主よ、人の歓びよ!

@ihcikuYoK

第1話 影武者、職を失うこと

***


 人生が終わるような心地がした。

 少し前から徐々に喉の調子がおかしくなっており、日々絶望感を覚えながらも騙し騙し過ごしていたのだが、ついに仕事を止められたのだ。


 事実上の戦力外通告である。


 それは、ようやく呼吸の止まった招かれざる客から手を放し、いつも通り何食わぬ顔で旦那様の元へと戻ろうとしたときのことであった。唐突にこの客間へと入って来た見慣れぬ男は、息絶えたばかりの無法者の姿を認めても眉一つ動かさず、いやに厳かな声で私の声変わりの指摘と任期満了の通達をおこなった。

 治る兆しの感じられない喉の不調から半ば予感めいたものはありつつも、淡々と仕事をこなすことでその不都合な真実から目を逸らし続けていた私には、もはや心の準備も何もありはしなかった。


 思えば長いようで短い年月であった。

 春のお国の貴族子女の影武者となるべく、物心がつく前から様々な教育と訓練を施され、やや年上であるお嬢様との年齢差や性差もあり、実際に成り代わるお仕事をいただけるようになったのは私が12の年。

 そこからお嬢様の嫁ぎ先である帝国へも陰ながらお供し、本日に至るまで2年に渡り影武者としてお仕えしてきたわけだが、声変わりと共についにその任を降りることとなった。随分とあっけないものである。


 役目を終えたのだから、お嬢様と同じ見目で無闇に過ごすわけにはいかない。絨毯の上ですっかり沈黙した男の死体もそのままに、客間で手早く着替えることとなった。

 寄越された髪紐で腰まで伸びた髪を一つにまとめ上げ、パールのイヤリングとお嬢様の瞳と同じ色をしたアメジストのネックレスを外して渡す。立て襟のリボンとボタンを手早く外し、開いた胸元に手を突っ込んだ。詰め込まれた布ごと懐刀を引っ張り出し抜き放つ。結い上げた根元からバツンとひと息に切り落とすと、数度畳んだ髪束は懐刀と共に男に引き渡した。

 促されるまま、今日の帝国の曇天のような深く濃いチャコールカラーのスエードブーツもさっさと脱ぎ、お嬢様の御髪と同じ、そして故郷春のお国の日差しのような淡い陽光の色をしたセットアップワンピースを脱ぎ捨て窮屈極まりないコルセットを外し、着用していたすべての品をその場でまとめて返却した。

 コルセットを外した途端、自然に肺へと入ってきた帝国の空気は屋内とはいえ凍えるほど冷たく、髪を切られ突然外気に晒された首元も、その残酷なほどの寒さに鳥肌を立てていた。


 通達人は、手に提げていたさほど大きくもない黒いボストンバッグから着替えを取り出し私に渡すと、半ば交換するような形で用済みとなった繊細な衣服を雑に受け取った。手際よく詰め込むさまを横目で見つつ、ズボンに足を通す。裏起毛がこそばゆい。

 よくもまぁあのような大きさの鞄に、ボリューム感満載の令嬢用の衣服を詰め込めるものだなと私は感心した。

 宝飾類と違い、先ほど切った私の髪と共にまとめて入れたので、きっとあの鞄ごと焼却処分するのだろうと察した。


 与えられた着替えは、帝国では一般的な黒い肌着類と薄ベージュ色のニット、裏起毛のついた黒いズボンにミドル丈の黒いスノーブーツであった。

 ニットに袖を通すと、まだ現実を受け入れていない体にはムッとするほど暑苦しく、首や顎に触れた繊維はチクチクとして落ち着かなかった。この粗い触感は、帝国庶民がよく着ている安物であろうなと思った。暖かいとはいえ、素材の質が明らかにお嬢様のものと違うので内心笑ってしまう。

 帝国の肌着やトップスニットは独特で、だいたいが伸ばせば口元を通り越して耳まで覆える。通常よりさらに長めのタートルネックのような形状をしている。暖房の効いた屋内では首元でたるませ、外に出るときなどは防寒のため鼻や耳まで覆うという、極寒の地であるこの国独特の品だ。

 この手のニットの値段はピンキリのようだが、他国から来た観光客がケチって凍死する事故が過去に相次いだため、今ではこんな安物でもまぁまぁ暖かいようだ。


 肌着もニットも、一応こちらのお国の特産であるらしい。しかし、他国ではこんな暑苦しい衣類を身に纏う機会はまずない。地元の名品として土産物にしたとて、帝国内でしか需要はないだろうと思う。

 どうも、帝国の民は商売感覚がにぶいようだ。まぁここは他国となかなか関係の悪い土地なので、仕方のない面もあるな、とも思っていた。


 次々と促されるままに着替え終え、さらに与えられたムートンの手袋は、やや悩んだが渡されたジャケットコートのポケットへと無理矢理突っ込んだ。確認用に丸い鏡を向けられたので、寄越された耳まで覆える毛皮の帽子を被りながら覗き込んだ。


 ――なるほど。

 これならどこからどうみても、帝国で見かける小間使いの少年だ。


 この様相であれば、お嬢様との共通点は目と髪の色だけだろう。髪は今しがた短く切ったこともあり、帽子を目深にかぶってしまえば充分誤魔化しがききそうだったし、澄んだ紫色の瞳にいたっては、この大陸ではさほど珍しいものでもない。着ぶくれ上等の帝国男子の格好さえしていれば、まかり間違っても見間違われることはなさそうだった。

