第6話 元影武者、手紙を書くこと

***


 首筋を掠める夕の風は冷たかった。

 朝夕には冷え込むようになり、帝国から持ってきたニットを着てちょうどいいくらいだ。その反面、日中体を動かすとやや汗ばむような心地がする。季節の変わり目というのは、なかなか難しいものである。なにを着たら一日ちょうどよく過ごせるのか、まだしばらく手探り状態が続きそうであった。


 市場を通りがかると、ルカ先輩くらいあるだろうか、拳ひとつほど高い人間と並び立って歩くアリアナ嬢の姿があった。ふと背の高いほうが、見ていた私に気がついた。身長から一瞬男性かと思ったが、右肩にまとめて垂らされたその長い黒髪は艶やかで、面差しも優しくどう見ても女性であった。穏やかな草食動物のような、静かな黒い瞳をしていた。

 隣にいたアリアナ嬢の腕をつつくとになにか告げ、小さく私のほうを示しやった。こちらに気づき笑顔を見せると、手を振ってきたので頭を下げ返した。またなにか言い合うと背の高い女性とは離れ、にこやかにこちらへやってきた。

「めずらしー! この時間に会うの初めてじゃない? お休みの日なの?」

「いえ、外仕事の帰りなのです」

馬を貸しに行った帰りであった。時間も時間なので、終えたらそのまま上がっていいと先輩方には言われていた。

「お連れ様はよろしいのですか」

「? うん、たまたま行きあっておしゃべりしてただけだし」

あの子知ってる? ちょっと辛い屋台の娘さん、と言われ、お会いしたことはありませんがお店には幾度か、と頷いた。以前にもどこかで同じ言葉を述べた気がする。


「ごはんは? もう食べた? 仕事は上がり?」

「終えたところです。食事は先ほど出先でいただきました」

馬の貸し出し先で馳走になったのである。

 どうりでいつもギル先輩が行きたがり、そしてなかなか帰って来ないわけである。どうも馬の賃料が安いのを申し訳なく思うらしく、その帳尻合わせなのか、貸しに来た人間に皆あれこれと与えてくれるようだ。一食浮いて、ありがたい限りである(とはいえ小腹が空いたらまた食べるのだが)。

「アリアナさんは」

「基本夜シフトだから日中は休みよ」

夜の方がお給料いいしね、と嘯かれ、そういうものなのかと思う。知らぬことがまだまだたくさんあった。

「ね、暇ならちょっとお茶しない? 仕事までハンパに時間余って困ってんのよ。レオはうちどこなの?」

遊びに行きたいなー、と言われ、私は肩を竦めた。

「せっかくのお申し出ですが、男性寮なので女性はお招きできません」

「へ、寮なの? お屋敷ってすごいのね」

家賃浮いていいじゃない、と言われ曖昧に頷いた。

 そのぶん綺麗に食費に消えているのだ、寮生活でなければ赤字かもしれない。

 改めて支出を見直す必要があるが、とはいえ食費以外ではほとんど使っていないのだ。これ以上どうすればいいのか見当もつかなかった。


「確か、仕送りをなさっているのでしたか」

 お屋敷の野良仕事より確実に少ない給金である。そこからさらに仕送りだなんて、いったいどうやってやりくりをしているのだろうか。

「? うん、仕送りっていうか弟たちの学費ね。足しになればと思ってさ」

学校通わせてあげたいから、と当たり前のような顔をして笑った。

 アリアナ嬢の言う学校とは、おそらく教養学校のことであろう。大陸には教育機関がいくつも存在する。軍事学校や医療学校など種類があるのだが、教養学校はそれよりもっと基礎的なことを学ぶ、いわば前段階のような場所だと聞いていた。

 主に軍家や商家、その他一般の子供向けに、最低限の学問を身に着けさせる場所である(入学は別に必須ではなく、貴族の子は宮廷学校に通うか屋敷へ教師を招く。イリーディア様はそれすら例外で、教師とは手紙でやり取りをおこなっていらした)。

『通えば文字の読み書きや算術が学べるので、職業選択の幅も広がる』

との触れ込みで、身分制の廃止以降は特に、この教養学校に通わせようと躍起になる庶民が増えたという話である。

 とはいえ通わぬまま成人を迎える者の方が多いし、私のように通わず身近な誰かに習って終わりという者もいる。また、家業の手伝いやら金がないやらで卒業まで通えず、中途退学を余儀なくされる場合もある。まだまだ発展途上中なのであった。


「ご実家は遠いのですか」

 以前ジャン氏が「所帯を持ってから寮のありがたみがわかった」などと言っていたのを思い出したのである。家賃の負担は大きい。家から通うことができれば支出も減るだろう。

「3駅くらい向こうなの。田舎の3駅ってめちゃくちゃ遠いのよ。

 実家は雇われだから向こうにいても稼げないし、国内で栄えてるのは王都かこの辺くらいでしょ? 肉体労働以外をしようと思ったら出てくるしかないのよね」

まぁ想像以上に花屋も重労働だったんだけどさ、と肩を落とした。

 3人も弟がいるとなると、結構な額を工面しているのではないだろうか。

「いいお姉さんなのですね」

へ? と目を丸くしたのち、困ったように笑って頭を掻いた。

「……どうかなぁ。せっかく学校出してもらったのに、たいした稼ぎもないしね」

「ですが兄弟想いです。私には身内がいないのでわかりませんが、そうして案じてくれる人がいるのは、心強いことではないでしょうか」

ちょっと、褒めてもなんも出ないわよ? と、一発肩を叩かれた。


 んー……と、アリアナ嬢は数瞬なにやら思案した。

「うち来る?」

「お邪魔していいものですか」

女性の家だが、と思ったが、

「いいわよ別に。そんな感じしないもんね」

なんか弟といるみたい、と言われ、困りつつも素直に頷いた。

 私だけかと思っていたが、アリアナ嬢もそうであったらしい。イリーディア様に代わり令嬢方と関わっていた頃は、会話ひとつとってもそれは神経を使っていたものだが、いまはどこか緊張感の抜けた心地がする。

