第8話 頼通、産養(うぶやしない)に散る
無事、彰子さまに男の子が産まれて、これで一安心と思ったのだけれど。
「ええっ。そんなに行事があるんですか」
わたしは思わず叫んでいた。
「言ったでしょう。私たち女房はこれからが大変なんですよ」
なにを今更、といった風に若紫ちゃんは巻物を取り出した。
どうやら、そこに行事予定が書き込んであるらしい。
「えーと。まずはこの後、御湯殿の儀があります。それから、三日目、五日目、七日目にそれぞれ
三日目は
「それと今回は特別に、九日目にも予定がありますから」
「うげ……」
そんなに連日、酔っぱらい貴族どもの相手をしなくてはならないのか。しかも誰だよ、普段は無い、九日目にまでパーティ開こうなんて奴は。
「九日目の主催は、
ああ、彰子さまの弟の。
なんだ。女に手が早そうだけど、お姉さん思いの良い弟じゃないか。わたしは頼通さまの事をちょっと見直した。
「ま、おそらく、それにかこつけて、宮中の女官たちといい仲になろう、とかいう魂胆なのでしょうけど」
「なるほど」
前言撤回だ。あの男、やはり道長さま直系の子供だ。間違いない。
☆
――おそろしかるべき夜の御酔ひなめりと見て、こと果つるままに、言い合わせて隠れなむとす――
屋敷のそこかしこから酔声があがっている。身分の高い人たちはもちろん屋敷の中に集まっているのだが、そうでない人たちも庭に並べられた軽食と酒を手に大騒ぎしている。
「これは長くなりそうですね、若紫さま」
延々と続く宴会に、さすがにうんざりして来た。
「そうですね。では、頃合いを見てドロンしましょう」
なんだって?
「あれ? 道長さまがよく仰っているんですけどね。手をこうやって、ドロン、ですって。宴会から抜け出す時の呪文だそうです」
若紫ちゃんが両手の人差し指を立て、忍者みたいな形に握っている。
「は、はあ。聞いた事は有るような」
噂に聞く昭和のサラリーマンみたいだな。すると、あの人たちのルーツは道長さまなのだろうか。
「や、やあ末摘花どの」
こそこそ、と屋敷の奥へ逃げ込もうとする私たちの後ろから、控えめな声がかかった。ちっ、誰だこんな時に。
「これは頼通さま。いらしてたんですね」
まさに、噂をすれば、というやつだ。その頼通さまだった。
冷やかな声で若紫ちゃんが応対する。途端に近寄りがたい大作家のオーラが出た。これ以上声を掛け続けられない雰囲気だ。さすが紫式部先生。
「あ、いや。実は末摘花どのに、お話があるのですが」
なんと。
「世間でよく言うではありませんか」
頼通さまは腰を下ろす。しかたなく私たちもその前に座った。
世間で、と言われても。
「わたし、この時代の世間というものを、よく知らないんですが」
なにぶん、未来から転生したもので。
「ははは、やはり面白いお嬢さんだ」
いや、お嬢さんって。
頼通さまより、わたしのほうが少し年上なのだ。そう思うと、ちょっとイラッとするぞ。
でも実のところ、頼通さまの方が千年ほど年上だと言えなくもないけれど。
「宜しいですか。敢えて言おう、美人は三日で飽きるが、ブスは三日で馴れると!」
むっ。どこかの公国の総帥か。
「しかも、あの顔はくせになるのだ。いつしか、毎日見なければいられない程になってしまうのだよ、と父上が言っていた通りです」
「あの、頼通さま。先日はプロポーズして下さったけど、今日はケンカを売りに来たんですか」
すると頼通さまは、ぽっと頬を染める。
「実はね、末摘花どの。僕……うわっ恥ずかしい!」
なぜだろう。今すぐにこの男を足蹴にしたいという衝動に駆られる。
「えへん、これは失礼。末摘花どの」
姿勢を正した頼通さま。わたしも思わずそれに倣う。
「どうか僕と、いや、僕に、あの方を紹介して下さいっ!」
「はい?」
頼通さまの指先は、若紫ちゃんに向いていた。
「え、と……今度はわたしですか?!」
若紫ちゃんの声が裏返っている。
わたしと若紫ちゃんは思わず顔を見合わせた。
「でもそんな事、直接言えばいいじゃないですか。今みたいに」
「いやそんな。とても恥ずかしくて」
へへへ、と頭を掻く頼通さま。なんだか、よく分からない男だ。節操がないとも言えるが。
「でも若紫さまって、道長さまと……」
小声で、若紫ちゃんの耳元でささやく。
あんな事や、こんな事をしている関係だそうだが。
「え、ええ。まあ、でも一応そこは秘密という事になっていて、ですね」
もう公然の秘密というやつなのかと思ったが、内緒だったらしい。
「なので、そのような事は許される筈もありません。いい加減になさい」
おお、若紫ちゃんが怒っている。清少納言さまに関連すること以外で、こんなに怒っている若紫ちゃんを見るのは初めてだ。
やはり、そこは紫式部。身持ちが固い。
「いっぱい、
「はい。行きますっ!」
「ええっ?」
なんでイワシ?
「あ、あの若紫さま。イワシって……」
見ると若紫ちゃん、魚を目の前にしたネコみたいな表情になってるし。
「え、ああ……。な、何を言っているのです。そんな、食べ物につられるような私ではありませんからね。甘く見てもらっては困ります」
わたしの視線に気づき、慌ててよだれを拭っているが。
まあそうだよね。天下の紫式部大先生がイワシ目当てに、男の子の所へ行くなんて、ある訳がないよ。
☆
しょぼんとして頼通さまは帰っていった。
「ちょっと可哀想でしたね」
その悄然とした後ろ姿は、さすがに哀れを誘う。
「そうですね。イワシだけでも貰っておけば良かったです」
「え?」
あとで聞いた話によると、若紫ちゃん、イワシが大好きなのだという。以前、部屋の中でこっそり焼いて食べようとして火事と間違われたこともあったらしい。
「いやあ、あの時は怒られました」
無邪気に笑う若紫ちゃん。
たしかに美味しいけどね、イワシ。
――日のもとに はやらせたまふ
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