心の目で描いた絵

朝倉亜空

第1話

 その人は不思議な人だった。

 そして、誠一は仕事下手な人だった。

 いつものように、金策に困り、いつものように、誠一は気分転換の散歩をしていた。いつもと違うのは、今回はあまりに金策に困り果てていたことだった。

 誠一が市中を流れている中流の川の土手を歩いていると、その人はいた。

「すごく上手に描けてますね。まるで写真みたいですよ」

 年齢は六十代半ばごろの女性、草むらの上に座り込み、大判のスケッチブックを膝の上に広げ、色鉛筆を巧みに使いながら、風景画を描いていた。その、あまりの完成度の高さに、誠一は思わずその女性に声を掛けたのだった。

「おや、そう? お褒めくださって、ありがとう」女性は言った。

「本当に上手だ。もしかして、プロの絵描きさんですか」

「いーえいえ。そんな、とんでもない。ただの年寄りの道楽ですよ」女性は少し嬉しそうに、ほほほと笑った。女性はオレンジ色の色鉛筆を選び、夕焼け空の色を染めた。だが、その時の色鉛筆の取り出し方に、若干のぎこちなさ、丁寧すぎるような仕草であることに誠一は気づいた。

「え? あなたは、もしかして? いや、そんなはずは……」

「あら、お分かりになったかしら? そうなんですよ。私、目が見えないんですよ」女性はまた愉快そうにほほほと笑った。「全盲なのよ」

「いやいやいや、からかわないでください。こんなに細かくきっちりと描いてある。こんなの、見えてなきゃ無理だ。僕でもこうは描けない」

「でも、本当なの。その日、その時、その場所のことを集中して思えばね、自然とその場の絵がはっきりと頭の中に浮かび上がってくるのよ。私はそれを描いているだけなの」

 誠一は言葉が出ない。「……」

「あのねえ、あなた、目が見えないっていうのは、実は一番よく見えるっていうこともあるのよ。あなたが私に近づいてきたとき、暖かい空気の流れの様なものを感じたわ。あなたはとっても優しい人ね。他人に無理強いできない。自分ばかりが損を被る。もしかして、今もそのたぐいの問題を抱えて悩んでいる。そうでしょ? でもね、やけを起こさないでね。人生には順番ってあるの。駄目ばっかりが続くんじゃない。必ず、良い時が来るんだから。バカなことは考えないでね。見えないこの目で世の中をよーく見通してきた私が言うんだから、間違いないわ」

「……はい……。ありがとうございます……」ズバリ言い当てられた誠一は驚嘆するほかなかった。

「時には他人に甘えることも、いいことよ。それじゃあね」その不思議な女性は、絵の片づけをした後、足元の杖を片手に持ち、よいしょと言って立ち上がり、帰路について行った。


 土曜のお昼過ぎ。

 誠一は都内のとある競馬場に来ていた。

 バカなことは考えてはいけない、あの不思議な女性に言われた言葉ではあった。だが、どうにもこうにも金繰りがつかない。切羽詰まった誠一は、もはや、バカを承知で、馬で一山当てようとして、やってきたのだ。

 しかし、案の定、賭け事なんて、うまくいくものではなかった。

 午前中の第一レースから碌に当てられず、気が付けば次が最終レース。当然のごとくそれもハズし、誠一の用意した軍資金もこれですっからかんとなった。

 バカをやった後の人間に必ず訪れる、絶望的な後悔をかみしめながら、誠一は競馬場を立ち去ろうとしていた。

 なんであの人の言うことを守らなかったんだ。これで余計に金欠じゃないか。この大バカ野郎!