 多少おかしなヘマをしでかしたとしても、笑ってくれるのだろうなという謎の確信があった。アリアナ嬢の言う通りなら、兄弟とはこういう感覚なのだろう。

「外だとお金かかるじゃない。家なら安上がりだし、たくさん話せるでしょ」

友達としたことない? と問われ、私は首を傾げた。


 先日、あの盗聴器のつけられた晩は、先輩方が私の部屋に泊まって行った。

 あのあと合流したギル先輩はそもそも盗聴器を知らず、説明してやると酔いも醒めたのか「げぇ!? なんだそれ気持ちわる……っ」と、ひどく気味悪がったのだ。

 明るさの権化である先輩にとって、盗み聞きをされるのは不気味極まりなかったらしい。「……無理。ほんと無理。朝まで駄弁ろうぜ、爆笑の渦は約束するから……!」とゴネて、自室に引き上げようとしていたルカ先輩を引きずって私の部屋へと転がり込んできたのである。

 お屋敷のことを含め、あれこれ話を聞くことが出来たのでそれなりに収穫もあったが、あまり歓迎された事態ではなかった。いまのところ、あの盗聴器が今の主人と前の主人のどちらを狙ったものかの判断もついていない。

 ルカ先輩から聞いた話を繋ぎ合わせると、少し西の方へ行ったところに1等家の貴族屋敷があり、旦那様はどうもそちらと因縁があるようである。3等家にされたのも、どうやらそちらにハメられたのではないかとの話であった(先輩には、自分が入る前のことで不確かなので話半分に聞けと言われた)。


 一度休暇をいただいて改めて相手方の領地の様子を見てきたいところだが、ギル先輩の代わりに私が外回りに行くことが多くなり(敷地外に出た途端、先輩の挙動が明らかにおかしくなってしまい、馬の貸し出し業務をお願いできなくなった)、すっかり抜けづらくなってしまったのだ。

 リック氏には「こっちで処理するから、お前らはいつも通り過ごせ」と言い付けられているが、なかなか普段通りにもできていない現状である。

 取り急ぎ帝国の旦那様へも報告したが、あちらに関係のない事柄かだけでも早急に突き止め、改めて報告し直したいところだ。


 あ、と声を上げこちらを見た。

「言っとくけど、うちには食べるものはなんもないし私は作らないわよ」

だって面倒くさいもの、と真面目な顔で言われて笑ってしまった。

 実にのどかである。日々とは常にこうあってほしいものだ。

「でしたらお茶菓子は私が持ちましょう。お邪魔するのですし、お好きなものを仰ってください」

「え、ほんと? やった」

あっちの店の焼き菓子が美味しいのよ! と腕を引かれた。


***


 年頃の女性にしては、こざっぱりとした、……というより、物が少なすぎてどこか殺風景な部屋であった(私が言えたことではないが)。

 アリアナ嬢は小さな集合団地住まいをしており、中は私の住む寮の部屋よりふた回りほど狭く感じた。トイレは1階の共同スペースにいくつかあるそうで、これは大陸ではそう珍しいことでもないが、建物の中に風呂場など水回りの設備はなかった。来る途中で大衆浴場を見かけたし、たいして不便はないのだろう。


「ごめん、呼んだわりにぜんぜん片付けてなかったわ。そのへん適当に座っててー」

「お邪魔いたします」

アリアナ嬢は先導して入っていくと、部屋の中ほどに置かれた小さな机の上にあった写真立てなどを大雑把に棚の上にどけて伏せた。

 煮出してあったと思しきものをサッと注ぐと、はいお茶ねーと机上に並べ置き、自分はベッドへ腰かけ足を組んだ。ひとつしかない椅子へと促され私が会釈すると、開いたばかりの菓子袋を差し出してくれた。

 焼き菓子は素朴な見た目で、ドライフルーツや木の実が砕いて混ぜ込んであるようだった。手で成形してあり、大きさや厚みもマチマチで面白い。

 アリアナ嬢が嬉しげに口に放り込むのを見届ける。私もそれに倣うと、軽やかな歯ごたえと共に心地よい甘じょっぱさが広がった。まさに絶妙な塩梅である。目が合うと、アリアナ嬢はニッと口角を上げた。

「ね、美味しいでしょこれ」

「はい、とても」

帰りも店が開いていたら買おう、と心に決める。


「そういえば、女性には寮のある職場はあまりないのですか」

家賃が浮けば助かるだろうと思ったのだ。

「んー……。女性がっていうか、寮まで用意できるような大きな働き口がそもそもほとんどないわね。働き手も地元の人が多いし」

よそ者には世知辛いわー、と茶を啜った。私もつられて口を付けた。

 茶には香りがなかった。お屋敷で飲む茶とは、きっと比べるべきじゃないなと思う。飲食店でもらうものと同じで、渋みや苦みを強く感じるものだった。これが庶民向けの茶葉なのだろう。

「お屋敷の女性寮が空いていれば、お仕事がないか伺ってきましょうか」

「え、いやいや、いいわよ悪いもの! それに、お屋敷にはそれなりの家柄か経歴がないと入れないもの」

ありがたいけど辺境育ちの私じゃ無理よ、と手をはためかせた。

 帝国のお屋敷勤めという架空の経歴は、私にとって大きな優位性だったのだな、と今更知る。

「レオは他国にいたんだっけ? なら余所の言葉も喋れるんでしょ? 言葉をいくつも話せるって使用人としてはかなり上等でしょ。こっちで他国語話せるのなんて、貴族様を除いたらせいぜいヤリ手の商人くらいよ」

「そういうものですか」

春のお国では話せて当然なのだが、こちらでは他国語を扱える人間は珍しいようだ。

 なんだか不満だが、認めるほかなかった。言い訳を飲み込んだ。

「……。私個人では難しそうですね、力不足のようです」

「いやいや、そういうのいいったら! ていうかあんたこっちで働きだしたばっかじゃないのよ」

「しかし仕送り云々を考えますと、お給金をあげていただくか、転職しか手段がありませんでしょう。他に仕事を持つのも、現在の勤務時間を考えたら難しいのでは」


 庶民の生活維持に手間がかかるのは私もすでに知っている。

 仕事が夜シフトとはいえ、昼は昼で洗濯掃除に食事に買い出し、ついでに人付き合いとやるべき事柄が多い。私自身、身ひとつですべて処理するのはなかなか大変なものだと感じていた。

