第5話 元影武者、新規任務を賜ること

***


 “秋貴族のそちらの屋敷は、なぜ3等家とされたのか”

 先日の手紙にて、イリーディア様が(帝国の旦那様の偽名経由で)新たに私に課した調べものである。


 ここは春のお国との国境、つまり政治的に重要度の高い地域を担うお屋敷である。戦中ならこちらの当主は、帝国との国境を守る春のお国の大旦那様と同格にあたる。

 しかし春におられる大旦那様は1等家、こちらは3等家。お国によってなにかしら基準に違いはあろうが、よりにもよって1等家に庶民扱いされる3等家になっているのである。

 これらの等格は、身分制の廃止時に各国の王がお決めになったはずだが、王からよほどの不興をかったか、それとも当主が地域住民に対し暴君であったのか。あれこれ想像を巡らせてみたものの、どれもピンとこなかった。

 こちらの旦那様はああ見えて抜け目のない方であるし、ご先祖の悪評もまるで聞こえてこない。地域との関係も手本のように良好であり、住民から足を引っ張られるような告げ口をされたとも思えない。

 イリーディア様が他国貴族のことを気にされる理由はわからないが、確かに不自然な采配というほかなかった。


「悪いー、ちょっと知り合いに行きあって」

馬の貸し出しからようやく戻ってきたギル先輩は、軽い調子で詫びつつ袖を大雑把にまくりあげた。

「そうだ今度さー、市場の女の子たちとごはん行くんだけどさ、来るだろ?」

てかこっち3人行くって言ってある、と続いた。

 ルカ先輩が眉根を寄せた。

「なんでいつも訊く前に予定組むんだよ、順序が逆だろ逆」

「当日訊いたって来るじゃん」

「頭数に含まれてんのに行かなかったら相手に失礼だろうが」

やや非難の篭った声だった。

「楽しみなくせにー」

これ以上は無駄だと思ったのか、返事はせずへたった藁を黙々と掻き出しはじめた。それを意に介す様子もなく、ギル先輩は私に笑顔を向けた。

「レオも行こうなー! 友達できるぞ!」

「はい、ぜひ」

 なかば条件反射で快諾したものの、その実あまり興味がなかった。私の人付き合いなどどうでもいい。イリーディア様の調べものが途中なのである。

 しかしルカ先輩の言う通り、断っては相手方に失礼にあたろう。こういうとき一般的にはどうするものなのだろう、と考えてもわからぬことを思った。


「そういや、ジャンと行き違ったんだけどなんだったー? 仕事の話か?」

「内容までは伺いませんでした、お呼びが掛かったきりです」

 ジャンとは、面接のときにリック氏と共にいたゴツゴツして持ちやすいほうのことである。先ほど気まずそうな顔をして現れ、「ジェシカ様がお呼びだ。休憩になったらお屋敷の裏口で待っているように」とわざわざ言い付けに来たのである。

 先輩方には軽い挨拶のみだったらしく、どうやら私だけが呼び出されたようだ。

「なら個別仕事かなんかか。いいなー」

聞き慣れぬ言葉に首を捻った私に、ルカ先輩が掻き出し終わった藁をざっくりと集めつつ口を開いた。

「お屋敷の人から、家畜の仕事とは別に用を頼まれることがあるんだよ」

「俺あんまり頼まれねえんだよなー、好きなのに」

「出歩いてるからだろ」

え、俺にも来てたりすんの、わりとな、とやり取りが続いた。黙っている私を見て、軽く続けた。

「仕事の空き時間にできるようなもんばかりだし、断っても別に怒られない。特に気負うようなもんでもないぞ」

そのぶん駄賃もちゃんともらえるから、やりたがるやつの方が多いと続いた。

 イリーディア様の“お使い”のようなものかと思う。


 先輩の言う通りなら、なにか新しくお仕事をいただけるようで楽しみである。いまの仕事に不満があるわけではないが、他にもお役に立てることがあるなら嬉しい限りだった。

 馬をかまっているのか遊ばれているのかよくわからないギル先輩を適当にいなしつつ、掃除を終えた。いつの間にか付いていた屑を払いつつ、馬房というのは毎日こんなに汚れるのだなと改めて思う。藁からなにから毎日総替えであった。

 藁がまたなかなか厄介なもので、細かな屑が服の繊維を軽々と潜り抜けて、生身をチクチクと刺激してくる。後から痒くなって困る。

「レオ、呼ばれてるなら先上がっていいぞ。片付けだけだしやっとく」

サボり魔も来たしな、と親指で示しやった。先輩にさせるのもどうかと思ったが、お待たせするのもよくないかと思い直した。

「ではお言葉に甘えて、お先に失礼します」

 おつかれ、と手を上げた先輩方に頭を下げ小屋を出ると、裏口前にはすでにジャン氏が待っているのが見えて慌てた。


***


 お屋敷の中へと踏み入るのは、面接の日以来であった。

 以前通された謎の大部屋か応接室に連れていかれるのかと思いきや、未踏だった2階へと続く階段へと足が向き戦々恐々とする。

 ジャン氏は私の様子を気にすることなく階段を先導して上り、振り返りもせず角部屋の前まで行くと、数度戸をノックした。聞き覚えのある明るい声がした。

 促され中に入ると、案の定煌めく小ぶりのシャンデリアと細かな調度品がおさまった、華やかな空間がそこにあった。血の気が引いていくのを感じた。私が入っていい場所ではない。


「お疲れ様、来てくれてありがとう」

 イヤリングとネックレスには真珠が誂えられていた。小粒でカジュアルめではあるが、照り艶もよいし粒も揃っている。内陸で真珠は高価な部類である。品質も考えるとなかなかのものだろうと心の中でどうでもいい査定をした。