 ところが、自責の念に、大いに苦しめられながら歩いている誠一の目に、なんとあの女性の姿が映った。彼女も同じ競馬場に来ていたのだ。込んだ人ごみの中なのに、上手に杖を使って歩いている。誠一は彼女に近寄り、話しかけた。「あの、こんにちは。あなたも来られていたんですか。僕はこの間、土手の上で出会ったものです」

「はい、声で分かります。絵を褒めてくださった方ですね。こんにちは」女性は嬉しそうに誠一の方に顔を向けて言った。

「お久しぶりです。あなたも競馬、好きだったんですね。ちょっと意外でした」

「うーん、どうかしらねぇ。競馬、というよりも、馬が好きで、時々ここへ来るんですよ。颯爽と走る馬の姿が大好きで、今日も絵に描きに来ました」女性は例のスケッチブックも持っていた。それををひょいと持ち上げ、誠一に見せた。

「そうだったんですか。あなたにギャンブルは似合わないなと思っていました。ちょっと安心です」

「わたしもですよ」

「ええ?」

「わたしも、あなたには、賭け事なんて似合わない、いえ、合わない、向いていない、そう思いますよ。たとえ、一度は良い思いができたとしても、のめり込んでは大失敗しますからね」

「はい。パチンコなんかも含めて、ほとんどやったことなんかありません。それなのに、つい、来ちゃって……」

「ひとつ、大きく当てて、お仕事の資金にしようと思った、でしょ」

「その通りです。それなのに、ハズしまくり、大損こいてしまいました。バカですね……」

「あれ、そうだったの? おかしいわね」盲目の不思議の女性は、今しがた描いたスケッチブックのページをめくり、誠一に見せた。「ねえ、ここに描いた、大喜びでバンザイしてる男性は、あなたじゃない? 私、あなたのつもりで描いていたのよ」 

 スケッチブックには、シャープペンシルの細い黒線で、一着の馬がゴールしているその様を、両手を上げて笑顔で見ている男が描かれていた。

「この前、お会いした時と同じ雰囲気、オーラを感じたものだから、私、てっきりあなただとばかり思っていましたわ。違ったかしら?」

「確かに、僕のように見えますね……。あれ? 変だな、こんな馬いたっけ……」

 描かれている馬のゼッケンには、「8番、ハルカゼフワリ」と書いてある。

「ハルカゼフワリといえば、万年最下位なのに、一生懸命に走る姿が健気だからと人気の馬だけど、確か、明日、走るんじゃなかったっけ……。もしかして、これは想像して描かれたんですか」誠一は訊いてみた。

「いーえ。私には想像で絵を描くなんて器用なことは出来ませんよ。私はただ、その日、その時、その場所のことを集中して、思い浮かべ、そうすることで頭の中にしっかり見えてくる絵を描くだけ。一着で駆け抜けるお馬さん、大喜びの男性、三月一日の中央競馬場の風景です」

「えっ、三月一日は明日ですよ。今日は二月二十九日です」

「あらあら! 今年はうるう年だったのね。どうも私、うっかりやっちゃいましたね」女性は屈託のない笑い方でほほほと笑った。「時々、日にちを間違えてしまうことがあるんですよ。うるう年なんてしょっちゅう。もう私もいい年だから、四年に一回のことはちゃんと覚えてないのね。四年前の二月二十九日にも、三月一日のつもりで、いつものように絵を描いていたんです。そうしたら、そばにいた人が私の絵を見て、そんなところに立て看板なんか無いですよって教えてくれたのね。確かにその日は無かったんだけど、次の日いってみたらね、そこに私の描いた看板が立っているんですよ。自分でもびっくりしましたよ」

「じ、じゃあ、この絵は……!」

「きっと、明日のあなたのことを描いたのね」

「……ゼッケン番号8番、ハルカゼフワリ、ま、万馬券だ……!」

「おめでとう。ホラ、ちゃんと良い時も来たでしょ。ほほほ」

「じつは、今日使った分で手持ちのお金はほとんど無くなったんです。それで、あの、他人に甘えることもいいものだとも仰ってたので、そのー……」

「ほほほ、私に甘えなさいよ。そうねえ。二人で100万円ブッこんで山分けでもしましょうかしらねえ。ほーーほほほほほ」





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