規制漫画

南口昌平

規制漫画

 漫画家の吉原よしはらタクミは、とある週刊少年漫画雑誌の編集部へ向かった。

 再来月の一週目から連載が始まる『車掌探偵 大海おおみマリコ』について、編集者と打ち合わせをする約束だった。

 

 吉原タクミは以前、さほど有名でない月刊青年誌に『ヤク中刑事 薬打くすりだラリ右衛門えもん』というミステリーコメディを連載していた。薬物中毒の刑事が薬の力を借りて事件を解決するあり得ない設定が受けたのと、精緻な筆致やシュールなギャグセンスが評価され、今回、人気週刊少年誌から新作の連載依頼が来たのだった。


 編集部内は雑然としていた。狭苦しい室内を、薄汚れた編集者たちが走り回っている。怒号や悲鳴が響き、ツンと饐えた空気が鼻をついた。

 編集部の入り口できょろきょろしている吉原に、比較的清潔な身なりをした男が声をかけた。

「やぁやぁ吉原さん、よくおいでくださいました」

 担当編集の田所だった。

 田所はくまのひどい目尻に笑みを浮かべると、ふらふらと覚束ない足取りで、吉原を自分のデスクへ案内した。

 デスクの前で、女性が大股開きで寝転がっていた。髪の毛が爆発し、黄ばんだブラウスには青いインクのシミが点々と散っている。

 田所は女性を転がすように隅へ押しやって、椅子に腰をかけた。隣のデスクから椅子を引き吉原に座るよう促す。

「そこで寝ている桜井の椅子ですがね、彼女はご覧の通り仮眠を取っていますので、気にせずお掛けになってください」

 吉原が腰かけると、田所が散らかった机の上を探り出した。

「あった、あった」

 クリアファイルの向こうから黄ばんだマグカップを見つけ、それを吉原に差し出した。中には黒い液体が入っている。

「吉原さん、よければコーヒーどうぞ。一昨日くらいに淹れたものだから、もう冷めちゃってますけど」

「あ、いえ、結構です」

「そうですか。じゃあ、私が飲んじゃいますね」

 田所はマグカップを口に運び、すぐに眉をひそめ、

「おえ、これコーヒーじゃねぇや」

 マグカップを机に置き、話し始めた。

「吉原さんがこの間送ってくださった、『車掌探偵 大海マリコ』の第一話分のネーム、早速読ませていただきました」

 田所は山積みされていた書類の中からネームのコピーを探り出し、それに視線を落とした。ネームとは言え、もうほとんど完成原稿に近かった。

「おもしろかったですよ。架空の路線、NR川の手線に勤務する女車掌、大海マリコが、電車内で起こるいろいろな事件を解決していく、コメディミステリー。主人公の大海マリコも、可愛らしい」

「本当ですか」

 吉原はほっと胸をなで下ろした。田所はしばらく原稿のコピーをめくっていたが、やがてそれを机の上に置いた。

「ただですね、吉原さん、少々変更していただきたい箇所があるんですよ」

 田所は原稿のコピーを吉原にも見えるように広げると、申し訳なさそうに苦笑した。

「いえね、最近、規制のほうが厳しくなりまして。あんまり露骨な表現ができなくなっているんです」

「はい。分かります」

「ですのでね、いろいろと細かいことを言うようなんですが、腹を立てずにお聞きになってください」

 田所は充血している目を原稿に向けた。

「まず、この、大海マリコの助手のキャラクターですね。新人駅員の煙草田吸助たばこだきゅうすけ。これ、あれですよね、『薬打ラリ右衛門』に登場していたキャラクターの使い回しですよね」

「そうなんです。本当はラリ右衛門を出したいと思っていたんですけど、少年誌に薬物中毒はまずいと思って、煙草田吸助を再登場させることにしたんですが、駄目ですか?」

 田所は苦い顔をし、頭をぼりぼりとかいた。白いふけがふわふわと舞う。

「なるほどなるほど。私も煙草田くん、個人的に好きだったんですけどね。いや、少年誌でしょう? 煙草を吸うキャラクターってのが、ちょっとNGなんですね。煙草ってのが最近では、害悪の象徴みたいになっていますから」