 そもそもお嬢様と直接相対できる人間など数えるほどしかおらず、そして私はもはや小間使いの少年扱いになるのだから、お嬢様の側仕えとすら話す機会はないのでまずは一安心である。


 私に死刑宣告に近い引導を渡し、ご丁寧にも帝国庶民の少年用の着替えまで持参してきた男は、私が着替え始めてから終えるまで一言も発さずその場で待っていた。目が合ったので、頷いてみせた。

「――およそ問題ないかと存じます。どなたに問うても小間使いと仰るかと」

こちらの返答に肯き返すと、変わらぬ鉄仮面のままようやく口を開いた。

「後程、こちらの主人より今後に関し説明があろう。しばし自室で待ち、一刻ほど後この場に戻られよ」

「承知いたしました」

その間に死体の後処理がなされるのだろう。

 その他いくつかの用件を淡々と伝え終えると、男は振り返りもせず堂々と部屋の扉から出て行った。

 会話はしたものの、まるで記憶にない人間であった。くすんだ茶色の髪と瞳、また不愛想な表情はまさしく帝国男のそれであったが、あれはおそらく春のお国におられる大旦那様の、……きっとお嬢様のお父上様の使いだろうと推測する。

 なにせ、『こちらの主人』と言ったのだ。

 しかしまさか大旦那様が、ご息女の一影武者の声変わりの時期まで把握なさっていたとは驚きだ。あのお方がご存知でない事柄など、もはやこの大陸に存在しないのかもしれなかった。


 男の足音が確かに遠のいてゆくのを聞き、自分の口からため息が漏れそうになるのをなんとか堪えた。

 ……無事、お嬢様をお護りしきったのだ。職務を全うしたのだから、未練などない。

 言いつけ通りこの場を去るべく暖炉横に膝をつき、そして今までの癖で、着てもいないスカートの裾をたくし上げようとしていた自分に気が付き苦笑いする。二度と履くことはないだろう。

 空を描いた手を軽く握り直すと、やや煤けたレンガを順番に小さくノックした。


 ――トッ、トッ、

 ――トスッ!


 音の変わったレンガに爪を引っ掛け、丁重に引き抜きやや角度を変えて差し込み直す。少々力を込め横にスライドさせると、80㎝四方の暗い隠し部屋が開いたので片目を瞑り身を滑り込ませた。中からまたスライドし直し、内側からレンガをまた外し角度を直して嵌め込む。一気に暗闇となった通路で閉じておいた目を開くと、見えづらくはあるものの多少は目が効いた。

 隠し部屋の壁を手探りで順番に押していくと、カタンと小さく音がなったのでまた手を突っ込む。触れたレバーとおぼしき物を引くと、また狭い通路が出てきた。振り返り閉め直した隠し扉を探ると、石がいくつか嵌め込まれており裏返すとほんのりと発光していた。当たり前のように取り外せたので、そのまま一つ拝借していく。

 この隠し部屋と通路を使うのは、今日が初めてであった。いまいち勝手がわからず心配であったが、幸いなことに他の通路とそう変わらず問題はなさそうであった。


 春のお国の貴族屋敷ほどではないにせよ、帝国軍家のこのお屋敷にもあらゆる場所に隠し通路や隠し扉が存在した。

 おそらく私のような影武者が過去にもここのどなたかに存在したか、暗殺者や人攫いが現れたときの家人の逃げ道として作っておいたかのどちらかだろう。こちらのお屋敷では、このような仄暗い通路が各所に巡らされており、仕事がしやすくありがたかった。

 数多あるここ以外のどの隠し通路を使っても、必ず岐路の先の1つは屋敷の外へと繋がっており、利便性も非常に高い。……そのぶん屋敷内は冷えやすくなってしまうわけだが、この寒い帝国では幸いどんなに小さな部屋でもきちんと暖房設備がある。


 ふとどこからか流れてきた隙間風が首をかすめ、私は身を縮こませ口元までニットを引き上げた。帽子を受け取っておいてよかったと思う。耳が凍って取れていたかもしれない。ついでにジャケットから手袋を引っ張り出した。

 なにせこの帝国の寒さは大陸一である。ひとたび外に出れば、数時間の内に綺麗に氷漬けされた人型の雪だるまになれる。指先や足の指が壊死したくらいの人間なら、外を歩けばいくらでもいる。まさしく死と隣り合わせの、寒さの厳しい土地だ。

 しかし、さすがの私も狭い隠し通路での凍死は御免である。なにより。お嬢様の頭より高い位置で、しかもなんの危機とも関わりない場所で息絶えるなど、影武者としてのプライドが許さなかった。

 頼りない光源を片手に、慣れぬ道をなかば手探りで計50メートルほど移動した。下働き用である一階裏手の一角、そのさらに角の隠し部屋のちょうど天井裏へと辿り着いた。……つもりである。


 ブーツの爪先で戸の存在を確かめると、いつもと同じようにそのまま数センチ横へとずらす。隙間から注意深く覗くと、確かにそこは私にあてがわれた部屋であった。

 いつもの癖で五感を総動員してみたが、特に変化はなさそうだった。不思議な心地がした。

 ……なにもない?

