第3話 天使の歌声






 ロイは今後の作戦を考えていた。しかし良い案は浮かばず、結局溜め息が出るばかりだ。

 そこでロイはダリアに対してずっと気になっていたことを口にした。


「お前はさっき、自分が近寄ると皆が嫌な顔をすると言ったが……何故そこまで疎まれるのか分かるか?」


「それは、アタシが貧乏で……盗みばかりするからでしょ?」


「……まあ、それもある。だが決定的な事をお前は自覚していない」


 ロイはそう言い切ると、ダリアの足先から頭までを見据えた。ダリアはその“決定的な事”にピンときていない。彼女のその姿はロイの神経を逆撫し、苛つかせた。


「それはな、お前が汚くて臭いからだよ!」


「うそ! アタシってにおうの?!」


 ダリアは驚いた様子で、自分の腕を鼻に当てて臭いを嗅いだ。しかし自身の体臭に慣れているせいで、彼女はその悪臭に気付けなかった。

 ロイはまるで汚物を見るようにダリアを見下ろした。


「かなり臭うぞ。お前はドブに住んでるのか?」


「まさか。あっ、でも夜中に滑って落ちた事はあるよ」


 なるほど、そういうことか。

 ロイはダリアから放たれる下水のような臭いの原因を理解した。それにしても不潔だ。ロイはそう思い、彼女から一歩離れた。


「人間ってのは清潔感が一番大事なんだよ。特に上流階級はそれを重んじる。だからお前みたいなやつは人間扱いされないんだ」


「そ、そうなんだ」


 ダリアは感心したようにロイの言葉に耳を傾けた。

 ああ、まただ。ロイはそう思った。

 何故この俺が人間の小娘に、こんな当たり前の事を教えているんだ? またペースを崩されているじゃないか。

 ロイは憂鬱な気分になった。


「まずは身体を洗え。話にならん」


 ロイはきっぱりと言い切った。その言葉を聞いたダリアは、急に何かを思い出したかのように俯いた。


「そりゃ洗いたいけどさ……アタシはこの街の川は使えないんだ」


 彼女は言葉を詰まらせ、申し訳なさそうに言った。

 しかし、ダリアのような貧しい者でも川で身体を清めることは普通のことだ。もちろん中流階級や上流階級になれば浴室で清めるが、そうでない人間でも生活に見合った何かしらの方法がある。

 ロイは今まで何度も貧民が川で水浴びをしている姿を目にしてきていた。だからダリアが水浴びをできない理由が分からなかった。


「どういうことだ?」


「えっとその……アタシが川に入ると、川の近くに住んでる奴らが『川が汚れるからやめろ』って石を投げてくるんだよ。だからもう近付けないの」


 ダリアの予想外の発言に、ロイは眉間を寄せた。

 一体この女はどこまで虐げられているのか。ロイはその光景を思い浮かべて少し同情した。


「確かに川は多少汚れるだろうな。だがそんなものは雨が降れば同じだ。それに川はそいつらの所有物か?」


「いや、違うと思うけど……」


「なら気にすることはない」


 ロイが淡々と答えると、ダリアはぽかんと口を開けた。


「ロイって優しいんだね……」


 彼女の声は心なしか嬉しそうだった。

 この時、ロイの心の奥が何故かザワザワした。

 何だ、これは? 気持ちが悪い。死神の自分に「優しい」だなんて言葉は最大の侮辱のはず。それなのに、不思議とさっきの言葉には腹が立たなかった。おかしい。おそらく俺は相当疲れている。この状況なら無理もない。ロイはそう自分に言い聞かせた。

 

「……でもやっぱりできないよ。だってあそこは人目があるし」


 ダリアはそう言って再び俯いた。

 こんな身なりでも一応は年頃の娘だ。人前で水浴びをすることに少なからず羞恥があるのだとロイは察した。


「ならば、一時的にお前の姿を見えないようにしてやろう」


「えっ、そんなことできるの?」


「死神の力を舐めるなよ。ほら」


『わぁ! 何これ!』


 ロイの言葉を受けて、ダリアの身体が光を帯びた。


「今のお前は死神のように人間達からは見えない。その代わり、俺が人間の姿になってしまうが……少しの間なら我慢してやろう。だからお前はつべこべ言わずさっさと洗ってこい」


『すごい! ロイってこんなこともできるんだね』


 ダリアは明るい声でそう言うと、大通りの方へ踵を返して歩き出した。


「おい待て」


『え?』


 ロイは丸腰で川に向かおうとするダリアを引き留めた。だが彼女は、なぜ自分が引き留められたのか分かっていなかった。


「手ぶらで行く気か? 人間が体を清める道具があるだろ。ほら……確か、石鹸とか言ったか。それに替えの服も、体を拭くものも持っていけ」


『……?』


 ロイの言葉にダリアは困惑した様子で固まった。


「まさか……何も持っていないのか」


 ダリアはその言葉に静かに頷いた。それを見たロイは顔を引き攣らせて絶句した。


『あはは……でも大丈夫。それ全部その辺で盗ってくるから!』

 

 ダリアは少し考えた後にそう言った。しかし、その言葉を聞いたロイは更に顔を引き攣らせた。


「待て。盗みはするなって言っただろ。ああ、もう……くそっ、俺が買ってくるからお前は先に川へ行け」


『えっ、いいの?そんなことまで』


「いいからさっさと行け!」


 ロイはむしゃくしゃしてそう叫んだ。

 くそ、なんで俺がこんな目に! なんで、死神である自分が人間の小娘ために石鹸を買いに走らないといけないんだ……!