「では、煙草は吸わせないほうがいいんでしょうか」

「いや、それはもちろんそうなんですが……あの、こう言っては何なんですけどね、要は煙草ってものがね、誌面にあってはいけないんです。それで、漫画ってのは言ってみれば単なる絵と言葉じゃないですか。つまり、実物の煙草が誌面にあるわけではなく、絵や言葉が、煙草の概念を象徴する記号としてそこにある」

「おっしゃっている意味がよくわからないのですが……」

「まぁ、簡単に言ってしまうと、煙草の絵も、文字も、つまり煙草が連想されるものを、全部削除しなくてはいけないんです。だから、煙草田吸助という名前も、全部削除しなくてはいけない」

「あ、じゃあ煙草田吸助の名前は変更します。煙草に代わる何かの中毒にしますので、それが決まり次第、描き直します」

 吉原は胸ポケットから出したメモ帳に言われたことを書き記しつつ、ふと、顔を上げた。

「あ、飴玉舐め太郎はどうでしょうか?」

 田所はそわそわと落ち着かない感じで、何か言い出そうとしたが、それをぐっと飲み込んで、さっきのマグカップを手に取った。

「まぁ、えっと、なんて言うんですかね。まぁ、とりあえず、煙草田くんの件は置いておいて、次の変更点ですがね」

 誤魔化すように言い、その動揺を悟られまいとしたのか、マグカップを口に運んで咳き込んだ。

「ごっほごっほ、すみません。これは飲まないほうがいい」

 田所はマグカップを机の隅に置くと、

「えっと、それで、えぇ、次の変更点ですね。えっと、そうだそうだ、あの、主人公なんですよ」

「主人公ですか?」

 思いがけないことに吉原は身を乗り出した。

「大海マリコに、何か問題があったでしょうか?」

 田所はタイトルページの、見開きに描かれた大海マリコを指さした。

 そこには、走る電車の車掌室から半身を乗り出して、風に飛ばされぬように駅員帽子を手で押さえている大海マリコの姿があった。

「あ、やはり、走行中の電車から半身を乗り出すのは、危険行為の助長に繋がりますか?」

「いや、というよりも、特にこのページだけに問題があるわけではないんです。いえね、大海マリコ、すごく可愛いキャラクターだと思うんですよ。普通、漫画の美少女キャラってのは、現実にいたとしたら、目が大きすぎたり、顎が尖りすぎていたりして、怪物みたいになるケースがほとんどなんですけど、この大海マリコは、もし現実にいたとしても、可愛い女性として無理なく存在できるような、そんな現実的な可愛さを持っている」

「何が問題なのでしょうか?」

「いや、それが問題なんですよ。現実的であるというのがね」

 田所は胸ポケットから煙草の箱を取り出した。

 一本口にくわえ、吉原にも勧めたが、吉原は首を横に振った。

「すみませんね、ちょっと吸わせてくださいね」

 田所は震える手で煙草に火をつけ、美味そうに口から煙を吐いた。

「煙草、吸っていいんですね、ここ」

 吉原は意外だというような顔で、田所の口から吐き出される煙に目をやっていた。

「え? はは。ここは煙草は吸い放題ですよ。いや、本当は喫煙室に行かなくちゃいけないんですけどね、もう、忙しくて、喫煙室に行くくらいなら、ここで吸っちまおうってことになったんです」

「はぁ……」

「いや、これは失敬。どこまで話しましたっけ?」

「現実的だから駄目だと……」

「あ、そうそう。いや、その現実的なのがね、問題なんですよ」

「どういうことでしょうか?」

「というのは、現実的過ぎて、何もかもリアルに感じられるんです。つまり、作り物の絵であるというようなことを、忘れてしまうんですね。それがね、なんというか、失礼な言い方になるんですが、卑猥なんですね」

「卑猥?」

「はい。エロいと言いますかね。エロってのがね、少年誌ではNGなんです。つまり、性的な表現というのが」

「でも、大海マリコはずっと服を着ていますし、特にセクシーな格好をしているわけではありませんよ。特に恋愛をするとかも考えていませんし、ベッドシーンなんかも出る予定はありません」

「はい、普通であれば、それでいいかもしれません。しかし、吉原さんの画風が、リアルなタッチですからね。それだけで生々しいエロさがあるんですよ。その生々しさが、露骨な表現以上に、卑猥で、猥褻な印象を与えてしまうんです。いや、ひと昔前なら、問題なかったんですけどね、最近は、いろいろうるさくてね」