 天井からぶら下がり、足音に気をつけつつ静かに床へと飛び降りる。薬物のにおいもなし、しかけ罠もなし。どうやら本当になにもなさそうだった。


 およそ不思議なことである。

 てっきり、このまま処分されるのだとばかり思っていたのに。


 影武者というものは大抵、最初から存在していないものとして扱われる。戸籍はもちろん、血縁関係も存在しない。少なくとも私はそれらしいものと関わった覚えはなく、他の影武者候補の少年少女たちにも、そういった存在はなかったように思う。

 概ね、見た目の似た孤児や遠縁の親戚の余り子辺りを拾ってきて、うまく仕立て上げるのだろう。

 正直なところ、私はその辺りのことに対して特になんの感情も抱いていなかった。

 もちろん、途中で奪われでもしていたら悲しくも思ったのかもしれない、幸せそうな比較対象があれば寂しくも思ったのかもしれない。だが最初から周りにそれらしき者がおらねば、所詮こんなものである。

 こんなものであるからか、私は自分が殺されるかもしれないと思っていても言われた通りこの部屋に戻ってきたし、そうなるかもしれないことに対してもなんとも思っていなかった。

 ……というより、むしろ心配すらしていた。既に役目を終えたというに、貴族の内情に触れた人間を、こんな風に野放しにしておく理由がどこにあるのだろう。大旦那様やお嬢様に不都合が生じたらどうするのだ。

 

 手袋を取り、隠し通路を通るにあたりついてしまった埃をはたき、ぼんやりと眺めた。なんとなく思い至り、次いで新しく与えられたブーツも見やった。どれもユーズド風の加工がなされているが、おそらく新品である。用意周到なことであった。

 まぁ考えたとて仕方がない。死ねと言われれば死ぬし、どこぞへ行けと言われたら望まれるまま去るだけだ。

 なにせ、この身を投じお嬢様をお護りするというお役目が、私の存在意義が永久に失なわれてしまったのだから。したいことというものも特には思い浮かばない。ならばなにを考えたところで仕方がないと思った。

 せっかく五体満足で生き延びたのにもったいないことだが、己の今後を考えられるような人並みに自我のある人間ならば、そもそも影武者など務まらなかっただろう。事実私は自分の任期中、お嬢様を無事お護りし通せたことに安堵していた。


 ベッドに腰かけ、いつも通り、だがいつもとは違うブーツと帽子を脱ぎ捨て、暖炉をつけるか悩んだがそのまま布団にくるまり、いたずらに時を過ごすことにした。

 そうたたぬうちに先ほどの客間へ戻ることになるのだ。またここへ戻ってこられるともわからなかったし、半刻ほどのためにわざわざ暖炉の火を起こすのは面倒だった。それに、帝国は衣服もそうだが寝具に関してもなかなか本気度が高く、くるまっていれば充分暖かいのだ。これ一枚あれば野外でも生き残れるのではないか、と錯覚しそうになるくらい、どれもこれも出来が良い。

 

 ここはシングルベッドと側机と暖炉とライトが一つずつという、シンプル極まりない部屋であった。屋敷内の他の部屋と比べると明らかに手狭ではあるが、寝に戻るだけなので不満はない。

 窓やわかりやすい出入り口はないものの、帝国での生命必需品である暖炉はきちんと設置されていた。空気の循環はどうなっているのかと不思議に思っていたが、探したら他にも隠し扉や空気穴が無数にあり、うまいこと設計してあるらしかった。

 他の一般的な使用人が過ごす大部屋の横には洗濯室があり、その洗濯室とこの隠し部屋はいくつかの隠し扉を経て繋がっていた。春のお国にあるお嬢様のご実家と違い、このお屋敷は使用人もさほど多くないため、うまくひと気のない頃合いを見計らえばいかようにでもなった。

 使用人たちが集めた他の部屋のシーツ類の山に自分のぶんも混ぜ込んでおけば、一緒にまとめて洗って干してもらえるので大変便利である。洗濯室には当然シーツの替えも潤沢に置いてあり、使用人室の大鍋に作り置きされている食事と共に持って帰ってくるくらいのことは簡単にできた。

 まるで泥棒のような生活ではあったが、この部屋の利便性は思いのほか高く、よく考えてつくられた場所なのだなとつくづく思ったものだ。


 私にここが宛がわれたとき、この部屋には特にこれといった痕跡はなかった。しかしこのような場所があるのだから、おそらくこのお屋敷のどなたかが過去に隠れて使っていた部屋なのだろう。

 旦那様や他の使用人たちが、隠し通路を通ってまでここに入ったり掃除をしに来たりするとは思えないので(そもそも使用人にいたってはおそらく隠し通路の存在すら知らないだろう)部屋に痕跡がないということはその誰かがきちんと片付けてから出て行ったのだと思う。個人的な持ち物はないので、同じように整えて出れば今度こそ私の務めは終了だ。


 現在、この部屋の存在を知るのはお嬢様の夫である旦那様だけである。

 基本的には、お嬢様も私の居場所はご存知ない。なにか御用があるときは臙脂色の羽織をお召しになり、髪飾りに付けられたパールの粒数や、リボンの結い方で時刻や場所を指定される。指定通りに隠し扉の裏でお待ちしていれば、その扉の近くで御用向きを話しだされるか、その場にメモ書きをそっと落とされることになる。

 そうやって用向きを伺うこともあるが、私の主要任務は有事の際にお嬢様と成り代わることなので、対面でお嬢様ご本人とお会いすることは一切ない。これからも、恐らくそんな機会はないだろう。あっても困ってしまう。


