし学校以外で美術の話ができる人ができて嬉しかったけど…。今日知り合ったばかりの人とたくさん一緒にいようとは思わないよ。また、今度ね」

 自分だけが好きなのだと気付き、またこんな短時間で好きになった自分が恥ずかしくなった。

「また、今度ね」

 ひねくれた返答をしたくなったが、卓が若干口角を上げて目をやや半月型にして笑っていたので、素直にまた今度ねと言った。―それにしても、綺麗な猫だったな、と亜津子は思い返した。白色の毛並みで、右目が青色で左目が茶色。自分も会ってみたいと、少なからず思った。

 二人は洒落た乃木坂の美術館の二軒先にある喫茶店から出て、地下鉄のA5出口で別れた。

 卓が家に帰ると、母である康子がクリームシチューを作っているところだった。

「ただいま。あれ、エイルが出迎えてくれないなぁ。どこに行ったんだ?」

「二階のお父さんの部屋で、寝ているんじゃないの。美術館どうだったの?」

 手を洗いに洗面所へ行こうとキッチンの横を通ると、クリームシチューの匂いと、甘い匂いがした。

「あぁ、別に。てきとうにご飯食べて帰ってきたけど。だからお腹は空いていないけど、いい匂いだなぁ。二階、見てこよー」

「お父さんが食べたいって言うから、アップルパイ焼いてるのよ。あと十分もしたらできるから、お父さんに伝えておいて」

「あい、了解」

 卓は疲れた足で階段を上り、父である徹の部屋をノックした。

「父さん、エイル、あと十分でご飯だってさ」

 中から低く太い声が聞こえてきた。

「分かった。エイルならここに居ないぞ」

「えぇ? 父さん、今日一日中家に居たんじゃなかったの? どこにいるのさ」

「庭の花の手入れしているとき、窓を開けていたから、そのときにどこか行ってしまったかもなぁ。言われてみればそのときから見ていない気がする」

「もう夜の七時前だよ。帰ってこれるかなぁ」

 エイルを心の底から心配している卓をよそに、徹は部屋から出てきて重い体で下へ降りて行った。

「母さんのアップルパイ久しぶりだなぁ。いい匂いだ」

 徹は普段は仕事が忙しいため帰りが遅く、土日だけが家族と食事を共にできる日な為、いつも夕食のこの時間を大切にしている。

 卓も二階から降りてきてリビングに家族が揃った。エイルを除いて。

「いただきます」

 徹が冷えた透明のグラスに瓶ビールを注ぎながら、卓に話しかけた。

「卒業後はどうするつもりなんだ? 卓」

 湯気がたっている個別に盛られたクリームシチューに四等分に切られたパンをそうっと浸しながら、卓は答えた。

「まだ一年だけど、ぼんやりと、在学中に弟子入りしたい画家を見つけて、弟子入りしつつ学校に通って、卒業と同時に独立して、フリーランスで自由にやっていきたいよ」

「尊敬できる画家を見つけるのは至難の業だぞ。そうだなぁ、学校のコンクールで賞をとるより難しいかもしれん」

 徹がつまみで出ているハニーマスタードチキンに箸をつける。徹の大好物だが、康子の好物でもあるのであまりたくさん食べる訳にもいかない。

「だからこそ、今日だって美術展に行ってきたんだけどね。ねぇ、エイルまだかな?」

 その時、リビングの窓の外から「にゃぁー」と猫の声がした。すぐに卓が窓を開け、エイルを抱きかかえ家の中に入れた。

「汚れて帰ってくるかと思いきや、どこも汚れてないみたいだなぁ。なぁ、エイル、もう出ていかないでくれよな」

 卓がそう言うと、エイルは後ろ脚で顔の周りをかいた。

「足、拭いてからいれなきゃ駄目よ」

 康子が立ち上がり洗面所にタオルを取りに行く。おぼつかない足で徹が康子を追いかけた。

「母さん、それくらい俺がやるから食べていていいよ」

 エイルを膝の上に乗せ、クリームシチューを眺めながら卓はぼんやりと今日初めて会った亜津子のことを考えた。連絡先は交換したが、別れてから何も連絡は来ていなかった。自分も、なんとなく送るのを躊躇った。