「どうかお早く」

見つかってしまいますので、と続けたジャン氏の言葉に、そうねと軽く同意すると

「ジャンには少し席を外してほしいのだけど」

と仰った。彼は顔を青くし首を振った。

「私も同席の上で、とお約束したではありませんか」

「約束したんだけど、レオナルドに話があるの。すぐ終わるから」

「困ります! もしリックに気づかれでもしたら」

言いながら、真っ青になって口ごもってしまった。

 早々に私を机へと促しながら、子供を諭すような優しい声で仰った。

「もし気づかれたら、私からちゃんと説明するわ。ジャンに面倒は掛けないから。ね? それとも、私よりリックの言うこと聞くの?」

弾けるように顔を上げ、再度首を振った。

「なんてことを仰るんですか」

「無理言ってるのはわかってるの。でもお願い、15分だけ」

「15分!? 長すぎます!」

「じゃあ10分」

時間の問題ではないのです! と述べたジャン氏は気疲れでヘトヘトになっていた。

 大事な用事なの、とジェシカ様に拝み倒され、青くなったり赤くなったりしながらも、結局根負けした。

「……。3分です。しかしもしなにか物音がしたら、それより先に入ります」

「わかった。約束ね」

返答に項垂れつつ「くれぐれも失礼のないように」と私に念を押し、ジャン氏は部屋を後にした。


 扉が閉まるのを見届けると、改めて椅子へと促された。数人用と思しきウォルナットの丸机には、椅子が3脚おさまっていた。いつも通りの笑顔であった。

「いきなり呼びつけてごめんね、吃驚したでしょう」

「とんでもないです」

 吃驚どころではない。

 令嬢の部屋にただの下働きの人間なぞ、本来入れてはならない。おまけに、私に他意はないとはいえふたりきりである。知ればリック氏でなくとも大爆発であろう。

「しかしよろしかったのですか」

「ええ。立ち合ったら立ち会ったで、聞かなきゃよかったってジャンは悩むのよ」

なんだか悪いじゃないそういうの、とボソリと呟いた。

「3分過ぎたとしても、私が呼ぶまで待っててくれるから平気よ」

リックの足音でも聞こえて来ない限りはね、と悪戯っ子よろしく微笑んだ。

 聞いたのは、ジャン氏のことではなく防犯面の話である。か弱い令嬢の息の根を止めるのに3分も必要ない。戸の向こうに聞こえるような雑な物音だって、ひとつも立てずに済ます自信があった。

 私の顔を見て察したのか、ふふ、と笑った。

「なにも怖くないわ。あなたは嘘を吐くけれど、悪い子じゃないもの」

「嘘ですか、私が」

「ええ。なんとなくわかっちゃうの」

どこか確信を持った口調で微笑され、口を噤むしかなかった。

 とはいえ、そんな不確実なものを理由としているわけがないと思った。嘘云々もカマを掛けられただけだろう。きっとこの部屋になにか仕掛けがあるのだ、ふたりきりでも怯まずにいられるなにかが。


「ゆっくり近況でも聞きたいところだけど、ジャンを待たせるのも可哀想だし本題に入るわね。あなたに追加でお仕事をお願いしたいの」

その瞳がチラリと光った。ルカ先輩の読みは当たっていたらしい。

 どう説明したものかしら……、と虚空を見つめたので私は口を開いた。

「個別仕事のお話でしたら、先輩方から教わっております。なんなりとお申し付けください。喜んで承ります」

あらルカたちが? と黒い瞳を瞬かせた。

 無法者を屠ることもそうだが、私は情報収集も得意だったのだ。どのような事柄でも、そしていかなる状況でも、きっと新しい主人にもご満足いただけることだろう。まだ慣れぬ今の仕事よりも、よほど成果を出せる気がした。

 机上にあった、力仕事とは無縁の繊細な手が静かに握られるのを見た。


「――ルカが出ていくのをとめてほしいの」


 意味を掴みかねた。

 常時にこやかだったはずのその顔にはどこか緊張が窺え、眉尻は悲し気に下がっていた。黒い瞳の焦点と、耳元から垂らされた真珠の粒が静かに揺れるのが見えた。

「暇をもらいたいって言われてね」

「先輩はお辞めになる予定なのですか」

ジェシカ様は、固い表情をしたまま頷いた。

「次の仕事先が決まってるわけでもないし、斡旋所へ登録しようかって聞いても断るし、実家に帰るわけでもないみたいだし、うちに不満があるわけでもないのに辞めたいんですって」

声色に不満が隠しきれていなかった。

 しかし、意外なことである。お屋敷の給金というのは野良仕事であれ、他とは比べるまでもなくよいとされている。人間関係の問題だとか、実家や家族や健康上の都合でもなければ、自ら願い出て辞めていく者などそういない。

 おまけにルカ先輩は、下働きとはいえ貴族屋敷に長く務めたという実績がある。

 通常はそれをここぞとばかりに利用し、世話になっている屋敷から斡旋所に登録してもらう。勤務態度などで一筆書いてもらえるとなお良い。うまく箔をつけて余所の屋敷に引き抜いてもらうのだ(私がこちらに来る際、帝国の旦那様にしていただいた方法である)。

 よりよい格のお屋敷に入ることができれば使用人側は給与も待遇も上がるし、送り出すお屋敷側も快く栄転させたとして斡旋所からの印象がよくなる。新たに使用人を探す際などに便宜を図ってもらいやすくなる。

 双方にとって利点しかないものを、利用しない手はないだろう。


「前にも辞めるって言われたことがあったんだけど、私が無理を言って引き留めてたの。お給料を5年分前払いにしてね」

「さようでございましたか……」

日払いどころか前払いの場合もあるのか、などとどうでもいいことを思う。

「禁じ手みたいなものだったし、それとなく言ってみたけど『あんな無茶は二度と受けませんから』ってハッキリ断られちゃったのよね。

 お父様やリックたちは本人が決めたことだからって協力してくれないし、ギルは説得に向かないでしょう? 唯一応援してくれたダグも療養中だし」

「それで私、ですか」

重々しく頷いた。

「でもルカには先手を打たれたみたい。レオナルドに懇切丁寧に教えてあげてるって小耳に挟んで、……引き継ぎのつもりなのね、きっと」

と、ジェシカ様は肩を落とし口を結んだ。


 使用人の主義主張なぞ、雇い主の意向にはなんら関係がない。申し付けられたことを粛々とこなすだけだ。だがいくつか、疑問があった。

「畏れながら、いくつか質問をよろしいでしょうか」

「もちろん。なんでも聞いて頂戴」

 こちらのお屋敷はなぜ3等家に甘んじておられるのでしょうか? と、脳に浮かんだ言葉を飲み込んだ。

「なぜ、先輩に残っていただきたいのですか」

 問うたのは単なる好奇心だった。

 使用人とは、替えがきく存在である。誰が抜けたとしても、お屋敷仕事ならば働きたい人間はいくらでもいるのだ。募集さえすれば後任とてすぐ決まるだろうに、わざわざ留め置く理由があるだろうか。