 数十分でも仮眠しておこうと思ったものの、珍しく目が冴え、とても寝付けそうになかった。視界の先で、とうに白く燃え尽きた炭が、燻ることもなく暖炉の中で沈黙していた。

 感慨などないつもりだったが、こうも落ち着かないのだ。やはり私は私なりに、任を降ろされたのが寂しかったのかもしれないなと思った。


 ……何故かはわからないが、殺されないということは帝国を離れろとの命令が下るのかもしれなかった。

 帝国のこの厳しすぎるほどの寒さにもようやく慣れてきたというのに、残念なことである。春のお国に戻り再び大旦那様のご意向を伺うことになるのか、それともこのままお役御免となりどこへでも行けと放り出されるのか。だが今更なにを言われても、どうでもいいような気がした。


 この大陸は、大まかにいえば4つの国にわかれている。

 大陸北西に位置するのは、お嬢様の故郷であり、そして私の雇い主である大旦那様がおられる春のお国。国土のおよそ4分の1が海に面す、穏やかな海風の吹き込む温暖な土地である。花産業の盛んな資源大国で、交渉ごとの得意な王政国家でもある。

 春のお国に隣接する国は二つ。

 農耕畜産大国である秋のお国がその南に、大陸の覇者である冬のお国が東に位置し、冬のお国の向こうには砂漠地帯が広がり、さらにその向こうに大きなオアシスを擁する夏のお国、自称神国がある。


 いま現在お嬢様が過ごされているこの地は冬のお国、別名帝国である。

 このとんでもなく寒いお国へと、お嬢様が嫁がれたのは昨年のこと。慣れぬ地で体調を崩してはならないと比較的暖かい時期を選んだそうだが、その日は帝国にしては珍しく晴れ間が広がり、されど空には雪が舞い踊る不思議な天気だった。他国出身の我々からすれば、暖かいと言われたはずなのに、なぜこうも寒くおまけに雪が降っているのだと首を傾げたものだが、寒い日より暖かい日のほうが雪が降りやすいことを知ったのはもう少し先の話だ。雪景色を好まれるお嬢様のために、旦那様がわざわざちょうどよい程度に降る日を選ばれたそうな。

 その心遣いにお嬢様はいたく感激し、「このように人の心も景観も美しい場所があるでしょうか……」と仰った。お嬢様はもともと帝国の冬に強い憧れを持たれていたのだ。


 帝国は大陸で唯一海に面さぬ内陸部にあり、その北には高く大きな雪山が聳えている。嘘か真か定かではないが、季節が巡っても雪が溶けきらず、すぐまた次の厳しい寒さが訪れるため、その標高は年々高くなっているのだとか。

 この地の暮らしの厳しさは他国の比ではなく、度重なる寒波により食糧難に陥りやすく、過去幾度となく危機に瀕してきた。そのたび帝国は武力に物を言わせ、他国へと攻め入り狼藉を働いた。生きるためとはいえ、大陸内での評判は悪い。

 以前から『かじかむ手を温めるのに他国民の流血を使う野蛮国』と表現されていたのだが、先の戦争ではそのあまりの非道ぶりから『薪替わりに自国の女子供に火をつける鬼畜国』との新たな非難の言葉が生まれた。

 その異様な揶揄の真偽のほどはさておき、歴史上で帝国が大敗した記録はない。それだけ帝国の武力が素晴らしいということだが、反対に言えばこの土地にはそれくらいしか育てるものがなかったとも言える。凍れる大地に、作物など実らないのだから。


 帝国と唯一親交の深い春のお国は、武力が心許ない代わりに外交能力に長けており、政治外交的な理由からも帝国民との婚姻に積極的に取り組んできた。不足しがちな食糧なぞ春のお国にある実家から送ってもらえばまず困ることはないし、家族関係を結んでしまえば、自国が危機的な状況になった際も簡単に帝国の力が借りられる。

 春のお国はその南にある秋のお国とのいざこざが起こった際には、それを静めるためたびたび帝国に武力を外注してきたし、帝国も食料や資源を春のお国に頼ってきたため、利害関係は一致していたのだ。

 花産業が盛んである春のお国は大陸一豊かな国でもあるので、食糧難などなったこともない。無論、過去に帝国が侵略戦争を企ててきたことは数限りなくあったが、

『貴殿らの愛する我が国は、我ら春の民あっての豊かさであることをお忘れでは?

 この地の作物の実らせ方や魚の捕り方や他国との交渉術に至るまで、この土地の先人たちが培ってきたものは、拷問されたとて国民の誰も侵略者には口を割りません。

 なんの情報もない慣れぬ地で、果たして貴殿らはこの国の富を享受できましょうか』

と、いつの時代の王族も笑って退け、口下手な帝国を得意の交渉で丸め込み、眉目秀麗な娘や息子に持参品をたんまり持たせ送り出し、うまく誤魔化してきたそうである。

 先の戦争では開戦直後に帝国へ一番に赴き、春のお国の国王陛下御自ら大量の金品と絢爛豪華な国宝を持参し和平交渉をおこなった。

 他国からは『春こそ大陸一の腰抜け、乞われれば自国の花をも冬国へ送り凍らせる大馬鹿者』と笑われたものだが、そのような嘲笑の言葉をも笑って受け流してきた。


 何故、馬鹿にされても笑っていられたのか、おわかりになるだろうか。


 他国が満身創痍となりながら帝国に抵抗するなか、春のお国はというと帝国という脅威を笠に着、平素と変わらず自国で花を愛で育て、茶を啜り暮らしていたのである。


 和平交渉のため帝国へ譲り渡した国宝も、食料や物資と交換という形で戦後すべて自国に取り戻してきた。戦火に落ち国土が荒らされることも人々が蹂躙されることもなく、帝国のように他国から目の敵にされることもない。かなりの金とかなりの食料は失ったが、大陸一豊かな春のお国にとってその程度のものは大した痛手にならない。

