事が始まる第2話

 椅子だけが置かれた殺風景な部屋に通された僕は、その椅子に掛ける。


 いったい何をされるのだろうか、と不安になりながら、先ほど一階で受けた説明通

りに、手を差し出す。


 バクバクと、心臓が落ち着きなく鳴り響く。目の前には依然としてにこやかに笑う

レイラの姿。


 子供っぽい顔つきに差し込む夕焼けの光が、彼女に女神のような印象を持たせる。


 「じゃあ始めるね~、ええと…」


 「は、蓮見(はすみ)です。蓮見壮也(そうや)」


 「壮也くん」と簡単に下の名前で呼ばれる。なんとも気恥ずかしい。


 「ひっ…」


 彼女の両手が、僕の左手の両端を包み込むように持つ。柔らかくて小さくて、温か

い手だった。


 美亜さんの説明を思い出す。


 『邪飲み』という不思議な力を使うことで、『幸せすぎる』彼女に不幸を分ける。


 確かに彼女はそう言っていた。


 最初は、信じられなかった。そんな非現実を信じられる年齢ではない。


 でも、彼女は僕をからかうわけではなく、本気で言っていた。妹を助けてほしい

と、目が真剣に訴えているようにも見えた。


 だから僕は、半信半疑、人の家に上がり込み、この催しものをするためだけに用意

された部屋に通されて。


 「じゃあ、行きまーす」


 「ああ、ままま、待ってください。まだ、心の準備が…、あっ」


 目を閉じた彼女の唇が、僕の人差し指と中指の先についた。


 じんわりと触れては消える彼女の鼻息。


 ふんわりとした唇の感触。


 息が詰まり、油断すると発狂してしまいそうだった。


 今でも、頭の中が混乱している。


 静かだった。


 まぶしい夕日がじりじりと僕らを照らす。


 ここから5分、このままの状態を続ける。


 今の彼女は、僕の『邪』を搾取しているらしい。


 その証拠に彼女はごくごくと、僕の指先から流れ出す『不幸』を飲んでいる。


 真っ黒な、粘り気のある黒い液体を。


 指に張り付いた唇が、少しだけ動くのを感じる。


 指先心もくすぐったくて、思わず声を上げてしまいそうだった。


 二の句も告げない緊張感。


 チクリと、胸に突き刺さるような痛みは、気のせいだろうか。


 彼女が目を開ける。


 「ごちそうさまでした」


 上目遣いで僕を見て、にっこりと笑う彼女。


 少し表情に力みがあるのを僕は見逃さなかった。





 「ふう」と息をつく。


 疲れたからではなくその逆。彼女に搾取されたことにより、一種の開放感のような

ものを感じていた。


 美亜さんの説明通り、レイラから『不幸』を抜き取られたからだろうか。心がすご

く軽い。


 今日の、あれだけ悔しかった出来事も、どうしてあそこまで自分は落ち込んでいた

のだろうかと疑問に思うくらいにはすっきりしていた。


 「壮也くん」


 「はい?」


 相変わらずにこりと笑うレイラ。


 「おいしかったよ」


 言葉が耳の中に入り込み脳まで届いた瞬間、ぶわっと汗が噴き出した。


 「なっ、ななななな!!? 岸田さんっ!!??」


 急に何を言い出すのやら!!


 慌てる僕に何の反応も示すことなく、彼女はただ笑っていた。


 しかし、僕の動揺は、次の一言であっという間に沈められた。


 「優しい『不幸』だった」


 「え?」


 「なんだろう…。すごく優しい。飲んでいるこっちも、温かい気持ちになる『不

幸』だった」


 声のトーンを落として、レイラは呟いた。


 そう、僕はガッカリされた。


 『不幸』を欲しがる彼女に、十分な『不幸』を与えることができなかった。だから

僕は、結果として彼女の期待に応えることができなかった。


 僕の『不幸』は弱かった。


 同級生に脅されようが、後輩にため息を吐かれようが、僕の『不幸』は、弱いと判

断された。


 優しい彼女は気遣って、僕の『不幸』を優しいと評価した。


 温かいんじゃなくて、生温い。それくらいで自分は『不幸』だと嘆くんじゃない

ぞ、と言われたような気分だった。


 でも、気分はよかった。別にガッカリされてもいいや、と他人の評価などどうでも

いいと思えた。


 『不幸』とやらがごっそりと抜け落ちただけで、こんなにも浮かれ気分になると

は。


 「おなかすいたなぁ。今日はどんなの作ってくれるんだろう」


 美亜さんのいる一階の方を見つめながら小さな子供のように期待を膨らませる彼

女。


 先ほど、彼女から感じた表情の力みのようなものは、今となっては全く感じられな

かった。





 家出少女に『搾取』された翌朝。


 心の負荷というものが全く感じられなかった。


 「行ってきまーす!」


 数年ぶりに掛けた言葉に、相手は驚いていた。


 「あ、行ってらっしゃい」


 母さんの上ずった声を背中で受け止めながら、玄関のドアを閉めて通学路を歩い

た。


 コンクリートばっかりの灰色の視界は、半分になる。


 5月の青空の色も、よく見える。


 下ばかり見ていた僕は、正面を見て歩くようになり、見える世界もまるで違って。


 あんなところに、あんな建物があったのか。


 あんなところに、早朝からシャッターを開けて準備している店があったのか。


 メガモールの上には風船が浮いていて。


 視界を少し上に向けるだけで、こんなにも発見があったとは。


 希望に満ちていた。


 今日こそは、明るい気持ちで学校を楽しめる。


 話したことのない誰かと一緒に昼ご飯でも食べようか。音楽の授業で大熱唱してや

ろうか。移動教室を女の子と一緒に歩こうか。


 これが青春というやつか。


 心がふわふわと落ち着かなくて、早く学校にたどり着いてほしい。


 そんな愉快な感情は、簡単に打ち砕かれた。


 「ぶっ!!」


 教室のドアを開けて、机に腰かけた数秒後、白い水を噴射された。


 「ああ、わりいわりい。最近、風邪気味でさあ、うがい中にくしゃみでたわ!」


 歯ブラシを片手に持った上田を見て、僕は、自分の顔に何をかけられたのかを瞬時

に理解した。


 「ああ、うん。気にしないで…」


 僕は、作り笑いを浮かべて、教室を出ていき、そのままトイレへと向かった。


 ぎゃはは、と上田を中心に何人もの笑い声が閉まったドアの向こうからよく聞こえ

てきた。


 幸せすぎる状態から不幸へと突き落とされる落差。


 鋭く差し込む心の痛みに、目は涙を浮かべた。




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