 おまけに屋敷の中で代々働く使用人たちと違い、ルカ先輩は私と同じ屋外労働担当である。本来、引き留めるほどの縁もないはずだった。

 それとも私が知らないだけで、一般的な使用人でもそれほど重宝されるものなのだろうか。


 緩く握られていたジェシカ様の掌に、ぐっと力が篭るのがみえた。

「ルカは小さい頃からうちにいるって、前に話したことがあったわよね。

 私にとってはお父様やお姉様より傍にいてくれた、家族みたいなものなの。でも、ルカがマメに手紙をくれるとも思えないし……」

 確かに。先輩はサッパリしすぎた人柄である。

 親切ではあるが、ベタベタとした馴れ馴れしさのない御仁だ。まだまだ人付き合いに慣れぬ私にはむしろありがたい距離感だったが、幼馴染のジェシカ様には寂しさを感じることなのかもしれなかった。

 悲しげに落ちた視線は、机上を彷徨った。

「……本当は、応援するつもりだったのよ。もちろん寂しいし嫌だけど、なにかしたいことができたのかもしれないし、ちゃんと送り出そうと思ってたわ。……でもまさか理由もまともに教えてくれないなんて思わないじゃない」

いつものご様子とはかけ離れた、恨みがましいお声で呟いた。

「不満なんてない、感謝してる、ただそろそろ出ようと思っただけって言うの。

 でもそれだけなわけないじゃない、何年一緒にいると思ってるのかしら。そのくらい、私じゃなくたって嘘だとわかるわよ」

と、拗ねたような顔をして言い切った。

「でももういい。ルカがそういうつもりなら、私も意地を通すことにしたの。話してくれないなら出してやるもんですか」

ヨボヨボのお爺さんになってもずっとうちにいればいいんだわ、と急に子供っぽいことを仰られたので戸惑った。

「先輩は、こちらでは長く働かれているそうですが」

「もうすぐ15年ね」

私の推定年齢とおおよそ同じである。


 ルカ先輩がこちらのお屋敷に入ったのは、6歳頃のことだそうである。

 先輩は当時大陸のあちこちにいた浮浪児のひとりだそうで、正確な年齢は本人も知らないとのこと。

 そのころ、幼いジェシカ様はちょうど暴れっぷりの全盛期にあったらしい。お屋敷からお母上が突然連れていかれ、そして当然毎日送られてくると信じて疑わなかった手紙は一通も届かず、こちらからいくら送っても梨の礫。

 旦那様は戦後処理に忙殺され、ふたりいるお姉様方はというと、辺境伯公という価値が数字に挿げ替えられる前に嫁がせねばと朝から晩まで花嫁教育を叩きこまれている最中であった。間の悪いことに、そのころの側仕えたちも、ある日なんの前触れもなく全員いなくなってしまったそうだ(どこかの密偵かなにかだとバレたのだと思う、ままある話だ)。

 幼いジェシカ様はお屋敷にひとり、仕事に忙しい使用人たちに代わる代わる世話をされ、ずいぶんと寂しい思いをされたようである。

 事情が事情ではあるが、子供には酷なことだったのだろう。心はあっという間に限界を迎え、すべてを薙ぎ倒す嵐がごとく荒れに荒れ、事あるごとに癇癪を起こし毎日泣いて暴れていたそうだ。


 そんな折、視察のため旦那様がしばらくお屋敷を留守にする予定が立った。

 周りがノイローゼになるほど連日暴れていたジェシカ様は、その旨を伝え聞き手に取れる花瓶という花瓶を壁に投げつけ、大陸が割れるかというほど泣いた。

 先に根をあげたのは、使用人たちであったそうだ。

 30分でいい、いや10分でいい、1分でもいい。旦那様のお顔を見れば、ジェシカお嬢様も笑ってくださいましょう。

 そう乞われて仕事の合間を縫ってようやく会いに行くと、枕を引きちぎり部屋中を羽まみれにして号泣していた末娘が飛びついてきたのだから、旦那様もさすがにそのままにはしておけなかったようだ。

「父様とお外を見てみるかい」

きっと学びの多い時間になるよと告げ、旦那様はジェシカ様を視察先へと帯同されたらしい。屋敷の外では、貴族の子女らしく礼儀正しくお行儀よくすること、そして決して手を離さないことを条件に。

「……――久しぶりにお父様と過ごせて、手まで繋いでもらえて、嬉しくて私はずっとはしゃいでいたの。だから、あの日のことはよく覚えてる」

と、ジェシカ様は身を固くして仰った。


 廃村にいたルカ先輩は、訪れたジェシカ様を誰かと見間違え、少し距離を置きながらもずっとあとをついてきていたそうである。

 言われてみれば、わからない話でもなかった。瞳の色は違うものの、ルカ先輩もジェシカ様も癖のある栗毛である。子供の目であれば、後ろ姿を見間違えても不思議はない。

 そのときの先輩の姿は、お屋敷で過ごしてきたジェシカ様にとって、ただただ衝撃的だったそうだ。自分と同じくらいの年の子が、足元がおぼつかないほど痩せてフラついている。目は虚ろで煤けて汚れた服を着て、それでも知っている誰かと信じて自分のあとをついてきた。

 顔を見て他人の空似と悟ったのか少年は菫色の目を瞠ると、わずかに浮かんでいた表情も一瞬で抜け落ち、人形のように立ち竦んだという。

 そしてようやく、壊れた家屋の瓦礫の影から、少年と似た様相の老若男女が自分たちを遠巻きに見ていたことに気が付いた。周りの惨状を気にも留めず、一日中父の手に取りつきはしゃいでいたことを、ジェシカ様は幼心にひどく恥じ、お父上の腕に縋った。