 どのような罵詈雑言を飛ばされようが、笑っていられるはずである。なんやかんやほぼ無傷のまま終戦を迎えたのだ。

 先の戦争での真の勝者は、春のお国だったのである。


 あらゆる怨みを一身に背負い大陸の覇者となった帝国は、春のお国からの進言を受け戦後は北の雪山に登山道を整備し、いくつもの宿屋と飲み屋を作り、大陸内で唯一観られる雪景色とそれを堪能しながら浸かれる天然温泉を目玉に(信じがたいことに帝国北の大きな雪山はあれで活火山だそうである)観光大国へと舵を切った。

 それはそうだ。いつまでも他国へ攻め入るにしては、帝国の民は疲弊しすぎた。なにせ先の戦争では大陸全土に喧嘩を売り、国内ほぼすべての男子を脅しつけ動員し、すべてに勝つまで戦い続けてしまったのである。


 そして帝国の疲弊は、軍事力を外注している春のお国の危機をも意味する。

 春のお国の「帝国はイメージを一新し観光大国を目指すべきです、むろん我々もそのための助力は惜しみません」との言葉も、引いては自国の安穏な生活を維持するためであったのだ。


 この密接な関係のある帝国とは真逆に、春のお国と一番縁が薄いのは夏のお国、そこに暮らす国民らによれば神のおわすところであるから神国、である。

 土地が隣接しておらず遠方なこともあるが、それにしても価値観が正反対なのである。軍事力を他国に外注したり、政略婚も状況条件次第で結婚離婚再婚と星の早さで行う、ある種ドライで合理的な春のお国と違い、夏の神国は情緒的でどんなに貧しくとも一度連れ添った相手や家族と過ごすことを望み、他国との繋がりや変化は望まない保守的なお国柄だ。

 感情ベースの夏のお国では、交渉事はあまりきかない。

 明らかな負け戦であったというのに、先の戦争では武力国である帝国相手に最後まで強い粘りを見せた。夏のお国は大陸でほぼ唯一の神子宗教が残る土地でもあり、ちょっとやそっとのことでは曲がらない頑固な気質なのだ。

 帝国まではいかずとも、夏のお国は大陸内では比較的資源の乏しい、国土のほぼ半分は砂漠で構成される渇いた国である。

 その貧しいお国がなぜそこまで頑なに戦ったのか、こればかりはおそらく帝国も誤算であったろう。

 信心の力とはこれほど強大なものか、と私も感心したものだ。


 帝国からの宣戦布告は、

『各国の代表は、交戦の意思なくば帝国皇帝までその旨を伝えにまいれ』

である。

 つまり『持参品によって考慮してやるから、出来る限りの条件と品を持って来いよ』ということである。帝国は武力大国であり、相手がどこの国であれ、やりあってもそうそう負けやしない。だからこそ、ここまで強気な発言をしたのだろう。


 だがその言葉に、夏のお国は激怒した。

 夏のお国の代表は、国王ではない。そもそも夏のお国に王族はいない。厳密に言えば過去にはいたのだが、最後の王は自分より権力を持つ自国宗教のトップより上に立とうとし、それに大反対した国民らによって捕らえられ一族郎党処刑されてしまった。それ以後、国の王族たるものは存在しなくなってしまったのである。

 国民の9割9分9厘が神子宗教を信仰し、その宗教のトップは清廉な神の子であるとされる。国民のほぼ全員がその神子に家族の安寧を祈って過ごし、そしてその日の幸せに感謝してまた祈る。生活は神子宗教を軸に定められ、土地に伝承される祈りも踊りも音楽も、すべては皆の平穏無事を日々祈る神子への敬意や感謝として捧げられるものである。

 だがそれほどまでの信心深さを、我々他国民は、……いや、隣国の帝国でさえまったく理解していなかったのだ。

 帝国からの宣戦布告が神子本人の耳に入る前に、

『雪山の盗賊風情が、あろうことか我らが神子様を自国領土に呼びつけるとは何様のつもりだ、貴様らなぞ砂漠の塵にしてくれるわ』

……となってしまったのである。

 なにせ、自国の王族であれなんの躊躇いもなく手を掛けた過激な宗教観である。なんの思い入れもない他国の王族を相手に鼻息荒く怒り狂うその連中に、勝算はないから考え直せ、と言っても無駄であったろう。


 夏のお国は、終戦したのちも隣接する帝国ととにかく折り合いが悪い。大陸一の都となった今の帝国へも人の流入が圧倒的に少ない。風土云々以前に、あの発言によりひたすら帝国嫌いになったのだ。

 宗教国なこともあり、夏のお国は帝国以外の国ともあまり関わりたがらない。まだまだ未知の土地である。


 昨年、お嬢様は春のお国から凍てつく寒さを誇る帝国の、それも下位の軍家なぞへと嫁がれた。春のお国の次期国王の妻、つまりは次の国母にと期待をされていたお嬢様が、帝国のそれも血生臭い軍家落ちである。