 貴族のように、使用人や影武者でも雇って分担したほうがいいに決まっているが、庶民だとそうもいかない。

「もー、そんなまともに受け取らないでよ、ただの愚痴よ愚痴!」

「愚痴ですか」

ほんとに男ってやつは、すぐそうやって御託並べたがるんだからー、と目を瞑り小さく溜め息を吐いた。

「だいたい、もし私がお屋敷で悪さしたら紹介したあんたも追い出されることになんのよ? せっかくいい職に就いてんだから、適当なこと言う前によく考えなさいな」

「適当なことを言ったつもりはありません。悪さをなさるおつもりですか」

「……ないわよ。 ないけど、でもそんなのわかんないでしょ。人生なにが起こるかわかんないんだもの、魔が差すことだってあるかもしれないじゃない」

人のことそんなに簡単に信用しちゃ駄目よ、と続いた。

「考えてもわからないことは、色々考えたとて仕方がありません。

騙されたならそれはそれで見る目のない自分が悪いのですから、それによる沙汰は甘んじて受け入れます」

「あんたいちいち真面目ねー」

まぁでも気持ちだけもらっとくわ、ありがとね、と目を細めた。


「……それに、予定と違ったけどいまの仕事もけっこう好きなのよ」

予定とはと口を開く前に、ケロリと口を開いた。

「前は手紙の代筆の仕事してたの。でも雇い主が亡くなっちゃってね」

いい方だったけど、なにせご高齢だったからと寂しそうに目を伏せた。

「代筆ですか。この辺りではあまり聞かないお仕事ですね」

人を雇える格となると、まぁまぁの家柄ではないだろうか。

「そうね、あんまりないかも。西のほうにあるお屋敷の先代でね、人を育てるのに前向きな人だったみたい。わざわざ教養学校に声掛けて、卒業生から雇ってくれてたのよ」

いい家柄の人にしては珍しいでしょ? と、どこか誇らしげに笑った。

「本邸のちょっと先に別邸があってさ、そこに奥様とふたりで暮らしてて」

住み込みで働いていたが、とてもよくしてもらったのだと懐かしそうに述べた。

 西のお屋敷となると件の疑惑の屋敷だなと思い至り、私は口を噤んだ。こちらの国の民はおしゃべりなのだ、下手に口を挟むより話を続けてもらった方がいい。

「もともとご病気だったのよね。私が雇われたときにはほとんど寝たきりの生活だったから、ある程度覚悟はしてたけど、いざその日がくるとやっぱり悲しかったわ」

アリアナ嬢の口から紡がれる先代当主らと過ごした日々は、穏やかなものであった。その人柄を真に受けて考えれば、ルカ先輩から聞いたキナ臭い話とは遠い人物のように思えた。


「お屋敷には雇い直されなかったのですか、他のお屋敷へ斡旋ですとか」

「……。もういいやと思ったの。旦那様と奥様のこと好きだったから」

わかります、と思わず言いかけた。他に主人を持つだなんて、私だって考えてもみなかった。

「奥様には口をきいてあげるって勧められたんだけど、本邸でも他所のお屋敷でも違う仕事をすることになるだろうなって考えたら、いいやって思っちゃったのよね。

 ……それに、本邸にいるご当主様のこと私あんまり好きじゃなかったし」

目を丸くした私に、慌てて口を開いた。

「だって別邸には一度も、様子を見にすら来なかったのよ? 高齢の両親が住んでるのに、すぐそこの距離だったのに、ちらとも見に来なかった。お葬式の最中だって、自分の父親の葬式だっていうのにずーっと冷たい顔しててさ。

 ……そりゃあ、雇われといた方が生活的には絶対よかったんだけど。でもやっぱり、どうしても嫌なことって誰にでもあるじゃない」

亡くなった親にする態度じゃないわよあんなの、と忌々しげに言い捨てた。


 不満を隠そうともしない顔を見て、アリアナ嬢はきっと家族との関係がいいのだろうなと思った。その先代とやらに対し、よくしてもらったことでアリアナ嬢にはきっと恩も情もあるのだろうが、子息もそうだったとは限らないだろう。

 貴族社会をつぶさに見てきた私にとっては、関係の悪い家族なんて珍しいものではなかった。人前では仲睦まじくはしゃいで会話をしているのに、人目がなくなった途端に一切口をきかなくなる親子なんていくらでもいたし、憎み合っているような関係も、それすら越えて冷え切った関係も目にしてきた。

 私個人としても、血の繋がりがそれほど重要なことだとは思えない。互いに選びあった関係でもないのに、なぜそこまで特別視できるのか疑問である。実際私は、イリーディア様のためなら今でも躊躇いなく死ねるが、実の親なる存在が突然現れて目の前で殺されかけていても、その身代わりなんてとてもじゃないが御免だと思う。

 だいたい、明日は先輩方と休憩時間に馬の早駆けの勝負をする予定だし、ジェシカ様にもお仕事の進捗報告をするよう呼ばれている。飲食街の全店全メニュー制覇もまだまだ果たせていない。したいことがたくさんあるのに、恩義もない相手のために身を呈してまでしてやりたいことなどなにもなかった。


「お役御免になったときはさすがに途方に暮れたけど、こればっかりは仕方ないしねー……。でも代筆仕事をしてみて、部屋に籠る仕事は自分に向いてないっていうのがよくわかったのよ。

 お給料は下がっちゃったけど、花屋はいろんな人と話せて楽しいし」

「確かに、お店で見かけるアリアナさんはいつも楽しそうです」

思ったままを述べると、そうかなと照れ笑いをした。

「あのとき実家に帰らないでこっちまで出てきてよかったわー。あっちのお屋敷の周辺だって、ここほどは栄えてないから残っても仕事はなかったし、帰るかちょっと悩んだのよね。

 それに運もよかったんだと思うのよ。たまたま入ったごはん屋さんで求人見てたら、いまの花屋のバイト紹介してもらえたしね」

今日会ったでしょ、辛いお店の、と言った。優しい声だった。

 彼女とはそれから親しい友人だと述べ、だから先日ギル先輩と顔を合わせたのは気まずかったとも言った。


 急にベッドに仰向けに転がり、呻き声を上げた。

「……ギルくんさ、すぐ彼女できそうよねー。聞いて落ち込まないといいけど」

そうですね、と私は訳知り顔で頷いた。


***


 窓からの雪明りを受け、対面に座る妻の白い頬はまるで内側から発光しているようだった。華奢なその人は複数人掛けのアームソファに腰掛け、外したネックレスに通った小粒をひとつ丁寧に摘まみあげていた。