 "おでかけ”のために新しく誂えた服や髪飾りが、この日の自分の様子が彼らの目にどう映り、そしてどう思われたのか。考えただけで恐ろしくなってしまったのだ。

 なにもせず、そのまま帰路につく勇気はなかったそうだ。

 怒らないでほしい。許してほしい。誰でも構わないから。ここに来てくれてよかったと、ひとりでいいから思ってほしい。


「お父さま。あの子うちの子にする、つれてかえる」


 伊達に暴れ慣れていない。周囲に否定の言葉を吐かれる前に、腹から声を出すべく大きく息を吸い込んだそうだ。

 はしたなく大声を出すことが、貴族子女にとってどれほどの禁忌であるか、当時からジェシカ様は完全に理解していた。もともとお屋敷での無茶も、わざとやっていたそうである。暴れに暴れ使用人たちに根を上げさせれば、連れていかれたお母上を呼び戻してくれると信じていたそうだ。

 広大な敷地を誇るお屋敷で泣いても、地域住民の耳には届かない。されど敷地外はそうもいかない。

 黙らせるには暴れ馬のようになる自分を羽交い絞めにして無理やり口を押さえつけるか、その我儘をただちに承諾し留飲を下げるしかない。周りの人間が、説得よりも承諾を選ぶのは火を見るより明らかだったという。


 かくしてルカ先輩は、馬車に揺られお屋敷に連れ帰られた。

 そのとき世話役に抜擢されたのが、当時ジェシカ様の護衛兼お世話係になったばかりの若きリック氏である。もともと世話焼き気質なのもあったが、リック氏がまだまだお屋敷では新入りで立場が弱かったこともあろうと、当時を振り返りジェシカ様は仰った。

 ひとりもふたりも同じだろうと、まだ10代だったリック氏は面倒を押し付けられてしまったのだ。


 当初、先輩はずっと置き物のように固まり黙り込んでいたそうである。

 それも仕方あるまい。後ろ姿を見てついて行ってみたら他人の空似、おまけに連れていかれたのは貴族屋敷、怯えるなと言うほうが無理がある。

 ジェシカ様もそれはわかっていたのか、

「……いま思えば、無理させてたのね。ボロボロになった村に置いてけぼりにされて、いきなり知らない所に連れてこられたんだもの。こわかったでしょうね……」

と、独り言のように呟き目を伏せた。

 リック氏に構われ倒しジェシカ様に引っ付きまわられ、しばらく黙りこくっていた先輩も徐々に口を開き、質問にも答えられるようになったそうだ。

 拙いながら家族に関し「戦時のあれこれでバラバラになった」と言い、ほとんどない手がかりをもとに探す中、数か月もしないうちに親を名乗る人間から手紙が届いた。それも、よくないことに複数人から。

 内容はどれも『うちの子だと思う、引き取りたい』との旨であったが、難色を示したのは外ならぬルカ先輩であった。

 実際のところ、手紙の主の中に親がいるかどうかなんてわかったものではない。複数人から届いていたならなおさらだ。

 悪意はないと信じたいが、もしかしたら引き取る体でお屋敷に金を無心するつもりだったのかもしれないし、用済みになればまた捨てられてしまうかもしれない。そうなればよくて浮浪児に逆戻り、悪ければ人身売買の餌食になってしまう。

 なにせ浮浪児生活も短くない。嬉しさよりも、長くひとりでいたことによる人への不信感と恐怖心が先に立ってしまったのではないだろうか。

 幼い令嬢の我が儘とは言え、お屋敷に拾われ生活を共にするなんて、先輩にとって経験したことのない安心で安全な時間だったろう。

 帰る先が安全であるかもわからない以上、その暮らしを自ら手放す理由はない。下手にお屋敷を出ていくより、残った方が生き残れる確率は格段に上がるのだから。


 そしてジェシカ様も、その手紙が届くまでの間にルカ先輩を家族兄弟のように想い、……というよりお話を伺うにむしろ精神安定剤がわりとし、その存在に依存しきっていたようである。家族がいるのなら帰してあげないと可哀想だろう、と諭されるも大泣きしたそうだ。

 当時の言動を恥じておられるようで、ジェシカ様は何度伸ばしても寄ってしまう眉間の皺を、グリグリと拳でほぐし続けていた。

「あの頃はいっぱいいっぱいだったのよ、……言い訳にもならないけれど」

と、溜め息交じりに仰った。

 はたしてそれは先輩の都合だったのか、それとも号泣するジェシカ様が哀れに映ったのか。とにもかくにも、

「ここに置いてください。お仕事をください、なんでもします」

と言い、そのまま働いてもらうことになったそうである。

 ふと思い出した。

「先輩はご実家に仕送りをなさっているそうですが」

「一応、身内だと思うってあの後ルカが言った手紙があったの。ずっと仕送りだけしてるみたいね。まとまったお休みも取ろうとしないし」

……一度も帰ってないんじゃないかしら、と心中複雑なお顔をなさった。


「そうだ! そのころの写真もあるのよ!」

 パッとお顔を上げ立ち上がると、壁際へと寄って行かれ、そこからにこやかに手招きされた。キャビネットの上にはいくつも写真立てが乗っていた。旦那様方との家族写真、使用人と思しき紳士と馬に乗っている写真、中と外の使用人たちそれぞれの集合写真、まだ若いリック氏とその腰に取りついて笑っている幼いジェシカ様の写真。

「どれも素敵なお写真ですね」

 色調がどこかセピアで、昔の写真が多そうであった。最近のものは見当たらない。

「お気に入りはこうやって飾るんだけど、人に見せる機会がなくてね」

見てもらえて嬉しいわ、と少しはにかんで笑った。

 写真立てのひとつに、ジェシカ様と同じ癖のある栗毛の娘子が並んで写っているのが目についた。フリルのついたワンピースを身に纏い、満面の笑みを浮かべた幼いジェシカ様、そしてもう片方はオーバーオールを着て顔を手で覆い、完全に表情を隠していた。その前髪には不器用にリボンが結ばれており、斜めに傾いでいた。

 そういえば、私はジェシカ様以外のお嬢様方とはまだお会いしたことがなかった。

「こちらは姉上様とですか。おふたりともお可愛らしいです」

プッと噴き出された。

「やだ、お姉様じゃないわ! 私とルカ!」

「、ルカ先輩ですか?」

確かに片方はスカートではないが、どうみても女児ふたりである。

「……。先輩がまさか、このような愛らしい格好をなさるとは」

「可愛いでしょ? なんだか大きくなっちゃったけど、昔はルカも可愛かったのよ、女の子みたいで」

意地悪だってぜんぜん言わなかったんだから、と口角を上げた。

 私の知るルカ先輩は、身長も170なかばはあろうかという生真面目な一般男性である。まさかこのようにジェシカ様に遊ばれた過去がおありとは。想像もつかないことであった。

