なお青し

玉露

01



「いつかつれてってやるよ」


そう言ったのはいつだったか。

交わした約束を、今も覚えているのは自分だけだろうか。




今朝も陽射しが強い。微睡まどろみから引き釣りあげようとする陽光から逃れるように、布団を被り、窓に背を向けた。

たんたん、と階段をのぼる足音が近付いてくる。そのリズムと同じに、ちりんちりんと鈴のもかすかに届いた。


「しょーくん、朝だよー」


毎度のこと、と遠慮なくドアを開けて入ったと思ったら、容赦なく被っていた布団を剥がされる。

さきほどまで肌に触れていた感触を追って、まぶたを持ち上げると既に制服装備済みの彼女がいた。


「……舞桜まお姉」


「朝だよ。おはよー」


笑顔で圧を受け、挨拶を返す。


「はよ……」


「じゃあ、起きよう」


起床の挨拶をしたからには起きろ、と促され、僕は多少の億劫おっくうさを感じながら身体を起こした。ベッドの隅に座り、舞桜はその様子を満足げに見届ける。彼女の笑顔は、朝から眩しい。その容赦なさは、夏の太陽に似ている。


「いい加減、勝手に入ってこないでよ」


「それは一人で起きれるようになってから言いなさい」


彼女からすればまだ子供かもしれないが、小五になったのだから一応プライバシーも気にする。不満を言えば、母親も見放した寝起きの悪さを指摘され、ぐうの音も出なかった。


「もうご飯できてるよ」


「着替えていくから、出てって」


「おー、いっちょ前なこと言ってー。生意気になったねー」


舞桜の前でさすがに堂々と着替えられない、と訴えると、マセたと舞桜に揶揄からかわれる。馬鹿にしたというより、弟の成長を喜ぶ姉の反応に似ていた。

可笑しそうにしながらも、彼女はドアの向こうに姿を消し、ドアが閉まると同時に彼女の鞄に付いた鈴がちりん、と一度鳴った。

着替えて、今日の授業に必要な教科書をランドセルに詰めて、一階の食卓へと下りる。すると、母親が舞桜に僕を起こした功績を褒めた。毎日のことなのに、舞桜はどや顔で褒められたことを喜び、僕の両親がそれを笑って食卓を囲む。

彼女と朝食をとることが日課だが、舞桜は僕の姉じゃない。いわゆる、お隣さんだ。僕が生まれる前から両親同士の仲が良く、舞桜の両親が共働きのため僕の家で食事をする機会が多いのだ。


「おばさん、これお母さんからです」


今月分の食費が入った封筒を舞桜は差し出す。


「あら、いつもいいって言ってるのに」


「いえ、おばさんにはお弁当まで甘えてしまってますから!」


しょうの食べる量に比べたら、舞桜ちゃんの分なんて可愛いものよ」


僕を比較対象にして笑う母親に、舞桜は封筒をしかと渡した。父親ももらっておきなさい、と言うので、母親は受け取ることにする。既に僕の両親と舞桜の両親で話し合いが済んだことだけど、人の好い母親はつい寛容になりすぎてしまう。それを父親と舞桜が止めるのが日常茶飯事だった。


「私が料理できるようになればいいんですけど……」


「舞桜姉、ヘタだもんね」


「ちょっと成長が遅いだけですーっ」


「でも、こないだの玉子焼き、僕の方がうまかった」


「こら、尚!」


反論する舞桜に先日あった一件を例にあげると、彼女は言い返せずへこみ、傷をえぐるなと母親に叱られた。

ちょうど数日前、作ってもらってばかりは悪い、と舞桜が僕の母親に料理の教授を頼んだ。しかし、教えてもらった通りに作ろうとしたが、舞桜は割とだいぶ焦がしてしまった。そして、味付けも指定されたより塩が多かったようで、しょっぱかった。

その一連を眺めていただけの僕が、試しに同様に作ってみたところ、多少焼き色は付いたものの、美味しいと言える玉子焼きが完成した。小学生男子に負けた、と舞桜はかなりショックだったらしい。

母親はサラダから頑張ろう、とフォローしていたが、舞桜がドレッシングを作ったら、父親の高血圧にさわらないか少し心配になった。父親の顔を見ると、同じことを心配していることがうかがえた。

先に食べていた父親が先に出勤し、次に支度を終えた僕と舞桜が一緒に玄関へと向かう。食器を洗いながら台所から母親がいってらっしゃいと声をかけるので、僕たちはそれにいってきます、と答えた。

僕が靴をいている間に、ローファーのかかとをとんと鳴らし、舞桜が玄関のドアと開けた。


「わっ、今日も暑ーい」


彼女の感想につられて顔を上げると、僕は外気の暑さより先に、舞桜の向こうに見える風景の眩しさに反応し、思わず眼を細めた。

舞桜の制服は夏服で白いシャツが透け、彼女の輪郭が曖昧あいまいになる。外の明るさで彼女のシルエットが濃くなり、目に焼き付くようだった。なのに、逆光で影っているはずの振り返る彼女の表情は眩く見えた。


「何?」


「何でもない」


黙って見上げた僕に、舞桜が小首を傾げる。けれど、僕に見えている景色を伝えられる気がしなかった。彼女は知らなくてもいいことだ。

玄関を出て、お互いの学校に向かう角までの五十メートル弱を並んで歩く。隣を見ると、彼女の歩調に合わせて、ちりんと鳴る鈴が眼に入った。近所の神社で売っている厄除けの鈴守りは、年季が入っていてひもの色がせている。

見上げないと彼女の顔が見れないあたりに、僕と彼女の差を感じた。


「雲一つないねー。真っ青ー」


僕の視線など気付かず、舞桜は快晴かいせいの空を見上げる。彼女の視線を追って空を見遣ると、視界に青一色が広がる。

ただ青いだけと気にもしていなかった空の青さが、彼女の言葉で深く心に沁み入った。

そんな何気ないやり取りをしているうちに、別れる角に着く。


「じゃあ、いってきます。しょーくんも遅刻しちゃダメだよっ」


「舞桜姉こそ、前見て。いってらっしゃい」


のんびり屋な自分を心配してくれるのはありがたいが、こちらを振り返りながら歩くのは危ない。軽く手を振って、彼女を見送った。

この二人で並んで歩くほんの少しの距離が、僕にとってかけがえのない時間だ。

きっと舞桜は知らない。




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