 しかし、それも仕方のないことであった。

 とある事情でお嬢様は6つからつい数年前まで、10年近く他者と会話をすることすらままならなかったのだ。

 王族側もお嬢様の家柄と見目を捨て置くには惜しかったのか、一年ほど待ったものの回復の兆しは見えず、結局お嬢様が7つになる前にそのめでたい話は立ち消えた。

 それは春のお国の貴族同士の潰しあいの果てであった。我々影武者にとっても、身の切られるような出来事だった。


 未来の国母と期待されたお嬢様が、まさかの帝国下位への御輿入れとなり、されど夫となった男はお嬢様にまんまと惚れ込み(お嬢様の気品教養をもってすれば当然のことではあるが)それはそれは大切に、現在も家宝のように扱われている。


 お嬢様は春のお国での張り詰めた生活から初めて物理的に距離ができ、命の危機も大いに減ったからか(凍える帝国の地では、外に潜伏し対象を待つだけで簡単に凍え死んでしまうため、暗殺者も人さらいもどうやら夜更けにはそうそう来られぬようだ)その回復は著しく、随分と明るくなられた。

 こちらへ嫁がれてからのご表情やお声からも、帝国での生活のおかげでお嬢様が以前よりずっとお元気になられたことは、もはや疑いようのない事実であった。


 ――薄ら寒い帝国なぞお嬢様が凍えたらどうするのだ、なにより帝国民は野蛮と聞く、可憐なお嬢様にはまったく似つかわしくない、我々の力が及ばなかったばかりになんたることだ。

 ……と、お嬢様の帝国行きが決まってから日々やるせない思いを抱え過ごしたものだったが、この一年で私の帝国への印象はまるっと変わった。

 少なくとも私は、帝国の民が手を血で洗う様は見たことがないし、薪代わりに女子供を暖炉に投げ入れる様も見たことがない。

 口数が少なく愛想もなく無表情で、小さな声で呟くように話すその姿は確かに辛気臭く不気味だったが、それはただただ寒いから顔を動かしたくないだけなのだ、と気付くのにそう時間は掛からなかった。


 数多いる影武者のひとりとして、お嬢様が心身ともにお健やかに過ごされている事実は非常に喜ばしい。

 なによりお嬢様ご本人が、帝国の雪景色を「まるで絵本の中へ入ったかのようです、なんと美しい景観でしょう……」とそれは感激し、愛していらっしゃるのである。

 これからもこんな風に、お嬢様がお元気で、そして危険など二度と及ばねばよい。


 そんな心暖まる幸せの最中の、まさかの私の声変わりである。


 ある意味、タイミングとしてはよかったのかもしれない。

 もしまだお嬢様が権謀術数渦巻く春のお国におられたならば、どのような薬を使ってでも私は己の成長を止め、任務を続けようとしたことだろう。


 動揺しなかったといえば嘘になるが、私が降ろされたとて、まだまだスペアはあるのでお嬢様のこれからに関する心配は不要だろう。

 ――そう、問題なのは私のほうなのだ。

 取れる選択肢はそう多くない。もしこの身の振り方を誤れば、お嬢様の御身に危険が迫るかもしれないのだ。

 執事か護衛か、引き続きお守りする職に就きたくとも、今現在の背格好の似た私ではいくばくかお暇をいただかざるをえない。戻れる見込みもないが1年か3年か、どれだけかかるかわからないが、体が成長しきるまではどこか大陸の辺境へと引っ込み隠遁生活を送った方がよいだろう。


 なのに、なんだこの話は。


「帝国軍3等家長女のお世話係、同じく帝国軍2等家次女の小間使い、あとは秋国貴族3等家三女の小間使いとか色々ありますよ。あー……、でも自称神サマのお国だけはないですね、うちは帝国軍人の家ですから仕方ないですけど」

死体の消えた客間に戻ったら、そうたたぬうちに旦那様が現れ、開口一番のこれである。

 ちなみに帝国の民、特に帝国軍に属した人間は、先の戦争で辺境の夏のお国に想定外に手を焼かされたのが相当悔しかったのか、かの国を『神様がいるとかいう辺境国』だの『自国評価がやたら貴い国』だの『貴国』だのと呼ぶ。どんな言い方にせよ、その言葉には帝国のツララのような鈍く冷たい響きがあった。

「君の器量なら最終的に入り婿かなにかの打診が来るかと思いますが、どれも悪い話じゃないですよ」

「……。畏れながら。小間使いを婿に迎えるようなご令嬢は、どこのお国であれそうそうおられぬかと」

「おや、身分制の廃止があったのを忘れましたか? なんか最近はあえての格差婚が流行ってるらしいですよ。真実の愛っぽくてオシャレだとかって」

若い子の感性てときどき訳わかんないですよね、と続いた旦那様の能天気なお声に、私は反応する元気もなかった。

「……」

 お嬢様と貴方様の婚姻こそ、まさしくその格差婚ではないか。

 それに、確かに数年前の大陸平定の折に身分制の廃止は行われたが、そんなものは形ばかりのことであった。公爵家だのなんだのを1から3の順に呼び変えて、現在も変わらず階級による差別や軋轢は強く深く残っているのだから。

 オシャレ云々は初耳だったが、これはおそらく旦那様なりのご冗談だろうと推測する。この方は変わった冗談を嘯くのがお好きで、真面目一辺倒で暮らしてきたお嬢様を楽しませてくれるものだから、あまり強い否定の言葉は紡ぎたくなかった。


 しかし他国行きは多少覚悟していたものの、まさか他所での屋敷仕えとは。 護衛職ですらないとは現実は厳しいものである。

 ただ、自身を鑑みれば仕方のない話ではあった。14~5才のまだ体も出来上がっていない男子なぞ、それもお嬢様に似せるべく体格も細身である者を、誰ぞの側に置いたところで侮られこそすれ牽制になぞとてもならない。