「そのころは私、妹が欲しくてね。あの頃はすごく我儘だったから、無理言ってルカに可愛い服を着てもらったの。でも珍しくゴネてゴネて、ワンピースもスカートも履いてくれなくて」

折れてくれた限界がこれよ、と楽しそうに笑った。

 ジェシカ様は懐かしそうなお顔をして写真立てに手を伸ばすと、裏蓋を外した。中からさらにいくつかの写真が出てきて、ほら見てこれも可愛いでしょ! と差し出された。


「この残像もルカなの」

「残像も……」

 確かに残像であった。可愛い可愛いとジェシカ様は頬を緩ませ仰るが、ルカ先輩の顔がまともに写っているものは1枚もなかった。逃げ回っていたのか躍動感しかないデニム地のなにかや、首を振り続けていたのか頭部がブレブレで、もはや何が何だかわからないような写真ばかりだった。

「こんなに嫌がったのは、後にも先にももうないかも。ずっと涙目でふくれっ面しててね。全部顔も隠してるでしょ」

懐かしいわ、と写真に視線を落としたまま優しく目を細めた。

 それだけ嫌がったのに強行した辺り、幼いジェシカ様もなかなかの暴君ぶりである。されどジェシカ様の中では幸せな記憶となっているらしい。

 残像との記念写真は、家族写真の後ろにひっそりと飾られ直された。

「……。このお写真が飾られていることを、ルカ先輩は」

「まさか! 知るわけないでしょう? きっと怒るわよ」

ルカには内緒にしてね、とどこか照れくさそうに頬を染めた。


 ケロリと笑顔になって私を見た。

「結構時間が経っちゃったわね、レオナルドは時間大丈夫?」

食事をとる時間はもうなさそうだが、1~2食抜いたとて死ぬわけでもない。主人が第一である。

「問題ございません。お話は他に」

「いまので全部よ」

承知いたしました、と笑顔で返答しつつ、本当だろうかと思った。

 ただの思い出話で終わってしまったし、いささか情報が足りていない。

 されど、お話しされたくないものを聞き出すのは本意ではなかった。私は主人の意思に沿いたいのだ。誰かから自分で聞きだすほかなさそうだ。

「そういえば、お給金の前払いをした理由を伺っても?」

「前にルカが出ていくって言ったのが5年前なの。完全に私のせいなのだけど」

ギルが入る少し前だったかしらと続き、首を捻った私に、ケロリと口を開いた。


「『お婿に入ってほしい』って言ったの」

 耳を疑った。絶句するほかなかった。


「貴族の娘って嫁ぐか婿を取るか、上位に奉公に出るか事業を起こすか、それくらいしか選択肢がないでしょう? どこかにお嫁に行って出歩けなくなるくらいなら、このまま慣れ親しんだうちで過ごしたいなって思っていたの。傍にいてくれた皆と離れるのも嫌だったし。

 それで、残るにはそれなりの必然性がないといけないから、お婿が欲しいなと思っててね。ルカはお父様にもお姉様方にも可愛がられてきたし、屋敷にもすっかり馴染んでいたし、私もルカが相手ならこれからもずっと大事にできると思ったから、ちょうどいいかなと思ったの」

言葉もない私に、平気なお顔をして首を傾げた。

「そっか、レオナルドはまだ若いから聞いたことないかしら?

 あの頃は格差婚が流行り始めたころだったの。真実の愛っぽくて素敵って、すごくもてはやされてね」

……てっきり帝国の旦那様のご冗談かと思っておりました、と口からまろび出るところであった。なんと前衛的な方か。

「でもうちには早すぎたみたい。リックは真っ青になるし、ダグはひっくり返って腰を打っちゃうし、ルカも辞表を書いちゃって」

皆を困らせるつもりはなかったのだけど、などとあっけらかんとして述べられた。


 未婚の令嬢の結婚観というものは、概ねふたつに分けられる。

 物語のようで憧れる、想い患い夜も眠れぬ恋とやらを一度はしてみたい、政略婚であれできればお相手と想い合いたい、と夢やロマンを求める一派。

 そしてもう一派は、恋愛感情というものは物語の中にのみ存在する幻想で、まさか自分の胸に湧き起こるものだとは露ほども思っていないリアリストである。

 お若い方にしては珍しいが、ジェシカ様はどうやらリアリスト側であるらしい。

 ――互いの条件が合致し、協力し合って暮らせればそれでよい。

 政略結婚を前提として育てられてきた貴族の子は、その胸中はどうあれ、結局は割り切ってそれなりのお相手と添い遂げるのが常道である。

「お父様は今と同じで、ルカ本人が決めたことだからって辞表を受け入れちゃってね。出ていこうとしたのを、私が前払いで雇い直したの。

 だって申し訳ないじゃない、私のせいでルカが辞めなきゃいけないなんて」

 ジェシカ様は当時ご自分で持っていた額から、ルカ先輩のお給金を払ったそうだ。真面目なルカ先輩のことだ、年単位の前払いをしたとて持ち逃げするような真似はすまいと踏んだのだろう。