 視線を落とし、伏し目がちになった睫毛が落とす影の妖しい美しさは、魅入られた者の目を釘付けにする。彼女に比べれば、絵画の中の人物の方がよほど人間味があるだろう。言葉もなく見守っていると、変わった造形の器にその白い粒を落き、かちりと小さく冷たい音を立てた。


 名が一瞬出てこなかった。なにせどちらもこの帝国にはない品だ。

「真珠でしたっけ、それ。綺麗なものですね」

 感想が凡庸であることは、凡人の凡人たる所以だと思う。

 しかしそれも仕方のないことだった。僕には宝飾品を身に着ける習慣がないし、それを彩る宝石の類にもまるで興味がないのだ。むしろ名称を思い出せた自分に感心すらした。

 どのような品であれ、彼女のほうが圧倒的に美しいのだから霞んでしまうのも当然だろう、と心の中で言い訳をする。出会う前からすでにその手の賛美の言葉を聞き飽きているその人は、当人を褒めるより選び抜いた持ち物に言及したほうがよほど喜ぶのだ(とはいえ穏やかに目を細める程度だが)。

 妻は僕の凡庸な感想に律儀にも手を止め、例のごとく目を細め、黙って優しく微笑んだ。真珠ですよね、綺麗ですね、との間抜けな問いかけへの静かな肯定である。

 その棘のついた器はなんです? 面白い形ですねと続けると、ほんの少し嬉しそうな顔をして貝殻という海の品だと教えてくれた。真珠は貝の中でできるのだそうだ。


 席を立ち隣へと腰かけると、見た目通り軽やかな彼女の身が、体重差でわずかにふわりと浮いた。側仕えが間髪入れず茶を注ぎ足し、改めて僕の前へと置き直してくれた。当たり前のような顔をして紙と鉛筆も差し出してくれたが、やんわりと手で断る。湯気の立ち昇るカップ片手に暖をとりつつ、ソファへ横向きにもたれ眺めやった。

 手すさびに絵を描く習慣のある僕にとって、彼女は創作意欲を掻き立てられる素晴らしい題材でもあった。顔のパーツしかりその四肢しかり、なにもかもの縮尺が出来のよい彫像のように完璧なのだ。その浮世離れした姿を見つめるたびに感じることだが、この薄い腹にいったいどうやって内臓が収まっているのだろう? と、つくづく不思議に思う。


 視線に気がつき、彼女は黙ってこちらを見つめ返し小首を傾げた。僕はなんでもない声を出した。

「いつも身につけている品ですよね。バラしちゃうんですか」

 机上に置かれた貝殻には、何十粒も真珠が乗っていた。妻の手には金具が片方外されたネックレスがあった。見慣れた品だった。

 ――ひと粒だけ抜いてまた身につけるのです、と妻は述べた。

 用は終わったのか、そのまま傍らの側仕えにつと差し出した。側仕えは慣れた手つきで受け取り、手際よく金具を取り付け直すと、彼女にひと声かけその細い首につけ直した。

 チェーンに残った真珠はたったの3粒だった。前までは薄紫色の色石もついていたように思うが、真珠のひと粒と共に抜いてしまったようだ。


 4つ年下の妻は、豊かな春のお国の貴族の出である。なぜうちのような他国下位に嫁いだのかと言えば、向こうに思惑のあるれっきとした政略婚だからである。

 もともとこの縁談は僕ではなく、友人兼仕事仲間である僕の上官に来ていた話だった。上官は旧帝国軍の総隊長殿の嫡男で、未来の大陸自警団長と目される超有望株である。他国軍家が嫁ぎ先となれば当然下方婚になるが、それを差し引きしても遜色のない相手だろう。

 そう、あちらにとって、帝国の中枢に踏み込む大きな一手となるはずだった。

 ただこの上官は帝国の凍土よりも決意の固い男で、女たらしが多く一夫多妻に近い家族形態を築きがちな帝国男において非常に稀な、一生涯妻のみを愛すと誓うド誠実な既婚者でもあった。

 我が上官殿は自身が既婚であることを理由に、上位の、それも他国貴族からの縁談の申し出をキッパリと断ったのだ。

 イリーディアの父上も、まさか下位から断られるとは毛ほども思っていなかったのだろう。怒るところまで至らず、ただただ困惑したそうである。どんな条件を提示しても「自分には妻子がおりますので」と取り付く島もない。交渉上手の春貴族でも、生来の頑固者には敵わなかったようだ。

「ならば、貴殿が一番信頼を置く部下を紹介してもらうのはどうだろう」

この一言に、上官はようやく首を縦に振った。

 そしてそのとき挙げたのが、軍事学校時代から弟同然に目をかけられていた僕だった、というわけである。


 諜報員まがいの人間がうちの屋敷に入るのは面白くなかったし、重いか重くないかで言えば僕には荷が重すぎる話でもあったが、そのぶんうまくこなせば評価は上がるし世話になっている上長から来た話でもある。断る理由はなかった。

 考えうる限りの最悪の事態とその対応を想定した上で迎えたが、彼女と一緒になってみての感想は“なんら問題なし"の一言に尽きる。

 イリーディアは僕の持っていた貴族の印象と対極にいる、穏やかな人であった。育ちの良さは嫌というほど窺えるものの、彼女は傲慢でもなく散財もしない、怪しい動きも特にない。文句などあるわけがなかった。

 もともと結婚願望はあったが、屋敷に帰って使用人以外の人間に迎えられることがこれほど癒されるものと思わなかった。僕は僕なりに彼女を愛しているし(毎晩飲み歩いていたのが嘘みたいに、いまはすべてを振り払いまっすぐ帰っている)、彼女も彼女なりに僕を好いてくれている(と信じたい)ので、もうそれで充分だと思っている。

