Mr.Enigma
浦辺京
Prologue
空は明るい青色の絵の具を綺麗に溶かしたようで、濁りのある雲一つさえ見えなかった。
地平線は鉛筆で横一本に線を引いたようにどこまでも真っ直ぐだった。地面は子供が大雑把にクレヨンで塗りつぶしたかのようにどこを見ても茶色で、誰かが慰めに置いたかのようにチラホラと草が生えているだけだった。
頭の上に輝く真っ白で眩しいまあるい球は、渇いた空気を通って容赦無く頭をジリジリと焦した。土ぼこりも、もう何年も水を吸っていないかのように渇いていて、地面を蹴るたびに大袈裟なまでに大きく舞い上がっていた。
どこまでも走っても、走っても、走っても。まるで神様が背景を書くのをサボったかのように、空と地面と地平線以外何もない光景はずっと続いていた。
身体中からぼろぼろと吹き出す汗が全身の水分を奪っていく。
青年は地面を蹴り、懸命に走り続けていた。
目的地などなかった。とにかく今すぐここから逃げなければ。頭の大半を占めるのはその思い。残りの頭の思考は身体に鞭を打ちながら走ったことによる悲鳴だ。
だが。その思いは背後から聞こえた爆発音に遮られた。銃声だ。声も上げることも叶わず、思わず足が止まる。
「動くな!」
男の鋭い声。それと共に重い四輪駆動のエンジン音が砂を巻き上げながら聞こえてきた。
「次は頭を狙うぞ!」
まるで糸で引っ張られたかのように、すっと自然に両手が上に挙がる。先程まで必死になって逃げなければと思っていたのに、銃声一発でここまで従わざるを得ないとは。
よっぽど警戒しているのだろう。青年を挟み打つように二人組の兵士達がジリジリとこちらに近づいてきた。
「脱走兵、バルトロメオ・イゾラだな?」
青年はだんまりを決め込んでいたが、前にいた兵士に小銃の先で小突かれて頷きだけを返した。変な動きを一つでも取れば、未来は穴だらけの物言わぬ死体だ。
「自分のやったことがどれだけ罪深いことかは分かっているんだろうな?」
そんなこと、言われるまでもない。青年ーーバルトロメオは眉一つ動かさず、微動だにしないまま沈黙していた。
「命令違反、脱走……どれもこれも軍の規律を乱すものだ。帰ってハイそうですか残念でしたねで安心して休めるもんだと思うなよ」
兵士の皮肉たっぷりの発言でさえも、バルトロメオは理解していた。軍では上官の命令は絶対だ。それに逆らってタダで済むはずがない。見せしめも兼ねて、厳しい処罰が下るのが道理だ。
この軍隊は異常だ。その事実を踏まえても、裁判なんてあるはずがない。戻れば待っているのは、恐らく……。
そこまで頭を回転させて、彼はふと、とあることが気になった。
この兵士達は、今自分たちがやっていることに疑問を抱かないのだろうか、と。なぜバルトロメオが命令違反を起こしたかを彼らは知っている。それを理解した上で彼に敵対し、あまつさえ変な動きを見せれば殺そうとしている。
どすり、と鈍い音と共に重い痛みが背骨に響く。兵士の一人が銃の先で彼の背を容赦なくついたようだ。思わずよろけ、前につんのめる。
「さあ、今ここで頭を吹き飛ばされたくなきゃとっとと車に乗るんだな」
果たして、ここで大人しく車に乗って、帰る先で命が保証されているのだろうか。いや、それはないだろう。
彼は、信念を選んだ。それは軍の罰則と天秤にかけるほどのものではなかった。自分の内に宿る神の言葉に従ったまでだ。
そしてその信念は、ここで大人しく挫かれるべきものなのだろうか。
結局諦めたところで、死を迎える場所がここか施設かで、寿命が時間が数時間伸びる程度の話だろう。
ならば、最期の瞬間ぐらい。
次の瞬間、バルトロメオはホルスターにしまっていた拳銃に手をかけた。狙うのは兵士の頭だ。
命が尽きる前だというのに、恐れも迷いも不安もなく、彼の心は真っ直ぐだった。
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