 そしてもうすぐ、その5年が経ってしまう。現状でルカ先輩は、期限が来たら出ていくことを希望しているという。


 ジェシカ様は私を見据えた。静かな瞳だった。

「あれ以来、辞めるなんて一度も言ったことなかったのよ。

 なのに、最近になって急に出て行くって言い出したの。……誰にも理由を言わないなんて、絶対におかしいわ。

 もしなにか困ってるなら、それで出て行くって言ってるのなら、少しでも助けになりたいし守ってあげたいのよ」

ずっと一緒にいてくれたんだもの、そのくらいはしたいの、と続けたジェシカ様の瞳は、私の知らぬ強さを放っていた。

「――ルカをうちに連れて来てしまったのは私なの。

 子供の我が儘だったにせよ、私には人ひとりの人生を変えてしまった責任がある。望むなら、死ぬまで雇う心づもりも用意もあるわ。もう苦労させたくないの」

どうか手伝ってね、と私の手を掴んだ。触れた手はほのかに震えていた。


「? ……レオナルド?」

不安そうなお顔を見て、慌てた。

「確かに承りました。お任せください、必ずやそのように」

頷いてみせると、ほっとしたお顔になり、小さくありがとうと仰った。

「ジェシカ様は先輩を大切に思っていらっしゃるのですね」

 親しげだとは思っていたが、ジェシカ様は私を含む他の誰に対しても、分け隔てなくお優しいのだ。仲が良いのは幼馴染だから、の一言で充分納得していたくらいだ。

 まさかここまでの熱量を隠し持っていたとは、考えてもみなかった。

「ええ、ルカが好きだしとっても大事よ」

変わらぬ笑顔を見て、こちらは目を丸くするほかなかった。

「そうよね、使用人の中でそういう差をつけられたらいい気しないわよね」

もちろんレオナルドもすごく大事よ! と力強く仰った。


「……もしかして、あなたもなにかこわいことがあったりする? もちろん私には言いにくいこともあるでしょうけど」

 お嬢様は親切であった。私のことも、他の使用人と同じく家族親戚のように扱ってくださるつもりなのだろう。

 大旦那様やイリーディアお嬢様と同じ忠誠は、まださすがに誓えないが。私はこのお屋敷を大いに好いていた。

「――いいえ。こわいことなどなにも。

 こちらは初めて住むお国ですのでまだ少し緊張はしますが、楽しみなことのほうが多くあります」

お気遣い痛み入ります、と頭を下げると、ほっとしたのか表情が優しくなった。

「なんでも言ってね。せっかくうちで働いてくれてるんだもの、もし困ることがあったら助けてあげる」

 それは、嘘や世辞ではなく本心からの申し出だとわかった。

「ありがとうございます。なにかあった際には、きっとご相談します」

えぇ、きっとよ、と笑顔で言った。ご厚意は受け取っておいた方が、喜ばれるだろう。


 ふと思い出し、私は口を開いた。

「実は、ギル先輩からお食事に誘われているのですが」

あらいいじゃない楽しそうね、と微笑まれた。

「市場の女性たちとご一緒するというお話でして」

「ルカも行くの?」

「はい、3人でまいります」

「そう」

 それは、ただの思い付きであった。

「いらしたどなたかと、ご縁が繋がるよう取り計らいましょうか。

 離れがたくなれば、お屋敷をお辞めになるのも考え直してくださるかもしれません。それでしたら後押しするだけですので簡単に、」

「駄目よ」

私は口を開いたまま固まった。貴族の真顔の迫力たるや、言葉を失うに充分なものだった。

「それは駄目」

「はい」

素直すぎるほどきちんと頷いた私を見て、肩を竦めた。

「ごめんね、意地悪で言ったんじゃないの。

 ただ、ルカから浮いた話なんて聞いたことがないから、なにをしたって誰にも靡かないだろうなと思ったの」

「さようでございましたか。考えが足りませんでした、どうかご放念ください。

 先輩は別段楽しみにされているご様子でもありませんでしたし、私が勝手なことをしては、確かにきっとご迷惑ですね」

「乗り気じゃなかったの?」

「ええまったく。3人行くと、ギル先輩が先にお話をまとめていらしたのです。

 すでに頭数に含まれているのならば、断っては相手側に失礼になるとルカ先輩は仰っていました」

「やっぱりね! そうだと思ったの!」

 明らかにそのお声が明るくなったので、私は胸を撫で下ろした。

「お望みでしたら、多少の妨害も可能です。いかがいたしましょうか」

何事もなかったかのように穏やかに目を細め、首を振った。

「ううん。人付き合いは大事だもの、楽しんできてね」

「かしこまりました。進捗があれば改めてご報告いたします」

ええ、よろしくね、と微笑んだ。


「先輩が出ていかれることに関してですが、情報収集をしてよい範囲、避けた方がよい範囲などはございますか」

「それは大丈夫。皆、知ってることだから」

と続き、私は言葉を失った。このお屋敷の話の早さは、使用人の間で起こったことだけではないらしい。

「皆様ご存じなのですか」

頷いた。

 私が暴れまわっていたことも、だいたいの使用人が知ってるわと仰った。

「なんだったらルカ本人に聞いてくれてもいいわよ」

すっごく嫌がると思うけど! と、それは楽しそうなお顔をなさった。


***


 しばらくしたころ、低く腹の音が鳴りジェシカ様が笑った。

「ごはんまだだったのね。なにか持ってこさせる?」

「、めっそうもございません」

後方で、焦れたような荒々しいノックの音とほぼ同時に戸が開いた。肩を怒らせたリック氏が私を睨みつけていた。

「よくも2階にまで上がりやがったな」

「リック! 違うのよ、私が無理言って来てもらったの」

「そのような無理が通ることがおかしいのです」

 慌てて立ち上がったジェシカ様は、叱られた子犬のようにしょぼくれた。リック氏はその姿を見てぐっと口を噤み、猛然と振り返った。すでに叱られきっていたのか、そこには青くなったジャン氏がいた。180を越える体躯がひと回り小さくなったように見えた。