「じゃあ、つまり、もう少し漫画チックに描いたほうがいいということですね?」

 吉原が前のめりで訊ねると、田所はくわえ煙草でしばらく黙っていたが、やがてばつが悪そうに煙草を灰皿に押しつけた。

「いや、それはまあ、そうではあるんですが、実は、この、名前にも問題がありまして」

「大海マリコという名前にですか?」

 田所は頷くと、原稿をめくり指さした。

 謎の死亡事件が発生した車内で、警察に無断で捜査を始めようとしている大海マリコに、同僚がツッコミを入れるシーンだった。

「これの、ここ、見てください」

 田所が吉原へ原稿をずらした。

「ここで、同僚が、『マリコ!』と注意する台詞がありますよね。この台詞、吹き出しの外の、描き文字になっていますが、この文字のですね、『マリコ』の『リ』の字がやけにへしゃげていて、『ン』みたいに見えるんですよ」

 吉原は自分の書いた「マリコ」の文字を見つめた。確かに「リ」の上部が左右に開きすぎていて「ン」に見えてしまうかもしれない。

 それにしても、主人公の名前は「大海マリコ」と読者は分かっているのだから、これを「ン」と読み間違えることはないだろうし、仮に読み間違えたところで、何が問題だろう。

 吉原はそう考えて、

「マン……あ」

 問題に気がついた。

「卑猥でしょう?」

「しかし、これはあくまで僕の字が下手くそなだけで、大海マリコという名前自体に問題はないと思うんですが」

「いや、主人公の名前ですからね。これからも描き文字で書くこともたびたびあるでしょうし、そのつどこんなことが起こってしまっては面倒ですから。マリコの名前もNGなんです」

「マリコを漢字にするとかでは?」

「吉原さん!」

 田所が叫んだ。

「連載したいんじゃないんですか!」

「したいです……」

「じゃあ、こちらの言うことに従ってください!」

「はい、すみません……」

 吉原は恐ろしくなって頷くしかできなかった。

「あ、すみません、急に大声を出してしまって。寝不足でしてね。いかんですね」

 俄に笑顔になった田所に、吉原は怯えながら、

「えっと、大海マリコのデザインと名前の変更をすればいいんですよね?」

 田所は腕を組んで目を瞑った。やがて目を開けて大きく息を吐いた。

「いや、実はですね、最近の少年誌では、先ほども言った通り、規制がかなり厳しくなっているんです。だから煙草や薬物などの害悪も描けませんし、性的なものも駄目と言うことになっているんです。そして、この厳戒規制は、そういうものを『連想させるもの』の描写も禁止にしたんです。つまりね、性的な問題でいうと、この、大海マリコが、焦って汗をかいている描写があるでしょう?」

 田所が原稿を指さした。大海マリコが駅長に叱られて、額に汗をかいている。

「この汗という表現ですね、最近は規制の対象なんですよ。汗をかいている女性って、どことなくイヤらしいでしょう? なんとなく、性的な印象を与える」

「それは田所さんの趣味じゃないですか?」

 そのときだった。

 先ほどまで隅で寝ていた桜井がのそのそ起き上がった。

 二人のところへ歩いて来る。乱れた化粧がのった顔には、この世のものとは思えない、薄汚れた能面のような不気味さがある。

 桜井は何も言わずにふらふら歩いてくると、きょろきょろして、田所の机の上のマグカップに手を伸ばした。腐ったような体臭が吉原の鼻をつく。

 桜井は中身を一気に飲み干した。途端にマグカップを床に落とすと、口元から黒い液体を垂らし「ああぁ……ああぁ……」と声を漏らしながら、ふらふら元いた位置に戻って寝転がった。