 ならないが、ついさっきまでどこぞの無法者をあの世に葬っていた私が、まさかものの数刻で異国ののどかな小間使いの仕事を斡旋されるとは夢にも思うまい。

 それならどこぞの農家で馬の餌を運ぶ力仕事でもしたほうが、少しは役に立てそうなものである。


「なにか質問は?」

「ございません」

 春のお国に戻されるかとの淡い予想も覆された。大旦那様にもいまさら私は不要であるのかもしれない。

 精一杯お仕えしてきたつもりだったが、仕方がないと内心思う。衣服や容姿を変えたとて、内情を知る私のようなものが近くをウロついていては、大旦那様やお嬢様も気が休まらないだろう。


 仕事は完璧にこなしてきたつもりだった。お嬢様に掠り傷一つ負わせていないのはもちろん、別でこまごまとした情報収集の任もいただいていたし、どれも成果は出してきた。

 されど、縁もゆかりもない屋敷へ送られ、旦那様のご冗談とはいえ婿入りの話まで口に出されてしまっているのだ。

 気づかぬ間になにか失態を犯していたのかもしれなかった。一度でも不手際があったなら、私の落ち度なら負うのが道理だ。どこへでもゆこう。


 ふぅ、と旦那様は小さくため息をついた。

 これはお嬢様の夫となられた大陸一幸運な方である。数刻前に私に着替えを寄越した男とおなじ、くすんだ茶色の髪と目をした、この土地らしい色味の容姿をしている。

 唯一違うのは、この旦那様というお方が帝国男にしてはよく喋り表情も豊かなこと。また、上辺だけとはいえ人当たりが良いことくらいだろうか。

 いままで主要任務に関する伝言は主に旦那様か頭取伝手で、口頭の場合もあればメモの場合もあった。メモはその場で読み込み、速やかに暖炉へ投げ入れて燃やす決まりだ。

 お嬢様と私が直接顔を合わせることはなく、旦那様とすらこうやって対面でお話しいただくのは初めてに近いことである。

 いよいよ最後の日めいてきたなと思う。


「あのですね、……たぶん、君の想像の逆ですよ」

意味を掴みかね黙って見返した私に、旦那様は面倒くさそうに肩を竦めた。

「左遷されるわけじゃないですよってことです。

 君はずっと完璧に、有事の際は彼女と成り代わってくれました。僕ですら見間違いそうになりましたし、彼女個人が追加した依頼も充分にこなしてくれたと聞いています。

 その半生を掛けて勤めてくれたことに、我々が感謝しているのは勿論のことです」

では、何故。


「君が死なずにその任を終えてくれたことを、なによりイリーディアがいたく喜んでるんですよ」


 思わぬ一言に、言葉が出てこなかった。返事ができぬ私を気にすることなく、旦那様は続けた。

「僕は君しか知りませんが、いままで何人も代替わりしてるんでしょう?」

「はい」

 代わったということは、殉職したということに他ならない。

 我々には常にスペアが、そしてスペアたちにもさらにスペアが、それこそカトラリーのように当たり前に存在した。

 私の後任とて当然存在する。顔を合わせたことはないが、常に複数人で回しているのだから、今この時も、別の人間がお嬢様のために存在しているのだ。数人死んだくらいでお嬢様をお守りできるなら安い話だった。

「こんなことは言われなくともわかっているでしょうが、あの仕事は本日付で終わりです。それでもこれからも君の人生は続いていく」

うーん、何て言えばいいのか、と言葉を選んだあと、旦那様は改めて口を開いた。

「うちで執事見習いをしてもらうのも護衛職に就いてもらうのも、屋敷としては歓迎だったんですがね。彼女とまだ似ている見目をした今の君が、同じ屋敷にいるのは避けた方がいいと言われてしまいまして。

 引き続き働くとなると、もう少し年齢を重ねるなり体格が変わるなりした方がいいそうです」

想定内の話だったが、思わず口を開いていた。

「……。またお役目をいただけるということでしょうか」

「てっきりそうしたいんだと思ってましたが?」

と続き、思わず正直に頷いていた。

 旦那様が私の意思意向を気にするとは意外だった。帝国男らしからぬ親しげな話しぶりではあるが、存外ドライな御仁なのである。再確認すべく、つい同じ問いが漏れた。

「似ても似つかぬ……、体格の良い見目に成長することができれば、またお側でのお仕事をいただける、という認識でよろしいでしょうか」

「おそらくは。でも正直その辺のことはハッキリ言えません。君の雇い主は義父上様とイリーディアであって、僕ではないんでね」

それはそうだ。お嬢様の旦那様であるから私はこうして頭を垂れているのであって、そうでなければ大旦那様とお嬢様以外の人間を前にして床に膝をつく理由はなかった。


「ですがまぁ、その認識でいいんじゃないですか?