 日曜日、卓は遅い午前に起床した。もっと寝ていたいと思ったが、冷房をかけずに寝たので、暑くて起きてしまった。眠い目を擦り、いつものようにスマホでラインやメールのチェックをしてからゆっくりとベッドを出て、エイルを撫でようとリビングに行くと、エイルがいなかった。洗面所、風呂場、客室、どこを探してもエイルは見当たらなかった。両親は出かけているみたいで、頼りにできなかった。リビングには昨日の残りのアップルパイが置いてある。夏なのだから、冷蔵庫に入れていてほしかったと卓は思った。もしかしたら、自分が知らないだけで平日いつも散歩にでかけているのかもしれない。それで今日も外に出ているのかもしれない。そう、思うことにした。ぼさぼさの頭をかきながら、エイルに気をとられるのも程々に、絵の勉強をしなくてはいけないと、顔を洗ってデッサン室へ向かうことにした。

 午後六時、康子と徹が両手にスーパーやホームセンターの袋をぶら下げて帰ってきた。すると後ろから、エイルがくっついてきていた。

「なに、母さんと父さんと一緒にエイルも出かけていたの?」

「違う、違う。ちょうど門で一緒になったんだよ。エイルもお出かけをしていたみたいだな」

 徹が鼻を膨らませ上機嫌でそう言う。

「エイルってもしかして、俺が学校行っている間出かけているの? 俺てっきり、家の中で過ごしているのかと思っていたんだけど」

「そうそう、昼間から夕方にかけていつも外に出ているのよ。お母さんがいつも足を拭いているんだけど、不思議と足以外の身体は汚れていないのよね。どこに行っているんだろうね」

 康子が「よいしょ」と言いながらリビングのテーブルに購入してきた袋を置いた。それにつられるかのようにエイルも椅子を使いテーブルに上り、康子の腕にすりすりと寄ってきた。

「はいはい、今足拭いてあげるからねぇ」

「俺が拭くよ。エイルのこと今度尾行してみようかな。それが無理だったら、小型カメラを首輪に仕掛けて、どこに行っているか分かるようにする」

「やめなさいよー。エイルがどこでどう過ごそうか自由じゃないの」

 康子が濡れたタオルを卓に渡した。

「いいや、やると決めたらやる。小型カメラは最終手段で、まずは尾行しよう」

 そう言いながらエイルの手足を拭く卓は、穏やかな表情で

「明日、祝日だから明日やるよ。早起きしなくちゃな」

 と、飼って一年経つ愛猫に対して、自分なりの心配や不安を払拭すべく、行動を起こそうとしていた。


 月曜日、卓は朝六時に起きて、すぐにリビングへ行きエイルの確認をした。

 ゲージの中で静かに眠るエイルを見て、安心し、自分も着替えて朝食を食べることにした。

 康子が起きてきていないので、自分で食パンをトースターに入れ焼き、マーガリンとブルーベリージャムを塗って口に頬張って朝食を済ませた。

 七時に康子が起きてきた音でエイルも目を覚まし、康子があげた朝食のキャットフードを食べ終えると、もうひと眠りしてしまった。

 卓はエイルが起きて外へ出るときまで、鉛筆アートの本を読んで過ごすことにした。康子がテレビをつけているためあまり集中できないかもしれないと思ったが、気にせず読むことにした。

 一時間もすると読み終えてしまったのでテレビを見て過ごしていると、エイルが起きた。

 白く美しい毛を艶やかせながら、起きてからすぐに自分でリビングの窓を開けようとしている。

「起きてさっそくか。じゃあ、行ってくるから」

「見失っても気を落とさないようにね」

「うん、軽い気持ちで行ってくるよ」

 卓は口角を上げて康子に右手を挙げて黒い玄関の戸を閉めた。

 コンビニがある大通りに出ると、軽快な足取りでコンクリートを進んでいく。早歩きで追いかける卓。夏なのに飲み物を忘れたと気付き、コンビニへ寄りたかったがエイルを見失うといけないので我慢した。

 合計十五分程経った。エイルは脇道で歩みを止めた。

「神社…? 神社で猫の井戸端会議でもあるのか…」

 夏の暑い日差しの中、雲がドーナツみたいに輪になっていたり長細い形になっていたりした。大きかったり小さく見えたりする雲も、実際水や氷の塊だなんて、夢がない話だなぁと思いながら、卓はあとで素描しようと、スマホを取り出す。