 長きに渡りちぎっては投げ、そしてちぎっては投げられてきた婚活期間もようやく終わり、物静かな妻との穏やかな時間を噛み締めるばかりである。


 僕は帝国では比較的話すほうで、仲間内にもよくしゃべる野郎だと思われているが、これは父親という後ろ盾がなくなったことに起因する。父の死後、右も左もわからぬまま、ひとり息子である僕は繰り上がり式に屋敷の当主とされてしまったのだ。

 下手を打てば仕事にあぶれる、あぶれれば給金が減る、減れば屋敷は立ち行かなくなり使用人たちが路頭に迷う。それはどんな青臭い若造でも簡単に描くことができる、地獄の未来図であった。

 大した家柄も経験もない人間ができる努力なぞ、せいぜい円滑な人付き合いくらいのものである。本当は、黙っている方がラクだし静かな方が好きだ。


 妻が嫁いできた頃は、彼女を楽しませなければと、精一杯楽しげな話を探してきては披露していた。使命感のようなものだったのかもしれない。向こうにどういった思惑があれ、それを表に出さないのなら、せっかく嫁いでくれたのだし気遣ってしかるべきだと思ったのだ。

 だがやんごとないお育ちのイリーディアは、沈黙が訪れてもまるで平気という稀有な人間で、常に喋り倒している夫を不思議に思ったらしかった。

 あるとき、例のごとく小首を傾げ、じっと僕を見た。

「……――お忙しい中、こうして共に過ごす時間をつくってくださること、とてもありがたく、また、嬉しく思っております……」

だが自分は客ではない、気遣いは不要、もてなさなくていい、負担になりたくて嫁いだわけではない……などの旨を、あちらのお国の人らしい、実に回りくどく丁寧な言葉で色々と述べてくれた。 

 彼女はその宣言通り、こちらが黙々と作業をしていようがソファに突っ伏して死んだようになっていようが変わらず寄り添ってくれた。いつの間にか間近に座っているその人に気づくたび(この容姿からは信じられないことだが、彼女は気配を消すのが尋常じゃなくうまい)、僕は動揺した。

 ――本当に平気ですか、つまらなくないですか、と問うと不思議そうな顔をして、なにもつまらなくないと微笑んだ。

 ――これまでひとりで過ごす時間が長かったため、大切な方のお傍にいられるだけで嬉しいのです、と述べた。物静かな彼女といると心が落ち着いた。


 イリーディアは机上によけていた別の貝殻を手に取ると、丁寧に裏返し真珠の入った貝に蓋をした。自然物だというに、グネグネと曲線を描いたそれはピタリと合致し感心した。あとでよく見せてもらおうと内心思う。

「粒を減らすのには、なにか理由が?」

「――郷里の風習のひとつなのです」

本日は母の命日ですので、とネックレスに手を当て目を伏せた。

 義母は、彼女の誕生とともに儚くなられたそうである。大陸ではよくあることだった。僕の母も出産時に亡くなっている。いまでこそ大陸医療団なんてものがあるが、それでもやはり出産は命がけである。これからどれだけ医学が発展しても、母子の生存率を100%にすることはできないらしいと聞いていた。

 妻には母親との記憶は当然ないが、義父が言うには彼女とよく似た浮世離れした雰囲気の女性であったらしい。こんな人間が他にもいたのか、と驚愕したものである。

 義父は本妻一筋で妾もおらず後妻も取らず、その愛妻の死後は父ひとり子ひとりで支え合って暮らしてきたそうだ。それらに関し彼女が進んで口を開くことはなかったが、以前ふと問うた際には「……母がいない寂しさより、時折寂しそうなお顔をなさる父の姿を見ることが哀しかったものです」と言葉少なに述べていた。


 彼女の首元で、3粒の真珠はちらりと輝いていた。淡く青みがかったニットの色合いの上で、その白い粒はよく映えた。揺れる粒の輪郭を目でなぞった。

「風習とは?」

興味があります、と続けると、やや嬉しそうに目を細めた。

 妻は口数の少ない物静かな人だが、人と話すのが嫌いなわけではないようだった。むしろ知りたいことがあればそっと訊いてくるし、こちらからも問えばなんでも答えてくれる。我々は国境を越えての婚姻であり、まだまだ話題には事欠かなかった。

 彼女が言うには、向こうのお国では縁ある故人の年齢の数だけ真珠を身に纏う習慣があるらしい。50歳の友が亡くなれば50粒、4つの孫が亡くなれば4粒だ。

 その命日が来るたび自らの手でひと粒ずつ外してゆき、外した粒はああいった貝殻などに保管しておくのが一般的なのだそうだ(とはいえ、こんな希少な粒を身に纏えるような人間は、あちらでもきっと一部の金持ちだけだろう)。

 すべての粒が外されたとき、故人の魂は生前のあらゆるしがらみから解放され、風の精霊とひとつになりこの大陸を自由に行き交えるようになるらしい。

 お綺麗な国は御伽噺まで幻想的なのか、と妙に感心した。

「へぇ、そういった伝承は国によって違うから興味深いですねー」

 帝国では“すべての生き物は死ねば星になる”などと言うのだが、この曇天の空で星なんてものはロクに見えない。故人もきっと、地上の僕らがいつまでも醜く争うさまなぞわざわざ見たくもないのだろうと思う。

「宗教的な逸話があるのは貴国だけかと思ってました」

首を傾げられ、あぁ夏のお国のことですと付け足した。

「春のお国にも、なにか崇める神様がいるんですか」

夏のお国のように特定の神はいないが、精霊や妖精の言い伝えは多くあるとイリーディアは述べた。

「これも土地柄でしょうか……。風に由来するものが多くございます」

他国語を学んでいた頃、そういう比喩や表現が少なくて驚いたそうである。僕への手紙でも、帝国語ではどう表現したものかと困ったりもしていたそうだ(そう言ったわりに、地元民でも舌を巻く情緒豊かな表現力だったのだが)。


 彼女は故郷で、風の精霊などと影で囁かれていたらしい。

 その形容もさもありなん。彼女の人間離れした美しさに、その軽やかかつ爽やかな呼称は相応しいように思えた。

 されど先ほど聞いた風習と合わせれば、死者の魂と共に大陸を旅をするわけか、とぼんやり思い至る。縁起でもないが、どこか死神のようだなと思った。

「それはまた、どういった理由で?」

問うと、側仕えがちらりと気づかわしげに妻を見た。

 この側仕えは、イリーディアの実家から彼女についてきた使用人のひとりである。あちらのお国らしい艶やかな栗毛が、綻びひとつなく結い上げられていた。春のお国の出身だからかいやに若見えするが、年齢でいえば僕らの親世代にあたるだろうか。