「すみませんね、桜井ももう、三日以上寝ていなかったものですから」

「はぁ……」

「それで、さっきの続きですけどね」

 田所は早速話を再開しようとして、「あ」と目を見開いた。

「ちょっとコーヒーでも飲みますか。すぐに、淹れさせるんで」

「あ、いえ、お構いなく……」

「柏木くん、ちょっとコーヒーを淹れてくれないかな?」

 部屋の隅の席でコーヒーを飲んでいた男がコーヒーカップを口から離し、口に含んでいたコーヒーをカップの中にペッと吐き出して、

「あ、じゃあ、このコーヒー差し上げますよ。さっき淹れたばかりですから、まだ温かいです」

「あ、じゃあ、それちょうだい。吉原さん、どうぞ」

 田所は柏木からカップを受け取ると、それを吉原の前に置いた。

 吉原は慌てて首を横に振ったが、

「いやいや、遠慮しないでください。ほとんど淹れ立てと同じですから。私のはいいんです。新しいのを柏木に淹れさせますから。遠慮せず、先に飲んでしまっていいですよ」

「いや、そういう問題じゃなく……」

 やがて柏木が新しくコーヒーを淹れてきて、田所の前に置いた。田所はそれをひと口飲むと、仕切り直しと言うように、咳払いをした。

「それで、さっきの話の続きなんですが、先ほども言ったように、性的な表現というものに対する規制が、かなり厳しくなっているんです。だから、汗も駄目です。唾液も駄目です。人間の欲望を刺激するような表現は、全部駄目なんです。そうですね、この際、いっぺんに全部言ってしまいましょう」

 田所は原稿をめくった。

「今回のストーリーは、痴漢の常習者が、女性専用車両に忍び込んで痴漢を働いている最中に、突然死亡してしまうという事件ですよね」

「はい、その事件の謎を、大海マリコが解決するんです」

「はいはい、いや、これも少々問題がありましてね。いえ、つまりね、痴漢という表現が駄目なんです。痴漢なんて、害悪であり性的でもあるという二重構造ですからね。しかも、この事件、女性専用車両にいた、豊満なバストの女性が胸で男性を圧死させたということになっていますよね。そして、最後の、ストーリーを締める、大海マリコの言葉、『驚異的な胸囲が人間の脅威になったのね』。これ、シャレがきいていておもしろいんですが、セクハラで訴えられる危険がありますよ」

「つまり、ストーリーも全部変更したほうがいいということでしょうか?」

 田所は首を横に振った。

「いえ、そこまでする必要はありませんよ。先ほども言ったように、キャラクターがもっと漫画的なら、なんとか誤魔化せるんです。しかし、吉原さんの画風がリアルなタッチですからね。それが問題になっていて」

「じゃあ、もっと漫画的に描けばいいんですね?」

「まぁ、確かにそうするのが一番手っ取り早いんですけどね、やっぱり、それをしちゃ駄目ですよ。吉原さんの画風は変えちゃいけません」

「でもそうしないと、連載できないんですよね」

「吉原さん、あなたも漫画家でしょう。自分のスタイルにもっとプライドを持たなくちゃいけない。外野がやかましいからって、何でもかんでもそいつらの意見に従っていたんじゃ、つまらない」

「しかし、漫画を読んだり評価したりするのは外野の人間ですし……」

「私はね、吉原さん、漫画家だって芸術家の一種だと思っているんですよ。芸術家が作品を作るというのは、神様が新しい宇宙を創造するのと同じことで、すこぶる自由でなくてはいけません。いいですか? エベレスト登山は危険です。毎年何人もの登山客が遭難して命を落としています。だからといって、エベレストをこの世から消してしまえと要求する人がいますか? いないでしょう。エベレストで死にたくなければ、登らなきゃいいんです。そんな単純なことなんです。それなのに、最近では、危険だ卑猥だとかってことばかりに注目して、ぎゃあぎゃあ騒ぎ立てる。芸術家の生み出す作品は宇宙なんです。もともと、何か理由があってそこに存在するわけじゃない。人間が勝手に目的や理由をつけているんです。私から言わせてもらえれば、騒ぎ立てている連中のほうが、よっぽどイヤらしい、危険な思想を持った連中だと思いますよ。現実と創作の区別もつかないような連中なんですから」

 田所は興奮した調子で一気にまくしたてると、コーヒーを一気飲みして、慌てたように辺りを見回した。

「これはまずいことを言いました。こんなことを言ったら、私はこの世界から抹殺されてしまうかもしれない。出版社にとって、読者様の意見は神様の意見と同じですから。その読者様を批判するようなことを言っては、危険です」