 そもそもここに残るのは君にとっていいことなんだろうか、もったいないんじゃないかと彼女もあれこれと考えていたようです。

 君にとって出来るだけいいところへ、乞うて迎え入れてくれるところがあるならば、そちらへ送ったほうが大事にしてもらえるんじゃないかとね」

優しい人ですから、と続いた言葉を、私はほとんど聞き流していた。


 今日はめちゃくちゃな日だった。普段通り仕事をしている方が、よほど気楽であるように思う。

 声変わりがバレ影武者としての資格を失い、帝国の男子服を着せられ異国の仕事を斡旋され、そして。

 まさかお嬢様が私の今後のことまで考えてくださっていただなんて、考えもしていなかった。

 私たちは、有事の際に相手を殺すか刺し違えてでも止めるのが仕事で、名も存在もない命なのに。


「もちろん最終的に決めるのは君です。イリーディアの希望通り、僕も君の決断を尊重したいと思ってます。

 ……でもまぁどうするにしろ、これからの自分にどういう選択がありえるのか、客観的にどれだけの価値があると認められるのか、知っておいて損はないはずですよ。

 お試しで色々見てきたいって言うなら、先方がたにそう話を通します」

まだ多少時間はあるのでよく考えてみてください、と言われ、私は改めて深く頭を下げた。


 私の価値などというものは、任務とともに消えたのだ。消えたはずであったのだ。つい先ほどまでそう信じて疑わなかったのに、話が想定外の方向にだいぶ違ってきてしまった。

 黙り込みうつむいた私を見て、悩んでいると思ったのか旦那様が口を開いた。


「そうだ、名前は? もう決めましたか」

「いえ、まだ考えておりません」

声変わりと任期終了の衝撃が大きすぎて、そんなことはすっかり忘れていた。

 もともと、我々には個体識別名がないのである。

 これからお嬢様やお屋敷と離れて生きていくにあたり、必要になるから考えておくように通達人から言われたのだった。当然すぐ処分されるのだろうと思っていたので、その言葉を私はまともに受け取っていなかったのである。

 まぁしかし、名なぞなんでもいい。わかればいいのだ。その辺で呼ばれている子供の名か、その辺の犬か猫か馬の名でも適当に拝借すればよいと思った。旦那様の馬はなんという名だったか、と自分の脳内にある浅く薄い不必要な記憶を改めてさらいかけた。


「“レオナルド”はどうかと言ってました」


「どなたがですか」

「イリーディア以外にいます?」

息が止まるかと思った。まさかお嬢様が。

「義父上に贈っていただいた本にそういう名の登場人物がいたそうで、いたく気に入ったらしいです」

無理強いはしませんが、よかったらもらってあげてくださいと続き、私は慌てて頭を下げた。

「――謹んで、頂戴いたします。身に余る光栄に存じます」


 ――“レオナルド”。

 なるほど、なんと素晴らしい名だろうか。さすがお嬢様である。身に馴染む心地がした。

 この先の生き方なぞ半ばどうでもよいと思っていたが、名をいただいてしまった以上はそうも言っていられなくなった。恥ずかしくない生き方をせねばならまい。


「義父上と彼女が南西の情報を欲しがってました。もし行き先に迷ったら候補に入れてもらえると助かります」

あの辺は伝手がないんですよねー、と旦那様は独り言のように呟いた。

 迷うことなく、口から出ていた。

「でしたら、先ほどのお話にあった秋のお国からのご依頼を、ぜひ進めてください」

それでいいんですか? と首を捻られた。ためらいなく私は頷いた。

 私個人にはとりたてて行き先の希望などないのだ。ならば、望まれる場所へ喜んでゆこう。

「わかりました。じゃああちらと話をすすめておきますから、荷物なりなんなり適当に準備しておいてください」

「かしこまりました」

 少し悩んだが、礼は尽くすべきだと思った。これから恥ずかしくない生き方をするため、その第一歩だ。

 私は改めて、過去一番丁寧に頭を下げなおした。


「――旦那様。これまで数々のご恩を賜り、誠にありがとうございました。

 御二人のますますのご多幸を、お祈り申し上げます」


 旦那様は意外そうに目を丸めたが、口角を上げた。

「こちらこそ。君も、新しい土地でも息災で。

 長きに渡り彼女を護り通してくれたこと、これでも僕も感謝してるんですよ」

イリーディアにも伝えておきますね、と部屋を出て行った。


***


 あてがわれていた隠し部屋の中からわずかばかりの痕跡を片付けると、私は隠し通路からするりと屋外へと抜け出した。

 帽子を目深に被り直し、雪に残った自分の足跡を適当に蹴散らして消しつつ、早急にお屋敷の敷地から出た。


 まだ夜は明けておらず、そして帝国は今日も厚い曇天であった。月さえ隠された真っ暗なこの世界に、小さな小さな雪の粒が、我々を大地に覆い尽くすがごとく無限に降り注いでいた。

 空気は相変わらず凍てつくほどに冷たく乾燥しており、睫毛の僅かな水分をも、今にも凍らそうとしていた。


 鉄道へと向かう道すがら、暗闇の中を軽く走る。雪を踏みしめる音だけが響く、耳鳴りがするほど静かな夜だった。

 積もった雪で真っ白になった小高い丘は、大きな生き物のようにみえてどこか不気味だった。新雪に足を取られながら登り立つと、やや遠くなったお屋敷を振り返った。

 夜間勤務の使用人がいるとおぼしき、屋敷の明かりはまばらだった。今日は客人もおらず、招かれざる客もひとりきりの、とても平和な1日だったのだ。


 肌着とニットをまとめて口元まであげ直すと、私は踵を返し走り出した。駅舎までもう少し。小走りでも充分だ。

 予定より一つ早い夜間列車に乗ろう。 


 秋のお国は、春のお国とはまた違った作物が実る豊かな土地だと聞く。男も女もよく働き、みな恰幅が良いのだとか。

 たくさん働けば私もきっと、お嬢様とは似ても似つかぬ容姿へとすぐに成長できることだろう。


 ――目指すは遥か南、豊かな秋のお国へ。


続.

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