「……主人の言いなりになるのが使用人だとでも思ってるのか? そんな態度でなにかあったらどうする気だ」

「ごめんねリック、心配かけて悪かったわ、話を聞いて」

「聞きません。不用意な行動はなさらぬよう、何度も申し上げたはずです」

その強い言葉に、ジェシカ様はまた視線を下げた。

 怒りの矛先を失った瞳とかち合ってしまい、私は慌てて頭を下げた。

「不徳の致すところです。ご心労、及びご迷惑をお掛けし申し訳ございません」

リック氏は腕を組み私を見下ろした。

「未成年だからとなんでも許されると思ったら大間違いだ。世の中にはやっていいことと悪いことがある。それと同じで、入っていい場所とそうじゃない場所がある」

望まれたからとどこへだって入るものじゃない、わかったな、と子供にするような叱責をされた。

「肝に銘じます。このたびは、申し訳ございませんでした」

「……もしまた中に入って来てみろ、雇用名簿からお前の名を消す。……昼休憩は終わりだろう、仕事に戻れ」

 リック氏がついた溜め息は幾ばくか軽くなっており、ジェシカ様とジャン氏がちらりと目配せをしあうのが見えた。

「あのね、私が急に呼びつけたものだから、ふたりはまだごはんも食べてないの。レオナルドなんてお腹鳴らして可哀想なのよ、食べに行かせてあげて」

「食わずに来たのか。……おい、どれだけここにいたんだ?」

怒りの再燃した声にビクともせず、ジェシカ様は小首を傾げた。

「たったの3分よ。そうよね、ジャン」

「ええ確かに。そういうお約束でしたね」

リック氏は物言いたげであったが、面倒くさくなったのか「さっさと食って来い」と言った。

 ジェシカ様はひょいとこちらに顔を向けると、器用に片目を瞑った。次いで、眉間の皺が戻らないリック氏を覗き込んだ。

「ごめんね、反省してる。今日はもう部屋から出ないから」

「過ぎたことを責めても仕方がありません」

ですがレオナルドに次はありません、と続いた言葉に、重々しく頷かれた。


 なかば追い出されるような形で、お部屋を後にした。

 一度、裏口から外へ出た。馬小屋にはまだ先輩方は戻っていないようで、遠目ではあるが人影は見えなかった。並び立って厨房へと向かう道すがら、ようやく顔色の戻ったジャン氏が口を開いた。

「……どうせあれだろう、ルカが出ていくのを止めてほしいとか言われたんだろう。無駄だからやめときな、出ていくっていうやつは誰がどう言ったって出るもんだ」

「ご忠告痛み入ります。されど、お引き受けした以上は最善を尽くす所存です」

困ったもんだ、と嘯かれた。視線の動きから、周りに人がいないか見ているのだと察した。

「それで? どこまで聞いたんだ。だいたい聞いたのか?」

「全部だと仰っていました」

そうか、と一言言った。

「いまでこそあの距離感だけど、昔はリックやルカにお嬢様はベッタリでなぁ。

 でもあの頃のリックは、親父さんが余所に出て行ったばっかりで忙しくてな、フォローしきらなかったらしい。

 お嬢様が余計ルカばっかりになって、それから色々あったのも全部、自分が至らなかったせいだと思い込んでるんだよな」

難儀なやつだよ、とジャン氏は溜め息を吐いた。

「さようでございましたか……」

「言い方とかキツいだろう、慣れてないから加減がわかってないんだよ」

お前も色々言われてるだろうが、あまり恨まないでやってくれ、と軽く肩を叩かれた。


***


 最近は、以前にも増して日が落ちるのが早い。夕を待たず日中から風も冷たくなってきており、季節の変わり目を感じさせた。とはいえこちらの冬は朝わずかに霜が降りる程度、帝国の寒さを経験してきた私が困るほどではないだろう。


 見渡したが、平素の賑やかな声はなかった。

「ところでギル先輩は」

「幹事だから先に行った」

さようで、と答えつつ、幹事は先に行くものなのかと思う。

「こういった集まりはよくあるのですか?」

地域の方とお食事ですとか、と続けると首を振った。

「いや、わりと久々だな。今回はあれだろ、お前の交友関係広げるのと」

ん、と口を結び言い淀んだ。

「? なんでしょう」

……まぁいいか。怒らないだろどうせと呟いた。

「あいつ、付き合ってた子に少し前にフラれてしばらくショボくれてて」

「……、なるほど……」

間の抜けた返事をしつつ、こういうときなんと返事をするのが正解なのだろう、と内心思う。

「お前も知ってる店だ。市場のちょっと辛い系の、親子でやってるとこなんだけど。背のスラっと高い娘さんがいるだろ」

 あぁあの店かと思う。

 しかし本当に、このお国ではなにもかもが筒抜けである。春のお国や帝国ではありえない話であった。親が選ばぬ相手との色恋話なんて内密にするものだとばかり思っていたが、こうも開けっ広げでいいのだろうか、と恐ろしくなった。

「娘さんにお会いしたことはありませんが、お店では幾度か食べたことがあります」

「ギルと顔合わせんのが気まずいのか、ずっと裏に引っ込んでるんだ。最近は親父さんしか店先に出てない」

前までは娘さんも接客してたんだけどな、と続いた。

 目隠しの布から顔も出さず、腕だけ伸びた姿を思い出した。そういった理由だったか。

「なんていうか、ギルもようやく吹っ切る気になったんじゃねぇかな。フラれたっきりうらぶれてたら、あの娘さんだって気ィ遣うだろうし」

「そうでしたか」

まったく理解できないが、口からそれっぽい言葉を出して頷いた。

 仕事に私情を挟んでどうするのだ。なんの関係もないだろうに。人間関係とは面倒なものである。

 ……だが市場の娘ですらそうなのに、雇われたままジェシカ様と顔を合わせ続けているルカ先輩の心臓は、いったいどうなっているのだろう。もはや血が通っていないのかもしれない。


 それで、だ、と先輩は声を潜めた。

「来たばっかのお前に頼むのも悪いけど、適当にギルに花持たせてやってくんないか。前付き合ってた子とはかなり仲良かったから、あれで結構落ち込んでたりするんだ。その代わり、お前の飯代は俺が持つ」

悪い話じゃないだろ、と言われ私は秘かに安心した。

 ジェシカ様への報告が気がかりだったのである。あのご様子では、もし先輩に女性とのご縁ができてはまた真顔になられるのではと思ったのだ。食事代が浮くのもありがたい限りである。

「そういうことでしたら喜んで。微力ながら、助力は惜しみません」

お前ほんと素直だね、と言われ、少しだけ勇気を出した。

「……しかしルカ先輩、そんなことを仰ってよろしいのですか? 普段はこれでもかなり節制して食べているのです」

「!? ほどほど! ほどほどに頼む、給料日前だからな?」

「冗談です」

なんだよ焦った、と笑ってもらえてひと安心である。

 私にとって、冗談とはかなり難度の高い技術である。お国によって面白さの基準が全く違うし、そもそも冗談を言い合うような生活をしたことがなかった。

 くだけた言葉遣いも少しづつではあるが徐々に会得しつつある。これは大きな進歩である。

 今回、幸いルカ先輩は女性に気をやるつもりがなさそうであるし、ギル先輩の補佐をしつつ会話の練習に努めるか、と心に決めた。


 訪れた飲み屋街では、早くもどの店先にも赤みを帯びた街灯がついていた。

 賑やかないくつもの話し声がデタラメな多重奏のように響き、外の肌寒さとは裏腹に店内はどこか熱気が籠っていた。我々より先にギル先輩がこちらに気が付き、ご機嫌な笑顔で大きく両手を振った。人と椅子を避けながら歩を進めると、すでに女性陣は到着していた。