 田所はわざとらしく咳払いをして、

「まぁ、とにかく、害悪的で、性的なものを描いては駄目なんです。そしてそれを連想させるようなものもね」

 吉原はメモ帳を取り出して、ボールペンのペン先を出した。

「それで、具体的に、どのように描き直せばいいのでしょうか。もう包み隠さず、全部教えてください」

 田所はくわえ煙草に火を付けて、神妙そうに頷いた。

「分かりました。いっぺんに言ってしまいましょう。つまりですね、吉原さんのリアルなタッチに問題があるわけですが、だからと言ってそのスタイルを変えてもらいたくはない。となると、人間を描いては駄目だということになります」

「人間が描けないんですか?」

「はい。吉原さんの場合、人間を描くのは難しいですね。現実的な人間は、やはり欲望的だったり危険であったりする側面を連想させます。人間そのものが、つまり害悪的で、猥褻的なんです」

「人間を描けないとなると、どうすればいいのでしょう? 動物にでもしたほうがいいですか?」

「いえ、動物もね、問題なんです。というのは、動物というのは生き物でしょう? 生き物となると、欲望があるということになる。人間が駄目という理由には、生き物であるからという部分が大半を占めているんです。生き物は生殖活動をしますからね、すぐに卑猥と結びついてしまう」

「しかし、生殖活動をしない生き物もいるじゃないですか。無性生物では、どうですか?」

「無性生物も駄目です。無性生物というのは、有性生物がある上に成り立つ言葉ですから。光があれば影があるようにね、無性生物があれば、有性生物もあるということになる。有性生物を想起させるような存在があっては駄目なんです」

「では、植物は……」

「もうお気づきでしょう。植物も駄目です。雄しべや雌しべなんてものの存在も原因ですけどね、本当はもっと別にあるんです。植物があるとなると、それを食物にしている動物の存在が浮かび上がってくる。動物というのはさっき言った通り、NGですから。植物も駄目です」

「では、石ころや砂なんてものは?」

「それも難しいです。何しろ石や砂なんていうのは、自然の中で生まれた存在ですからね。自然があるとなると、生物もあるという風に考えてしまうでしょう」

「しかし、生物のいない惑星にも、石や砂とかがあるじゃないですか」

「確かにそうですよ。でもね、人間は、そんな惑星を見るとなんて考えます? もしかすると、この惑星にも生物が存在するかもしれない。地球外生物の存在を確認するために躍起になるでしょう。それと同じでね、石や砂しかない状態を見ても、読者は無意識に生物の存在を探すんです。それが、規制の対象になるんですよ」

 吉原はメモ帳とボールペンを机に置いてうなだれた。

 少年誌での連載がこれほど難しいとは。

「吉原さん、安心してください。無理だと思われたかもしれませんが、吉原さんのスタイルでも、うちの雑誌でちゃんと漫画を描ける道があるんですよ。というのはですね、キャラクターや背景などに、自然を思わせる描写があってはいけないということですからね、自然からかけ離れた、無機質な、図形的なものなら大丈夫なんです。つまり、三角形とか、台形とか、四角形とか」

「図形、ですか……」

「それで、吉原さんにお願いしたいのはですね、今回のこの原稿の、全てのページ、全てのコマに登場する全てのキャラクターをですね、全てその、図形に描き直して欲しいんです。早くそのことを言えばよかったのですが、いきなりそう言っても納得できないと思い、こんな回りくどい説明になってしまいました」

 田所は引き出しの中から漫画用の原稿用紙を数十枚取り出して、吉原に渡した。

「コマ割は元のままでいいんです。背景は全て白にしてください。作業室があるので、そこで、一旦、今言った通りに描き直してみてくれませんか? 台詞は基本なしですが、アラビア数字やローマ数字であれば、少しくらい入れても大丈夫です」

 吉原がまごついていると、寝転がっていた桜井が、再びもぞもぞとうごめいた。「熱い、熱い」とうわごとのように言いながら、着ている服を無理矢理はぎ取ろうとしている。全身に尋常ではない量の汗をかいており、口元には涎が垂れていた。

「桜井さん、大丈夫?」

 田所が声をかける。

 桜井は返事をせず、「熱い、熱い」と叫びながら、ついに着ている服を脱いで、全裸になった。桜井の全身は、日焼けしたように赤く染まって、元々白かったのであろう皮膚は、火傷をしたように痛々しくただれていた。