 側仕えの視線もなんのその、妻は涼しい顔をしたままカップに口をつけた。いたたまれなくなり、代わりに口を開いた。

「なにか懸念でも? 聞きますよ」

「……いえ」

 側仕えはこちらの問いかけに口を結んでいたが、静かに口を開いた。

「しかし畏れながら、旦那様のお耳に入れるほどのことではないかと存じます」

僕より先に平素通りの声でイリーディアが、構いませんと述べた。されど自らの口からは話そうとしないので、口を結び直した側仕えを黙って促した。


「――春のお国では、風の精霊は畏怖の象徴とされております」

「へぇ、畏怖ですか。イリーディアがあんまり可愛いからビビったんですかね」

言われ慣れている妻は、照れもせずいつもどおり微笑んでいるきりだった。

 腹を括ったのか、先ほどの気遣わしげな様子をおくびにも出さず側仕えは続けた。

「妖精の場合でしたら、旦那様の仰る通りです。ちょっとした悪戯心で人を誑かす、愛らしい存在とされておりますので。……ですが、精霊となりますと」

……誉め言葉として使われることはまずございません、と、微かにその顔に悔しさを滲ませて言った。

 褒めぬ人間がいるのか、この素晴らしい人を。イリーディアを見やると、いつも通り優しく微笑んでいた。

「……メリッサは心を痛めてくれているようですが、わたくしは気にしておりません」

僕にも、どうか気を遣わないでもらいたいと続けた。

 そういった物々しい呼び名を賜ることは初めてだった、新鮮で驚いたし興味深く思った、と意に介す風もなく述べた。物々しいとは? と僕が首を傾げると、さらりと述べた。


「春のお国では、精霊とは魔物の一種なのです」

「魔物……? ちなみにどのような」

側仕えの目が一瞬厳しくなった。僕は笑って手をはためかせた。

「あぁ、安心してください。今さら手放す気も手放される気も毛頭ないので」

そうは言ったものの、側仕えの顔は晴れなかった。主人を心配しているのだろう。

 向こうのお国はとにかく醜聞を嫌う。どんな些細な噂でも許しがたいものらしい。お綺麗な国も、それはそれで面倒なものだなと思う。

 だがこちらは、国単位で大陸の嫌われ者なのである。悪口であってもそんなものいちいち気にしない。していられない、というほうが正しいのかもしれない。そんな与太話で、イリーディアと離縁だなんて北の万年雪が噴火したってありえなかった。


「……。風の精霊と申しますと、妖精とはまったく異なる存在です。ひとたびその怒りに触れれば、風は吹きすさび花弁は散り屋敷は朽ち落ち……」

よほど言いたくないのか、眉間にわずかに皺を寄せ目を瞑り、そのまま口ごもってしまった。似つかわしくない、不名誉なことだ、と再び開いたその目は静かな怒りに燃えていた。

 口を噤んでしまったので、そう揶揄されていた本人が口を開いた。

「気まぐれに人を攫い、人々を絶望の淵に陥れるとも言われております……」

ふふ、と軽い笑い声を漏らしたので、僕と側仕えは目を見合わせた。

 されどまぁ、この絶望の地に住む僕からしても、だからなんだという話であった。その精霊とやらがわざわざ怒らずとも、帝国では風云々の前に花も咲かず、海もないし魚もいない。家屋は積雪で頻繁に潰れ、毎年家畜も人も凍えて死んでおり詐欺師も人攫いもいまだに出る。この帝国の地は、怒れる精霊もいないのにその有り様らしい。


 視線の先、妻の髪は相変わらず癖ひとつなかった。金糸のように髪と髪の隙間から光が透けて見えた。気まぐれに手に取ると、手触りは子猫の毛並みのようにしっとりと柔らかかった。

「でも確かに、僕の心もすっかり攫われてしまいましたしねー。君に何かあったらって考えると、仕事中も気が気じゃなくて絶望してますよ」

なるほど、精霊とは恐ろしいものですと笑ってみせると、妻は口元を隠し小さくクスリと笑った。こうやって声を漏らすほど笑うのは珍しいことだった。

 いつもそれは幸せそうに微笑んでいる人だが、今日はよそ行きの笑顔ではなく本心から幸せであるらしい。

 その側仕えもどこか安心した顔をした。

「……旦那様が、噂話の類を気になさらぬ方でようございました」

「事実だとしてもなんともないですしねー」

なぜ? と顔に書いてあったが、曖昧に笑って誤魔化した。

 帝国の男が噂話なぞにいちいち怯えるものか、と内心自嘲する。

 豊かなお国の人間にはきっとわかるまい。この世でもっとも恐ろしく残酷な生き物は、確かに生きた人間に違いないが、真に恐ろしいのはその人間から理性を奪う飢餓である。飢えは人の理性を奪う。常識や倫理観や育んできた情すら簡単に奪う。

 奪うだけならまだいいが、腹になにか入れてしばらくするとなに食わぬ顔でそれらを返してくるから恐ろしい。ようやく戻ってきた理性片手に、目前に広がる惨状を見て我々はいつも立ち竦む。罪悪感に打ち震えている暇などない、足りない頭を捻り次の飢餓に備えなくてはならないのだ。

「むしろ、君は怖がられるくらいでちょうどいいんじゃないですか?」

真に受けた人攫いが来なくなるかもしれませんよ、と続けると、なるほどと側仕えに納得された。


 しかしまさか魔物とは。常軌を逸した美人は、言われる悪口も人間の域を越えてしまうらしい。

 でもいわれのない悪口には怒ってもいいと思うんですよね、心が広いのは結構なことですが、と野暮な言葉が口から出て行きかけ、慌てて口角を上げた。

 彼女にとって、楽しい話からしようと決める。両手を差し出すと、不思議そうな顔をしながらも素直に諸手を乗せてきた。絹地のグローブも外しているのに、絹のような繊細な手触りだった。緩く握り取った。