 ロイは心の内でそう嘆いた。

 しかしそれは仕方がなかった。なぜなら今は、ダリアが人から見えない姿で、自分が人間の姿をしている。今、買い物をするならダリアではなくロイがするしかないのだ。



 



「お客様、これ百年前の紙幣ですけど……」 

 

 古びた雑貨店の店主は、申し訳なさそうに言った。


「そうみたいだな。使えないのか」


 百年前、と聞いてロイは紙幣の入手経路を思い出した。これは確か、以前に命乞いをしてきた大富豪に押し付けられた物だ。


「収集家は喜んで買い取ると思いますが、当店ではちょっと……」


 店主が難色を示したので、ロイは舌打ちをしながら懐の中に無造作に仕舞われた宝石を取り出した。

 ルビーの指輪、ダイヤモンドの腕飾り、真珠のネックレス……どれも高価な物だが死神のロイにとってはガラクタだ。これも以前に人間から貢がれたものだった。


「とりあえずこれで買える石鹸と布と女物の服をくれ。あと、靴と櫛も」


「か、かしこまりました!」


 店主は宝石に目を輝かせ、ロイに言われた通りの品物を用意した。ロイはそれを受け取って店を出た。


 人型のロイはとにかく目立った。店から出ると、すれ違う人々がロイに熱い視線を送っていた。それは老若男女を問わないものだった。彼はその視線を煩わしいと思いながらも、早足で川辺に向かった。



「くそ、あいつどこだよ」


 ロイは片手に袋を抱えながら、周囲を見渡した。川と言っても広範囲すぎる。それに水浴びをしている者が他にもおり、ダリアを見つけるのは容易ではなかった。


 もっと下流か? 

 ロイはそう勘ぐって足を進めた。橋を渡り、川のほとりを早足で歩いた。


 その時だった。

 どこからか美しい歌声が聞こえ、ロイは思わず足を止めた。

 その声は、柔らかく軽やかで耳に馴染む。この国でよく歌われる平凡な歌であるのに、まるで初めて聴く歌のように聴き入ってしまう。

 心地いい声だ。

 ロイは今まで人間の声にそんな感情を抱いた事はなかった。これが初めてだった。


 一体どんな人間が歌っているんだ。

 ロイはダリアに石鹸を届けることなど心底どうでもよくなった。ロイの足は、自然と声の方向へ吸い寄せられていった。


 あの声は川の中から聴こえていた。それなのに、自分以外の人間は誰も反応していない。

 なぜだろうか。

 そう思った時、水浴びをする少女の後ろ姿が目に入った。声はその少女から発せらていた。

 ロイは息を呑んだ。

 そしてその瞬間、偶然にも少女は振り返ってこちらを見た。

 ロイは少女と目が合ってしまった。

 少女は水面に反射した太陽の光を浴びて輝いていた。水晶のような青い瞳に白い肌、水に濡れた髪は艶めかしい金色で、したたる水滴が少女をより神秘的に魅せていた。


『あ、ロイ!』


「は?」


 ロイは川の中の美しい声の少女が、ダリアだと理解するのに数秒要した。

 一方ダリアは、ロイの姿を見つけた途端、裸だった身体を隠すように屈んで水に浸かっていた。


「お前……そんな顔してたんだな」


 川の中から頭を出すダリアに、ロイはそう言った。

 ダリアは照れくさそうに頬を掻いた。


『へへ、意外と美人で驚いた?』


「調子に乗るな。ま、思ってたよりはマシってだけだ」

 

 にんまりと笑うダリアに、ロイはそう悪態をついた。しかし内心はかなり驚いていた。目の前の太陽のような美貌の少女が、あの悪臭漂う汚れた少女と同一人物とは思えなかった。

 そして何よりも、あの声だ。あの歌はダリアが歌っていたのだ。

 そのことはロイにとって、頭を打たれたぐらいの衝撃だった。あれは素人の歌ではない。一体どこで習ったのか。ロイはあの歌声に興味が湧いていた。


「ほら、石鹸だ。俺は向こうにいるから、終わったら来い」


 ロイはそう言って買った物を川辺に並べた。そこには新しい衣類と靴まで揃っており、ダリアは驚いて目を丸くしていた。


 


 ……勝算はある。

 ロイはそう確信し、歩き出した。

 幸福とは無縁の少女を、金持ちと結婚させて幸せにする。そんなことは無茶で不可能だと思っていた。だがそうではない。彼女は磨けば光る。それにあの声がある。不可能ではないのだ。

 ロイはそう思い、静かに微笑んだ。


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