「桜井さん、どうしたの?」

 田所が桜井の元へ歩み寄る。しゃがみ込もうとして、そのままばたりと倒れてしまった。

「田所さん、大丈夫ですか?」

「あ、ちょっと私も具合悪いな。吉原さん、私はここでひと休みしとくんで、その間に、作業室で描き直して来てください、ここを出て右の奥の部屋です」

 吉原は混乱する頭を整理しながら、言われた通りキャラクターや背景を全て三角形や台形などの図形に描き直した。

 三角形がコマの真ん中にあり、次のコマになると台形が登場して、台詞もなく、次のコマでは平行四辺形が出てきて、その横から直線が伸びてきて、「5」と言う。

「何がおもしろいんだ」

 吉原は図形の並んだ原稿を見て、我に返った。

 別の方法を提示するよう頼むため編集部に戻ると、田所が全裸で、全裸の桜井のそばに横たわっていた。田所の呼吸は荒く、汗の量も相当である。

「田所さん、一応できたのですが」

 吉原が怖ず怖ず声をかける。田所は目をうつろに開けて、にこりと笑った。

「それなら、よかった」

 言葉がたどたどしく不明瞭である。

「あと、吉原さん、ひとつ、言い忘れて、いたのですが、吉原さん、の、ペンネームも、問題、なんです。吉原よしはらっていう、字、が、遊郭の、吉原よしわら、と、同じなので、卑猥、なんです」

「でも、これは僕の本名ですよ。それにこれは、ヨシワラではなく、ヨシハラと読むんですよ?」

「いや、また、回り、くどく、なりました、実際は、ペンネーム、に問題、が、あるん、じゃなく、作者、という、人間、を、思わせる、存在、が、あること、自体、が、問題、なん、です。つまり、作者の、名前は、表記、できない、ん、です」

「ええ……」

「吉原、さん、安心、して、ください。売れた分の、印税は、きちんと、吉原さん、の、ところへ、入る、ことに、なって、います、から」

 田所はそこまで言って、目を閉じた。

 と、そこへ柏木が歩いてきて、全裸で横たわる田所と桜井を発見した。

「田所さん! 桜井さん!」

 慌てて駆け寄り、おもむろに両者の胸元へ手を当てる。表情がどんどん青ざめていった。

「死んでる……」

 柏木の言葉に、吉原は背筋が凍った。

「死んでる……?」

 赤みがかった田所と桜井の体が、徐々に白くなっていった。


 ・・・・・・


「……という感じで、第一話は終わりです。第二話から、事件の捜査が始まり、謎が明らかになっていきます」

 若手人気漫画家の西柳トシフミは、担当編集者である清水と話をしていた。

 清潔なスーツを着ている清水は、整頓された机の上に広げた原稿を読みながら、西柳の話を聞いていた。

 話を聞き終わると、原稿をトントンと整理して、満足そうに笑みを浮かべた。

「いやあ、おもしろいですね。『匿名漫画家 吉原タクミの事件簿』。事件の解決が待ち遠しいですよ」

 西柳は淹れ立ての温かいコーヒーを飲むと、どこか不安そうな顔をした。

「しかし、大丈夫ですかね。少年誌で、殺人事件や、喫煙描写や、成人男女の全裸の描写があって」

 清水が首を横に振る。

「いえいえ、大丈夫ですよ。ギャグ要素が強いとは言え、ミステリー漫画なんですから、人が死なないとどうしようもないですし、煙草や、全裸描写だって、漫画を描く上での小道具ですからね。なんだったら、全裸の人間が煙草吸いながら殺人を犯す漫画だって、平気ですよ」

「それならよかった」

「ひと段落ついたことですし、一服しませんか?」

 清水が言って、胸ポケットのマルボロを見せると、西柳も嬉しそうに頷いて、

「吸いましょう」

「じゃあ喫煙室へ。ここ、禁煙ですから」

 二人は立ち上がり、楽しそうに話をしながら、掃除の行き届いた綺麗な廊下を歩いて行った。

『匿名漫画家 吉原タクミの事件簿』は、来月の第一週から、巻頭カラーで連載開始である。









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