「今日は、義母上様の命日である前に君の誕生日でしょう」

大切な家族のお祝いくらいさせてくださいね、と続けると、本当に忘れていたのかごくわずかに目を丸くし、ついで少しだけはにかみ微かに頷いた。

 目配せをされた側仕えが、黙って頭を下げて出て行った。外してくれた今がちょうどいいだろう。


「――お祝いの前に、いくつか話があります。まずひとつ、手紙が来たんですよ」

黙って続きを待つ薄紫の瞳にひとつ頷くと、胸ポケットから取り出して掲げて見せた。

 我が家に手紙はほとんど来ない。彼女に親戚はいないし、僕にもいない。親子揃ってひとりっ子だと、こういうことがままある。血縁から届くとなれば、彼女の父上だけだ。なので私的な連絡なんてものは、ほとんど来ないのだった。

「僕に来るなんて珍しいでしょう」

正確にはアッシュ名義なので僕宛ですらないんですが、とふざけると、ゆるく微笑んだだけで頷きはしなかった。どこまでも気の優しい人なのである。

「どなたからか伺っても……?」

「もちろんですよ。誰だと思います? 君も知っている相手です」

そうですね……と、しばし黙して考えた。

「レオナルドでしょうか」

「ご名答」

 こういったちょっとしたお遊びが、イリーディア相手だとまったく成立しない。ひと言めに正解を言い当ててくるのだ。


「君の子犬は元気にしているようですよ」

「なによりなことです……」

微笑ましい気持ちになった。そのくらい、優しく嬉しそうに微笑んだ。

 笑顔を絶やさない人だが、その表情の違いも徐々に読めるようになってきた。

「……あちらは、とても大らかなお国だと小耳に挟んだのです。心機一転を図るにはよいかと、軽い気持ちで候補に挙げてしまいました。いま思えば、わたくしに気を遣ってくれたのでしょう……」

珍しく口数の増えた妻を見て、彼も喜んでましたよ、との言葉は飲み込んだ。

 まだ自分からの命令を望んでいるなんて、心優しいイリーディアには知りたくもない事実だろう。

「勝手が違うなりに、向こうの暮らしをずいぶん楽しんでいるようです。若いから順応性も高いんですかね」

こちらを見上げ、続く言葉を素直に待っていた。

「……新しい職場での人間関係もいいみたいです。肉でも野菜でも、なにを食べても美味しいと書いてありました」

「やはり、素敵なお国なのですね」

ですね、と笑ってみせた。


 しかし羨ましいことである。食料が豊富で、毎日過ごしやすい気候だとは。

 いま帝国は、……というより大陸内は、戦後のあれこれでわちゃわちゃとしてまだまだ落ち着かない。自分が子供の頃に終戦したと言うに、結局はゴタゴタし続けている。

 勝ったと言われても実感らしい実感はなかった。道端ではいまだに、脱走した家畜や口減らしに捨てられた老人や子供が餓死か凍死をしているし、働き盛りの若い男達は大量に死に、大黒柱を失い貧しくなった住民がいっそう増えただけだ。

 いま自分が生きているのは、ただ運がよかったというほかない。13の年に帝国軍には属したが、戦地に送られる前に終戦したのだ。3つ上の上官は、前線ではないにしろ戦地にも幾度かやられたことがあると言っていた。

 通っていた軍事学校では、勝てば豊かになると聞かされていた。大人が言うのだから、そういうものなのだと思っていた。

 でもいまをもって思い出されるのは、寡黙な父の姿であった。うちの父はそんなことをひとことも言わなかった。もともと口数の少ない人だったが、嘘はつかない人だった。

 ……事実を知らず捨て駒にされるのと、知っていて従うしかないのは、いったいどちらがマシなのだろうなと、答えのない問いを前に僕は毎度目を瞑る。

 この先も、ひとつひとつの紙一重を積み重ねて我々は生きていくのだろう。大災からは、頑なに目を背らし続けて。


 あの彼も、ロクでもないゴタゴタのせいで存在させられたのだろうと思う。子供が子供らしくいられないのは、だいたいが周りの大人の都合によるものである。割を食うのはいつだって子供だ。

 どうか早く見る影もなくガタイがよくなってほしい、と心から願う。育ち盛りだろうからきっといくらでも食べられるのだろうが、イリーディアと同じ華奢なシルエットをしたあの繊細な目の子供が、モリモリ食べてムキムキするんだろうかと思ったら、まったく想像がつかなかった。

 自分が早々に大人のフリをする羽目になったからか、否応なく翻弄されるああいった子供を見ると、かつての自分を見ているようで胸が痛む。他人の心配なんてガラでもないのに。


 イリーディアは僕の持つ手紙の、宛名書きをしげしげと眺めていた。相変わらず、どこか楽しそうだった。水を差すような真似はしたくないが、と溜め息を飲み込んだ。

「次は、あまりいい話じゃありません」

 手紙を広げ文字を飛ばしつつ、記載された特徴を読み上げた。

「誰を目的としたものか、誰からつけられたかは調べがつき次第、追って連絡をくれるとのことです。一応、僕はこれがどこの国で作られた品かを調べて返事をしようと思ってます。君もそれでいいですね」

 妻の瞳は静かだった。

「……春の品かと存じます」

盗聴器くらいそりゃあ知っているよな、と思う。なにせ貴族様だ。

「根拠は?」

実物を幾度か見たことがございます、と言った。煌びやかな品を見せられたときと同じ、乾いた目をしていた。


「……腹が立つこととかないんですか? 出会って何年も経ちますが、ぜんぜん怒りませんね」

 なにか怒りに触れる内容があるなら早めに知っておきたいところだ、と観察してきたが、結局この妻が怒ったところをいまだ見たことがない。

「……。ございますよ」

わたくしは未熟ですので、とポソリと言った。

 未熟、という言葉に少し引っ掛かった。喜怒哀楽なんて人間として当たり前の感情だろうに。他人にぶつけまわるわけでもなければ、誰にも面倒は掛けないはずだ。

「怒るとどうなるんです? 想像もつきませんけど」

声を荒らげる姿すら想像がつかなかった。そういう感情とは無縁な人だと思っていた。

 気まぐれに問うてみたものの、妻は困ったように微笑むきりだった。なおも僕が見つめると、その表情のまま口を開いた。


「……過度に感情を表すことを、わたくしたちは幼少の頃より禁じられております。……ときどき、羨ましく思います。真に風の精霊と同じであれば、いくばくか心も救われたのかもしれません」