 眩しくて目を細めながら一枚、写真を撮った。

「あいちゃんお待たせー。今日も待っていてくれたんだぁ、嬉しいなぁ」

 背が高く白髪の男性が、エイルに話しかけていた。それから長い腕で抱きかかえ、どこかに連れて行こうとしていた。

「すみません、ちょっと」

 咄嗟に卓は話しかけた。額から汗を垂らしながら。

「なんですか、君」

「なんですかって、その猫、うちの猫なんですけど」

 あちゃーと舌を出しながらエイルを撫で、少し考えてから

「じゃあ、俺の家こないかい? 坊や。その方が、話は早い」

 返事に困っていると、ここから歩いて五分程度だから、と言いエイルを卓に渡してきた。

 卓はエイルと関係があるこの男性に興味を持ち、ついていくことにした。

「あいちゃんって呼んでいたのですか?」

「そうそう。この子、女の子でしょ。愛くるしいから、あいちゃん。あ、俺の名前言っていなかったね。佐間義之って言います。こう見えて、六十六歳」

「僕は大渕卓っていいます。十九歳の大学生です。六十六歳には見えないですね」

「卓君ね。どんな大学に通っているの? 差支えなければ」

「美大に通っています。美大の、油絵学科です。それと、本当はうちの猫はエイルって名前です」

「美大? 偶然だね。俺画家をやっているんだ。どこの美大? エイルって名前なんだね。この綺麗な目にぴったりだね。あいちゃんなんかより洋風でいいね」

「東京国際美大です。画家されているんですか? いいなぁ」

 だんだん景色が家ばかりになっていき、やがて二人は佐間の家についた。

「東京国際美大かぁ。うちの娘も、そこを卒業しているんだ。娘も画家志望だったけど、諦めたみたいで、今はカフェで働いているよ。絵、上手なんだけどね」

 白い二階建ての横に広がった家の玄関を開けると、あがって、と言い卓とエイルを手招きした。

「お父さんお帰りなさい。あれ、お客さん?」

 玄関を上がり卓の視界に現れたのは亜津子だった。

「あれ? 亜津子さん・・・?」

「卓君! えぇ! びっくり。どうしてここに?」

 亜津子はマスカラが施された大きな目をぱちくりとしている。

 卓は用意されたスリッパを履いた。

「うちの猫、普段どこに出かけているんだろうと思って後をつけてみたら、佐間さんがやってきて、猫を抱っこしていて」

 そこまで卓が言うと、遮るように佐間が言った。

「あいちゃんの飼い主さんみたいよ。卓君は。って、君ら知り合いなの?」

「知り合いよ。この間、乃木坂の美術館で会った青年がいるって言ったでしょ、その子。あいちゃんの飼い主さんってことは、この子がエイルちゃんかぁ。珍しいオッドアイなのに、卓君に写真で見せてもらったときあいちゃんだって気付かなかったなぁ」

 亜津子が玄関からリビングへ入るよう促した。

 卓がリビングへ入ると、言葉を失うほど見事な水彩画と油絵が、飾ってあった。

 卓は「華」というタイトルの水彩画の近くに行った。

「この絵、佐間さんが描いたんですか?」

「うちに飾ってある絵は全部俺が描いた絵だよ。そうそう、俺の仕事部屋に連れて行くね」

 佐間はこっち、こっち、と卓を手で招き、二階の仕事部屋に連れて行った。

 木の扉に「義之の仕事部屋」と彫られた木が貼ってある。

 佐間が扉を開けると一メートルくらいの正方形の、描き途中である白猫の油絵が立てかけてあった。

「これ、エイルですか?」

 卓は自然と目から涙がこぼれていた。絵を見てこんなに感動したのはいつぶりだろうか。温かい感情が心から泉のように湧き出てくる。

「すみません、佐間さん。佐間義之さん。僕を、弟子にしてくれませんか」

 佐間は目を大きくさせ、驚いた様子だったがすぐに親指を立てて笑って見せた。

 時刻はもう十一時を回っていた。じりじりとした暑さ。べとっとした汗。

 半開きになっている扉から、エイルの泣き声が聞こえた。

「エイルのお陰ですね」

 卓は二階にやってきたエイルを抱きかかえると、くしゃくしゃと、思う存分撫でた。



                

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

エイル さつき @tsukisa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