 話の達者なギル先輩が早々にふかしていたらしく、それぞれが肩を震わせ目尻を拭っていた。その中に、見知った顔があった。店先で見たものと同じ、愛想の良い笑顔だった。今日は髪を結っておらず、癖のない黒髪が肩甲骨ほどまで伸びていた。結い跡だろうか、毛先が一部跳ねていた。

 目が合い頭を下げると、そちらからも手を振られた。

「あれー? 偶然ね」

「こんばんは」

「知り合いか?」

ルカ先輩の声に頷いた。

「よくお世話になっているお花屋さんです」

「私はただのバイトなんだけどね、いつもありがとうー」

「へぇ、世間は狭いな」

上着を脱ぎ抱え、促されるままにギル先輩の隣の席へと腰をおろした。


 ここからは怒涛であった。

 まず第一に、私はまだ複数人との会話に慣れていない。今回は私含め6人もいるのである。行き交う言葉の早さ、そして情報量を想像してみてほしい。まず聞き取れるわけがない。いや、正確には聞き取れはするのだが口を挟む隙などなかった。

 旦那様とジェシカ様との初対面の折に思った、強肩による手榴弾のぶつけ合いという言葉が改めて脳裏を駆け巡っていた。

 まるで影武者をしていたころに戻った気分である。イリーディア様のように、微笑んで会話に耳を傾けていればよいのだから。されどそのときと違い自由に食事をしていいのだから、気楽なものであった。

 

 輪の中で口角を上げていると、ふと目が合った。机の向こうから椅子を引っ張りつつ、先ほどアリアナと名乗った花屋が寄ってきて座り直した。

「あんたよく食べるのね? これも食べる?」

鶏肉のなにかが乗った皿を促されたので、素直に受け取った。

「ありがとうございます、いただきます」

実際食べるのは食べるのだが、私が食べ続けているのは空腹からではなく、到底口を挟めそうにないからである。

「お茶なの? 未成年なんだっけ?」

酔っ払いばっかで引いてない? と問われ首を振る。

「お酒はご一緒できませんが、賑やかで楽しいです」

そ? よかった、と破顔された。

 以前の私なら騒々しさに気が狂いそうになっていただろうが、先輩方に連れられたおかげか飲み屋の喧噪にも慣れてきていた。

 気を遣わせてしまったか。問う前に察したのか首を振った。

「里にいる弟があんたくらいの年でさ、自分より若い子がいるとなんか様子見ちゃうのよね」

あんたとは掛け離れた悪ガキだけど、と遠い目をした。

「弟さんがいらっしゃるのですね」

「うん。3人」

3人も。目を丸くした私に、溌剌とした笑顔を見せた。

「私は出稼ぎってやつ。普段あんまり飲みに出ないんだけど、息抜きにどう? って誘ってもらったの」

久々だから胃にお酒が染み渡るわ、と笑った。

「そっちはー? 何人兄弟?」

「おりません」

「へぇ、ひとりっ子なんだ! 珍しいわね!」

どう言ったものか、と思った。

「ひとりっ子と申しますか、そもそも親がおりません」

笑顔が一瞬で固まった。

「、ごめん」

孤児なんて珍しくもないだろう。

「お気遣いなく。物心ついた折にはすでにおりませんでした」

より一層深刻な顔をされてしまった。

 心からなんの感情もないのだが、かえって誤解されてしまったようだ。そういえば、以前にギル先輩にも同じ顔をされたことがあった。会話とは難しいものである。

「……こういうとこがいけないのよね」

想像力が足りないってよく言われるのよ、とアリアナ嬢は肩を落とした。

「気にしていないことを気にされては困ってしまいます」

だいたい、この身を嘆くなど大旦那様やイリーディア様に失礼極まりない話だった。

「ひとえに恩義のある方々のお陰で、ここまで生きてこられましたので」

そっか、とホッとした顔をされた。


 ギル先輩の話術の賜物か、流れで数軒ハシゴした。

 そのあとは各々女性陣を適当な場所まで送り届け、流れ解散の運びとなった。結局最後まで話していたアリアナ嬢を送り別れると、そのまま夜風に吹かれ帰路についた。平和なことだ。

 そういえば、と思う。

 飲み会の途中から背中に違和感があったのだ。歩きながら上着を脱ぎ確かめる。探すまでもなく、上着の表面にあった鈍色をつまみあげた。

 盗聴器である。

 つけ方が素人だった。こんな場所につけてどうするのだ。

 されど果たしてどうしたものか。これはお屋敷へ報告すべきなのか、だが報告したことで「なぜ盗聴器なんて物を知っているのか」と言及されたら面倒である。


 そもそも、これは誰を目的としたものなのか。いまの主人だろうか。それとも、前の主人だろうか。

 胃の腑と胸の奥が突然ぐらぐらした。体中の毛という毛が逆立ち、血が逆流する心地がした。


 ――身の程知らずが。


「レオ」

振り返ると、飲み屋街の方角からルカ先輩が手を振っていた。

「早いな、もう戻ってたのか」

なぜか返事が出来なかった。

「なんで上着脱いでんだよ、冷えるぞ」

「……いえ」

夜風の冷たさに反し、体の中は暗く煮えたぎっていた。脳だけが冷静で、話さずにおくべき線を冷静に見極めようとしていた。

「? 調子悪いのか大丈夫か?」

と足早に寄ってきた。

 胸の前で握ったままの手を見て首を傾げられたので、私は素直に手と口を開いた。

「上着についておりまして。なんだろうなと」

 掌の中を覗き込むと、先輩の顔は秒速で真顔に変わった。何も言わず引ったくると、地面に叩きつけ踏み潰した。その目には私を上回る怒りが篭っていた。

「俺が戻るまでここで待ってろ。上着の裏とか裾とか、他にも付けられてないか探して壊せ。ギルに会ったら引き留めて同じように伝えろ、いいな?」

私が頷くより先に、リック呼んでくる、と言い残し闇の中へと走って行った。


続.

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