風は吹きすさび花弁は散り――……。

 怒ることも泣くことも、その必要がある場面でなければしてはならないのだと妻は言った。春貴族の微笑みは真顔と同じ、感情を表すのは場を有利に運ぶためであり、それ以外の理由はない。

「……自慢じゃないですが、ここは荒っぽい帝国民を擁する絶望の地ですよ。人ひとりが感情を荒らげたくらいで万年雪は溶けませんし、永久凍土も割れません」

怒っても泣いても受け止めてみせましょうとも、と続けると、例のごとく微笑んだ。

「では、感情の揺らぐ日が来た暁には、旦那様に縋ります……」

「揺れる日も揺れぬ日も、いつでもどうぞ」

僕は君のものですので、とおどけてみせると、妻は優しく目を細め、頼もしいことですと言った。


 天女のようなナリをして、優しく美しい言葉だけを口にして、そのわりに妻が以前彼にした仕打ちは残酷だと思っていた。なぜそんな真似をするのかと思った。

 ――謹んで頂戴いたします、と言ったときの目の輝きが忘れられない。

 最初に会ったとき、彼は妻の恰好をしていた。何事にも動じぬ静かな瞳と穏やかな微笑み、もはや似ているという次元の話ではなかった。

 少し傾げた時の愛らしい首の角度、その小さな膝の上に乗せる時の甘やかな手のしぐさ、言葉を発する前の優しい間や物憂げな息遣いなど、まさしくイリーディアそのものだったからだ。

 似ているとか双子のようだとかいうより、鏡に写った彼女の手を引いて、こちら側に連れだしてしまったかのようであった。

 彼は妻を守るためだけにその半生を費やし、そして身を窶していた。それに対してなんの疑問も抱くことなく、充分すぎるほどの矜持を持って。


 その事実を彼から察したとき、この身には厭な鳥肌が立っていた。

 貴族子女を庇うために存在している、という歪んだ事実に、あの子供は絶対的な誇りを持ち、常に身を投げ出す心づもりで生きていたのだ。

 本来あれだけの教育を受けていれば、どこの国に行ってもうまく身を立てることができただろう。どこかの屋敷に養子として入り、可愛がられるような人生だって探せばいくらでもあるはずだ。

 だがそういう発想すらないようだった。

 退職金という名の馬鹿げた大金を見せてもなんの興味も示さず、これからの話をしてもなんの感情も見せず、唯一目を輝かせたのは、妻から提示された名を伝えてやったときだけだった。

 不幸中の幸いなのは、イリーディアがその名づけに本気で取り組んでいたことくらいだろうか。犬や猫にやるつもりで気まぐれにつけていたとしたら、彼女を変わらず愛せたか僕には自信がなかった。


 それでも、したことへの評価は変わらない。

 残酷な真似をしている、と感じる。あんな境遇の人間に名なんて付けてみろ、呼ばれれば大陸の果てからでも尻尾を振って戻ってきてしまう。

 本当に自由にしてやりたいのなら、なにも施さず手放してやるべきだった。

 少なくとも、自分たち帝国の人間ならそうする。余計な優しさを見せることなどあってはならない。憎まれるような真似をしたのなら、彼らの命が尽きるまで憎まれてやるべきである。恨む先を奪うなど残酷だ。……というのが、僕らの一般的な認識であった。

 春のお国の常識は知らないが、あちらは醜聞を嫌い、そして人に恨まれることを嫌う。誘導はしても決定的な部分は必ず本人に決めさせる。自ら選び取った人生だと自覚させ、本人にその責を負わせるためだ。

 イリーディアのことだから、承知の上でやっているのだろう。

 我が妻ながらつくづく恐ろしい人である。これもお国柄なんだろうか、と諦め半分で思う。夫婦と言えど、根本的なところでわかりあえる日なんて来ないのかもしれない。


 こちらを見上げる穏やかな瞳を見て、顔に笑みを作った。

「――じゃ、今度こそお祝いの続きです。そろそろ持ってきてもらいますかね」

気に入ってもらえるといいんですがと嘯きつつ、戸を叩き部屋の外で待機していたうちの使用人に申し付けた。

 贈り物には、悩んだ。かなり悩んだ。

 なにせ宝石も毛皮も最初から持っているし、豪華なものはとっくに見飽きているのだ。宝飾品を差し出されても、妻は眉一つ動かさず「……良いお品ですね」と述べるきり、その手に取ろうとすらしないのである。

 結局、真正直になにか欲しいものはと問うたところ、よければ私に絵を描いてほしいと頬を染めて乞われたのである。

 妻は僕の描く絵が異様に好きな人で、ほんの手遊びで描いたラクガキや、ちょっとした下描きまでいつの間にか集めているのである(描き捨てたはずのラクガキが、後日それは大層な額に入れられ飾られているのを見たときは悲鳴が出た)。

 春の宮廷画家よりうまいなどと大袈裟に褒められて正直悪い気はしなかったが、それでもこちらは周りより幾ばくかうまい程度のズブの素人だ。どう考えても、気恥ずかしさの方が先に立つ。本当にこんなものでよかったのだろうか。


「――お誕生日おめでとうございます」

 使用人から受け取った額を手渡すと妻は目を輝かせた。

 しばらく、手に取ったままじっと鑑賞していた。ようやく顔を上げこちらを見た。眩しさに目がくらんだ。大陸中の貴金属を集めたってここまで輝くまい。

「生涯、大切にいたします」

来年が待ち遠しいですと言われ、来年も傍らにいてくれるのだとホッとする反面、また描かねばならないのかと冷や汗が滲むのを感じた。

 ふと目についた。そういえば、ネックレスと同じくこれも毎日身に着けている。数は少ないが、ここにも真珠があしらわれていた。

「この髪飾りは、誰を悼んでいるんです?」

数で言えば愛玩動物か何かだろうかと思ったが、妻は優しく首を振った。

「……郷里では、日常的に真珠を身に着ける習慣がございます」

風習によるものではないと続き、そうですかと返事をしつつも直感的な違和感を覚えていた。


 まぁどのような嘘であれ、妻の命やお国に関わるものでもなければ言及はすまい。


続.

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